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「大学入試物語」より(38)

第四章(つづき)

 9 許可するという立場の快感

 前項の「トム・ソーヤー現象」について、ちょっとだけ、つけ加えておく。
 もともと、やりたくも何ともなかった側が、しぶしぶ引き受けたら、今度はそれを「やらせていただく」ために粉骨砕身しなければならず、それをしている内に何だか必死になって、いつのまにか「やりたくてたまらなかった」気分にさせられて行く、という、この腹立たしい過程を何度見たか知れないのだが、実は文科省と大学の間だけではなく、大学の中でもこれと似た図式がわりとよく登場する。
 たとえば、「学際的な授業を」とか「地域との連携を」といった、これまで誰もやったことのないような新しい形式の授業を開設することが要求されるとする。文科省の指導か社会の要請か、何か知らないが、「そういうことをするのが望ましいと、求められている」ような話が講座会議でくり返されて、まあ何かそういうようなものを一つぐらいは、やらなくてはなるまいなあ、という雰囲気にだんだん、しぶしぶなって来たとする。
 そういう時に、誰か一人、ちょっとやる気のある先生がアイディアを出して「こういうことなら自分はできそうだから、やってみたい」と言ったとする。「それはありがたい、やってもらいましょう」と皆も賛成したとする。

 問題はそこから先だ。
 例によって私の印象だが、講座会議でも大学全体でも、これからどういうことが起こるかというと、その「やってもいいですよ」と言った人が、ものすごい労力と手間ひまと時間をかけて、案を作って計画を練って提案し、認めてもらわなければならない。
 もちろん、その人のアイディアだから、どうしてもその人にやってもらうしかない部分は基本的にはあるのだが、私が見ていていつも驚き、ほとんど絶望的になるのは、他のメンバーはいつの間にか、その人の希望でその人が発案して皆に許可をもらおうとしている、という感覚になっているとしか思えないことだ。
 計画の実現のためには、いろいろなチェックを行ない議論をすることは当然必要だろうが、何かいろいろかん違いしているのではありませんか、と言いたくなるのは、まず、その「やってもいい」と引き受けた人は、もともと特にやりたくなかったのを皆のためにやろうとしたのであり、それは余分な授業が増えることで、もちろん給与などはまったく増えない、言ってみりゃ究極のボランティアであり、しかもその授業に他のメンバーが何の協力もできるわけではないということである。

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カツジ猫