私のために戦うな(未定稿)中間市講演(1)

「私のために戦うな ―映画「トロイ」のもうひとつの見方―」

お世辞でも何でもなく、私は日本の公務員の皆さんをとても有能で勤勉で誠実だと思っています。
だから、環境問題であれ、女性問題であれ、人権問題であれ、公務員の方が仕事として取り組まれる状態になったら、もう大丈夫、後戻りをすることはないと何となく実感してきました。
私は昭和21年生まれ、戦後生まれの一番手で、そのこともあって戦争には絶対反対です。それについては最近というよりこの50年、じりじりと私の望まない方向に世の中は動いてきたと思っています。しかし、そういうこともあるけれど、世界も人類もまあ進歩はしていないことはない、いい方向に行ってることもある、と何となく絶望しないですむ心の支えにしてきたのは、この、女性の権利や障害者の権利ということについては、世の中は私の好きな方向へ向かいつつあるし、日本の場合、もうお役所がそれに取り組みはじめたからには、そう簡単にこの流れはもう変わらないと何となく実感していました。

でも、それが甘かったのかもしれないと、このごろ少し感じています。アメリカでも「バックラッシュ」という名で呼ばれる、女性解放への逆風があるらしい。ただ、あの国はどちらの側も徹底して力強いから、まあ激しい戦いは続くだろうけど、逆風に吹かれっぱなしということはあるまいともどこかで感じてはいます。
何より、人は一度得た正しい権利は手放さないものです。一度見たよい環境もそう簡単には忘れません。文学でもそうですが、新しい形式が確立すると、もう古いものには戻れません。そういうものです。見てしまったら、忘れられない。そのことを私は知識として知り、体験として実感もしてきました。

とはいうものの、たとえば男女参画などについても、全国的に、また近くの自治体でも、「差別ではなく区別は必要」といった言葉に代表される批判、攻撃が起こっているのを仄聞すると、楽観はできないのだなとあらためて思います。そして、公務員の皆さんがそれに対応される時、「上からの命令だから」「仕事だから」という良心を支えにされるのはとても心強いことですが、それだけではなくて、自分自身で「やはり男女参画社会を作っていくことは必要だ」と感じ、その中での疑問点や問題点も考えつつ、反対意見にも対応していくことが結果的には仕事を楽にし、全体にもよい結果を招くのではないかと思います。

市民の皆さんへの講演でも申し上げましたが、このようなことについて、すべてを解決するような魔法の言葉はありません。むしろ何事につけても、頭を柔軟にし、心を開き好奇心を持ち、あらゆることに先入観や固定観念を持たないで、白紙に戻して一から考えていく心構えが必要だと思います。
このことは多分、有能な公務員の方の資質とは矛盾すると思います。そういうあやふやでちゃらんぽらんなところのないのが公務員のよさで、そういうずさんさ、だらしなさのない方がきっと試験に合格し採用されているのでしょうから。
でも、逆に言えば、そういう能力や資質をお持ちのかたこそが柔軟性や斬新な思考を身につけたら、これこそ鬼に金棒で、大きな力を発揮する。私のようにもともとめちゃくちゃな人間が自由な考えをしたってたかが知れてますが、堅実で綿密で現実的な方が自由で新しい考え方をされると、その力は本当に世界を変えます。少なくとも一自治体ぐらいはすぐ変えられると思います。

そのような、いろんなことに関心や興味を持ち、いろんな見方をしてみる時の、ひとつの例になる話として、今日は今上映中の映画「トロイ」について、話します。この映画は面白い、楽しい、すばらしいという人も多いですが、わかりにくい、つまらない、中途半端、感情移入できない、という人も意外に多くて、ものすごい大ヒットにはなっていないようです。
この映画にのれなかった人たちの理由はいろいろでしょうが、一つにはこれが、いかにも大味なハリウッド映画のように見えながら、実は大変新しい試みをしているからではないかと思います。それは、戦争と男女の描き方です。もっと言うなら、「女を守って男が戦う」ということについての描き方です。

そもそも、この映画の題材となっている「トロイのヘレン」のお話というのが、それはもう有名ではありますが、何かちょっとよく考えると、どう考えたらいいか、どう扱ったらいいか、どういうお話にしたらいいか、ちょっと困ってしまうところがあります。昔から何度か映画や小説にとりあげられていますが、それらを見ると、監督や作家が女性についてどう考えているかが妙にあらわになってしまう、そういう恐いところもある話です。

ものすごく駆け足であらすじを言ってしまいましょう。
舞台はギリシャ、時代は大昔。ある神さまの結婚式に招かれなかった不和の女神エリスが腹いせに、式場に黄金のりんごを投げこんで行きます。りんごには「一番美しい女神がこれを得る」と刻んであって、当然女神たちはこれを争ってもめます。
最後に残った三人は最高神ゼウス(ジュピター)の妻のヘラ(ジュノー)、知恵の女神のアテナ(ミネルヴァ)、愛と美の女神のアフロディテ(ヴィーナス)でした。

三人は山の中にいた若い羊飼いパリスに判定を頼みます。実はパリスはトロイという都の王子ですが、生まれた時に不吉な夢を母が見たので、山中に捨てられて育てられたのです。女神たちはそれぞれ、自分を選んでくれたら権力(ヘラ)、知恵(アテナ)、最も美しい妻(アフロディテ)をあげると約束します。パリスはアフロディテを選びます。

そこでアフロディテは約束通りヘレネ(ヘレン)という最高の美女をパリスと愛し合わせます。でも問題は彼女はギリシャの王国の一つスパルタの女王で、夫メネラオスと娘ヘルミオネがいたのです。でも愛の女神はそんなこと気にしませんから、二人をかけおちさせて、パリスの故郷のトロイに行かせます。不吉な予言は忘れられていたのか、人々はパリスを王子としてヘレンともども受け入れます。でも、スパルタは黙っているわけがなく、ギリシャの他の国の王たちとともに大連合軍でトロイに押し寄せます。

戦いは十年間続き、ギリシャ方ではアキレウス、トロイ方ではパリスの兄のヘクトールをはじめ、多くの英雄が討死にします。ヘクトールはアキレウスに討たれ、アキレウスはパリスに弓で射殺され、そのパリスもまた死にます。そうやって十年がたった時、ギリシャ方は智将オデュセウスの発案で、「トロイの木馬」という作戦を敢行し、これが成功してトロイの都は壊滅し炎上します。男や子どもは殺され、女たちは奴隷としてギリシャに連れて行かれます。しかし、勝利したギリシャ軍の英雄たちの多くも帰り着くまでに大変な放浪をしたり、帰った夜に妻に殺されたりと、勝利によって幸福がもたらされたわけではありませんでした。
その中で当の美女ヘレンは夫メネラオスに許されて故郷に帰り、再び王妃となって娘のヘルミオネーを育てて幸福に老いたとされています。

このすじをお聞きになってもわかるように、この話は今、というのがいつなのか難しいところですが、ちょっと普通の男女や恋愛の話にあてはめようとするとすごく納得いきません。
今回の映画では、このヘレンの運命をふくめて、もとの話を少し変えています。もちろんそれは許されることだし、この方が観客にうけいれられやすいと思います。しかしそれでも、映画を見た人の間では、このヘレンとパリスの恋については、「あんたたちのためにあれだけの人が死んだのに、よくもまあ、ぬけぬけと」と非難の声が高いです。「イラクで人質になった人に自己責任とれとの意見があったのには驚いた自分だが、パリスには自己責任とれと言いたい」とか「このバカなカップルのおかげでどれだけの人が不幸になったか」とか、2ちゃんねるでは「バカ王子パリス死ね」という掲示板までできている始末。
私は恋だの愛だのというのは、だいたいが周囲に迷惑かけるもんだし、トロイ戦争が起こったきっかけは特に映画ではこの二人のせいじゃないし、そう怒らんでも、という立場ですが、ただおそらくこれは、もとの話でもそうですが、どうも皆何かしら納得いかないのだと思います。ヘレンの話とその運命は聞いていてどこか居心地が悪く釈然としない。でもどこが悪いのかわからない。つきつめて行くとだんだん腹が立ってくる。

ヘレンはとにかく美女なわけで、だから、映画などの場合には演ずる女優さんは大変で、どうやったって何か文句は言われてしまうわけですが、まあ文学の、ことばの上だけで「とにかく絶世の美女」と理解しても、それから先、彼女がそれぞれの局面で何を考えていたのかがものすごく理解しにくい。
原作の「イーリアス」では、彼女は戦いの途中ですでにパリスに愛想をつかし、かけおちしたのを後悔したと描かれています。またパリスの兄のヘクトールが死んだ時、「あなたとお父さまはいつも私をかばって下さって、少しも意地悪を言わなかった」と嘆いています。ということは当然ながら他の人は冷たい態度もとっていたのでしょう。後にメネラオスと幸せな夫婦に戻って暮らしている場面も「オデュセイア」に出てきますが、そこでの夫婦の会話にはやや微妙なものがあります。
それらから導き出されるイメージは、とても普通の女性です。大変な悪女でもないし、運命に翻弄された哀れな人という感じでもない。本当にいやになるほど普通の人で、偉大さや悲劇性がどうさがしても見つからない。だからこそ、こんな人のこの程度の恋で、たばになって死んだ英雄たちとその周辺の人たちは浮かばれんよなあ、どうしてくれる、という気持がどんどんつのってしまいます。

だから、たとえばクレオパトラとかジャンヌ・ダルクだとかに比べて、彼女はあまり文学の題材にとりあげられて主役になることがありませんでした。彼女の内面にまで迫って描こうとする文学は生まれませんでした。迫るほどの内面がなさそうだったということもあるでしょう。
これはヘクトールの妻アンドロマケーがトロイ落城後、新しい愛に生きる姿を描いたラシーヌの古典劇の名作「アンドロマック」があるのと比較してもよくわかるように、ヘレンの運命と彼女の個性はとても描きにくいのです。
主役ではなく、一登場人物として描く時も、作者たちの意見はゆれていて、「生きるたくましさを持った女性」「深い暗さを抱えた女性」「天性の誘惑者」「清らかな哀れな女性」などと、その描かれ方は大変差があります。たとえば源義経、たとえば巴御前のような、嘘かほんとかはともかくとして、一応築かれてきているイメージというものを、ヘレンはまだ持っていません。

なぜこんなことになるのか、とてもここでは話す時間がありません。くりかえしますが、これまで長いこと私たちが培ってきてなじんでいる世界観や女性観ではわりきれない面を「トロイのヘレン」は持っています。たとえば「美人ゆえに美しい心だったけれど運命にもてあそばれて不幸になった」でもわかる。「美人だが愚かだったから、結局不幸になった」でもわかる。「美人だけどそれに溺れず、かしこくきちんと立派に生きた」でも「美人であることをとことん利用して勝ちあがりのしあがった」でも、それなりに。
でもヘレンはそのどれでもない。そして、それを見ていると、私たちがふだん目をそらして見まいとしている問題が大きく浮かび上がってきそうな気がするのです。

実のところ私は、ジャンヌ・ダルクの話が嫌いです。巴御前もクレオパトラも楊貴妃も、その人そのものは皆好きですが、その話を聞くと気がめいります。
どんなに彼女たちが恵まれていてもすぐれていても、力をつくして戦ったとしても、結局は圧倒的に不利な条件のもとで戦わされており、いざとなったらたよりになるものは何もないと思えるのです。
世の中に公平な戦いなんてないと私は思っていますが、とりわけ女が男と同じ武器を持って戦おうという時、公平な条件なんかありようがない。自分自身が男性と同じ仕事をする時、いつもそう感じてきました。
だから男と女は同じに扱ってはならない、同じ土俵で戦わせてはならない、というのではありません。ただ、どうせ正しいルールなんかない、強い者の都合、この場合は男性の都合で最後には押し切られることがわかっているのに、ルールが最後まで守られることを信じて、または信じているふりをして戦うことの空しさを、恐ろしさを、悲しさを、いつもどこかでかみしめていました。
私は時々、男性とライバル関係にさせられることがあったのですが、そういう関係が成りたち得ると何のふしぎもなく考えている周囲と相手の無神経さにただただあきれるだけでした。言えば弱音になるから言わなかったけれど、女としてこれだけのハンディを負わされていて、ライバルもくそもないだろうとずっと思いつづけていました。

トロイのヘレンの話が好きかどうかと言われればためらいます。多くの人の感じるだろう、わりきれなさや不愉快さを私も持ちます。でもその一方で私はこの話のどこかが、ひどく痛快でならないのです。美しいというだけの一人の女が、それにふさわしい美徳も意志も良心も叡智も持たないままで、ささやかな欲望にまかせて、ささやかなルール破りをしたら、それで多くのすぐれた人々の世界が崩壊し、しかも彼女には誰も責任をとらせることができなかった。そらみたことか、と私の中の何かが言います。女を一人の人間として扱わず、そのように生きるための何ものも保障せず、ただ美しさをめでるものとしてしか見ないでいると、こういうことにもなるのだと。そしてヘレンがおそらくは何も深く考えずに行動したのであればあるほど、その戦い方は完璧だなと。もしかしたら今の若い女性、ひょっとしたら男性も含めて、こういう開き直った無責任な戦い方は広がりつつあるのではないかとさえ。

ややこしい話はこのへんにします。要するに「トロイのヘレン」について語ることは、もともと語る人が「女性(男性)をどう考えているか」「戦争をどう考えているか」「恵まれた者という存在をどう考えているか」というようなことを浮き彫りにしてしまう要素がある話です。
今回の映画で監督はヘレンをものすごい美人や魔性の女としては描いていません。むしろ平凡なかわいい人妻で、その浮気があれだけの大戦争を招いたのはたまたまだったというような描き方をしています。そういう点では私が今まで話したような問題ははっきり提起されていません。
しかし、おそらくこのような描き方も含めて、監督は非常にしっかりと、女性や戦争について考えていると私は感じました。

この映画をつまらないという人があげる理由の一つに、「どちらに味方していいかわからない。どちらの側にも感情移入できなくて盛り上がらない」ということがあります。それはこの映画の特徴で、非常に贅沢に金をかけて作っていますが、どこかの自主上映グループが作る地味な映画も顔負けの徹底した反戦映画と言ってもいい。だから、ストレス解消の活劇を求めて行った人は、ものすごく欲求不満になると思います。

ただ、これはもともと、戦争を描いた古典文学は、「イーリアス」そのものも、「平家物語」も、非常に戦争の空しさを語る作品になりがちで、そもそも戦争を描く文学は反戦ものの要素を持っているということはあります。そういう意味ではむしろ正統的な作り方でしょう。
また、うっかり「どこかの組合でも作りそうな小規模な良心的反戦映画」みたいなことを今言いましたが、実はこの「トロイ」は、そうした小規模な芸術作品以上に過激で新しい主張をしていると私は思っています。
私は戦争反対ですから、反戦を訴えた映画は、一応作ってくれてありがとうと感謝するし、見に行くし、支持もします。しかし、その中には見てうんざりするものも、げっそりするものもあります。特に女性の描き方が古臭かったりするといやになります。
今回私が「トロイ」という、大味だとか薄っぺらだとか中途半端だとかの批判もある、ブラッド・ピットの裸だけが話題になってるような映画に、深く感動し評価し、この映画をぜひ一人でも多くの人に見ていただきたいと真剣に思ったのは、この映画が、これまでのどんな良心的な、あるいは過激な、あるいは名作と言われた、戦争を描いた映画や小説が…「西部戦線異状なし」も「人間の条件」も「神聖喜劇」も「真空地帯」も「大人になれなかった弟たちへ」も「れくいえむ」も「屍の街」も「二十四の瞳」も「火垂るの墓」も「禁じられた遊び」も…言ってくれなかったことを、はっきり言ってくれている初めての映画と思うからです。
それは、「男が女を守るために戦う必要はない」ということです。

この映画でヘレンをさらって逃げるトロイの王子パリスを演じているのは、オーランド・ブルームという若い女性に人気のある若手の俳優です。しかし彼の今回の役にはショックを受けて失望したファンも多かったようです。一方で今回の演技を高く評価する人もいて、私もその一人です。
ごらんになればおわかりのように、この映画のパリスは大変情けない。愛する女性のために戦おうとしても、相手が強すぎて対戦にもならない。あげくの果てに彼がさらけ出すみっともなさは、これはもういろんな意味で映画史上に残るほどものすごいすばらしい、みっともなさです。

これを、きれいでかわいい感じのいい俳優がやっていることを、男女参画の立場からどう考えるかということも実は微妙な問題があります。そういう外見の人が演じるから、かわいくて許せるので、同じことを脂ぎって肥った中年のおじさんがやったら許してもらえないかもしれない、「顔のいい男は得」ということもあるかもしれませんが、案外、そういうみっともないおじさんがやったら、まだ許せるけど、見た目のいい男がやるのはなお反感をかう、ということもあるかもしれない。
美人や美男は得をすると、よく言われるけど私はそうも思わない。男女問わず外見のきれいな人にはそれなりの被害や危険がつきまといます。特に美しい男の人への風当たりは、どうかした時には理不尽なほど厳しくなる。こういうことの背景にも私は、男女の社会的地位や役割分担の問題が微妙にからんでいると思います。(注1)

それはまた長くなるのでさておくとして、原典の「イーリアス」にも映画ほどではないけれど、多分これのもととなっている、パリスの情けない場面は存在します。そして原典のヘレンは、それでかなりパリスに愛想をつかしています。ところが映画のヘレンはそうではない。自分のふがいなさを嘆くパリスに、彼女ははっきり、「戦いが好きで勇敢な夫といた時、私は毎日海に身を投げたかった。英雄などいらない。二人で長く添いとげたい」と告げます。
彼をとにかく慰めなければならない場面での甘い語らいとして、ただのラブシーンのように見過ごされてしまいがちですが、その前の夜にもヘレンはヘクトルに「自分のためにパリスが戦うなんていやだ」ということを言っていて、それと重ね合わせた時、この場面は明確なメッセージを私たちに伝えます。あまりに自然すぎるので、そのメッセージの大胆さ、新しさがかえってわかりにくいのですけれど。

その戦いでパリスがみっともない姿をさらした時、ヘレンの夫は「おまえはこんな男のために私を捨てたのか!」と大喝します。ヘレンもそれで悲痛な表情になります。この夫の言葉に共感し胸をうたれ、夫のカッコよさを認識する人も多いようです。
ですが私は、夫のこの言葉を聞いた時、この夫婦の間の決定的に絶望的な溝の深さを感じました。夫にはパリスのような「やさしくて、きれいで、かわいくて、でもまったく戦うこともできないし女を守れない」男は、「こんな男」でしかあり得ない。ヘレンにとってはパリスの弱さなど問題ではなく、むしろ魅力かもしれないことをまったく理解も想像もできない。そのことを大声で叫ぶことで、彼もまた、パリス以上の恥をさらしているのです。ヘレンの悲痛な表情は、パリスが哀れな姿を見せたことへの悲しみともとれます。それもたしかにあるでしょう。しかし、それだけではなく、彼女の本当の苦しみは、夫と自分の感覚の、修復も説明もできない亀裂の大きさ、それを人々の前にさらけ出してしまったことへの恥ずかしさではないのかと、私には見えるのです。(注2)

漫画家の小林よしのり氏が「戦争論」の中で、「女性は自分を守るために戦ってくれない男とは別れなさい」と書いているように、現代でも若い人の中でも、「愛する者を守るために戦う」、その圧倒的に多い場合は「男は女を守るために戦う」という考え方は強く存在しています。
しかし私は幼い昔から、この考え方が大嫌いでした。守られるということは、おまえは弱い、一人前でない、保護される存在である、自由にどこにでも行って何でもしてはいけない、ということに他なりません。
ですから、いつも周囲の人たち、特に男性たちに私は、「私を守ろうとして戦って、世の中をますます物騒にして、更に私を守らなくてはならなくして、そうやって私を自分に縛りつけようとするのはやめなさい。あなたが私を守らなくても、私が一人で自由に安全にどこまでも歩いて行ける世の中を作って下さい。そんな世の中で自由に生きられて、それでもなお、私があなたといっしょにいたいと思うほど、素敵な人になれると、自分に自信を持って下さい。私のために人を殺したりなんかしなくていい。どうしても殺したい人がいたら、何とか工夫して私が自分で殺しますから」と言い続けてきました。たとえば、自分のたずさわる学問の世界でも、教え子たちを守るのではなく、彼らが私から離れても一人で勉強し成長して行けるような、風通しのいい学界を作り、彼らの実力をつけることにいつも力を注いできました。

よく子どもたちへの性教育で、「子どもを生む女性の身体を大切にしましょう」と男の子に教えるのも、私は大変不快です。それなら同時に「子どものもととなる精子を作る器官と、それを作動させるにあたっての複雑微妙な感性を持つ男性の身体を大切にしましょう」ということも女の子に教えるべきです。何かこういう話の時に、前者は「保護」、後者は「奉仕」の色合いがつきまとうのも不快です。結局は「女の子って、強がってても偉そうでも、こわれやすいから大事にしてあげなきゃいけないんだね」という、妙な騎士道精神の腐ったような代物を男の子に押しつけて優越感と義務感を持たせてしまう。そんな身に余ることを押しつけるから、男の子のストレスは増えるし、その一方で「男も大変なんだ、性のしくみは微妙なんだ、レイプも買春も理解してほしい」という、わけのわからん甘えや泣き言を容認させるはめになる。
男も女も、子孫を残すために、よい世の中を作るために、身体は大切、心も大切、だからそのメカニズムをお互いしっかり理解して、弱みをさらけ出して、そのことを互いの自由な生き方をじゃまする口実に使わないこと、それが性教育の基本ではないんでしょうか。

私はこの二十年間ほどに世の中に起こった数々の悲惨な事件の数々に大変暗い気持になっていますが、その中で救いともいえないほどのささやかな救いと感じるのは、凶悪な犯罪にまきこまれた時、いっしょにいた女性を守れなかった、あるいは先に逃げ出した男性について、非難めいたコメントがまったくされなくなったことで、これは本当に救われる思いがしています。多分もっと昔だったら、そうではなかったでしょう。
また、映画や小説、特に大衆的なファンタジー、ホラー、ミステリーでは、ヒロインが守られてばかりではなくなりました。ちょっとやりすぎではないかと私でさえが苦笑することがあるほど、女が武器をとって戦います。ホラー映画の「危険な情事」では凶悪犯との戦いの最後の決め手となるのは奥さんの行動です。「ゆりかごをゆらす手」ではご主人が先になぐられて気絶し、犯人の女性と対決するのは妻です。
自分を愛する男が敵と戦う場合でも黙って見守るヒロインはほとんどいなくなりました。かならずと言っていいほど、彼女たちは介入し、愛する男に手を貸して戦います。これらはやはり、時代の流れという他ありません。そして、オスカー・ワイルドが「芸術が現実を模倣するのではない。現実が芸術を模倣するのだ」と言ったように、これらの作品のこういう描写は、現実の男女関係、人間関係にもまた確実に影響します。現実と文化は、そのような相互作用を繰り返し続けます。

ただ、私の好みということを別にして言うと、「女が男の戦いに手を出さず、勝った方のものになる」という図式にも、それなりのよさはあります。可能性としてはですが、女が男の戦いにまきこまれずに生きのびたり、そのことによって、被征服者が征服者を文化的に支配して二つの文明の融合が行われるということもないわけではない。
どのような社会のしくみも、どのような考え方も、それぞれの時代や地域での人類の叡智が反映しています。それをできるだけうけつぎながら、新しいものをとりいれていくことが大切なのだと思います。

映画「トロイ」に話を戻しましょう。この映画の主人公アキレスは人気俳優ブラッド・ピットが演じていて、さまざまな話題を呼んでいます。これも「イーリアス」とはややちがった設定になっていますが、この映画のアキレスは、捕虜になったトロイの王女で、巫女でもある女性と恋をします。この恋はあまりよく描けていないと評判が悪い。特に、彼女がアキレスと対立するギリシャ方の総大将アガメムノンや兵士に凌辱されようとする時にアキレスが現れて救う場面は三度ほどくりかえされて、型どおりで古めかしく、滑稽でさえある、と感じる人が多いようです。

映画に限らず芸術は、どんな立派な目的があっても、見て「いい!」と感じさせなかったらもう失敗ですから、アキレスのそういう場面がそのようにしか受けとめられなかったのは、やはり描写に問題があるのでしょう。だから説明してもしかたがないのかもしれないけれど、でも、私に言わせれば、これもまた、あまりにきちんと型どおりに自然に描いたから逆に普通に見えてしまっているので、アキレスがこの王女を救う場面は三つとも非常に新しい要素を持っていると思うのです。
ここでは、最初の場面だけについて言いますが、よく見るとこれは「ヒーローがヒロインを救い出す場面」ではありません。「ヒーローがヒロインに救い出すのを拒絶されてしまった場面」です。これは前代未聞の場面で、だから見ていてわりきれず、欲求不満になり不愉快になる人が多いのも当然です。

ここで、ヒロインを凌辱しようと宣言した王と、その命令に従って彼女を連行しようとした兵士を制止するべく、アキレスは当然、剣を抜きます。その時、くだんの王女は男のように仁王立ちになって荒々しく叫びます。「やめなさい。もう今日は山ほど人が死んだ。殺すしかあなたは能がないのか。私のために戦わないで」
このせりふと、行動自体相当に画期的ですが、これだけなら、もしかしたら、さがせばこれまでの映画や小説にもどこかにあったかもしれない。しかし私がこの映画を何度見ても、「すごい。よくこんなことやらせたな」とうなってしまうのは、ここでアキレスは彼女の言うことを聞いて刀を鞘におさめるのです。そして王から「無敵のアキレスが奴隷女の命令をきいたぞ」と揶揄されても、更にその後、王が「今夜彼女を慰みものにする」と挑発しても、アキレスはののしりますが、剣での攻撃はしません。
これが昔の映画なら、彼女がそんなこと言ってもアキレスはかまわず兵士を殺して彼女を救ってしまうでしょう。誰も見ていてそれをおかしいとも思わないでしょう。

ここで、この王女役の女優に、「アキレスに剣をおさめさせる」だけの迫力があれば見ていてもっとよく納得できるのでしょうが、それはたしかに不充分です。でもそれもしかたがないほど、これは大変な演技だと思います。「私を口実に人を殺すな」と叫ぶ女と、それに従う戦士とがおそらく初めてスクリーンに登場した。その背後には、私自身も含めた多くの女の、そして男の「愛する者を守るために人を殺さない。殺させはしない」という勇気ある決意と選択があるのではないかと思えてなりません。

アキレスは、特にこの映画では「生まれながらの殺し屋」です。まさに「戦うしか能がない」人です。その彼が、たった一つの得意なこと、愛する者にしてあげられることを封じられて、自分の価値や生きる目的を根本から問い直さざるを得なくなる。
彼はこの翌朝、王への抗議のために戦線参加を拒否します。これも原典通り、王とのいざこざでプライドを傷つけられたから、というようにも見えるのでわかりにくいのですが、ていねいに考えれば、これは王との関係より、前日に王女から「殺すな」と言われたことによって、「愛する者を守って人を殺すことができないのなら、ただの人殺しでしかない。でも自分にはそれしかできない」というアキレスの懊悩と混迷の方が大きいのではないかと見えます。酒や食物の散らばるテントの中に座り込んでひとり宙を見つめるアキレスの、この表情は秀逸で、ブラッド・ピットという俳優の底力を感じさせます。この時彼の目に浮かぶ哀しみと困惑の表情は、女を自立させずに守ることで自分たちも自立してきた男たちの、その生き方が否定された時に、新しい生き方をさがす苦しみの表情といってもいいでしょう。
パリスほどあからさまではありませんが、この映画のアキレスは実は終始とてもカッコ悪い。ひょっとしたらパリス以上かもしれません。それは彼が、「私のために人を殺すな」という女の声に真剣に反応し、とるべき道を模索するからです。だからこそ、私のような人間は、ブラッド・ピットが演じたどんなカッコいい役柄より、このアキレスがいとしいのです。

「トロイ」の映画でパリスとアキレスの人気が今ひとつなのは、アキレスのライバルで、パリスには兄にあたるトロイの王子へクトルに人気が集まっているからかもしれません。彼は「イーリアス」でも、よき戦士であり、指揮官であり、家庭人であり、好意をこめて描かれていますが、映画では更にそれを美化した上、演じたエリック・バナの表現も豊かで、非常に魅力的な人物になっています。
ほとんどの人が共感を抱き、感情移入しそうな彼は、「神々を敬い、妻を愛し、国を守る」をモットーにしている、それこそ「愛する者を守る」ために戦い抜く人物です。だから、先の二人とはちがうと思う人も多いでしょう。
しかし、忘れてならないのは、彼が冒頭で敵国との和平交渉に心を砕いており、弟の恋のためにそれが失敗に終わった時、「戦いで死ぬことは、栄光でも詩的でもない」「愛のために戦う?おまえは戦争も知らず、愛も知らない」と言い切っていることです。そして戦争が起こってしまうと、敵と戦うだけではなく、自国の好戦的な神官、軍人、父王に対してもまた、戦線の縮小、戦闘の回避を主張して戦い続けました。(注3)
結局そのどちらの戦いにも彼は敗れます。しかし、おそらく作者の代弁者でもあり、極端に理想化された人物である彼が、このように終始一貫、平和への努力を追求し、「国を守る」「女を守る」「愛する者を守る」ことができるなどという幻想を一瞬たりとも持たないところに、私は監督の確固たる姿勢を見ます。

それを端的に示すのは、ヘクトルが愛する妻に、「自分が死んだあとのこと」を明確に指示することです。これはいわば、「私はあなたを守れない」という宣言です。理想の人物へクトルにそう言わせている。そして、ヘクトルのこの宣言に、妻への深い強い愛を感じるのは、私だけではないでしょう。

実は私が「愛する者を守って戦う、愛する者のために死ぬ」という能天気としか言いようのない宣言に息がつまるほどの恐怖と怒りを感じるのは、リアルにそういう状況を想像した時の実感なのです。それは自分が守る側でも同じで、まともな神経があったら、そんなことに耐えられるとそもそも思えないのです。
これについては、ずっと前に自分のホームページに友人の書いた文章(「鳩時計文庫コーナー」の「じゅうばこ関連」の中の、「受け身の愛」)として掲載したものから引用させて下さい。

※※(以下引用)
これは、ただまったくの好みの問題なのであるが、私は、好きな人に守られるよりは、好きな人を守って戦う方が、ずっと好きだし、気が楽である。

そして、これはなかば冗談であるが(ということは、なかばは本気なのであるが)、守られるよりは守る方が、はるかに勇気がいらないと思う。
誰かに守られるなんて、私はとても恐くてできない。自分を守って戦う人を、じっと見守っているなんて、そんな勇気がどこから出てくるのだろうと、正直いつも、ふしぎでならない。そういう立場に立つのは、弱い人ということになるわけだが、そんなオソロシイ状況に耐えられる人のどこがいったい弱いのだろうかと、いつもひそかに疑ってしまう。
そもそも、この私のために、人が人を傷つけているのを見るのが不愉快である。
そして、私を守って戦ってくれている人が負けた場合(私は、何であれ、戦争だの生存競争だのという設定の話で、勝ち残り生き残る方に自分をおいて考えることが絶対にできない。公平に考えて5割の確率しかない話で、自分を勝ち残り生き残る方に入れて予想できる人の神経がわからないというか、その楽天性に、皮肉でも何でもなく本当に脱帽する)、私は、その人が負けてたたきのめされ、殺され、滅ぼされるのを見させられるという悲しみを味わった直後に、守ってくれる者のなくなった状況で、愛する者を殺した憎い相手にされるままになるという恐ろしい苦しみを味あわされることになる。
どう考えても、いやだよー、そういうの。
しかし、戦争の時、レイプ事件の時、これはしばしば現実にしょっちゅう起こっている状況ではあるのだろうが。
この悲惨さというか苦痛を幾分か薄める論理は、大島弓子が「綿の国星」の中で描いたように、オス猫どうしの戦いを見ていてメス猫が言う「勝った方のオスとつがって、強い子を産みたいのさ」という論理である。必ずしも、子を産むのとは関係なくても、より強い、勝ち残る男を女が選ぶ、という図式にこれを置き換えて見直してしまうことであり、戦争においても、女はその時々の勝者に身をまかせつつ、強く生き延びつづけて行く、と思い直せば、たしかにそれはそれで、我慢できるかもしれない。

というか、そういう考え方をするしか、この状況の救いはないかもしれない。
そういう生き方、考え方をする女性(男性も)を否定するつもりは、例によって私は毛頭ない。しかし、この私について言うなら、そういう論理でその状況は見直せないし、不幸を薄めることもできない。

私がほしいのは、勝ち残る強い男などではない。勝ち残ろうと負けようと、好きな男が好きなのであり、欲しい男が欲しいのだ。そんな大切な男に、私を守って戦わせるなんてもったいないことできますか、というのが実感であり、そんな大事な男に勝って殺したり滅ぼしたりした相手は、この世で一番許せないし、汚らわしい。そんな男(女でも)にしたいようにされるなど、こんな不幸なことはない。
守られる、ということは、それを覚悟することであり、そんな勇気は生まれてこのかた、いっぺんも私は持ったことがないし、この先、持てるとも思えない。それよりは守る方が、まだずっとやさしい。相手に負けて殺されてもそれで終わりで、自分が守った愛する者が、ひどい目にあわされるのは見ないで死ねる。まあ、それを予測しつつ死ぬのもいやだし、気息奄々とした中で、愛する者がひどい目にあうのを見せつけられる可能性もあるから、それだっていやだけどさ。(しかしまあ、どうして私は、こういうことに関して、希望的観測というものを持つということをしないのだろうかね。絶対に最悪の場合の予想しかできない。)
とにかく、一方的に守られるということには、そういう風になかなかな勇気が必要で、「愛する者を守って死ぬ」なんて言うのは、ほんとはけっこう、わがままで、臆病で、自分勝手で、いいかげんな甘えん坊の「先に死なせてー」宣言でもあるのだ。と言ってしまっては言い過ぎか。
※※(以上引用)

もう一度引用部分の最後を見て下さい。「愛する者を守って死ぬ」とは、わがまま、臆病、自分勝手な甘えん坊の「先に死なせてー」宣言だ、とこの文章は言っています。そして私は、「トロイ」の映画を見た後で、「イーリアス」を読み直し、ヘクトールが妻に言っている次の言葉を目にして、絶句しました。
「青銅の武具を鎧うアカイア(ギリシャ)勢の何者かが、そなたから自由の日を奪い、泣きながら曳かれてゆく時のそなたの悲しみこそが何よりも気に懸かってならぬ。(略)そなたには隷従の日を防いでくれるわたしのような頼れる夫を失った悲しみが、改めて襲ってくるであろう。わたしはそなたが敵に曳かれながら泣き叫ぶ声を聞くより前に、死んで盛り土の下に埋められたいものだが。」
聡明なヘクトールが先を予測して嘆いたこの言葉を攻撃するのは、酷だし、罰もあたりそうですが、でもしかし、やはり私は、「そうか、『愛する者を守って戦う』などというやつの本音はしょせんこれか。三千年前からそうであったわけか」と思わずにはいられないのです。自分がいなくなった後の奥さんの苦しみや嘆きを見るのがいやで、早めに死んでおきたいと願うやつのど~こが「頼れる夫」だよ~、もう。でも「関白宣言」の歌も「自分より先に死ぬな」でしたから、結局そういう「甘え」が「愛」なのでしょうか。言わせてもらえば、気色が悪い。

ちなみに私の叔父も最愛の叔母を残して亡くなったのですが、病院で死ぬが死ぬまで、死ぬ気ではいませんでした。叔母より先には死なないつもりでいたのです。叔父にはその点、甘えはありませんでした。でも、やはり、自分が死んだ後のことを考えることができなかったという点ではどこか似ているのかもしれません。
原典の「イーリアス」のへクトールよりはるかに立派な映画のヘクトルは、その事実と向き合いました。自分は愛する者を守れないという事実に。愛するからこそ、それを認め、宣言し、妻の幸福を真剣に考えました。
彼は戦いで人を殺すことも、自分が死ぬことも愛とは何の関係もないことを知っていました。彼は、愛は戦争の口実にしか使われないことを見抜いていました。男が女を愛し、女が男を愛するなら、平和な世の中を作るしかないことを知っていました。

男と女のあり方をめぐって言われてきた言葉は数多い。「男は愛する女を守る」「愛する者を守って戦う」は、その中でもよく繰り返され、大きな力を持つものの一つです。私はそういう生き方や愛し方があることは否定しません。ひとつのかたちとして、ひとつの趣味として。けれども、それを一般化した常識にしてしまうことは、多くの人々の心から本当の愛を見失わせてしまうでしょう。
これらの言葉にからみつくものは、根強く、深い。見抜いて、きちんと処理するには、豊かで若々しい感性を常に磨くとともに、人類が長く守り伝えてきた古典の世界に触れることもまた重要だと思います。
私たちが何げなく楽しむ映画や小説、テレビや漫画の表現の中にも男女差別はひそみ、またその逆のものもひそんでいます。それらは現実を反映する一方で、現実に影響を与えもします。神経質にピリピリカリカリするのではなく、どうぞ楽しく敏感になっていただきたい。それが文学や芸術をより深く味わうことにもなり、現実の人生をより豊かにすることにもつながっていくのですから。
そういうことの一例として、今日は「トロイ」という映画のお話をしました。中間市には「AMCなかま」という素敵な映画館があり、まだしばらくこの映画は上映されています。公開から時間がたって、そろそろ席もすいてきていると思うので、まだの方はもちろん、一度見た方もよければぜひまたごらんになって見て下さい。(2004.7.7.)


注1・「2ちゃんねる」の掲示板で、ある方(おそらく男性)が、「あのパリスがかわいいという女性は、自分の恋人があんな風でも本当にいいのだろうか」と問いかけていたのが印象的でした。それは攻撃的なものではなく、「あれで本当にいいのなら、助かるけど、そうなの?」というニュアンスがどこかにありました。
私の周囲の学生でも、外見が女性的で華奢で綺麗な男性は、時々、話の中で、異様に自分のマッチョぶりを強調し、暴力的であることを示そうとします。それは彼らなりのさまざまな意味での防衛本能なのだろうと思います。見た目の優しい男性が中身もそれにふさわしく優しいことを世間は非常に軽蔑し攻撃し嘲笑する。こんなことをしている限り、しかも女性もそれに一枚も二枚もかんでいる限り、女性(男性も)の自立なんて遠い夢でしょう。
反戦小説の名作、大西巨人の「神聖喜劇」は戦争と軍隊の欺瞞を完膚なきまでにあばいていますが、この主人公の東堂太郎は、大変優秀な頭脳を持ち、かつ外見は女性的なぐらいの華奢な優男なのに、喧嘩はプロ級、兵士としても優秀です。でも、そこにこの小説のおそらく唯一の限界がある。ストイックな作者がそれを書けなかったのは痛いほど私にはわかるけれど、主人公をこのように設定したことで、この小説は戦争が男女に押しつける役割と、それによって両者をひきさく罪の深さを告発できなくなっています。だから、主人公と恋人との場面は、この小説の中で私には一番もどかしい。彼は男としての弱音を吐けず、女と正面から向き合えていない。言いかえればそれほどに、この映画のパリスのような男性を描くのは勇気がいるのです。

注2・前夜のヘクトルとの会話でヘレンは「パリスが殺されるのはいや」と、戦えばパリスは負けて殺されることを自明の理として話しています。ある意味パリスには失礼ですが、ヘレンは失礼とは思っていないはずです。彼女はパリスの戦闘能力についてはまったく幻想も期待も持ってはいない。そんなことで彼を愛したのではないのです。

注3・この冒頭の和平交渉の設定は(アガメムノンの世界征服の野望もですが)、原典の「イーリアス」にもギリシャ神話にも皆無です。そして私は、この映画を見て「原作とちがいすぎる」とあれこれ指摘する人が、この和平交渉の設定にはまったく触れないのに驚きあきれ苦笑しています。そもそも、冒頭でぬけぬけと、これだけとんでもない設定をしているのに、それには目をつぶってか気づかずか、原典との差を云々するのは滑稽でしかありません。しかし、またそれだけ、この設定は自然にうけいれられているということでもあるでしょう。そして、この大胆な設定にこそ、この映画の制作者たちの姿勢がすべて表われているとも言えるでしょう。和平交渉に邁進し、最後までその可能性をさぐりつづけたヘクトルという人物を最高の英雄として描ききった、その姿勢に。(2004.7.10)

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