とみのさわコーナーやっぱセレナアド
今日は金曜日である。大学の談話室の片隅で十八人の大学生が茶を呑みあった。明らかに人が多すぎた。話は別にない。いつものドッペルンゲンゲル研究会である。時は五月末なのである。旧暦では夏なのである。西洋と日本とでは違うかもしれない。
「ホトトギスが鳴くのは梅雨なのです。五月は爽やかな季節ではないのです」
髭のないクドレンコが通りざまに叫ぶ。が、その叫びは誰の耳にも響かない。
沈黙
研究会の主催者である額の秀でた男は、突然声を張り上げた。
「猫が屋根の上で泣くと赤ん坊が仔を孕む!……」
彼は詩人らしく嘯いたのである。しかし赤ん坊は仔を孕まない。
「びっくりしたぢゃないか!」
「ひどいぢゃないか!」
「すみませんでした」
額の秀でた男は謝ったものの、その言葉が「真」になれかしと彼の胸中で祈った。
「彼の意見を聞いてみよう」
ふと誰かがテーブルの片隅のある人物を指差していった。その男は、自分が皆の注目を集めていることに気づくと、あからさまに狼狽の色を見せ、言葉に詰まった。彼は皆から「僕」と呼ばれていた。しかし彼はいつも自分のことを「私」と呼んでいたはずである。「僕」は内気だった。人と話す勇気がないのである。心が岩塊なのである。
沈黙
火花
火花
汗
怒
汗
憤怒
汗
突然、彼は着ていた服を脱ぎ始めた。なぜなら彼は裸体のときだけ人見知りしないのである。
「その表現はイージーゴーイングだね、しかし大変すばらしい思いつきだよ」
意味不明である。しかし彼は続けた。
「いや、イマジナティブ・コンポジションと言った方がいい、書くとするなら……」
「もういいから……」
沈黙
「場所を変えよう。そうだ、カフェが開いているのではないか」
額の秀でた男はそう言い、皆は席を立った。「僕」は思いつめたように一点を見つめ、動かなかった。ドアが十七回勢いよく風を切った。
十五分後、「僕」がカフェに行くと、学生の一団は五人に減っていた。
「信子、弾け、もっと弾け!」
カフェでは、風信子がピアノを弾いていた。彼女は皆からヒヤシンスとあだ名され、人気を得ていた。カフェは熱狂していた。昼間から酒を飲んでいたのである。酔った輩は、どこからか手に入れたペンキを部屋一面に投げこぼしていた。その無作為の色彩の斑は、予期せぬファナティックな効果を発揮し始めていた。青、白、赤……三毛?
「三毛、三毛………」
カフェに集った一群は、口々にあらぬことを口走り始めた。
「月が出てない!」
「ペテロ!」
「サルフィユ!」
「おかあさん!」
「トミノサワは人神である! 彼は文学の支配者である」
狂乱の宴は始まった。ピアノの上に置かれたラズベリーが、三色の迷彩に染まった室内に映える。「僕」は額の秀でた男を見つめた。その視線に気づくと、額の秀でた男は上着を脱ぎ捨て、踊り始めた。「僕」の心を憎しみが徐々に浸蝕していった。
「信子、踊れ、踊れ!」
信子はピアノを離れると、華麗なステップを踏んで踊り始めた。「僕」はこの踊りをどこかで見たことがあった。しかし思い出せない。
十秒――五時間――
思い出せない。
三十秒――七日――
やはり思い出せない。
五十秒――三年――
フレンドシップ・ダンス!
「僕」は不意に記憶の鉱脈から一片の金塊を掴み取ると、歓喜に身を震わせながら立ち上がった。「僕」は泣いたのである。涙を流したのである。記憶の扉とともに涙腺を開いたのである。それは愛だった。夢だった。希望だった。自由だった。そして、友情だった。フレンド! フレンドシップ・ダンス!
『私は二階からキツスを投げたのであります!』
「僕」がそう叫ぶと、額の秀でた男はその句を繰返した。
『私は二階からキツスを投げたのであります!』
笑ってはいけない。
彼らは満足したのである。狂気したのである。酒に酔うたのである。
宴は終った。まだ熱狂の余韻が支配するカフェは、徐々に落ち着きを取り戻していった。多くは机に突っ伏して眠っている。信子はあたり一面に散乱したラズベリーを、嬌羞を込めた手つきで拾っていた。それは見事なスクリーン・スナップ・ショットである。
「僕」は誰も殺さなかった。それが人生だった。
「闇の深さを知っている人間は、太陽がまぶしい!」
それが「僕」の魂の叫びなのである。
サン・シャイン!
「僕」は走り出した。カフェのドアを蹴破って外へ飛び出した。それまで寝ていた人々は、その音に驚き目を覚ますと、顔を見合わせて囁いた。
「いい人ね」
「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね」
「ありがとう」
「僕」は走りながら呟いた。
「ありがとう」
「ありがとう」
何度も何度も繰返した。「僕」は「ありがとう」だった。感謝の化身だった。「僕」はあとからあとから溢れてくる涙を流れるにまかせ、光を目指して走った。あたりは夕闇が支配していたが、「僕」は気にしなかった。どこまでも走るつもりだった。
その時誰かが「僕」を追いかけてきた。額の秀でた男だった。
サン・シャイン!
「僕」は立ち止まり。額の秀でた男へ向かって走り出した。二人はみるみる近づいていった。三十間…十間……五間…三間……九尺……一尺…三寸……一寸……
ナイス・キャッチ!
二人は感謝に身をゆだね、拳を天に突き上げ、こう叫んだのである。
「○○○○○○○○○、佐藤春夫、万歳!」
「○○○…」の伏字は、卑猥にわたるのでここでは書けないのである。