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「水の王子」通信(165)

「水の王子  空へ」第四回

【彼は名前を覚えたのか?】

若者たちはタケミカヅチのために、新しく料理と酒を注文した。「特別サービスだってさ」と言いながらイワナガヒメが持って来た、イナヒの足(に見せかけた練り物)が入った大鉢を「ありがとう」と言って受け取ったタカヒコネは、手早くかきまぜて形をなくしてから、「こうした方がうまいんです」と言い訳した。「それでワカヒコは、なるべく早く覚えると言っていた皆の名前はちゃんと覚えたんですか?」
 「それにもまた、実はひとしきり話がありましてな」タケミカヅチは酒をすすった。「早い話がその峡谷での大会戦までの数日、まるっきり、誰ひとり、名前を覚えられた気配がなかったのです。誰に対しても『ねえ君』だの『昨日私の剣を持ってきてくれた人』だの『髪をみつあみにしてた彼』とか、おっしゃるばかりで」
 「まあ乗船して数日はそんなもんだろう」ニニギが言った。
 「それはそうですが、やはり皆の中には身体がでかかったり、舵取りがうまかったり、美しかったり、すばしこかったり、すぐに目につく男女はいますからな」タケミカヅチは言った。「ふつうはまずそれを手がかりにして、次々覚えて行かれるものです。覚えられる者たちの方でも何となく、それはわかって覚悟というか期待はそれなりにしているものです。逆にこれがまたですな、ふしぎなもので、ちゃんと仕事をしているし、性格も悪くないのだが、どうしても人の記憶に残らない者というのが、いつも必ずいるものです」
 「ああ、わかる」タカヒコネが笑った。「欠点もないし、いいやつなのに、数え上げて思い出そうとすると、いつもそいつを忘れていて、一人足りなくなるんだよな」
 「その時もそういうのが一人いまして、これを覚えられないのはわかるのですが、そうではなくて、アメノワカヒコさまと来たら、一目見ただけで記憶に残りそうな者も全然覚えておられないようなのです」
 「それは逆に皆も落ち着かないのじゃないのか」コトシロヌシが心配した。
     ※
 「いやもう、まったくその通りで」タケミカヅチは太い首をふった。「正直言って、長い船上生活の中で、あんなことが起こったのは、これがまた、あとにも先にもなかったですなあ。大混乱というのではないが、それまで見たことのない風景が目の前に広がりはじめたとでも言えばいいのか」
 「どういうことだ?」
 「ふだんだったら誰からもまず最初に覚えられて名前を呼ばれるはずの数人が、妙におかしくなったのですわ。自信を失って沈んでいる者もいれば、どことなくワカヒコさまへの不信を示す者もいた。逆にことさら近づいて、自分を印象づけようとする者も。おや、こいつはこんなところもあったのかという面を、ほとんど毎日見せられましたな。中に全く態度を変えず落ち着いていた者も数人いたが、内心ではどうだったのでしょうな」
 タケミカヅチは吐息をついた。
 「部下のことはそれなりに知っておったつもりでしたよ」彼は言った。「それがたった、あの数日で、あぶり出されたように、それぞれの思いがけない面を見せられた。私は動揺しましたですよ。ワカヒコさまは誰にでも気さくで優しく、いつも楽しそうなのに、どう見ても、何も考えてはおられないようなのに」
 「まさか、あなたの名前ぐらいは彼は覚えていたんでしょうね?」
 「いや~、それもどうですかな」タケミカヅチは笑った。「あのねえ君、とか、ちょっと君、とかおっしゃることが多くてですな」
 「しかえしに、ねえあなた、とか言ってごらんにならなかったんですか?」タカヒコネが聞く。
 「うはは、面白かったでしょうな」タケミナカタは喜んだ。「まあ私はずっと、将軍、とお呼びしていましたから」
     ※
 「それがですよ」タケミカヅチは卓の上に両ひじをついて身を乗り出し、若者たちを見回した。「その、峡谷で苦戦になって、あの方がついに介入されたとき、最初に大声で呼ばれたのが、例の、誰も覚えられなかった彼の名前だったのです。恥ずかしながら私は今また、その名を忘れてしまったのですが、いきなり、はっきり、その者の名を呼んで、新しい矢の箱を持ってくるよう命じられた。そして、ひきつづき、全員の名を次々に呼んで正確無比にしかるべき指示を下された。乱戦の中、そのことにとっさに皆、気もつかず、まるで天の声のようにそれに従った。旗艦の乗員はほぼ五十名。一人残らず覚えておられたにちがいない。飛び移った隣りの船でも必要な名はきちんと呼ばれたと聞きました。あまりに自然だったから、驚いて話題にする者もなかったぐらいです。それからは誰のことも、きちんと名前でお呼びになりました」
 「どういうことだ? 彼は知ってて、知らないふりをしていたのか?」
 「これがよくわからんのですよ。戦いの後で一度お聞きしました。誰も覚えていないあの者の名を、よく覚えておられましたねと。そうしたら、まいったなあというように笑われて、どうしてあんなに覚えにくいんだろうね、あの日の朝にやっとしっかり、顔と名前が一致したんだよ、と」
 「つまり、最後の一人を覚えるまでは、先に覚えた者のことも知らないふりをしていたってのか?」
 「そんなところですかなあ。信念なのか、ちょっとした気まぐれなのか、それも私にはよくわからんのですが」
     ※
 「私はあの方が名前をお呼びにならなかった数日間、いろいろ考えてみていました」タケミカヅチは言った。「もしかしたらこの方は、あまり人間というものに関心がおありではないのかと思ったこともあります。いくさのかけひきの方に集中されて、戦果をあげることにひたすら心を砕かれる。それも決して悪くはない。そういうすぐれた将軍も何人もおいででしたからな。ワカヒコさまも人間の一人ひとりには、あまり興味を持っておられないような感じのすることがありました。冷たい感じはまったくしないが、さりとて暖かいというのともどこかちがった。いつもどこか上の空で、何かに執着されるということが、まるでおありにならなかった。いつも遠くを見ておられたように思います。私どもには見えないものを」

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カツジ猫