私のために戦うな(未定稿)受身の愛(上)

最後にも「追記」として書いていますが、この中で私が触れている、「何かを守るために戦う」ということをめぐっては、友人のキャラママ(板坂)が、2004年5月公開の映画「トロイ」について講演した、「私のために戦うな ―映画「トロイ」のもう一つの見方― 」が「授業ノートコーナー」の「その他」に収録されています。こちらもあわせて、ぜひごらんになって下さい。

──(1)──

板坂耀子は「江戸の女、いまの女」(葦書房・出版)の中の「楽しいお仕事」というエッセイの「首にからまる女の手」という章で、昔から恋愛映画のクライマックスになると、どんな優しくおとなしい男性と強く積極的な女性のカップルでも、男性が女性を抱き寄せ、女性はそれに抵抗し、そして最後には必ず男の胸を押しのけ叩いていた女の手は男の首にからまって、二人はベッドに倒れこみ、結局のところ幸せになる、と指摘する。そして板坂は、この場面を繰り返し見る内に、自分は絶対恋愛も結婚もできないと、ごくごく自然にあきらめたと言う。すなわち「いやっ、いやっ、と言っていたものが、いいわ、いいわ、になって行く、というのは、どうしても自分には無理だと思った」と。納得できないことを拒絶しつづけても拒絶できない時、自分は絶対にそのことに喜びを感じるようになることはできないのだ、と。

フェミニズムの論文がしばしば指摘するように、板坂が「これが恋愛なら自分には恋愛は死ぬまで無理だ」と感じたという、恋愛映画のラブシーンのパターンは、基本的には男が女をレイプする図式である。板坂はそれを、女性の問題としてだけではなく、「積極的に戦う方が生き残る傾向がある」戦場の兵士(多くは男性)も含めた、「いやなことは絶対に好きにならず、積極的にとりくまない」「いやだ、いやだ、がいい、いい、には絶対変わらない」生き方の難しさとしてとらえた。悲惨な運命、不合理な状況を、「快感」として受け入れることをしない生き方の難しさとして。

板坂がとらえたように、人間の生き方にまで拡大してもいい。わかりやすく、フェミニズムあるいはレイプの問題に限ってもいい。どちらにせよ、これまでの映画は、国も時代も問わず、男女のラブシーンと言えばまずはもう必ず、男が抱き寄せ、女が押しのけ、そして最後に女の抵抗が終わってめでたし、という図式を踏襲しつづけてきた。板坂は先のエッセイで「あまりに同じ場面ばかり、繰り返し見せられたことに対する反発もあったかもしれない」と書くが、それはむしろ例外で、大抵の人間なら、繰り返し見せられれば、恋愛はこういうものと思い、それに自分を合わせるように学習するのが普通だろう。「現実が芸術を模倣する」というワイルドの言葉は警句というより真実だ。どんなひかえめな男でも、いやがる女を力づくで抱き寄せないといけないと思い、どんな元気な女でも、抱き寄せられたら(相手が好きでも、愛し合いたくても)一応は抵抗しないといけないと思うようになる。 繰り返すが、これはレイプの図式である。しかも常に男性からの、女性に対する。どんな優雅な作品にも、ヒューマニスティックなドラマにも、愉快なコメディーにも、必ずこの場面は登場する。この場面と本当のレイプとには、厳密に言うと一線は引けない。この場面を認めて、レイプがよくないというのは実は大変難しい。

おそらく、映画監督や作家の中にも、漠然とそのことを感じ、ちがったかたちのラブシーンを描けないかと模索した人は何人もいたはずである。にもかかわらず、あいもかわらず、基本的には同じような場面が登場しつづけたのは、定着してしまった形式の恐ろしさと言おうか、これ以外の図式のラブシーンを描こうとしても、描き方がわからなかったからだろう。無理にちがったものを描けば、滑稽に見え、異常に見える恐れがあったからだろう。

──(2)──

早めに確認しておきたい。「男が抱き寄せ、女が押しのけ、そして女が抵抗をやめる」レイプと共通するところの多い愛の図式も、その表現も、私は否定しているのではない。愛のかたちを規定したり、否定したりして、どれが本物とか正しいとか論じるほど、愚かで空しいことはない。そのような形の愛を好む人もいよう。そのような描写に燃える人もいよう。少しも悪いことではないし、私もまったく不快ではない。

問題は、その図式のみしか、存在しないことにある。しかも、水面下のもっと露骨な少女たちがレイプされるゲームやアニメ、昔からあるポルノビデオが、より大量に積極的に、あるいは隠微に、あるいは公然と、その図式を肯定し、拡大して人々の頭に叩き込む。どんなに形が変わっても、この図式だけは変わらない。そこが私は気に入らない。それをしばしば支えるのは、「これが女の本質だ」「いやがりながら屈服するのが、女の性だ」の論理であり、それはレイプの肯定に、家庭内暴力に、仕事の上での差別にまでつながって行く。板坂のように、恋愛をあきらめただけではすまない。仕事も、尊厳を持って生きることさえもあきらめなければならない事態に、この図式(だけが認められる状態)は、つながりかねないのだ。
そんな図式しか生まれないのは、本当に女の性が、男の性がそのようなものであり、それ以外の愛や性のあり方が考えられないからなのだろうか。そうは思えない。私自身が、決して大柄でも力が強いわけでもないのに、幼い時から、守られ、抱かれるよりは、守り、抱く方が好きだった。男に対しても、現実でも空想でも、そうでないと、愛せなかったし、燃えなかった。そういう女性の友人知人を私は複数知っているし、小説やエッセイを読んでいても、そういう傾向の女性がいるのは察せられる。

社会はしばしば、女性の中のそのような傾向を、「母性愛」と名づけて認め、そういう愛し方をして幸福になっている男女を、「妻や恋人というよりは、母のような愛」などと表現する。「江戸の女、いまの女」の中で板坂は、「男が女を守るかたちでの愛は、決して『父性愛』と呼ばれたりはしない」と指摘し、女が男を抱きたい、守りたいと欲望するのは、「母性愛」などと言い訳する必要のない、れっきとした男女の愛のかたちの一つだと強調している。
板坂の指摘は正しい。しかし、言いかえれば、母性愛というレッテルをはりつつ、条件をつけつつ、そのような愛が認められてきたということは、「男を抱き寄せ、唇を奪い、ベッドの上に押し倒す」愛の形を望む女が、そして、男が、常に存在していたことを示すだろう。そのような愛のかたちが、現実にはあったことも。ただ、これまでの映画のラブシーンは決してそれを描かなかった。

フェミニズム論者がしばしば指摘するように、それは意図的に行われてきた面もあるだろう。しかし私は、そのような悪意や意図がなくても、むしろ、「まだ存在しない形式を想像し、創造することの難しさ」が何より大きかったのではないかと思っている。
結局、「男が受身になる愛」のかたちを見たい場合は、たとえば少女漫画からポルノ映画にいたるまでのホモセクシュアルもの、マドンナの「BODY」のような、悪女ものや異常な世界を描いたもの、「真夜中のカーボーイ」のような男娼ものなど、ある種、特別な設定のもので間に合わせるしかなかった。(それにしても、「七人の侍」で、村の娘が若侍に「迫って押し倒す」ラブシーンを描くことの出来た黒澤明の偉大さは記憶すべきだ。)

普通の男女の、等身大の愛のドラマで、そのような愛のかたちが描かれることはなかった。時代とともに、レイプの図式の明確さは薄らいだが、やはり基本的にはその図式は壊れず、しかも私がしばしば「本当に、押し倒され、抵抗し、あきらめるかたちでしか、女の愛し方は描くことができないのか?」と絶望的な暗い気持ちになったのは、何とか、その図式から抜け出そうと努力して、新しい試みをしている映画のラブシーン、セックスシーンが、(「読書する女」の長いラブシーンなどもそのひとつだが)間延びしていて退屈で滑稽でしかなく、私が嫌いでまったく感情移入できないレイプまがいのラブシーンの方が、明らかにずっと面白く、色っぽかったからである。
健康で普通で愛すべき男女の、生き生きとした楽しく色っぽい性生活を(多分、現実にはもうたくさん存在しているはずなのに)、レイプめいた図式をいっさい使わずに映画で描くのはそんなに難しいのか、と吐息をついていた時に「ターニング・ラブ」という映画を見て、私は(やや大げさに表現するならば)のたうちまわって快哉を叫んだのであった。

──(3)──

「ターニング・ラブ」は、しばしば指摘されるように、男女の二人の俳優による「二人芝居」である。それほど評価が低い映画ではないが、それほどヒットしたり話題になった作品でもない(と思う。)

筋らしい筋があるわけでもなく、愛し合った若い男女が別れたりくっついたりしたあげく、結婚に踏み切ろうとして失敗し、別れて別の人と結婚し、めぐりあって、さあ、どうなるのかというところで終わる(いいのか?こんなまとめ方で?)。
私は、この手の映画をあまり見ない。だから、これが、そういう作品群の中で、どの程度の水準にあるのか、正確にはわからない。
ただ、下手をすると超退屈になりそうな内容を、一気に見せるテンポの良さがあり、それにどこまで貢献しているか(かなり貢献していると思う)わからないが、俳優二人が抜群にうまい。これはおそらく、誰もが認めるだろう。
ただ、私がこの映画を見て、唖然としたのは、他の理由による。これだけべったり男女がからみ、別れる切れるのすったもんだが続き、「セックスの相性がやたらにいいから別れられない」ことになってるぐらいだからベッドシーンもラブシーンも満載なのにもかかわらず、例の「男が抱き寄せ、女が押しのけ」がこの映画にはまったくないのだ。

たしかに女性は気の強い姉ちゃんだし、男性は我慢強い(煮えきらぬ?)タイプではあるが、前に言ったように、そんなこととは関係なく、どんな優しい男と強気な女のカップルでも、ラブシーンとなると例の図式が登場するのが常識だった。それが私をいらだたせていたのだ。
なのに、この映画には、それが断固として登場しない。しかもクライマックスは、出て行こうとする女を男が必死で引きとめる場面なのだ。事実、必死で引き止めている。誰が見たって、そう思う。しかし、実際には男は女の身体に手をかけていない。腕をつかんだり、壁に押しつけたりもしていない。私は実は一回しか見ていないのだが、多分、まちがいないと思う。最高に感情が高まった時、彼は、アパートの階段を下りて行く女を追い抜いて駆け下り、その前に立ちふさがる。それが一番、強い引き止め方で、その時も彼は女の身体に触れない。信じられますか?これはただならぬ映画である。そして、主演俳優二人がうますぎて、それが全然不自然に見えないものだから、ただならぬ映画であることに、誰もが気づかないという点が、更にただならぬ映画である。
この、二人の俳優がうますぎたということが(演出も脚本もかな)、この映画の最大の誤算だったかもしれない。何しろ、二人の結婚が失敗するのは、その重責と緊張に耐えられなくなった花婿(花嫁ではありません)が、結婚式の誓いの言葉を言う直前に失神してぶっ倒れてしまい、当然結婚式は中止になり、これで女性は「もう我慢できない」と切れる、のが原因なのである。これは、かの有名な映画「卒業」の、ダスティン・ホフマンが式場から花嫁をかっさらう場面にも匹敵する、もしかしたらそれ以上の画期的な場面で、当然、世間にショックを与えて話題になってもいいはずが、その前後のせりふや場面、俳優二人の演技があまりにも自然で納得できるため、それほどというか、全然ショッキングでないのである。

すごい映画ができたものだ、とビデオを見終わったあと、私はしばらくテレビの前で呆然自失した。
この男性の方を演じた俳優は、他の出演映画でもしばしば、女性に積極的に愛される受身のセックスシーンを演じている。 もちろん、フェミニズムが登場して以後のラブシーンは、微妙に「女が抱き寄せ」型も登場するように変化しつつはある。注意深く見ていれば、女性の方が男性の服を脱がせたり、同時に抱き寄せ合うといった描写は増えているし、「シティ・オブ・エンジェル」などでは、何しろ男性は元天使だからセックスの体験はなく、女性が「どう感じた?」とセックスの感想を求めるという、従来とは逆の図式も登場する。

だが、そのような中でも、この男優の演技は自然さでも細かさでも、明らかに目立っている。女性に積極的な行動を取らせるために、しばしば彼は「手を使えない」設定でラブシーンやベッドシーンを演じるが、その時の「愛されている」表情の演技を、いつもきっちりして見せる。
おそらく、特に理由があるのではあるまい。従来の図式や型にとらわれることなく、正確に与えられた役を把握し、それにふさわしい演技をすればそうなっているだけのことだろう。良心的で才能のある俳優として当然のことを、彼はしているだけだろう。
だから、このことに注目し、評価するのが、この俳優にとっていいことなのかどうか、私はためらう。すぐれた俳優なら当然のことをしているだけなのに、いたずらに「女に迫られる」演技の巧みさを強調されたのでは、どこぞの女優さんとのゴシップ以上に危険だろうし、それで演技にゆがみが出ては、せっかく登場しつつある、新しい愛の場面の優秀な演じ手の一人を失うことにもなりかねない。
彼におそらく、特別な思想や主義主張があるわけではなく、ましてや趣味や嗜好があるわけではなく、丁寧に熱心に役を解釈し、妥協なく演じるからこそ、結果としてそうなっているのだろうと確信すればこそ、このような新しい愛の図式を映画が描き始めたこと、そのような演技をきちんとしてくれるすぐれた俳優が登場しはじめていることを、心ひそかに祝福してそっと見守っておきたいな、とも思ったりするのである。

──(4)──

前回、私は映画「ターニング・ラブ」で、男が女を引き止める時、その身体に手もかけない描写について「信じられますか?」などと、興奮してしまったけれど、それは描写についてであって、冷静にというか、現実的に考えればこの方が充分「信じられる」自然な反応なのである。このただでさえ気の強い女性が興奮しきって飛び出して行こうとする時、つかまえて押しとめようとしたりしたら、わめくかかみつくか、とんでもない大騒ぎになることはわかっているのであって、彼女のことをよく知っている彼だからこそ、ここでそんな危険な賭けに出るわけはない。

(すごい唐突な無駄話。「グラディエーター」の映画で、コモドゥス皇帝が姉にせまる場面で、幾度か、すぐ前に立った姉の身体に触れようとして触れる決意がつかず、逡巡する数秒がある。このへんのホアキン・フェニックスの演技もあまり注目されてないが、実にうまい。姉への愛というタブーもあるが、触ったら嫌われるかも、そして、嫌われたら自分は死んでしまうかも、と思っている相手に触れるには、男女を問わず、相当の決意がいるのだ。)
にもかかわらず、従来の映画では、こういう時にまず絶対、男は女を「つかむ」。そして、女は狂ったようにもがく。二人が別れる展開になるなら、女は男をひっぱたき、ほおを押さえて呆然と壁にもたれる男を残して、足音も荒く女は出て行くことになる。よりが戻る場合なら、男が女を「冷静にするために」ひっぱたく。そして、泣き出す女を抱きしめ、いかに愛しているかをささやく。
私は、本当にしつこくくりかえす。なんで、こんなことを、わかりきったことを、くりかえさなければならないのかと、なかば激怒しながらくりかえす。そういう話、そういう展開が悪いと言っているのではない。そういう男女もいるだろう。そういう話もあるだろう。そういう描写もしてかまわない。そういうのが好きな人もいていい。…と、本当に、聞きたければ、百度でも千度でも言ってやるから、安心してほしい。(と、私が、ほんとに逆上しつつ言っているかに見えるのは、映画「ボーイズ・ドント・クライ」などの青年たちの暴力もそうなのだが、人は「自分とちがった」好みを認めることが、許すことが、そのまま「自分の好み」が許されず、禁止されることであるかのように、怒って、嘲笑し、攻撃することがあまりに多いからである。私もつい意地悪なことを言うと、こういう攻撃をかける人の中には、自分自身が、その「従来とちがった」好みをひそかに持っていて押し隠している人の方が多いと思う。)
よく聞いておけ、と、引き寄せて、耳の中にどなりこんでやりたい気分で言わせてもらうが、だから、従来の、そう言った愛のかたちを私は否定などしないのだ。ただ、そうでない場合もあるだろうし、そうでない愛の描写がそれには必要だろうし、そういうものが存在するのは許される(あたりまえだ)と言いたいのだ…ああ、疲れた。
「ターニング・ラブ」は、そのような従来の「引きとめ」図式を拒絶した。そして、なすすべもなく追って来た男に、女は「一分あげるから、言いたいことがあるなら言いなさい」と宣言し、男は必死で考えるという、見ている観客には予測もつかない緊迫した別れの場面を創造する。正直言って私は、この場面が果たしてベストの描き方か、もっとうまい描き方がなかったかどうかはわからない。だが、つまり、それは、このような場面で、男女がとるべき行動は、型にはまらずいくらでもあり、私たちは、それぞれの愛にかけて、その方法を見つけていくしかないということなのだ。その無限の可能性を「ターニング・ラブ」は示している。
これもくりかえすが、私はこの手の映画をほんとに見ない方なので、あるいは、同じような努力や試みをしている映画は他にもあるのかもしれない。しかし、「ターニング・ラブ」が、その全過程において、肉体的暴力を一切描かず、男女の愛の激しい葛藤を表現しているのは、これはおそらく他の映画ではあまり例がないのではないかと思うのだ。
人は、パターンを好む。何かの局面で、とっさにモデルをさがす。「芸術が人生を模倣するのではなく、人生が芸術を模倣するのだ」という、前にも引いたオスカー・ワイルドの言葉は、警句ではなく真実である。愛する時、別れる時、性交する時、私たちは知らず知らずに、そのお手本を、小説や映画に探す。自分はそんなものを読まず、影響を受けていないという人は、その影響をもっと間接的に、もっと強力に受けているにすぎない。それを思う時、レイプやセクハラといった問題とも関わって、このような映画における「愛の描写」は私たちの生活に、あなどれない影響と役割を果たしていると言わざるを得ないだろう。

──(5)──

これも「江戸の女、いまの女」(葦書房刊行)の中で板坂は、かつてジュニア小説を雑誌に掲載してもらっていた頃、高校生のカップルがお茶を飲む場面がどうしても書けなかったと言っている。当時、職場で女性だけがお茶をつぐことに疑問を感じ続けていた彼女は、そのような場面で女の子にあっさりとお茶をつがせることがどうしてもできなかった。が、かと言って男の子につがせようとすると、何か理由を考えないと不自然な気がし、その理由を考えていると腹立たしくなり、描写がぎこちなくなり、結局、彼女はそういう場面をさけ、そういう話をさけて、歴史ものや戦争ものに逃げていたという。 彼女は、一時期、このことに神経質になったあまり、すべての映画や小説を好きか嫌いかの分かれ目が「女だけが家事をしているかどうか」になってしまったため、たとえば映画「八月の鯨」が大好きなのは、映画そのものがよくできているからなのか、男が料理をする場面があるからなのか、もはや自分でも区別がつかないのだ、と嘆いていた。

これはもう、笑い話である。しかし、そういう私自身、彼女と似た体験がある。鳩時計文庫の中のある小説で私は、愛し合おうとする男女を描いた時、女性の方が先にたってベッドのあるへやへ行くように描いたところ、ある友人から「変なの」と笑われた。それ以後、私はベッドシーンやラブシーンを描けなくなった。私にとってはそうでしかありえない愛のかたちが、不自然なものに見えるのかもしれないという当惑と警戒が自然と私を慎重にさせたのである。
板坂は、「江戸の女、いまの女」の中で、先にあげた例を「まだ現実に存在しないものを、空想して描く困難さ」の例としてあげている。しかし、これは正確ではない。このHPにも収録されている「夢の子ども」という別のエッセイの最後の方で板坂は、「ピーター・パン」や映画「E・T」、モンゴメリの小説などをひきながら、「現実にはすでに存在しているのに、『存在しない』と言われつづけることによって、存在できなくなるもの、消されてしまうものがある」と述べている。板坂と私の、最初にあげた例は、こちらの方に近いと思う。

なぜなら、板坂も私も、女にお茶をつぐ男性を一人ならず知っていた。妻にお茶をつぐ夫、妻の下着を洗う夫も知っていた。社会的地位などという言葉は好きではないが、そういうものもある、熟年の夫婦でそういう人がいるのも知っていた。私もまた、男の先に立ってベッドに行った女を知っていた。そういう男が、女が、現実に存在すると知っていて、なお、それを書くことを恐れ、動揺した。
私たちは、何を恐れたのか。危惧したのか。作品が「不自然」と言われることはもちろん、つらい。(ちなみに、だから、私も板坂も、小説や映画に対し、「不自然」という批評が浴びせられることには、警戒し、そういう言葉を使う批評家は信じない。単に自分が嫌いとか好きとかいうことにすぎないのを、「不自然」や「自然」という一見、客観的な言葉で言い表そうとする批評家は油断できないといつも思う。)だが、それと同時に私たちが不安だったのは、私たち自身の生き方が、愛の形が「不自然」で「変」で「普通でなく」「異常」だと言われることであったろう。人とちがっていると言われることに対しては、普通以上に強靭なはずの私たちにして、なおそうだったのである。

──(6)──

現実と虚構とは、どのように影響を与え合うものなのだろう?

これも、かつて板坂が私にした話だ。 もう20年ほど前、彼女が勤めていた大学に行く途中の道に、ポルノ映画の立看板が常置されている場所があり、毎朝、彼女は、縛られたり顔をゆがめていたりする裸の女の写真のポスターを見ながら通勤していた。

また、就職シーズンになると、大学の廊下の掲示板にびっしりとさまざまな企業や自治体からの採用募集の紙が(何百枚も)はり出されていたのだが、注意深く読むと、そのどれもが当然のように、女性の給料は男性よりはるかに低く書かれていた。 どちらを見るのも、板坂は好きではなく、不快だった。しかし、どちらかというなら、どちらがよりましだろうとか、どちらかだけなくせるなら、どちらをなくしたいだろうとか、考えようとした時、ほとんど瞬間的に、本能的に、板坂は考えたと言う。
片方がある限り、片方も決してなくならない。
この二つは、互いを支えあって、存在しているのだ。
「バタリアン」という、超しょうもないホラー映画がある。死人がよみがえって「脳味噌ー」と叫びながら、人間を襲って脳味噌を食うといったような内容で、いやしかし、なかなか深いところもあり、構成もしっかりしていてよくできているのだが、今はそれはいい、そんなことより私が変に感心したのは、初めの方で、墓地で乱痴気騒ぎをしている暴走族みたいな男女のグループがあって(もちろん彼らははやばやとゾンビの餌食になるのであるが)、多分ヤクでラリってる女性のメンバーの一人が、やおら全裸になって、墓石の上かどこかで、くねくね踊り出すのであるが、ここで、やはり相当ハイになっている、そしてもともと相当に見るからにアブナイ風情の仲間のにいちゃんたちは、彼女の周りでいっしょに踊っているけれど、彼女を決して襲わない。

あたりまえと言えば、それもまた、あたりまえではある。しかし、得てしてこういう映画、そして言いたくないけれど、日本の映画ならほぼ絶対、ここで仲間の男たちは彼女の上にのしかかるだろう。そして、あきらかに彼女がいやがってもがいても、やめはしないだろう。というか、おそらく確実に、映画は彼女をここでもがかせるだろうし、それでも強引に男たちは彼女と性行為を行うように描くだろう。多分、彼女は例の「いや、いや→いい、いい」の反応をして、場面は一応の決着がつくというか、まとまるだろう。仲間の前で全裸になって踊るような女性には、そういうことをしてもいいのだという「常識」がそこにはある。
だが、「バタリアン」のあんちゃんたちは、そうしない。彼女は男とやりたいから、服を脱いで踊り出したのではなく、ただ、服を脱いで踊りたいだけかもしれないという判断をちゃんとしている。「バタリアン」を見て、さわやかな、すがすがしい気持ちになった人間なぞは、確実に世界で私ひとりであろうが、しかし、私はそのような気持ちになり、何と健全な映画かと感心した。私は今でも学生たちにしばしば、「かりに女が夜道で、一人で、まっぱだかで歩いていたって、レイプするのは、する方が悪い」と言っているし、そう思っているが、「バタリアン」にも、それと共通する常識がある。
そのような映画が多く作られ、そのような場面がくりかえし登場すれば、何となく人々の間には「女がいきなり裸になって踊り出しても襲ってはいけない」、むしろ「襲う必要は必ずしもない」「襲わなくっても変ではない」という感覚が、ひとつの選択肢として、定着するだろう。しかし、そういう映画は少なくて、だから、とっさに私たちは「襲わなかったら変じゃないか」と思ってしまう。

同じように、女を必死でひきとめようとする時は、力づくでないと本気に見えないのではないかとか、愛し合おうとする時に女は拒絶しないといけないのではとか、そこで男が無理強いしないといけないのではとか考えてしまう。
前にあげた映画「ターニング・ラブ」のスティーブのように、相手の女性をよく知っていて自分の判断に自信があれば、それに従って行動するだろう。だが、そのような現実的な判断に自信がない人ほど、パターンにはとらわれる。
そして、レイプだのセクハラだのということがやかましくなっている現在、このような状況は男性にとっては非常に困ることだろうと思う。本当にいやなのか、一応の拒絶かの絶対的に正確な判断は、はっきり言って不可能に近い。いちかばちかで無理やり抱くというリスクをいつもおかさなくてはならないことになる。冗談ではない、と、私が男性なら思うだろう。

Twitter Facebook
カツジ猫