三幅対第二章

1 三月のトロイ ―王家の人々―(その2)

ヘクトルがため息をついた。「そうか」
「それならばしかたがないわね」アンドロマケが、やさしく言った。「きっとまた、いい人があらわれるわよ、パリス」
「あんなに好きだったのに。愛していたのに」パリスは嘆いた。「こんなに好きな人はいないと思っていた。それなのに、ある朝、夜明けに目がさめたら、どうして彼女にあんなに夢中だったのか、どう考えても思い出せなくなってしまっていて」彼は頭をかかえた。「何がまちがっていたんだろう。僕にはきっと、人を愛する力がないんだ」
「そんなに自分を責めてはだめよ」アンドロマケが困ったようになぐさめた。「もしかして初めから、あまり好きではなかったのかもしれないわ」
「もしあれが愛じゃなかったというのなら、僕にはもう、愛するってどういうことなのかわからない」パリスは言った。「あんなに幸せだったのに。永遠にこの気持は変わることなどないと思った」
「彼女が街を急に去るとわかったから、おまえはあわててしまったんだろ」へクトルが言った。「もっと落ち着いて待っていたら、もっと、きっと、何とかなったさ。おまえはいつも、いろいろ、急ぎすぎるんだ。何もそんなに、あわてなくても」
「だって、いつ何がおこるかわからない。時の流れるのは速いから、あっという間に僕は年をとって、死んでしまって」
「どうしてそういう話になるんだ」
そう言われるとパリスにもよくわからない。ただ悲しみがいっそうつのった。
「もう二度と恋はしない」いつの間にかあふれてきていた涙を、パリスは手の甲でぬぐった。
「愛なんて空しすぎる。神殿に仕える神官になるか、いっそ旅にでも出てしまおう。たて琴をひいて、村から村へ、歌を歌って回るんだ」
皆、返事をしないで数秒がすぎ、それからヘクトルが奇妙にひっかかったようなせきばらいをした。とてもやさしくパリスの肩に手をおいて、やわらかい声でゆっくり言った。「たて琴の練習をしてからにした方がいいんじゃないかと思うんだが。おまえは器用だからすぐに弾けるようになるとは思うが、あれも案外むずかしいから」
「やけにならないでちょうだいな」ブリセイスがつぶやいた。自分に言っているのかと思ったが、どうやら彼女はヘクトルに言っているらしくて、パリスはなぜかわからず、涙にぬれた目をしばたたきながら、従姉妹と兄とをかわるがわる見た。
へクトルはまぶしそうに目をそらし、ブリセイスは唇をかんでいる。アンドロマケは目を伏せて指で何度も衣のひだを直していた。
三人ともどうしたのかなあとパリスは思った。怒ってるんだろうか?そんな風にも見えない。困ってるんだろうか?何とはなしに、これ以上ここにいてはいけない気がして、パリスはしおしお立ち上がった。
「もう行くよ」
「ここにいなさい」兄が言った。「夕食をいっしょに食べよう。いいワインがある」
「私もいていい?」ブリセイスが勢いよく言った。「ワイン飲みたい。パリスの話ももっと聞きたい」
「好きにしなさい」へクトルはパリスの肩から手を離し、彼に顔を見られないよう後ずさりしながら、ブリセイスとも目を合わさないよう気をつけた。互いの目を見た瞬間にブリセイスが笑い出してとまらなくなるのは目に見えていた。「私はちょっと父上のところに行って、すぐ戻ってくる」

∞∞∞

父のへやに上がって行く途中の回廊の曲がり角で、ヘクトルはグラウコスに会った。がっしりとした大きな身体の老人は、なかばはげ上がった白髪の頭に、白いふさふさした眉の顔を上気させ、まるで衣服のように身体になじんだ古いよろいを今日も身につけていた。これを着ると、着ていない時には息がきれて上がれない階段を楽々とかけ上がれるのです、面白いものですなと言っていたことがある。
「ヘクトルさま」と大声で彼は言った。「若い連中と馬をせめてまいりました。今年の若駒はよいのがそろっておりますな」
それが馬のことか人のことかはわからなかったが、ともあれグラウコスは機嫌がよかった。「イダ山のふもと近くまで行ってまいりましたが、今年はいちだんと小麦のできもよいようで」
「それはよかった」ヘクトルは我しらずつい、重々しくうなずいた。グラウコスは勇猛で一本気な古強者で、軍の指揮官としても信頼できるし、部下たちにも慕われている。ただし、どうかしたはずみに将兵たちの前でヘクトルの子どもの頃の話を「私のこの両の腕にすっぽり入ってしまうほど小さな赤ん坊でいらしたのに」などと、目を細くして言うことがあるので困る。いつまでも元気で第一線で戦ってくれているのは心強いのだが、そろそろ足腰が痛むから隠退しますというようなことを言ってくれてもいい年なのではないだろうかとへクトルは時々こっそり思うのだった。しかし老人にはその気配もなく、「私の死に場所は戦場しかござらん。私に従ってくれる兵士たちを指揮しながら死ぬのが夢です」などと、ことあるごとに公言している。この元気さでは本当にそうなるのかもしれなかった。
「あんなこと言っておられて案外ご自宅の裏庭で、孫たちと遊んでいて花の中で眠るように亡くなられるのかもしれませんよ」へクトルの副官の若いリュサンドロスがある時そう言った。「私の曽祖父もそうでしたから」
「そんなこと聞かせたら、ご老体は本気で怒るぞ」守備隊長のテクトンが注意した。
「しかしヘクトルさまも大変ですね」リュサンドロスが同情した。「古い家臣のほとんどに、小さい頃からのことを皆知られているのじゃ、やりにくくてかなわないでしょう」
「まあ、こちらは向こうのことを何も覚えてないというのが弱味だな」ヘクトルも認めた。
「でも、おかしくはないですか」テクトンがこだわった。「ご老体、パリスさまのことはちっともおっしゃらんじゃないですか。他のおえら方だって。神殿の泉に落ちておぼれかけたとか、馬小屋にしのびこんで眠っていたとか、へクトルさまのことは皆いくらでも言うくせに」
「パリスさまのことはきっと覚えておられないんだろうさ」リュサンドロスが言った。「おとなしくっていらしたんだよ」
「そんな風にも思えんがなあ」
「なぜかパリスの小さい頃のことは、誰も話をしないんだ」ヘクトルは言った。「本人はそれをいいことに、自分は小さい時、山の中に捨てられて羊飼いに育てられていたなどと作り話をして皆を面白がらせていたよ」
「本当の話なんですか?」
「まさか。でもあいつはそうやって話を作るのがうまかったし、本人も自分で作ったのを忘れて悲しがったりしていたからな」
「そうか、なるほど。パリスさまのお話は、ご自分で作っていただいた方が面白いんですね」リュサンドロスが笑いながら納得した。

あの子は日々、亡き妻に似てくるようだ。グラウコスと回廊で話しているヘクトルを、プリアモス王はテラスから見下ろしていた。顔だちはパリスの方が似ているが、あの頭のかしげ方、あの笑い方は忘れていた妻のしぐさをまざまざと思い出させる。自分と話している時の、あたたかく気づかわしげにこちらを見るまなざしや、自分の意見がとおらないのにがっかりして不機嫌に悲しげにうつむいている表情なども。
そんな時感じるいとしさが、逆に自分の判断を狂わせないかと不安になる。妃はあれでよかったが、へクトルは王位継承者だ。残酷さも狡猾さも必要となる。意志が強くて人望もある息子だが、その点、まじめで淡白すぎ、いささか野心にも欠けてはいまいか。そのくせ母親に似て、けっこうがんこなところもあるし。
特に最近目だってきた、神官長のアルケプトレモスとの対立には困ったものだ。あの子の性格からいって、個人的確執が原因ではあるまいとプリアモスは思った。だが、それなら原因は何だろう?
へクトルが幼い時はむしろ信仰深い子だったことをプリアモスは思い出していた。いちずで考え深い性格もあって、この子はもしかしたら武人ではなく神官として生きるのではないかと思ったこともある。実際には戦いに連れて行ってみたらみごとな若武者ぶりで、周囲は都の守り手、王の後継ぎとしてずっと彼を称えてきた。プリアモス自身、彼が神官になるのではと考えたことなど忘れてしまった。
だが、そういう子だけに、何か神に裏切られたと感じたら徹底的に背を向けてしまいそうな気もする。神意は理不尽なもの、はかり知りがたいものとして受け入れる意識がヘクトルにはない。どちらかというと理詰めな子で、そこが狭量さにつながらぬといいのだが。
さしあたり、あれはまずかったかな。プリアモスは苦笑した。「神官長はおまえが子どもの時、よく膝にのせてあやして、とてもかわいがっていたのにな」と先日言ったのは。「存じております」とへクトルには珍しい、木で鼻をくくったような返事が即座に返ってきた。存じているわけはあるまいから、あれは明らかに非常に気を悪くしたのだ。どうかすると、パリス以上に傷つきやすく気難しいところがあるのだが、それをうっかり忘れてしまう。

リュサンドロスやテクトンがトロイの軍の中心になってくれる時代が来たら、ずいぶんやりやすくなるんだろうが、とグラウコスと別れて石段を登っていきながらヘクトルは考えた。それと、今やっかいなのはアポロ神殿の神官連中だ。
銀髪でいかめしい神官長の顔を思い出してへクトルはため息をつく。このところ会議のたびに何度もまっこうからたてついたから、さすがに最近彼の態度もよそよそしい。言うことが次第に過激になってきたのは、向こうも意地になってきているのだろう。
心配なのは父上が弱気になってきておられることだ。昔の父上は神官長に言いたいことを言わせておいて、最後に「それはそうと」とすましかえって、まっさかさまな結論を出すぐらいの芸当はいくらでもなさっていたのに。形の上では神託をたてても実際には平気でそれをふみにじるようなこともされていた。一度あまりのことにあきれて、「そこまでしていいのですか」とおうかがいすると、女のようになまめかしい、いたずらっぽい目で笑われて「神にもいろいろご都合があるのだから、それを察してさしあげなければ」と、ぬけぬけとおっしゃったものだ。
あの頃のしたたかさが父上に今もあれば、自分もこんなにあせらない。だが最近のプリアモスはしばしば本気で占いにたより、神託をよりどころにする。それは結局、自分の判断が頼りにならないせいなのだろうかと、へクトルは情けなかった。
父が老いたとは思いたくない。そんなそぶりを見せでもしたら、父は自分を許すまい。
こんな時ヘクトルは心のどこかで途方にくれる。父との関係、神官長との関係、いろいろとわかっていても、実際にそれを一気に打開する起死回生の手がうてない。何かあるのだろうとは思っても思いつけない。自分は正直でまじめだ。無器用で愚かだ。それが自分の限界だ。
プリアモスが会議や交渉の席で、予定になかった発言をして皆を呆然とさせながら、はなれわざのように巧みなあざやかさで、くるりと局面を一転させて見事に自分の要求を通してしまうのを、へクトルは何度も目のあたりに見て舌をまいたものだ。あの才能は自分にはない。絶対にまねができない。
パリスなら、と思うのだった。もっと大人になり経験を積めば、あるいはそれが、できるのかもしれない。

∞∞∞

紫がかった夕靄がトロイの都をつつみはじめていた。城外の畑で牛がのどかな鳴き声を上げ、泉のそばでは娘たちがはしゃぎあっていて、その声が薄藍色の空へとたちのぼって行った。
王宮の神殿ではすでに夜のかがり火がたかれて、黄金色の神像がそれを反射する光が床や柱のあちこちに踊っている。その木洩れ日のような光の中をゆっくりと歩きながらプリアモスは、かたわらをついてくるヘクトルがおだやかなつつましい表情を見せているのを喜んでいた。
「メネラオスは兄のアガメムノンに比べれば、名誉を何より重んじる、むしろ誠実な男だ」彼は力づけるように言った。「交渉の相手としてはそれほど手ごわい敵ではない」
へクトルはうなずいた。自分は多分、自信のない弱気な顔をしているのだろう。だが父の前でみえをはる気はしなかった。不安と緊張があるのは事実だ。どうせ父には見抜かれている。
「ずっと戦ってきた者どうしが、それをやめられるということを私自身が信じられずにいるのです」彼は正直にそう言った。「それがすばらしいことだし、絶対に実現させなければならないとわかってはいても」
プリアモスはうなずいた。
「生まれた時から、あの国との戦いの中で暮らしてきました」ヘクトルは言った。「私は平和を知りません。この交渉がうまく行けば、もう戦いは終わる。戦場から都に戻ってきた時に、死んだ仲間や部下の妻や子どもや両親に会って、最期の様子を話してきかせる、そんなこともしなくてよくなる。彼らの嘆きに、いっそ自分が死んでいればよかったと思いながらその一方で、自分でなくてよかったとほっとしている自分を憎む、そんなことももうしなくていい。そんな幸福が訪れるのが信じられないのです。この私などの力でそれを招きよせられるのが」
「スパルタとの戦いで、度重なる勝利を収めたのはおまえだよ」プリアモスは力強く言い聞かせるように言った。「それがメネラオスに和平を望ませた。おまえはもうすでに、その手で平和を招きよせたのだ」

へクトルは首をふった。「勝利なら信じられた。何度もこの目で見ましたし、どんなものかも知っているから、それに向かって努力もできる。でも平和とは、どんなものなのでしょう?戦わないですむ日々とは?人を殺さないままで年老いていける人生とは?私にはわからないし、メネラオスもおそらくは知らない。そんな二人が話し合って、どんな未来を描けるのか、そのための手だてを考えられるのか、どうしてもはっきりわからないのです」
プリアモスはしばらく黙っていてから、静かに笑った。
「パリスを連れて行くがいい」彼は言った。
「パリス?」不意をうたれて驚いてヘクトルは父の顔を凝視した。
「彼には」神託を告げるようにプリアモスはゆっくりと言った。「人に夢を見させる力がある。そんなことは絶対にできるはずがないとあきらめてしまっていたことを、もしかしたら自分にはできるのではないかと思いこませてしまう力だ」
花の香りのする夕風がゆっくりと二人の回りをとりまいて、流れるように吹きすぎて行った。
「人が忘れていたことを思い出し、遠い昔に葬ってしまっていたものを呼びさます、そんな力があれにはあるのだ」プリアモスは続けた。「おさなごのように恐れを知らず、新しい世界に向かって歩み出していける勇気を、人の中に生み出す力が。心を凍らせていたこだわりを春の雪のように溶かし、魂を幾重にも縛りあげていた重い鎖を娘たちのやわらかい帯のようにするするとほどいて、まったく知らなかった新しい感情に身をゆだねて、広々とした空へ飛び立たせることのできる、そんな力が」
「父上と同じ力が」ヘクトルは思わずつぶやいた。
その声が少し淋しげだったのに気づいたのか、プリアモスは片手をあげて息子の顔を軽くなでた。
「おまえは現実を見させるがな」
「不愉快な現実を」ヘクトルは苦笑した。
「それもまた大切なことだ」プリアモスはおごそかに言った。「おまえたちの母もそうだった。いつも私に現実を思い出させ、そうやって私を支えてくれた」
二人はそれ以上何も言わず、テラスの方へ歩いて行った。遠く広がる海の上はまだ明るかったが、空の一角にはもう淡い月がのぼっていた。

2 四月のスパルタ ―メネラオスの日記―(その2)

4月14日

王子たちと海で泳いだ。トロイの海は遠浅で、こんなに深くないと言って、二人は喜んでもぐっていた。とった魚と貝を、私が手ずから浜辺で料理した。
生け捕りや暗殺を警戒していたとしても、二人はそのような素振りを見せなかった。私が焼いた貝を網の上からとった弟が、熱がって砂の上に放り出すと、兄が拾って海水で洗い、実を取り出して弟の手にのせてやっていた。昔、兄が私に同じことをしていたのをふと思い出した。兄弟はどこでも似たようなことをするものだ。

ものごころついてからずっと、と言っていいほどいつも、私と兄は肩を並べて戦ってきた。兄はいつでも陽気で冗談が好きで、深刻なものの言い方を嫌った。感傷や自己憐憫や自己嫌悪は兄とは無縁のものだった。重要なことほどさりげなく口にし、悲惨なことほど冗談にまぎらす、それが兄のやり方だった。私がトロイとの和平を検討していると話した時、兄は黙ってただ肩をすくめた。そして、目を細くして私を見て笑い、しかたがあるまいな、と言った。あんなに美しい妃がいるのではな。
兄はふところの広い男だった。昨日までの敵ともこだわりなく親しくなる。戦っている敵そのものにも、憎しみよりは奇妙な愛情を抱いているように思えることがあった。「いずれ、わしのものになると思うと、どんな荒地もどんな敵軍もいとしいものだ」と一度語った。「敵が強大で、残酷で、当方の被害が大きいほど、この敵を征服して味方にした時のことを空想して、わしは歓喜におののかずにはおれんのだ」

そんな兄が最後に別れた時、珍しく不快な顔をしていたのを思い出す。ペレウスの息子アキレスというやつがいてな、と兄は吐き出すように言った。鼻持ちならない若造だ。
手を貸す必要があるか、と聞くと、兄は笑って、その必要はないと言った。そして、奥方によろしく、と言った。弟を幸せにしなかったら、このわしが許さないと言っておけよ。そう言って兄は片目をつぶって見せた。

4月15日

二人の王子の弟の方と、妃と三人で、私の館に飼われている猟犬の群を見に行った。兄の方は水夫たちと、船に荷を積むのに忙しくしていたので。
妃は猟犬があまり好きではない。そもそも彼女に何か好きなものがあるのだろうか?無関心な視線のまま、私と王子についてきた。
王子の方はそうではない。妃を見た時、息を呑んで無邪気な賞賛の視線を投げた。あまりにもまじまじとまっすぐに妃を見るので、さすがの妃も気づいたようだ。いつものよそよそしい冷たさをくずしはしなかったが、かすかに苦笑した。
「何てきれいな方なんだろう」私だけに聞こえるように王子はそっとささやいた。
「妃かね?」私はいささか得意な気持で言った。「トロイには美人は多かろうに」
「でもあんな…どう言ったらいいんだろう」彼はじれったそうなしぐさをした。「威厳があって、優しそうで…」
まだ何か言おうとしていたようだが、犬を見ると彼はそちらに夢中になった。尾の巻き上がった、いちだんと身体の大きいリーダー格の犬に大喜びで、いきなり身体をかがめてその首に抱きついてかじりつくので、私はぎょっとした。怒りっぽい、獰猛な犬だ。王子の頭を食いちぎったりしたら、しゃれにも何にもならぬ。
しかし、王子のぶしつけなあいさつに、犬の方が度肝をぬかれたらしい。じっとして上目づかいに王子を見ていたが、やがてしっぽを振りはじめ、鼻づらを王子の顔に押しつけたので、「やあ、何としたことだ」と私は思わず声を上げた。「君はこいつを手なずけてしまったぞ」

「すごく人なつこい犬ですね」王子は指を曲げた手のひらで、犬の頭をごしごしこすってやりながら言った。
「とんでもないぞ。先日、奴隷の右手を手首から先、がっぷりかじりとってしまった猛者だ」
「へええ、とってもそうは見えないなあ」王子は両手で犬の顔をはさみ、自分からうんと引き離して、頭を後ろに引くようにして、ま正面からじろじろと犬を見た。「そんなことしたのか、おまえ」
犬は困っていた。私は声をあげて笑わずにはいられなかった。「子犬がいるが持って行くかね」
「ああ!ほしいなあ」彼は全身でため息をついた。「でも、兄に聞いてみないと」
「お兄さまは犬はおきらいなの?」妃が珍しく自分から口を開いて、そうたずねた。
「いや、好きですね。僕以上かもしれない」
「そんな感じだな」私は言った。「馬を扱わせたら右に出る者はいないと聞いていたが、兄上は犬も上手に育てそうだ」
「ええ。何をやらせても兄は完璧です」誇らしげに王子は言った。
「それだと君はやりにくかろう」
彼はふしぎそうに私を見た。何のことを言われているのかわからないのだなと私は思った。「兄は」と彼は言い、幸福そうな微笑がその唇をほころばせた。「僕のことが本当に好きなんです。僕のためだったら何でもしてくれる」
「おお」私はいたずら気を出して、しゃがみこんでいた彼の肩をつかんだ。「よいことを聞いたぞ。それなら君を捕虜にしてしまえば、兄上はこちらの条件を何でものむということだな」

彼はぎょっとしたようだ。そこが館の奥庭で、回りには私の家来しかいないことに突然気がついたようで、せっぱつまった目で私を見上げた。心臓がどきどき音をたてているのが耳に聞こえてくるようだった。
「おやめなさい」妃がそっと私の腕に手をかけた。「恐がっているわ」
彼女は王子を見ずに私を見ていた。いつものどこかうつろな、さめた目の中に、真剣な、それでいて少し面白がっているような光があった。
「冗談だと言ったら」私は首をすくめて王子の肩から手をはなした。
彼はため息をつき、感謝の目で妃を見上げた。まるで本当に私に殺されようとしているのを、救ってもらったように。妃は目を伏せ、すっとそらして、彼のその視線をはずした。
「かわいらしい若者だろう」後で妃に私は言った。
「そうね」妃は興味なさそうに首飾りをはずしていた。「お兄さまってどういう方?」
「しっかり者だよ、いい組み合わせだ」
「あんな弟さんがいては大変でしょうね」妃はいつもの気ののらない上の空の口調でつぶやいた。

4月18日

この前の奥庭の一幕でこりたのか、弟王子はあれ以来、ずっと兄のそばを離れない。兄の方もけげんに思うのではないかと思うほどだが、たとえそう思ったとしても、そぶりには出さない。よく観察していると、彼がさりげなくしているようで細かく油断なく気を配っているのが見えてくる。私に礼を失さぬよう、友好的な雰囲気をこわさぬよう、注意を払いながら、へやの中では常に退路を確保できる位置に座り、部下たちを散らさない。それを今まで私に気づかせずにいたことに驚く。この若者はあるいはプリアモス以上の逸材かもしれない。
してみると、あの日弟を一人にしてしまったのは一世一代の失策であったのか。こりて、彼をひきつけて離さぬようにしているのは意外と兄の方かもしれない。

時々、彼に妃を見せたいという誘惑に私はかられる。弟ほどにあからさまではないにしても、抑えきれずにひとりでに彼の目に浮かび上がってくるであろう、妃の美しさへの賞賛が見たい。
だがその反面、妃に彼を見せたくない。そのしなやかにたくましい堂々とした体躯と、考え深げで繊細でありながら男らしい顔を。多くの男が彼のようになれたらと思う男だ。嫉妬する前に愛してしまうほどみごとな男だ。
つまらぬ男になら私も嫉妬する。たとえば姿かたちだけが美しいが口のうまいだけの中身のからっぽな男が、女たちにちやほやされていたら、嘆かわしいとも理不尽とも思い、自分にもその外見があればと願うだろう。戦場でたちまわることのうまい男が、英雄だ勇士だとたたえられていい気になっているのを見ても、納得いかないと不快になり、自分の要領の悪さを残念に思うだろう。
だが、この兄が男にも女にも評価されるのは、私にも心からうなずける。妃がこの男に心を奪われたとしても彼女を責める気にはなれまい。当然だと思い、さわやかにそれを認めてしまいそうである。

それで妃には、この男を近づけたくない。話題にするのも避けて、弟があれ以来用心していることだけを話した。妃は小さく唇をゆがめるようにしてほほえみ、「あなたがおどかすからよ」と言った。「本当に恐がっていたもの」
「そうか?」妙に愉快になって大声で私は笑った。
「死ぬほど恐がっていた」妃は髪をすいていた手をとめ、宙に目をやって、つぶやくように言った。
私はほおづえをついて、妃の輝く金色の髪と白いうなじに見とれていた。
「犬のことは話したのかしら」妃が言った。
「犬?」
「もらってもいいか、お兄さまに聞くと言っていたわ」
「そうだな。忘れていた」私は近寄り、妃の肩を抱いた。「話してないようだな。かくしているのじゃないか。あの時のことを兄に」
「なぜ?」妃はものうく私を見上げた。
「うかつさを責められるから。あるいはただ、思い出したくないのか」
夢みるように妃は笑った。「かわいそうに」と、おかしそうに彼女はつぶやいた。

3 五月のピティア ―若い従弟―(その2)

∞∞∞

エウドロス、わが友。彼は忠実に私に仕え、決して私を裏切らない。私の部隊を統括し、一糸乱れずまとめ上げる。日夜、私のいない時も、激しい訓練を欠かさない。
その彼が会いに来た。重々しい顔にやや当惑した表情を浮かべて。
「お従弟さまがいたずらをなさるので」と彼は言った。

予想はしなかったが驚きもしなかった。ありそうなことだった。
「どんな?」と洗った髪をふって乾かしながら私は聞いた。
「訓練の後で休んでいる時に、こっそりしのびよって来て、木剣で盾をたたいて逃げたり、寝ている者をこづいたり、さまざま悪さをなさいます」
「こらしめてやれ」私は言った。
「なさるならあなたが」彼は言った。

めんどうくさい気もしたが、これも仕事にはちがいない。
その夜、彼らにまじった私が黒い外套を頭からかぶって地面に横たわっていると、果たして彼が近づいてきた。軽いはずんだ足音で、すぐわかった。
来ましたよ、と言うように、横で寝ていたエウドロスが黙って私の腕にふれた。
うなずくと同時に外套をはねのけて起き上がった私は、次の瞬間呆然と立った彼の鼻先に短刀をつきつけていた。

月はなかった。星あかりに、こちらを見返す彼の顔が見えた。細い鼻、ふっくらとした唇、白目の中にぬれたように輝いている黒い目。
「座れ、そこに」ほとんど唇だけで私は命じた。
座らせて、何をしようと決めていたわけではない。ただ何となく、言うことを聞かせてみたかった。
彼は言うことを聞かなかった。身体をそらしてとびすさりながら木剣で私の足を払った。とっさに彼を傷つけまいと短刀を手もとに引きながら、私はとび上がって彼の横なぐりの一撃をよけた。
その後は乱戦だった。
無言で、ほとんど位置もかえないまま、二匹のイノシシの子のように私たちは争った。彼を傷つけずに威嚇しなくてはならないから短刀をくり出すのはむずかしかった。彼の方は喜んでいた。私と遊べるうれしさに、全身がはずんでいた。
それをさしひいても、その動きはよかった。鋭くて、なめらかだった。木剣はめまぐるしく私の肩を、肘を、膝を襲ってきた。いつの間にか起き上がったエウドロスたちは、土の上に座って、黒い石のように黙って見守っていた。

そろそろ充分と思った私は、身体を半回転して、思いきり強く、彼の手首を蹴った。木剣は地に落ちて転がり、私は足を払って彼をその場に押し倒した。
「いい腕だ」思わずそう言っていた。
彼は目を輝かせた。「見込みがある?」とささやいた。
「ああ。明日からはここに来ないで、おれのところに来い。夜じゃなくて、昼間に」
「最高!」彼は小さな声で叫んだ。
私が身体を起こすと、彼ははねおきて、逃げて行った。松の林があっという間に、その細いしなやかな影をのみこんだ。
私の回りの兵士たちは黙ってそれを見送った。
「坊や、やるじゃないか」誰かが太い声で言った。
それをきっかけに、ざわざわと皆が身動きし、笑った。
「もうひと眠りするか」別の誰かが言った。「やれやれ、今夜はゆっくり眠れる」
「久しぶりにな、ありがたい」
私がエウドロスを見ると、彼は一礼して、「助かりました」とだけ言った。
「いつでも呼べ、困ったら」私は言って、短刀を鞘におさめた。

∞∞∞

彼の身体は、光を浴びて流れ落ちる滝のようだ。自由自在に右に左に動いて私に襲いかかる。見とれていると危険だと、わかっていても目を奪われる。
朝から晩まで私たちは海岸で、岩山で、森で、廃墟で、木剣や槍をうちあわせて、あきることがない。
時間さえ私たちの回りでは止まり、砕けて、飛び散って行く。
ひと休みして水を飲んだり、パンをかじったりする間も、私たちの戦いは終わらない。彼は私がパンをくわえた瞬間に、座っていた草の上に身体を投げ出すようにして反転し、後ろから私に木剣をふり下ろしてくる。それを前を見たまま、片手でつかんだ棒のはしで私はくいとめ、払い返す。彼は草の上にころげる。
「水でも飲め」と私は言う。
彼が水を飲む音がする。ふり向きざまに私はそちらに棒をつき出す。水の入った革袋を持ったまま、彼は倒れてそれをよけ、はずみに袋を落としてしまう。
「もったいない」と言いながら私は袋の紐に棒のはしをひっかけて、はね上げる。「貴重な水を!」
彼は袋にとびついて、棒の先からそれをもぎとる。私も棒をひきよせて、すばやく手の中で回し、からんだ紐をまきつけて、袋を彼からもぎとり返す。
彼は怒って叫び声を上げる。私が棒をふり回すと、子犬のようにそれを追ってはとびかかる。私は棒をまっすぐに立て、手もとにすべり下りてきた革袋をつかんで、思うさまごくごくと喉を鳴らして水を飲む。
「おまえにはやらん」と言うより早く、彼は私におどりかかってくる。不意をうたれて私は倒れる。彼は私にのしかかり、私の手から革袋をもぎとろうとやっきになる。
私は加減しながら彼をけとばす。草の上に四つんばいになった彼が顔を上げ、カエルのように私を見上げるので笑ってしまう。そして私は走り出す。彼は私を追ってくる。
いつまでも、いつまでも、いつまでも、こんな時間がつづけばいい。
来る日も、来る日も、こんな日だといい。
決して、あきることはあるまい。

昨日の日暮れ、私と彼は二人で浜辺の岩の上にいた。彼はあお向きに岩の上に身体をのばし、私は手にした草で彼の鼻をくすぐっていた。
「最初、口がきけないのかと、おまえのことを思った」私は言った。「あまり話をしないから」
彼は目を閉じ、気持よさそうに草に顔をなぶられている。「実際」と彼は若々しい声とは裏腹の大人っぽい口調で言うが、それがかえって幼さをあらわにするようだ。「誰とも口をききたくなかった」
「おれたちがいやだった?」
「あんたたちは大切な人だった」目を閉じたまま彼は言う。「おばさまは優しかったし、あんたとは小さい時に会ったきりだけど、あんたのことは覚えてた。きれいで強くて、優しくて、大好きだったのを、よく覚えてた」
「だったらなぜ、おれたちに近づかなかった?」
すると彼は目を開ける。透きとおるように澄んだ目でしばらく私を見上げていてから、彼はゆっくり身体を起こす。そして、私から少しはなれた岩の上に、ひざをかかえるようにして、海の方を見て座る。

「本当に悲しい時には」彼は海を見つめて言う。「誰にもそばにいてほしくない。特に大切な人たちには」
「なぜ?」答えはわかっている気がしたが、聞いてみた。
「僕の悲しみが、その人たちを汚す。悲しみつづけることに耐えられないから、きっと何かを憎むから、僕はそのとき、きっと醜い怪物のようになっている。そんな姿を見せたくない。ミノタウロスのように固くなった皮からたらす毒液を、近づく人に注ぎたくない。メデューサのように蛇に変わった髪で、近づく人を石に変えたくない」
私は手にしていた草を海に投げた。
「そんなものになるな、と世間のやつは言うぞ」
「あんたは言わないだろ?」彼は言った。
私は黙って笑った。
「そんなことを言うやつは誰も知らない」彼は言った。「怪物にならなければ生きていけないほどの深い悲しみがこの世にはあることを、その人たちは知らない」
私は彼を見た。暮れなずむ海を向こうに、岩の上に座って、ひざをかかえて沖を見ている彼を。
そこに、もう一人の私がいた。
私と同じ、魂が。

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カツジ猫