とみのさわコーナーいっそセレナアド
図書館を塔のように見上げる茫洋とした叢で、幾匹もの猫が沈黙したままこちらを見つめていた。彼はその視線を針のように感じながら、心中では努めてそれを無視するように決めていた。いったい、その猫達の皿のような目どもは、どうしてこの俺を眺めているのだろうか? 彼はこのように自問した。俺が金を払いながら、この膨大な知識の集積地たる大学という魔窟になかなか現れないことがそんなに可笑しいのか? しかし、彼はこうも思った。あの猫達は、実は俺の汚らしい唾棄すべきドッペルゲンゲルを睨み付けているだけなのではないか、と。彼の思考はまさに世界のあらゆるものに見捨てられたという被害者の意識そのものであった。彼はいつからドストエフスキヰをその寝所の枕元に常備するようになったのだろうか? 彼は寝るのが恐くて『罪と罰』を読むのである。彼は、彼の恐るべきドッペルゲンゲルが彼の寝ているうちに寝所を勝手に抜け出して、彼の母親に謝罪しに行くのが恐いのである。彼は心地よいまどろみの中に、彼自身と、尊敬すべきラスコオリニコフを一体のものと考えて、言い知れぬ陶酔に浸るのである。
「ラスコオリニコフは歴史の犯罪者である!」
彼は一人空に向かって吐き捨てた。彼の肉体のすぐ傍らを通り過ぎようとする女学生が、彼を一瞥し、あからさまな嫌悪感をその両目にともしながら去って行った。彼はその嫌悪感に対して、強烈な憎悪を感じた。彼は、その女学生が先程の猫とまったくの同列であることを悟った。彼は先程遭遇した猫達の表皮の模様を思い出してみた。三毛…、白…、黒…、斑…。
「三毛…、三毛…。」
そう彼は呟きながら、院生室へと至る階段を静かに登り始めた。彼はその階段の段の数を数えている。one…、two…、three…。アスファルトに照りつける夏の太陽は、その階段の数までも操作してしまいそうであった。彼は数え間違えないように、慎重に、英語で数え上げていった。このような状況では、彼はよく英語を用いる。彼の母国語たる日本語は、彼にとっては余りにもアンチ・アーチスティックなのである。つまり、非芸術的なのである。そして、彼はその階段を登りきったとき、重大な事実に気づいた。
「sixty-six!」
六十六段。つまり、百三十二の二分の一、そしてなんと、六百六十六の十分の一である。この数字が、彼自身のみならず、彼の忌まわしきドッペルゲンゲルをいかに恐れさせたか、容易には想像つくまい。彼は恐怖のあまり、その場に昏倒しそうになりながらも、ようやく院生室の重い扉を開けた。
「遅いぢゃないか!」
彼はそこに、彼の愛読書たる『旧約聖書』のソドムとゴモラのごとき慘憺たる光景を見た。そこには巨大なピアノが運び込まれ、テエブルの上には空いたビールのビンが砲弾のように並べられていた。彼は一瞬目を疑った。そこにいた人々は、紛れもなく彼の友人たる人々であった。しかし、もしかしたら彼らは彼らのドッペルゲンゲルであったかも知れない。彼らは元来、ここで黙々とその本分たる勉学に勤しんでいるはずであって、このような狂乱に身を委ねる人々ではなかったから。
「酒を持ってきたかね?」
彼は、人々の中に教官が人に紛れ込んでいるのを発見した。この教官こそは、彼の指導教官たるS教授であった。S教授はすでに相当酩酊している様子であった。彼はそこに教授のドッペルゲンゲルを見た。教授は自らを常日頃より「僕」と呼んでいる。実はその「僕」が教授のドッペルゲンゲルなのでは無いだろうか?
「酒を持ってきていない! ふむ…、君、これは重大なミステイクだよ!」
彼は教授の怒声を聞いて、これを真向からの侮辱であると直感した。人間による人間のための侮辱。リンカアンはなんと言った? 神はこれを許されるのか!
「A PRECIOUS MAN!」
教授は大声でそう彼を罵倒した。教授は英語学を専門としているのではない。彼は、この教授が教授自身のドッペルゲンゲルであることを確信した。教授は日頃、このように酒を好む人格ではなかったからだ。
「教授、外を見てください!」
彼の胸中に浮かんださまざまな疑念を、髭の無いチョムスキーの声が破った。
「月が出てゐる!」
「おお! おお!」
彼はこの場の雰囲気を忖度する余裕はすでに持ち合わせていなかった。彼の混乱した頭は、いかにしてこの逆境を脱出するかという一点に向けられていた。彼らの狂乱の宴はますます過熱していった。
「桃子、弾け! 弾け!」
髭の無いチョムスキーがそう叱咤する。髭の無いチョムスキーは、桃子がピアノを追い立てられるように引く様を眺めて、恍惚した表情を浮かべていた。あの桃子という女性は一体誰なのであろうか。彼の知っている人物の名ではない。彼はこの部屋に来たことを心から悔やんでいた。所詮、人間とは狂乱に身を委ねる獣なのである。彼がいかに狡猾に、母親からの仕送りを少しずつ掠めとろうとも、この様と比較すれば、彼の罪など些細なものであろう。
そのとき、混沌とした部屋の雰囲気を悲鳴が切り裂いた。そこにはあの髭の無いチョムスキーがうつ伏せになって倒れていた。その背中には、ホチキスの芯が深々と突き立てられていた。血。酒。女。涙。
「…ひと殺し!」
桃子は血の気の引いた顔でそう呟いた。彼女の震える指先は、まさに彼を指していた。違う!彼は声にならない声で叫んだ。違うのだ。これは自分のドッペルゲンゲルのせいに違いないのだ。そしてまた彼のドッペルゲンゲルが殺害したのは、髭の無いチョムスキーのドッペルゲンゲルに過ぎないのだ。院生室に居座る人々の目は、彼に集中した。いや、その視線の先には、彼の凶悪なドッペルゲンゲルがいたのかもしれぬ。しかし、彼はそれを自分の罪であるように感じていた。学校にも行かず、母親からの仕送りを掠めとるだけの生活に堕していた自分が全ての罪の背負うべきなのだと。
彼は院生室から一陣の風のごとく飛び出し、煌々と地上を照らす満月に向かって、今は眼前にない人の名を呼んだ。
「おかあさん!」