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(84)ほれなおして、さようなら

十五年以上にわたる片づけ生活の中で、人にさしあげたものもたくさんある。
基本的に私は自分の手を離れた段階で、そのものへの感情移入をなくし、どうなったって気にはしないことにしている。
だから、ここに書くこともないのだが、これは例外だ。

叔母が遺した、見るからに高価そうな食器の数々は、多分大切にしてもらえるだろうという安心感もあって、心おきなく、いろんな人にさしあげた。
だが、田舎の家で私自身が子どものときに家族で使っていた食器類は、懐かしすぎるということもあったが、どことなく古びていたしあまり上等のものでもなさそうだったし、人にさしあげるという選択は、まったく考えていなかった。家の片づけを手伝ってくれた若い同僚が「カッコいい」と喜んでもらってくれた、古めかしいラーメンのどんぶり類ぐらいのものである。

私が小さいころに祖母が毎朝ココアをいれてくれた、赤い筋が一本入っただけの小さな白いコーヒーカップとか、ちょっとしたお客さんに使っていた、こげ茶色の太い縞の入ったコーヒーカップとお皿のセットとか、朝食のとき、いろりの横のちゃぶ台の上に必ず白い食パンをのせて置かれていた、つつましくふちに花模様が数箇所ついただけの大きめの丸皿とか、もう食器とかいうより自分の身体の一部のようになっているものなどは、私が死ぬまで自分で使うしかないなと自然に思っていた。それはそれで、なかなか幸せなような気もした。

他にも、縁が薄青色のぎざぎざになっている器とか、八角形の小鉢とか、いつも食卓に出ていた常連のものもあるのだが、幼いころは好き嫌いが多く、ほとんど肉しか食べなかった私は、そういう器を見ても、中に入っていた、もずくやなまこや酢の物など自分の食べなかったものが思い浮かぶだけなので、あまり懐かしさは生まれない。
それに比べると、いやにたくさんある葉っぱのかたちのガラスの器は、薄暗い居間の茶棚の前で、水蜜桃やアイスクリームを入れてもらったのを食べた思い出があり、その時の楽しさが今もありありとよみがえる。
昔の家はあちこちが、わりと昼でも暗かった。今、写真で見ると陰気で無気味な空間のようだが、それはちがう。
きっと、住んだものでないとわからない。どうかすると足元も見えないぐらい暗い部屋のすみずみは、たとえばそういう甘い水蜜桃の味に象徴されるような、快い暖かさと数しれぬ喜びに満たされていたのだ。

これらの器は、気が向いたときに、自分の食事に使ってもいい。だが、ちょっとお手上げだったのが、それぞれ十個近くあるんじゃないかと思うほどそろっている、茶碗蒸しの器だった。
祖母はわりとよく茶碗蒸しを作って、ふだんの日の食卓に出した。私もこれは好きで、ベージュ色の卵の中から難破船のようにのぞいている、赤いかまぼこや茶色のしいたけが物語のように楽しかった。それにしても、祖父母と母と私だけの四人家族に、なぜこんな数の器があったのかと思うが、その当時は十人ぐらいのお客が来て、主婦が料理を作るのは普通だったから、多分どこの家もこんなものだったのだろう。

ほぼ毎日食卓に登場していた、他の器に比べると、少しだけ特別な存在だったからか、私は何となくこの器に一目おいて、食器棚の最上段にしまっていた。アクセサリー入れとか、キャンデー入れとか、他の用途に使うのは何となく、はばかられたのだ。

しかし、いろんなものが片づいて行くにつれて、まったく使わない器が二十個近くも棚を占領している、その状況がだんだん負担になってきた。
茶碗蒸し用のその器は二種類あって、一つは白地に紺の葉と赤い実が描かれたすっきり、きりっとした模様、もう一つはクリーム色の地に小さめの緑のつるくさと小さい赤い実がひかえめについた上品な模様。多分後者が少しよそ行きのお客さん用だった気がする。
そんなにしょっちゅう使っていたわけではないから、まあきれいだし、これなら人にさしあげてもいいかと思ったのだが、いかんせん周囲の誰に聞いても、茶碗蒸しを作るという人がいなかった。

あんなにおいしいものを、何でもっと皆作らないんだと、自分のことを棚にあげてひとりでぼやいている内に、私はいっそ自分で作ってみようかしらと思いはじめた。たとえ、自分だけでもそうやって、かわりばんこに一つずつ、器を使ってやるというのも、それはそれで、食器棚の特等席を独占させている言い訳になりそうではないか。

もしかしたら神か仏かご先祖たちかが、私の残り少ない老後を、あまりムダな遊びに費やさせまいと思ったのかもしれない。それまでにもいろんなものをさしあげて、大切に使って下さっていた若い人が、「私、茶碗蒸し作りますよ」とあっさり言ってくれた。「あれは案外簡単ですよ。よく作って自分で食べるし、人にも出します。でも、それ用の器とかないから、アルミホイルでふたをしてます」。おお!

私はたまたま田舎に墓参りした帰りに、彼女のところに寄ったのだが、あまりのうれしさにその翌日、がまんできずに茶碗蒸しの器を全部、ていねいに包んで箱詰めし、また車を三時間も飛ばして彼女のところに行き、器を渡した。人にあげるものは写真など撮らないのだが、この時だけは思わず、彼女にたのんで、きれいな棚の上に二個を並べて写真を撮った。

帰って現像した写真をまじまじ見ると、回りがすっきりしているせいもあるけれど、まあ器の美しいこと(笑)。あらためて、ほれぼれした。実物はもうちょっと古びた感じもしていた気がするが、一世一代の思い出の写真で器も張り切ったのだろうか。
思わず、一二個残しといてもよかったかしらと邪念が生じた。でも、どうせ私が死んで、一個だけ残っていても大切にはしてもらえないだろうし、この先どうなるにしろ何回かはまずまちがいなく、彼女の手で、本当の茶碗蒸しを入れてもらって若いいろんな人たちの食事の席で使われるのが、ずっといいと思い直した。

白と紺の方が一個だけ、少しひびが入っているのを残してある。これを食器棚のすみにおいて、せいぜい大切にすることにしよう。今後よっぽど時間ができたら、ほんとに一回ぐらい茶碗蒸しを作ってみてもいいかもしれない。

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カツジ猫