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「水の王子」通信(150)

「水の王子  山が」余談 第一話「最高の友人」(3)

【オオクニヌシの独白】(続き)

「ククキは―それがその男の名前なんですけど」タカヒコネは続けた。「たしかに、いやなやつでした。許せないことを平気でやるやつでした。話せばきりがないんですけど。でも、だからって、おれは決して、気にくわないから殺すと決めたわけじゃありません。ちゃんと理由もあったし、判断もした。それは説明すれば、きっとわかってもらえると思っていた。そう思いこんでしまったのが、いつからだったかわからない。あの夜、実際に説明しようとして考えをまとめていたら、タケミナカタがこんなこと、納得するわけがないってことが、ものすごくよくわかった。まるで、まきつけていたひもの束がくるくるほどけて行くように、そんな風に思いこんでしまわなかった前の、初めのことが、次から次へとはっきりして来た」
 彼は小さく首をふった。
 「タケミナカタは、そりゃもうきっと、おれ以上に、ククキのことはよくわかっていたんです。さげすんでたし、怒っていた。時にはおれがなだめなくちゃいけないぐらい、あの男のことをけなして、ののしっていた。それでも決して、切り捨ててはいなかった。いつも、どこかで理解して、受け入れてやっていた。決してあいつを排除して、おれたちだけで未来を作ろうなんて考えたりはしてなかった。どうして忘れていたんだろう。どうしてわからなかったんだろう」
 声は低く、早口になって行く。よくよく耳をすませていないと聞き取れないほどだった。
 「どう考えても、どんな言い方をしても、彼には許してもらえそうになかった。どこをどうごまかしても、説明のしようがなかった。いっそもう、自分がしたことをかくして、知らないふりを決め込もうかとも思ったぐらいです。でも、できるわけがなかった。タケミナカタに何かをかくしたり、嘘をついたりしたことなんか、おれ一ぺんもなかったんです。あっちもそうだった。いつもおたがいに、本心しか言わなかった。争うにしても、絶対に嘘はつかなかった。今さら無理でした。本当のことを言うしかなかった。どうしてそう考えたのかも。そうしたら、もう彼がどうするか、わかりすぎるぐらい、わかってしまって」
 「何がだね?」
 「彼は、おれに失望する。軽べつする。もう二度と決して、おれのことを許さない。とことん、嫌いになる。ククキ以上に。誰よりも。それがはっきりわかって。どんな風に予想しても、考えても、結局はその、同じところにたどりつく」タカヒコネは淋しそうに笑った。「そして別のこともわかりました。そうやって彼に見限られて、嫌われたら、おれはきっと、もう生きて行けない」
     ※
 岩の上の水鳥たちは、いつか汀に下りて来て、やかましく鳴き交わしている。羽ばたいて彼らは、虹色のしぶきをあたりに散らせた。
 「今でも君はそう思うのか?」私はそっと聞いてみた。
 「わからない―多分そうだと思うけど、もうあのころのおれじゃないから」
 彼は小石を拾って気のないしぐさで、鳥たちの方に投げた。鳥たちは驚きもせず、動き回っている。
 「一晩中、眠れなかった」彼は言った。「あのあと、都を出てから草原で何度も、ひどい夜をすごしました。傷口から流れ出る血をそのままにして、追手に囲まれて泥の中に沈んでかくれていたこともある。飢えて水さえ飲めなくて、楽しそうな幸せそうな人たちの笑い声がする窓の下で一人で凍えていたこともある。鎖に繋がれたまま一晩中さいなまれたこともある。でも、そんな夜の恐怖も孤独も苦痛も、あの夜に比べたら何でもなかった。明日タケミナカタに会って何か言わなければと考えつづけて眠れなかった、あの夜に比べたら、ものの数ではなかった。ずっと、ずっと楽でした。何より一番恐かったのは、夜明け前に気づいたことです」彼は悲しげにつぶやいた。「許されないのも嫌われるのも耐えられなかったけど、あり得ないことですけど、万一彼がおれに説得されて、納得して、おれのしたことを許したら、それはもうタケミナカタじゃない。そんな彼になってしまったら、それはそれで、もっと永遠に、決定的に、おれは彼を失ってしまうんじゃないかって」
     ※
 「なるほど」と私は言った。「なるほど」
 何かを感じたのだろうか。タカヒコネは突然目を上げて、まっすぐ、まともに私を見つめて来た。
 「ひょっとして」彼はためらった。「おれのこと笑ってます?」
 「いいや」私はまじめに首をふったが、コトシロヌシの顔がちらついたのは否めない。「どうしてそう思うんだ?」
 「ただ―ただ何となく」
 「君だって笑ったんだろ?」私は言った。「そのククキとやらの前で」
 「ええ」
 「幸せだったから?」
 「そうです」
 「もうタケミナカタに何も言わないですむんだと思って」
 「ええ」
 「彼がもう、この世のどこにもいないとわかって」
 「そうですね」
 「ほっとしたわけだな」
 「もう、天にも昇るほど。というか、世界がばらばらになって砕けて、もう何もなくなった。恐いものがなくなった。生まれてからあれほど自由と思ったことはない」彼は静かにつけ加えた。「ちっとも楽しくはなかったけれど」
     ※
 私たちはしばらく黙っていた。やがてタカヒコネが今度は私を見ないで、草に目を落としたまま言った。
 「やっぱり笑ってるんですね」
 「家に入らないでいいか? 寒くなったよ」
 「大丈夫です」彼は首をふって、少しすねたように「何がそんなに面白いんだか」とつぶやいた。
 「君をバカにしてるんじゃないよ」私は教えた。「ただ、君はいったい全然考えても見なかったのか? タケミナカタが君を」私はことばを慎重に選んだ。「大目に見るとか、君に説き伏せられるとか言うんじゃなく、君のしたことの意味を全部わかった上で、君の愚かさもうかつさも十分に理解して、それでも君を切り捨てたりはしないし、二人の友情は変わらないということを?」
 「だから、そんな彼はもう彼じゃない」タカヒコネは言い張った。「あなたはきっとご存じないんだ。彼は、タケミナカタは、とても厳しかったんです」
 「知ってるよ」私は即座に答えてやった。「あれは本当にすぐれていたし、優しくて正しかったが、それは欠点というか、癖だったな。誰にでも本当に大らかで受け入れるのに、自分の大好きな相手にだけは、男女を問わず、ものすごく厳しい。情け容赦なかったよ」しばらく黙っていてから私はふと思いついて聞いた。「何年、友人だったんだ? 君は、彼と」
 「…六年ちょっと。七年に近いかな」
 私はとうとう吹き出した。「長くもったなあ」
 タカヒコネはわけがわからないような目になって私を見つめた。「何ですか?」
 「よくもそうまで長いこと、彼にあいそをつかされなかったものだ。よくよくまあ、君は好かれていたんだよ」
 「どういう意味です?」
 「幼いときからタケミナカタは、本当に何でも出来たんだ」私は言った。「まっすぐで、強くて正しく、曲がったことはしなかった。だからかな。あれは自分のように、うまくできない人間や、まちがいを犯す人間、正しいことができない人間のことが、あまりよくわからなかったらしい。だから、弟や妹、スセリや私に対しても、よくいらだって怒ったよ。どうしてこれができないのか、なぜこんなことがわからないのか、きっと彼にはふしぎでならなかったんだろう。明らかに弱い者や劣っているものには、そんなことはなくて、とても優しいんだがね。好きな相手ほど、容赦しない。その落差が激しかった」
 私は肩をすくめた。
 「幸いといおうか何というか、うちの一家は皆それぞれに、したたかで、いいかげんだ。コトシロヌシもシタテルヒメもスセリも私も、皆似ていないようで似ている。がんこで、自分を変えたりしない。だからタケミナカタも、その内にあきらめた。嫌いになったわけじゃないが、もっとゆるやかに距離をおいて、愛してくれるようになった。幻滅はしてたんだろうが、まあそれはしかたがないさ。でも、もしかしたら彼は淋しかったのかもしれない。どこかにあきらめなくてもすむほどに、自分と同じ力と心を持った相手がいるのかもしれないと、ずっと思っていたのかもしれない。君はそれに近かったんだよ」
     ※
 タカヒコネは何となく、また世界がばらばらになったような顔をしている。その顔の向こうに、息子の顔が見えるようだった。私は空を見上げた。
 「コトシロヌシの話だと、君がマガツミだったということを、あれは知らないままだったんだな。君はびっくりさせようと楽しみにしていたんだとか」
 タカヒコネはぼんやりうなずいた。「ええ」
 「聞いたら、どうだったんだろうなあ」私は空に向かって言った。「私には何だか見当もつかないよ。そこだけは正直言って、君があれを生かしておいてくれなかったのが、ちょっと残念かもしれない」
 「そこだけって―」タカヒコネは怒って言いかけ、思い直したらしく聞き返した。「おれがマガツミとわかったら彼はどうしたろうとおっしゃるんですか?」
 「だから、わからないんだよ」私は彼に目を戻した。「あれはマガツミをどう思っていたのだろう? 苦しめていいとか、人間扱いしないでいいとは、もちろん思っていなかったろう。粗末にしてもいいとかも決して考えていなかったはずだ。だが、あれは弱いものや劣っているものに対してそうだったのだから、さげすみ哀れむ存在ではあったかもしれない。そして彼は君のことは文句なしに自分と同じ、すぐれた存在と感じて、心から尊敬し誇りにし、あこがれさえもしていたはずだ。その君がマガツミだと知ったら、さあ、どう感じたのだろうなあ」私はちょっと意地悪な笑いを浮かべてしまっていたかもしれない。「平気だったろうか? それとも混乱したろうか? ちょっと見てみたかったなあ。惜しいことをした」
 「おれがマガツミだと知ったら、彼は失望したんでしょうか?」タカヒコネはとまどっていた。「考えてもみなかった」
 「わからない。逆にそれで、マガツミを見直すようになったかもしれない。君がそうだと知ったならね。彼はそういうこともできる男だった。自分がまちがっていたと思えば、即座にあらためる力を十分に持っていた。まちがった意地や誇りとは無縁の性格だったからな」
 「たしかにそれはそうだったけど…おれはもう何が何だか、よくわかりません」
 「君がわからなくてはいけないのは、タケミナカタも弱かったし、不完全なところも多かったということだよ」私は言った。「そして君のことを本当に大好きだったということだよ。君のしたこと―しようとしたことかな、それを聞いたら、もちろん彼は失望したろう。怒って君にさんざんひどいことを言って、身も世もない思いをさせたろう。めちゃくちゃに君を傷つけ、苦しめたろう。だが、誓ってもいい、結局は君を許したよ。きらいになったり切り捨てたりはしなかったよ。そんなことができるはずがない。私にはよくわかる」
 「でもきっと、どこかもう前とは同じじゃない。以前のようには戻れない」
 「そうさ。そして、ククキとやらのことがなくても、もう何年かしたら、いずれはそうなっていたはずだよ。彼は君が自分の理想通りじゃない、自分と同じじゃないとわかって、あきらめて、もっと優しくなったはずだよ。いい案配に愛想をつかして、おだやかに愛してくれる友人になったろう。私たちに対すると同じように。それでも多分この世で一番親しい人間として、君のことは誰よりも大切に思い続けたはずだ」
 おだやかな風が湖の上にさざ波を広げ、私たちの回りの草をゆらせた。タカヒコネは息をひそめるようにして、草のそよぎを見つめていた。今、耳にしたことばの数々を、ひとつひとつ、おそるおそる手でさわって、かたちをたしかめているようだった。

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