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「大学入試物語」より(4)

そもそも、授業を受けるということは、くりかえすが、おのれを無にして知識を吸収することである。そこに全身全霊をそそぐよう、そそがせるよう配慮するのが教師の最高最大、最初で最後のつとめである。教育されている時に、その方法がいいかわるいか評価しろなどという負担と負荷を学習者にかけること自体、失礼だし残酷だ。評価という作業自体もバカにしている。教育されている片手間にできるような作業じゃないだろ、正確な評価なんぞというものは。
前にもどこかで書いた気がするが、だいたい、高級レストランでお客にアンケートをとるか。うまいかまずいか五段階で評価しようと思いながら食うめしほどまずいものはない。「今のどうだった?」と毎回聞かれる愛の行為も、決して楽しくないだろう。本当に心からサービスしたいと思うなら、相手の顔や反応ですべてくみ取る手間や努力を惜しんではなるまいよ。

言っておくが私は毎時間授業の感想を学生に書かせるが、「面白かった」と書かれても授業が成功とは思わない。「つまらなかった」と書かれても失敗したとは思わない。「よくわかった」と書かれても、それをまるごと信用はしない。「○○ということがよくわかりました」と書いてあって、その○○の部分は私が否定した見解だったりすることもよくあるから、安心などできるものか。そういう点では学生の感想はストレートには受け取るべきではない。あくまでもひとつの資料として、距離をおいて読まなくてはならない。
こんなのは、あたりまえのことだ。書いたらバカにされそうだ。作家の日記に幸福だとか不幸だとか好きだとか嫌いだとか書いてあるからと言って、それをうのみにして評論を書く研究者はいないだろう。だが、そのへんの感覚が「学生の授業評価」を利用したり信奉したりする風潮の中で、次第に狂って行くこともありそうなのは、まったくの杞憂だろうか。大学改革のあちこちで、こうやって研究や学問の本質にかかわることそのものが、微妙にひずみはじめているようでならないのだ。(2012.10.30.)

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カツジ猫