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ゆきやなぎとチューリップ

玄関前に植えているゆきやなぎが、あまりにみごとに生垣からうねりだして白い滝のようになっているので写真をとろうと思っていたら、あっという間にもう散ってしまった。
実際はかなり長いこと、目を楽しませてくれていたのだが、最近は時間のたつのが早い。

これは放っておくと、すさまじい早さではびこるので、花が散ったらすぐ、枝を刈り込んで丸坊主にしないと、えらいことになるので、明日かあさってには、剪定しないと。

処分品の安物のチューリップも庭全体に植えていたのだが、そろそろ咲きはじめた。
最初に開いたのは、黒猫アニャンの墓の上に植えた真紅のチューリップだった。
その後は前庭の黄色いやつが、いっせいに開き始めている。まだ背が低いのでイソギンチャクのようだと思っていたが、つぼんでいる時はランプのようでかわいらしい。

ただ、雑草がおいしげっているため、せっかくの花がやや目立たないで、迫力を欠く。これも数日中に草取りをしなくてはならないか。やれやれ。

シナモンとカツジは、私が留守をして数日家をあけると、対立がひどくなるのか、性格も顔つきも仲も悪くなっている。先日はシナモンがカツジをいじめているようで、だめだよと言い聞かせていたが、そのあと寝ているシナモンにカツジがお尻をふってとびつこうとしているのを発見、要するにどっちもどっちだ。
カツジは敵意というより、遊びたくてたまらないらしいのだが、それを手厳しく拒否されると、怒って反撃するか、逃げてぐれる。
そのくせ、トイレも今はまったく共有で、エサもたがいのをむしゃむしゃ食べて、どっちも怒る様子がない。ありがたいが、年齢別のエサがやれず、うんちやおしっこの様子もどっちのかわからず、健康管理ができないのが困る。

原発事故のレベルが7になったようだ。いろいろ気になることがありすぎて、かえってささいなことが目にとまる。例の動物救援サイトで原発近くの動物を救助しているところへの、一般の方のコメントで「ボランティアの人に助けを求めるのでなく、なぜ自分で行かないのか。私なら絶対にペットをおいて逃げて来たりはしない」という書きこみがあったのには、胸が痛かった。
そう書きこむ人の気持ちもわかるが、何よりとっさに心配したのは、これを読んで自分を責め、遠慮して、ボランティアの人に自分のペットを救出することを頼むのをあきらめてしまうかもしれない人と、その人のペットの運命だった。

そうなった時の飼い主やペットの苦しみに、そんな書きこみをした人が責任をとれるわけでもない。
だから、そんな書きこみを気にしないで、誰に何を言われても気にしないで、図々しく、甘えて、ボランティアにでも悪魔にでもすがって頼んで下さいと言いたいが、しかし、そういう他者の目や常識を気にして、あきらめてしまう人がいても、それはその人の選択だ。決して自分を責めないでほしいと言いたい。
苦しみのはてに、人はいろんな判断や決断をする。それがまちがいだったかどうかなど、落ちついてから考えればいい。何なら永遠に考えなくてもいい。自分を許し、やすらぐことだ。捨てられたものたちも、きっとそれを何より望んでいる。

しかし、戦争や災害のとき、目の前の家族を見捨てて逃げるしかなかった人はとても多いが、その人たちにむかって「私なら絶対に家族をおきざりにしない」と言う人は普通いないだろう。「私なら絶対にペットをおきざりにしない」という発言は、そうするしかなかった人に対する残酷さと破壊力ではそれとまったく同じだと思うのだが、それでもこういうことが現に言われてしまうというのは、逆説的だがペットはまだまだ人間扱いされてはいないのだなあと考えてしまう。それをおきざりにするしかなかった、捨てて逃げるしかなかった人の苦しみの深さ、大きさを認めてもらえないという点で。

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カツジ猫