「水の王子」通信(6)
「鳩時計文庫」の作風や文体には、それぞれの特徴が何となく一応はある。「青い地平線」「ユサイアの子ら」は外国小説、「A高野球部日誌」は日本の青春映画、「吉野の雪」は日本文学、「細菌群」は日本の青春小説、「従順すぎる妹」は日本近代文学、とか。
そういう中で、「水の王子」は原案の作者の特徴がそうなのだが、一番、散文よりは詩に近い。あらゆる場面が映像やリズムを他の作品に比べて色濃く持っている。「森から」の鬱蒼とした閉塞感と暖かい快感、「草原を」の開放感と疾走感、「都には」の無機質で人工的な感じ、「海の」のデストピア風な世紀末の不健康さ。そしてどれもそれぞれに、華やかで少し無気味だ。
「村に」は多分そのすべてが入りまじる。幕の内弁当やアラカルト料理のように、いろんな要素が少しずつある。ヒルコとハヤオは主人公であると同時に狂言回しの役割もしている。おたがいの特徴を失うことなく。
完璧なイメージではないが、この作品は私の自叙伝でもあって、「森から」は幼年時代、「草原を」は中高生時代、「都には」は大学時代、「村に」は中高年から現代にいたる私の生活が反映している。
その中で「海の」だけはやや外れて、読めばすぐおわかりのように、これは私の女性としての体験を集中的に描いたものだ。どう自分らしく生きようとしても絶対にそれをはばむ「ガラスの天井」どころではない「鋼鉄の格子」は、ものごころついて以来ずっと私の回りどころか鼻先にあった。その鉄の匂いを常に記憶していると言ってもいいぐらいに。
そして、足もとや壁から間断なく伝わる、もうあきらめなさい、旅はやめなさい、休みなさい、力を抜いて眠りなさいというささやきも、常に耳の中にささやきこまれていた。その声も決して忘れられない。それを聞きながら、いつも歩いた。立ちどまらずに。
これを書いた時は、それだけしか実感はなかった。だが、やや強引な力まかせの設定の「決して脱げない白い衣」は、むしろその時代にはまだまったくなかった、性同一障害といった概念などに今ならかなりあてはまってしまうことに、驚きを禁じえない。理屈で説明できなくても感覚で描写してしまえることもあるのだと、あらためて確認する。
この作品を読んで作者の心理や内面を分析理解しようとするドひまな人はいつの時代にもきっといるだろうが、そんなことにうつつを抜かす時間があったら、どうぞ何とぞご自分の内面や心理の方を分析理解して見ていただきたい。その方がきっと世のため人のため、何よりご自分のためだろう。
「都には」を読んで、「タカマガハラにもヨモツクニにも支配されない都を作ろうとしてああなってしまうのが、どうにも切ない、やりきれない」といった感想をいただいたことがある。リベラルな思想を持つ研究者で教育者の若い人だった。それ以外では、この「海の」に対する感想が多分一番多かった。と言ってもごくわずかですが(笑)。
「あれのモデルは何?」と聞いた詩人は、私が「女性としての生き方かな」と答えると、「学校かと思った」と言った。(以下はちょいネタばれ)また、文通だけで知り合っていた、やはり若い女性は、ヒルコになろうとした少年について、「ああ、なぜ彼が死んでしまったの? 私はこのヒルコがとてもとても好きなのに!」と私にはまったく予想外の熱く激しい共感を寄せた。私が彼を登場させたのは、たしかに必然的な存在としてではあったが、ぶっちゃけそんなに好きだったわけではない。だが、このような共感者がいたということは、書くこと、表現することの思いがけなさについて、私に強い印象を与えた。
ヒルコになろうとした少年を熱烈に愛した彼女はどんな人生をその後送ったのだろう。私よりずっと年下だったとしても、もう中高年で、子や孫もいるかもしれない。まさかと思うがお亡くなりになっているかも。この最終章「村に」をお読みになることがあるだろうか。万が一にもそんなことはありそうにないが、そうなったなら、どんなにうれしいかしれないのだけれど。
書き終えただけでも満足だし、ささやかに広まって読んでいただくだけでもうれしい。だが、彼女のようなかつての読者の目に触れてほしいと思うと、ついできるだけ多くの人に読まれて伝えられて、その人のもとまで、登場人物たちのその後の消息が伝わればいいという気持ちもまたやぶさかではない。