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「水の王子」通信(166)

「水の王子  空へ」第五回

【蛇と少年】

その日は店はすいていた。陽当りのいい一角の卓を囲んで若者たちはタケミカヅチの話に耳をかたむけていた。オオクニヌシとスセリの家で飼われている、リスともイタチともつかない、しまもようの毛皮の小動物イナヒが時々店に入ってきて、若者たちの足もとをうろつき、タカヒコネがこっそり卓の下で与える肉付きの骨をくわえて、出て行ったりしていた。
 「将軍として船に乗っておられたのは十年ちょっとぐらいでしたかなあ」タケミカヅチは言った。「最初にお会いした時とほとんど変わらない若々しさだったから、あまりわかりませんでしたが、少しは背が伸びて、大人っぽくなられましたかな。しかしあいかわらず身軽でほっそりしておられて、羽のようにすばしこい身のこなしでいらした。ふしぎなことに、それでもまるで、はかないとか危なっかしいとかいう感じがしなかったですなあの方は。力強いとか鋭いとかいう感じでもないし、華やかなようで目立たないし、どういうのですかな、あれは」
 「タカマガハラの者が持つ、すごみや切れというのはなかったですね、たしかに」ニニギが笑った。「うらやましかったですよ。身分をかくして普通の村人や町の住人にまぎれこむ時、まったく目立たず、とけこんでしまえていたから」
 「それはあの方のどういうか人とはちがうところで」タケミカヅチは手をふった。「ちょっと困った、びっくりさせられるところではありましたな。おっしゃるように何度かごいっしょして、様子をさぐりに町や村に入ったことがありまして。むろん変装もしますし、髪や肌の色も変えたりしますが、あの方はそういうとき、完全に中味も変わってしまわれるようでした。大胆で乱暴な若者にでも、気弱で愚かな男にでも、おべっか使いのおしゃべりにでも、顔立ちやしぐさや見かけだけではなく、本当に中味からすっかりそうなってしまわれて、自分でも自分をだましておしまいになっておられるようだった」
 「そう言えば言ってたなあ」ニニギが思い出して笑った。「剣を使えない男に化けてるときに切りつけられたら、多分絶対よけられないだろうって」
 「実際にそういうことはよくありましたよ」タケミカヅチはうなずいた。「下っぱの役人や町のごろつきに、脅かされて刀をふるわれると、そんな相手は小指でどうでもしてしまえる腕をお持ちなのに、まるで無防備に呆然として、ぐっさり刃を受けておしまいになるのです。そして血を流してよろよろよろめいて、支えてさしあげないと気を失いそうなほど、唇まで白くなってしまわれた。こちらもだんだん、それに慣れてあわてなくなりましてな、うんざりした顔になっていたこともあったようで、冷たい連れだと相手には思われたかもしれません。あんなことが、どうしてお出来になるのやら。普通は身体が反応します。鍛え上げられた訓練で、そう作られているのだから。だが、あの方は、それもやすやすと忘れておしまいになれるようでした」
     ※
 タケミカヅチは太い眉をちょっと上げて、手の中の杯をひねくり回した。
 「今でも覚えておりますよ。私たちはその時に年寄りの商人と若い召使いになりすましていた。畑仕事をしている家族が何組かいたので、そこにまじって食べ物をわけてもらったりしておったのですが、そのときに、中ぐらいの蛇が一匹出て来てですな、わんぱくな子どもの一人がふざけて、それをつかんで、あの方に投げたのです。たよりなさげで、おどおどしておられたから、からかってみたくなったのでしょうな。その時のあの方のあわてようと言ったらまあ。聞いたこともない情けない悲鳴をあげて、『あれえ、だんなさまあ』と私にしがみついて来られましたよ。それがもう、芝居だの演技だのではないんですわ。しんから恐がって震え上がっておられた。食料がないときは、蛇なんか短刀で割いて焼いて食ってたお方ですぞ。別人じゃないかと思わず顔を見直しましたわ。蛇をはねのけようとして、かえって手にからみつかせて、ばたばたしておられるご様子に、皆大笑いしとりました。結局何とかはらいおとして、とびのいたはずみに、足で頭をふみつぶしてしまわれたから、蛇はくたばりましたがな」
 「つきそってるあんたも、たまったもんじゃないな」タカヒコネが同情した。
 「これで終わりならまだよいのですが」
 「まだあとがあるのかい?」
 「はあ。皆と別れて二人きりになって、足どりも身のこなしも、いつものようになめらかにしゃんとされてきたから、やれやれ普通に戻られたと一息ついておりましたら、『短刀を貸してくれ、私は持ってないんだ』とおっしゃる。何事かと思いながらお渡しすると、袖をまくって倍ぐらいに腫れ上がった腕を見せて、『さっきのあれ、頭が三角の毒蛇だった』とおっしゃる。私が驚いているひまもなく、足元の薬草をちぎって刃を清められたと思うと、腫れ上がった腕を一気に切り裂いて、黒ずんだ血をしぼり出し、残りの血を口をあてて吸い出してしまわれた。口を血に染めて笑いながら、『あの子がかまれないでよかったよ、ふみつぶしておいたからいいけど、あれ、つがいでいることが多いから、明日あたりあの家族の誰かがやられるかもしれないなあ』ですと。知らせに戻りますかとお尋ねすると、本当にふしぎそうに、何で?と聞かれました。そこまでしてやることはないさというお顔で」
 「その傷は治ったんだね?」
 「船に戻って何日かは片手を動かせなかったようだが、気づいた者はおりませんでしたな。結局、その畑で会った者たちから聞いた話も参考にして、そこの村の支配者たちとは無事に話をつけて、いくさはしないですみましたしな。あのわんぱく小僧は蛇にかまれて死んでおらんけりゃ、今はいい大人でしょうが、どこかで将軍としてのあの方にお目にかかっても、きっと誰だかわかりますまい。たたずまいも、まなざしも、まあ丸っきりの別人でいらっしゃるから」
     ※
 「その後で、この村をさぐるよう命令されて、船を降りたんだね、彼は?」コトシロヌシが言った。「おい、タカヒコネ、イナヒがまた来て、私の足を押しまくってるんだが、何かほしがってるんじゃないのか?」
 「ちぇっ、さっきあんなに大きな骨をやったのに」タカヒコネは小声でののしり、こいつの胃袋は底なしだとかつぶやきながら、魚のしっぽをつまんだ手を、さりげなく卓の下にたらした。「すみません、タケミカヅチ、お話のじゃまをしてしまって」
 「北の方の森におるけものですな」タケミカヅチはイナヒをのぞきこんで笑った。「これはまだ子どもだな。その内でかくなりますぞ。こんなに慣れているのは、なかなか見たことがありませんが。あなたが飼っておいでなのですか?」
 「いや、そういうわけでも」タカヒコネはごまかした。「こいつのことはもうお気になさらないで下さい。どうも、とんだ失礼を。ワカヒコがこの村に行けと言われたいきさつは、おれたち大いに聞きたいんです」
 「行けと言われた。そうですなあ。そうなりますですかなあ」タケミカヅチは、あごをなでて、ゆっくりくり返した。「まあそうですかな。そういうことになっとりますがな」
 「ちがうんですか?」
 「そこがどうも、私には何とも」タケミカヅチは吐息をついた。「いやどうも、あの方のことは私にはよくわかりませんので」
 「十年もお仕えしていてですか?」コトシロヌシが笑った。

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カツジ猫