映画「グラディエーター」論文編
目次
グラディエーター論
2000年6月に日本で公開された当時、「グラディエーター」は、単純な復讐劇、スケールの小さい家族愛の話、というのがおおかたの批評でした。
この映画の持つ奥深さ、しゃれた構成の数々を一目見た瞬間から愛した私は、このような批評に少なからず気を悪くし、それに対する反論を、時には他の方との対話の中で、時には独白として、書きつらねました。
今、これらの見方のいくらかは世間にうけいれられているような気がします。当時、いっしょに語り合った方々や、そのような場を与えて下さった方々に、深く感謝しています。
かまいたち(ラッセル・クロウ論)
映画を通してたまたまファンになった俳優が、マスコミにたたかれているのを見ていて、気づいたことを指摘したもの。こんなものをわざわざ書いたのは、やはりそこに、女性差別(ひいては男性差別)とかかわる問題が、深くからみついていると感じたからでした。
毛並みのいいトラ
「グラディエーター」は、残酷だと言って拒絶する人がいる一方、甘い、ものたりないと不満を持つ人もいる、ふしぎな映画です。そういうことはなぜ起こるのか。そして、それは監督や俳優たちを初めとしたスタッフの綿密な計算によるのではないか、ということを述べたものです。かなり腹を立てて書いた分、逆に文章はいやに冷静で論文っぽくなっていますが、そこは笑ってお見逃し下さい。
コモドゥス論
私がなぜ、「グラディエーター」の映画にこんなにはまったか、また、なぜマキシマスとコモドゥスが許しあい、愛しあうお話ばかりを書きつづけたのか、を書いたものです。
小説を書くことや、映画にはまることについての、かなり私的な裏話なのと、小説とはうってかわった徹底的なコモドゥス批判が出るので、相当に重っ苦しい内容です。パワーが落ちておられる時は、お読みにならない方がいいかも。いや、かえって元気が出るかなあ?
合わせ鏡-「戦場のピアニスト」を見て
ポランスキーという監督の、いくつかの映画を見た感想です。映像を通して見せられた、その精神に私は圧倒されました。それは、「グラディエーター」の映画に私が感じた魅力とも共通していました。
しゃべる作者(「晩春」裏話)
短編小説を書きながら、並行して書いていったメモです。まったくの楽屋話の無駄話ですが、そう覚悟して読めば面白い発見があったりするかもしれません。
またしゃべる作者(「大切な友だち」によせて)
「しゃべる作者」と同様の制作メモです。何かを愛したり、はまったり、それを小説にして表現したりすることの、みっともなさや、危うさが、さらけ出されているようで、今あらためてこれを読むと、自分が作家としては限界がある(むしろ作家ではあり得ない)こと、自分が求めているものは結局何なのかということが、あらためて気になってきたりします。
「シンデレラマン」のボクシング
しょっぱなから言うと、私はボクシングについて何も知らない。
だが、コロセウムで戦った経験がなくても映画「グラディエーター」の戦闘場面の面白さがわかったように、「シンデレラマン」のボクシング場面も、すぐれた監督やすぐれた映画は皆そうであるように、緻密に効果が計算され、無駄がまったくなかったことに感心した。
以下にそれを書いてみる。こんな風に見ると面白さが倍増するという人もいるだろうが、逆に分析しすぎてしらけるという人もいるだろう。そこは皆さまの自己責任で読んでいただきたい。もちろん、ネタばれまくりなので、そこもご注意を。
汽車に乗るために -「3時10分、決断のとき」覚え書き
この映画を絶賛やら溺愛やらしている人はとても多いようだ。その人たちに比べると、私はきっとまだわかっていないところや、まちがっているところが多いと思う。ただ、いろんな感想や批評を見る限り、誰も書いていないようなことだけを、備忘録のように書きとめておきたい。