三幅対第五章

3 五月のピティア ―若い従弟―(その5)

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アガメムノンがなぜ私をきらうのかわからないのと同じくらい、私はオデュセウスがなぜ私を好きなのかわからない。彼はときどき、切なそうに眉をひそめて私を見る。恋する女を見るような目で、愛されていると思いそうになる。だがむしろそれは、こんなひよわな子どもがなぜ世の中に生きていられるのかと、危ぶんでいる父親、いっそ母親の目にも似ている。
彼はイタケという小さな島の王だ。思うに妻や子や、自国の民も、彼はこのような目で見るのではないか。何やら、いたたまれない、おまえたちを見ていると、というまなざしで。それで相手は不安になり、彼が力強く見え、すがりたくなるのだろう。
私は、だまされない。

オデュセウスはさほど大柄ではないが、つりあいのとれた身体つきをしている。さりげなく身のこなしが美しいから、実際よりも大きく見える。もしかしたら、自分で計算しているのかもしれない。だが案外そうでもないかもしれない。彼は策士で聡明と自分で言ってはばからず、回りもそう言っているが、私の目から見ると、時々、ものすごく抜けている。
基本的に人のいい男だ。だから私は逆らえない。あるいはそこが、だまされているのかもしれないが。
私がアガメムノンに戦闘で力を貸してやっているように、オデュセウスは作戦や交渉ごとでアガメムノンを助けている。二人とも、いいように使われているという言い方もできよう。彼が私に愛情を示すのは、同病相あわれむという心理かもしれない。
ちがうのは、私がアガメムノンに嫌われているのに対し、彼は好かれているらしいことだ。うらやましいとは思わない。あんな豚野郎に好意を抱かれるのは、嫌われる以上に始末が悪い。

だいたい彼が策士策士と言われるのが私にはどうも解せない。たしかに時々、奇抜な作戦はたてる。失敗することもあるのだが、こういうのは成功した場合しか話が伝わらないものだ。いきおい、彼の名も上がる。
そういう作戦はどれもこれも私の目から見ると、変に小ざかしい。本人は真剣にとりくんでいるが、見ているとおかしくて笑ってしまう。しかし、そういう、どこかいじましい、けちくささはアガメムノンの気に入るのかもしれないと思う。
「あれはかわいい男だ」と、いつかアガメムノンが目を細めて言っていたと聞いた。ほんとかと本人にたしかめたら、彼は眉をよせて悩ましげな顔を作って「宮仕えはつらい」と言った。
オデュセウスは、このいかにも悩ましげな顔と、ひどく楽しそうな生き生きした笑顔を巧みに使いわけている。そのように私には見える。悩ましげにしている時も少しそれを楽しんでいるようだし、楽しげにしている時も、ちょっとだけ、そんな自分を笑うようなさめて皮肉っぽい目をしている。

時々、彼が策士ぶるのは、ただ単に戦いたくないからだけではないのかと私は疑うことがある。彼が実は戦士としてもすぐれているのを私は知っている。一方で妻と息子と自分の民を深く愛していることも。
こんな戦いで死ぬつもりはない、と、あれほどいつもはっきり言う者もいないし、それを笑って見逃してもらえる者も他にはいない。
それというのも、彼は策士だから、ということになっている。それが何の関係があるのかということまで、皆、何となく、それで納得している。そもそもそこが、彼のねらい目ではないか。
一度そのことを私はネストルに言った。アガメムノン側近の白髪の老将で、オデュセウスとちがって自分が賢いなどと言ったりしないのはもちろん、人にも気づかせはしない。私やオデュセウスのことはもちろん、アガメムノンさえ利用しているふしがあるが、オデュセウスのようないじましさがない。策士より賢人といった風格がある。
「まあ、人にはそれぞれ役割があるからな」と彼は静かに答えた。「おまえにも彼にも、そしてアガメムノンにも」
「皆、あんたの手の中で踊るってわけだ」
「私はそんな器ではない。何だかだと言っても、アガメムノンや君たちにはなれぬ」ネストルはおだやかに言った。「私もまた君らすべてと同じ、木々の木の葉の一枚にすぎぬのだ」

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数日後、本当にオデュセウスが、ここ、ピティアの小さな港に船をつけた。
参戦への誘いを私が即座に断ると、彼は一瞬、例のやるせない目をしたが、すぐ快活な笑顔になって、おれのために来て戦ってくれ、女房だってその方が安心するんだから、と冗談とも本気ともつかない口調で言った。
彼の妻はおだやかで快活な人柄で、何度か彼の館に招かれた時会っている。そんなに私と年がちがってもいないのに、母親のような感じがする。私の母は女や母というよりも、ふしぎなとらえどころのない雰囲気があり、それはそれで好きなのだが、世の中の普通の母親はきっとこういう感じなのだろうという感じが、オデュセウスの妻にはある。私と彼女が台所で粉をぶつけあったり、乱暴な冗談を言って大笑いしたりしているのを楽しそうに見ていた彼は、私が彼女を好きなことをよく知っているのだ。

あいかわらずぬけめがないと私がおかしがっている間にも、従弟はオデュセウスのことが気に入ったらしかった。オデュセウスは子どもや若者を扱うのがうまい。というか、彼らを一人前の大人のように扱うから、若い者たちはすぐ、彼に有頂天になってしまう。
見えすいた手口なのになあ。
従弟のことも私がふざけて子犬のように彼の前に突き出して紹介したのに、オデュセウスは、大人に対するようにきちんと彼にあいさつし、死んだ両親の悔やみを述べた。従弟はそれでちょっと照れて、逆に子どもっぽく私たちの回りをうろうろしたり、ふざけて私に木剣でちょっかいをかけてきたりして、どうしていいかわからないほど、うれしがっているのがよくわかった。
ヘクトルはどんな男なのかと従弟はオデュセウスに聞いていた。そりゃもうトロイ一の、いやギリシャ一の戦士かもしれないと言われているよ、と「ギリシャ一」に力をこめて言いながらオデュセウスは、かかったかなという横目で私を見た。私が水筒の水を飲みながら海を見て笑いをかみ殺していると、彼はすかさず矛先をかえ、従弟に向かって、「彼が参加しなくても君が来てくれるとどんなに助かるか」と勧誘にかかった。次から次へと、けなげというか、まめというか。こんな見えすいたことをせっせせっせと恥ずかしげもなくぬけぬけと言ってのける彼が、どうしてこんなに私は大好きなのだろう?

「アガメムノンも、おれに協力を求めるのに、いいかげんこりればいいのに」オデュセウスの部下たちを休ませに、母とエウドロスたちのところへ従弟が案内して行ったあと、二人きりになった時、私はオデュセウスに言った。「ギリシャ全土の兵士を集めて行くっていうのに、何でまた、おれと、おれの手勢がいるんだ」
「まさに、それだからじゃないのか」ひとごとのようにオデュセウスはくっくっと笑った。「がらあきになったギリシャに、君を一人残していては、何をされるか心配なんだろ」
「ばかが」私は鼻で笑った。「おれのことがわかってない」
「君のことなど、誰がわかるか」オデュセウスは吐息をついた。「だから皆が心配する。何をするのかわからないから」
私はちょっと小首をかしげた。オデュセウスに言われると不愉快ではないのだが、これも私が周囲の人間たちに感じる違和感や距離感の一つだった。「あなたって面白い人ね」「変わってるう」などと、私の目から見たらどう考えても明らかに言うことすることおかしな女たちと寝たあとなどに、そう言われるとうんざりした。おまえらのどこが普通なのかよ言ってみろと言ってやりたかったが、大人気ないと我慢したのだ、これでも何度も。

「おれのすることはいつだって」オデュセウスを少しからかいたくなったのと、甘えにも似たわがままな気持もまざって、私はわざと言いはってみた。「きちんとすじが通っている」
「そんな気がするときもある」オデュセウスは妙にまじめに悩ましげに、変な色の毛虫を見つけた時のような目で私をじっと見た。「だがせめて、説明してくれ。でないと誰にも、君の気持というのがわからん。そして途方にくれる」彼は時々する、女を見るような、あるいは女が見るような、なまめかしい目で私を見た。「そして君を恐れるか…ひどく淋しくなる。君を理解できないので。君の心の中の世界を」
「理解できない世界など」私は言う。「理解しようとしなくてもよかろう」
「君は残酷な男だ」とオデュセウスは言う。
私は低く鼻で笑い、頭をそびやかす。
「皆が君ほど強いわけではない」彼は続ける。「おれのように賢くもない」
「だから何だ?」
オデュセウスは片手であごをなでる。私にわかるような言い方を考えているのにちがいない。彼の前では私はたしかに自分の頭が悪いと感じる。そのことを神々に感謝する。オデュセウスを見ていると思う。頭がいいということは、何かと苦労が多そうだ。
「つまりな」とオデュセウスが言う。
「うん」私は素直にうなずく。
「人に劣っているやつらは、優れたやつのことを知りたがる」
「どうして?」
「おれも知らんよ」オデュセウスは結局、そう言う。「多分、何かの役にたつと思うんだろう。自分より優れた者のことを知れば、それを自分の生き方にとり入れられると」
「自分より偉大なものの生き方などから、何を学べるというのだ?」私は言い返す。「勇者のかぶとを身につけても、弱者はよろけて倒れるだけだ」
オデュセウスは苦笑する。「それじゃ弱者に救いはない」
「教えてやろうか」私は言う。「賢いオデュセウスに」
「何を?」
「劣ったやつも優れたやつも、もともとこの世にはいない。自分より優れたやつがいると思って、そいつのまねをしようと思ったその時に、初めてそいつは劣ったやつになるのさ」
オデュセウスは吹き出し、私はまた海を見る。風にたわむれる白い波を。
「君はやっぱり残酷だ」オデュセウスは静かに言う。「自分にしか与えられていないものを、皆が持っているはずと決めつける」
「おれの持っているものでなくても、どんなやつでもそれぞれ何かを持ってる」私は言い返した。「自分のそれを使おうともせず、おれの持っているものばかり見つめて、自分にはそれがないと言いつづけるやつはうっとうしい」
「よくしゃべるようになったな」オデュセウスは唇を指でさすりながら突然言う。「あの従弟のせいか?」
私は首をすくめる。「聞きたがり屋でな」
「それは君だろ」オデュセウスは苦笑する。「彼に聞きたいんだろう、自分のことを。彼は、おまえとそっくりだから」

夜、食事のあと、丘の上で従弟と三人でたき火を囲んで飲んでいる時、オデュセウスはまた、その話を持ち出し、それがいつの間にか、トロイの王子の話になった。メネラオスの妃をさらった弟の方ではなく、その兄の王子の方だ。
「そいつも君と同じで、大抵の人間よりはすぐれているが、おれの思うに君とちがって、そいつはそれを、そういうもんだとあきらめてしまってるのだと思う」オデュセウスはワインを口に運びながら、ワインともども王子の人柄をじっくりと味わうような言い方をした。「言いかえれば、愛する妻や子、自分の民、もちろん、今回の騒動を起こした弟や、悪くすると、自分の父や、神々まで、彼は自分より弱くて愚かで、わがままなのはもう当然と思っていて、そういうものとあきらめていて、はじめからそういうつもりで、自分が我慢すればいいのだと思っているのではないかという気がしてならない。むろん、これはこれで傲慢なんだが」
「それは君自身じゃないのか」私は思わず言った。
「おれは、それをめざしているだけさ。そういうように考えようと日夜努力しているだけだ」オデュセウスは語るに落ちたことを言った。「アガメムノンの前にいる時なんか、一日に百回は自分に言い聞かせる。しかたない、今さら何を期待してるんだ、こいつはバカだ、こんなやつだ、知ってただろう、わかってたよな、って。妻といる時でも一日数回は、まあ、女なんだし、とか。もっとも妻の場合には向こうもきっと、もっとそう思ってそうな気もするから…この人、暑さに弱いから、とか。この人、眠いときげん悪いから、とか。この人、こういう人だから、とか。あの父親の子どもだし、とか」
私は笑いをかみ殺した。「ふうん」
「で、おれはそういうところは、どう転んでも結局は努力してるだけの、にせものにすぎん。だが、世の中には根っからそういう魂の持ち主も時にはいて…とことん無垢で無防備で、自分が皆のためにつくすのはあたりまえと思ってるどころか、回りはそれに価するほど、すぐれた、きれいな、きちんとしたものだと信じていて、どんなに裏切られても、ひどい目にあっても、家族も民衆も世界も神々もきっと正しいと思って愛しつづけてしまう…というのは、きっともう、どんなにか、たまらんだろうなあ…」
オデュセウスの声は、最後はぼんやりかすれて消えた。

∞∞∞

「大丈夫か」私は思わず言った。彼は時々、夢中になると、回りの誰にもわからないことを一人でしゃべりまくることがある。それはそうだが、それにしても、こんな表情の彼は見たことがない気がした。
「ああ」彼はぶるっと首をふり、片手の手のひらで顔をなでた。
「まるで恋した女の顔だ」私は身をよじってかたわらの小枝の束をとり、火にくべながらからかった。「トロイの王子ヘクトルは、そんなに魅力的な男か」
「美しい男だと聞いている」少し我にかえったようにオデュセウスは眉をひそめた。「まあ、そりゃ、メネラオスのあの奥方が、いっしょに逃げちまうほどの男の兄なんだからな。それなりに見てくれはいいんだろう。おれは、あの奥方と何度か会ったことがある。つつましい方だが、愚かではなかった。アガメムノンは二言めには、あの妃はバカだと言って回ってたが、それは逆に警戒してたからだ。そもそもおれは、アガメムノンが誰かのことをバカだと言ったら、まずまちがいなくそいつは賢いんだろうなと思うことにしてるんだがな。あの妃は、自分の立場をよくわきまえた、聡明な方だった。メネラオスやアガメムノンのことも、よく理解してた。それが、あんな小娘のような行動をとる。トロイの男には魔力があるとしか思えん。プリアモスがそうだったろ」
「知らんよ、おれは会ったことない」
「おまえみたいなみごとな金髪に、海のような青い目の、色の白い、背の高い、まるで神のような男だった。おれは子どものころ、どっかの宮殿で会ったんだが、じっと見つめられて、ほほえまれると、足から力が抜けそうになった。顔だちよりも姿よりも、全身から漂ってくる色っぽさというのがすごい。息子たちは黒目黒髪だっていうが、どうせ同じような妖しさを持ってるんだろう。あれは多分、トロイの都が生み出すものだ。古くから栄えた都は、女の胎に似ている。あたたかく、しめっていて、細かなひだからにじみ出す、濃厚な甘い液で男たちをこね回し、磨き上げて、この世のものとも思えない、魔性の身体と容貌を作りあげてしまう」
「もう、そのくらいにしとけ」従弟がぽかんとしているのに気がついて、私は笑いをかみ殺した。

「悪い噂を聞かんのだ」オデュセウスは酒をあおって、夜空を見上げた。「そこが何とも、ふしぎでならない」
「誰の、兄王子のか?」
「ああ。敵も味方も、男も女も、彼をほめる。あり得んことだ。不自然だ。あってはならんことだ、そういうことは、この世のつりあいとして、ゼウスの秤にかけて」
「おまえがそう言ったって、しかたがなかろう」
「アガメムノンまで、やつには一目おいてるんだぞ。トロイを征服したら彼にどんな地位を与えたらよかろうと、花嫁を迎えるみたいに目をうるませてる。あの男のとらぬ狸の皮算用は今にはじまったことじゃないし、これで終わるとも思えんが、そして大概の狸は実際に手に入れてきた実績もあるがな。それにしたって、やつらしくない。あの冷静なネストルも、『へクトルの軍はよく訓練されていて、エーゲ海一だ』と、ぬかす。戦ってもみない前から何を言う。エーゲ海一だの東方一だの、大ざっぱなことを言う男じゃないだろ、ネストルは。それがそうだぞ。もう何を信じられるんだ?」
「興奮するな」私は酒の残りを火にかけながら、なだめた。
「当のメネラオスまでが、おれに言ったよ。『これがあの兄と駆け落ちしたというなら私もあきらめるが、あんな、尾羽も生えそろわぬクジャクのような子どもにかっさらわれたと思うと、プライドが許さん』だと。聞いていて悲しくなるよ。いったい、どういうプライドなんだか」
「君はここに、愚痴を言いに来たのか?」私は言った。「それとも、そんないくさに、私に加われと?」
「ぶっちゃけた話」オデュセウスは言った。「おれは、この状況が不愉快だし、恐い。へクトルとトロイは、たたいておくべきだ。やつの責任ではないにしても、この人気の高さは、ギリシャにとって我々にとって、いずれろくなことにはならない。やつの弟のしたことを認めてしまえばなおのこと、ギリシャ諸国は彼を恐れて泣き寝入りしたことになってしまう。それは、へクトルのすることなら、どんなことでも正しいし、文句は言えないというルールを世界に広めることになる」
「おれがヘクトルなら」私は両手を頭の後ろに組んで言った。「他ならぬアガメムノンに、そんなこと言われたくはなかろうな」
「やつの考えなんかどうでもいいんだったら」オデュセウスは舌うちした。「何度言ったらわかるんだろう。問題はそこじゃない」

「なぜ皆は、そんなにヘクトルをほめるんだろう」従弟がたき火の向こうで首をかしげているのが見えた。「彼のどこが立派だと皆は言っているの?」
「父のプリアモスに目をかけられ愛されている。弟からは神のように慕われている」オデュセウスは言った。「妻とは仲のいいので有名で、小さい赤ん坊の男の子を目の中に入れても痛くないほどかわいがっているそうだ。部下たちの信頼も篤い。馬や犬や小鳥からまで慕われる」
オデュセウスは真剣なのだが、私は妙に笑いたくなって困った。
「戦えば強い。いつも冷静だ。常に先頭に立ち、一番困難な場所、恐ろしい敵のいる所を見つけてはそこに突進する。そのくせ、逃げる敵は追わない。負傷者には手を出さない。メネラオスの軍が何で何度も負けたかわかるか?土地の民衆はもちろん、味方の兵士の間にまで、彼への好意と支持がじわじわ広がってしまったからだよ。和平交渉に赴いた時、メネラオスはもちろん、主だったスパルタの将軍たちまでが、先を争って出迎えて、恋人にでもするように彼を抱きしめて口づけし、兵士たちは歓喜して彼の名前を連呼したって言うぞ」
「聞けば聞くほどアガメムノンとは器がちがうな」私は冷やかした。

「アガメムノンは、ある意味無邪気な男だよ」オデュセウスは言った。「やつは、この世の栄光やぜいたくにしか興味がない。ちやほやされれば、ごきげんがいい。だがバカじゃない。君はどう思うか知らんがね、それなりに器の大きさもある。おれは、あいつはわかるんだ。軽蔑してると言えばそうだが、ほとんど好きだと言ってもいい。だがへクトルは無気味だ。わからん。彼は己を捨てていて、私利私欲というものがまったくない。そういう人間は恐ろしい。手なずけられないし、取引もできない。はっきり言って、おれの一番苦手なタイプだ。君と同じに」
いきなり自分のことを出されて、私は不本意にもつい目を見はった。「おれか?」
「だから君に来てほしいと、おれは思うんだろうな。ネストルが君を必要と感じているのもそこだろう」オデュセウスは言った。「アガメムノンがしぶしぶ認めているのも、やつはカンがいいから何となく、そこがわかっているんだろう」
オデュセウスはたき火を見つめ、顔をしかめた。
「やつはトロイがほしいんだが」オデュセウスは言った。「できれば丸ごとな。へクトルごと。だが、言っておくがアガメムノンにはトロイやへクトルの価値はまったくわかってない。ヘクトルがおれのように自分の配下になってひざまずき、手足のように動くというのはアガメムノンの夢だろうが、仮にそうなったって、へクトルの価値をアガメムノンは理解してないだろう。皆が彼を評価するから、何となくほしくなる、ただ、それだけだ。だから、手に入らなければ、へクトルもトロイも、あっさり滅ぼしてしまうだろう。痛みなど、さらさら感じず」
「そのへんは、よくわかるな」私はあざ笑った。
「だがとにかく、何にせよ、アガメムノンは今のところはトロイがほしい」オデュセウスは言った。「ほしいだけでは理由にならんから、バカな弟が、もう一人のバカな弟に、妻をさらわれたのは格好の口実だった。だが、そんな口実のバカバカしさは、戦いが長びけば早晩誰にでも気づかれる。戦いの目的の偉大さという点で何となく欠ける。特に相手がヘクトルでは」
「高潔さにおいて、か」私は苦笑した。
「高潔さ、崇高さ、ある意味での狂気」オデュセウスは、ほとんど苦々しげに言った。「おれはヘクトルが体現しているものが、皆好かん。現実的でないからな。功利的でもない。だが戦いとなると、ふしぎに誰もが、それをほしがる。それをよりどころに戦いたがる。『士気』ってやつでな。これも案外、いや相当に重要だ」
従弟がまた、狐につままれたような顔になってるだろうと思って、そっと盗み見ると、案外まじめに聞き入っていた。

「そこで、おれの出番かね?」私はわざと皮肉っぽく言った。「狂気には狂気を」
「まさにね」オデュセウスは言った。「君は現実的でない」
「おほめにあずかってどうも」私はいやみを言った。
「だからおれは君にはいつも、誠心誠意たのむしかない」
「嘘つけ」私は吹き出した。
「君ならきっとヘクトルがわかる。どう戦えばいいかの判断がつく。彼の弱点も。出てきかたも」オデュセウスは熱心に言った。「この戦いの軍師は、おれではつとまらない。へクトルを理解できる君だ。君と彼とを結びつけて考える者など誰もいまい。似ていると思う者も。だが、その内にきっと皆、否応なしに気づくだろう。正反対なのに、君たち二人が兄弟のように似ていることを。運命の糸で結ばれていることを」
私はかすかに頭痛がしてきた。激しく戦って何人もの敵を倒した後などに、ふと襲ってくる奇妙な放心。しゃべりすぎてはいけないと心の隅で思いながら、酔ったように自制がきかなくなっていた。
「おれには彼は理解できまい」つぶやいている自分の声を遠くに聞いた。「根本的に、ちがいすぎる」
「根本的に、どこがだ?」
「やつとちがって、おれには愛するものがない」
オデュセウスは答えなかった。無言のままで目を笑わせ、たき火の白い煙がただよう向こうに、ひっそりと座っている従弟を目で示した。彼はどうなんだ?と言うように。
「いや、そうじゃない」私は言った。「彼のことは愛している。そういう意味ではなくて」
私は言葉を選ぼうとして空を見上げた。暗い、強い藍色の空に小麦色の星がまぶしくちりばめられている。「神々を、この世の中を」と言っている自分の声をまた聞いた。「生まれた場所を、生きることそのものを、おれは愛していないんだ。へクトルのようには。そこがちがう」
オデュセウスの黒い目が、たき火の赤い光を反射して笑った。深い、静かな落ち着きをたたえて。
「彼は愛しているのかな?」ひとり言のようにオデュセウスはつぶやいた。

∞∞∞

オデュセウスのような人間のしんそこ、いやらしいところは、人がまったく思いがけなかったことを言って、動揺させることではない。
むしろ、人が心の底で、かすかにだがずっと感じつづけて、もやもやとしていたことを、はっきりと光をあてて、うかび上がらせることにある。
その一言が、それだった。
それに気づいていたのかどうか、彼はその後すぐ立ち上がって、もう寝ることにしよう、と言った。

よい返事を待っている、と言ってオデュセウスが船で帰って行ったあと、私はしばらくぼんやりしていた。
虚空を伝って、熱い鼓動のように、誰かの声が届いて来る。
それはトロイの王子の声だった。
解放してくれ、と言っていた。
家族から。国から。あらゆる愛から。神々から。
彼自身から。
あまりにもはっきりと、その声が伝わってくるのが、どこか異様な気さえした。

アガメムノンの要請で先ごろテッサリアに遠征した時、一騎打ちで倒した大男のことを思い出す。たしかボアグリアスとか言った。
テッサリア王のトリオパスとアガメムノンが、両軍から代表を出して戦わせ、それで決着をつけようということになったのだ。
ネストルが例によって私に殺し文句を言った。おまえが一気に片をつけて、兵士たちを早く妻のもとに帰してやれ、と。
私はだらだら長びく戦いが嫌いだ。その中で兵士たちが倦み疲れ、哀れっぽい目になり、うすぎたなくなって、やたらに愚痴をこぼしはじめるのも。
何か、自分にとって大事なものが汚されたような気がしてくる。
楽しく、きれいな戦場が。
いやいや参加してるやつなんか来ないでいい。
だからきっと私は、アガメムノンが嫌いなのだ。
人に好きなことをさせず、力で言うことを聞かせるから、泣き言を言いつつ、逆らえないやつが増える。
それで、戦場も世の中も、どんどんうすぎたなくなってしまう。

ボアグリアスは見上げるほどの大男だったが、一撃で私はけりをつけ、彼を倒した。
その日、私は戦場近くの村で二人の女と愛し合って夜を明かしたばかりだった。アガメムノンの言いつけで私を呼びにきた少年は、子どもながらに心配だったらしく、しきりと私に大丈夫かと聞いたが、私があっさり大男を倒したのを見て、すっかり私に夢中になり、戦線にいる間中ずっと私をうっとり見つめ、馬の世話や鎧の手入れをしてくれて、正直ちょっと、うっとうしかった。
後で、テッサリア王が話してくれたところでは、ボアグリアスには老いた母親と幼い女の子がいたそうだ。妻は数年前、疫病で死んでいた。
「家族の面倒は、残された仲間たちがきっと見てくれるだろう」とテッサリア王が言った。「彼らの身代わりに死んでくれたようなものだから」
彼が私の心を慮って言ってくれたのだとしたら、おかどちがいだ。ボアグリアスの家族のことなど、私は気にしていなかった。

私は殺した者たちのことはよく考える。夢にも見る。
なつかしく、いとしい、自分自身のものを見るように。
彼らが、家族のような気がする。
アガメムノンが、この世の人間たちを自分の回りにかきあつめて王国を作るように、自分はそうやって、殺した死者たちの国をあの世に築こうとしているようだ。

だが、残された者たちのことを考えたことはない。
生きている者たちは皆どこか、私にとってはどうでもいい。
それが、生きている内に、こんなに熱く、激しく、宙を伝ってその存在を私に伝えて来る者は珍しいどころか、初めてだ。
トロイの王子、へクトル。
彼もまた、私と同じ巨大な底知れぬ闇を、心のどこか奥底に抱えているのではあるまいか。
彼もまた、私のように、生きながら死んでいるのではあるまいか。
愛と秩序と、人としてとるべき道に、からめとられて。

メネラオスの妃を奪い、トロイの都とこの世の平和の破壊を導いた、彼の弟。
その弟は彼にとっての最大の弱点で危険なものであったと同時に、この世における彼の唯一の救いだったのではあるまいか。
彼を守り、かばいつづけ、支えることで、へクトル自身が何よりも救われていたのではなかったか。
本当に珍しい。
生きている人間が、これだけ私にものを考えさせるのは。
姿も、顔も、声も知らない。
だが会えば、一目で彼がわかる気がする。

∞∞∞

次の日の朝、珍しく、海辺は霧に包まれていた。
薄紫のヒヤシンスが咲き乱れる丘の草の中を歩いて行くと、霧にひっそりとぬれて従弟が立っていた。
濃い藍色の衣が、すらりとした身体にまつわって、ほとんど黒い色に見え、片手に木剣を無雑作に下げてたらした、手足の白さと金色の髪が、涼やかに霧の中に浮かび上がって見えた。
ここに来てから彼は少し背が伸びたのではないかと思った。まだ本当に若い。ほんの子どもだった。

私の近づく気配を感じて、彼がふり向き、ほほえんだ。
「決めたの?」彼は静かな明るい声で聞いた。
私は答えず、歩みよって彼の肩に手をかけた。
「おばさまには話した?」
「昨日な」私は霧に閉ざされた海の方を見た。「トロイに行けば後々まで語り伝えられる名声を得るが、おれは死ぬ。ここにとどまれば、いい娘と出会って結婚し、子どもや孫に囲まれて幸せな一生を送るが、死後は誰からも忘れられるだろう。母はそう予言した」
従弟は静かに向き直り、私の腕に手をかけた。
「その予言を、信じるの?」
「まさか」私は吐息をついた。「テッサリアに行く時も似たようなこと言われたんだぞ。その前も。おれが無事で帰ってきたら、母は忘れたような顔をしてた」
従弟も笑いながら軽い吐息をつき、私の肩に額をつけた。
「おばさまも、したたかだね」そしてしばらくしてから言った。「どっちを望んでおられるんだろう?」
「多分、母にもわかってない」
「それで結局、どうするの?」
少しづつ、霧が晴れはじめている。私は彼のあごを指でつまんで持ち上げた。
「トロイに行きたいか?」
「あんたは行きたいんだろう?」彼は笑った。「名声とかが目的じゃない。トロイの王子に会いたいんだろう?」
私は黙っていた。何を考えていたのだろう?自分でもわからない。
「そいつは幸福だと思うか?」私は聞いた。
彼はじっと私を見、答えを知っているように利発そうに目を輝かせ、首をかしげた。「さあ?」
「そいつを解放してやりたくないか?」私は彼のその目をのぞきこんだ。「美しい妻と、かわいい子どもから。救い出してやりたくないか?正しいことしかできない、まっとうな人生から」
「どう言って彼を誘い出すの?」真剣な顔で従弟は聞いた。「いっしょに遊ぼう!では、きっと無理だ」
「まずは、そう言ってみよう」私は言った。
「一か八かだね」彼はつぶやいた。「そうやって僕たちが彼を連れ出せるのか、それとも…」
「それとも?」
「あんたが連れこまれてしまうか。彼の世界に」
「どんな世界に?どうやって?」
「まっとうで、優しい、暖かい世界だよ。どうやってかは知らないけど」彼の目が厳しく、静かになった。「でも多分、そこにはもう、僕はいない」

かすかな風が吹いてきて、彼の衣と髪がゆれた。ゆっくりと私から離れて、彼は霧の中に隠れて見えない海の方へと数歩歩いた。
「どっちみち、彼とのことがどうなっても、あんたはその内僕を忘れる」高く頭を上げたまま、彼は海の方を見ていた。「きっといつか、僕より大切な人ができる」
「予言か?」私は笑った。
彼は手にした木剣を、ふざけて軽く私にあてた。「そしてきっと」と彼は言った。「あんたは幸せになる。たくさんの子どもや孫に囲まれて年をとって、僕のことなんかもう思い出さない」
「おまえはその時、どこにいるんだ?」彼の剣に手をそえて、取り上げながら私は聞いた。
「わからない」彼はまた海の方を見た。「でも、あんたがそうやって幸せだから、僕だって幸せだ。それだけはわかっている。どこにいても。何をしていても」
私は剣を宙に放って受けとめながら、考えこんだ。彼と同じぐらいにきっぱりと、自分にも彼にも信じられるような口調になるよう注意しながら、口を開いた。
「おれが、どんな世界を作るにしろ、そこには必ず、君がいるだろう。誰と、どんな幸せを築くにしても、おれと同じぐらい幸せな君を、その同じ世界のどこかに、きっと住まわせてみせる。おれは、おまえをおいて行かない。おまえを決して一人にはしない」
「無理だ、アキレス」彼は笑った。淋しげなところの少しもない、さわやかな涼しい声で。「僕はトロイの王子の世界には住めない。あなたがそこに行くのなら、僕はどこかへ去るしかない」
「そんなことが、なぜわかる?」

彼は私のかたわらに、そっと、まるで蝶が羽を休めるように優雅なしぐさで腰を下ろす。「こんな時間は長くは続かない」と彼は言う。「夏の日の森で、雷が鳴って夕立がふり出すように、きっと突然終わってしまう。あなたが今とちがう何かになってしまったら、僕はもう、あなたといっしょにはいられない」
私は突然笑い出す。「なぜおれたちは、こんなことを話してるんだ?戦う前から、負ける話を?お固いトロイの王子さまを、おれたちの世界にひっぱりこんでしまえばいいんだろ?そして死ぬまで、いっしょに遊んでやればいい」
「あんたの魅力で」従弟はいたずらっぽく笑う。「彼を連れ出せるんだろうか?」
「おれの魅力ではない」私はきっぱり言う。「死と、血の魅力だ。自由と孤独と戦いの魅力だ。何かのための戦いじゃなく、戦うために戦う楽しさの魅力だ。そいつが優れた戦士なら、絶対にその味を知っている。何かを守るためじゃなく、おれと戦うことをめざして、そいつが突進してきたら、勝負はもう半分終わったも同然だ。何よりも、そいつ自身がそれを知る。自分の中にいる獅子を。自分をつき動かしている本当の力を」
「最高だ」彼は静かに言う。「完璧だ」

私は顔をしかめて彼を見る。「信じてないな?」
彼は強い目で私を見返す。「信じたい」
そして彼は深く息をついた。
「もしもあなたが…僕たちが…あなたと僕がヘクトルに勝つとしたら…僕たちも、ギリシャを愛することが必要なのじゃないだろうか。アガメムノンのギリシャをじゃなく、僕たちやオデュセウスのギリシャを。そこに住む人たちを。木々を、海を、生きものを」
彼はいちずなまなざしを私に向けた。
「だってへクトルはきっとそうやって、トロイを愛しているのだろうし、それだから彼はトロイに愛されている。大地を通して、そこに生きるすべての命が、彼を支えているのだと思うもの。そこから彼をひきはがすことが、僕たちにできる?誰かにできるのか?」
私は首をふる。
「アガメムノンのギリシャを愛するのなど問題外だし、彼に支配されて抵抗できないギリシャも、おれは愛せない。オデュセウスも、ネストルも…」
「あんた自身も」ひっそりと従弟が言う。

朝の風が霧を吹き払いはじめている。
まばらに残る霧の中に、私は突然立ちすくむ。
従弟に言われるまでもなく、心のどこかでわかっていた。
今、へクトルを再び感じた。
私を見つめ、見守っている彼を。

私は片手で顔をぬぐう。いもしない羽虫をたたき落とすように宙に手をふった。
彼が助けを求めていたと?私に解放してくれと?
甘いにも程がある、と自分を笑った。
人づてに伝わる彼の生き方そのものが、私自身も気づかなかった私の生き方の弱さや嘘をあぶり出して私自身にさしつけ、すでに従弟に影響を与え始めた。
戦いはもう始まっている。

男として、一人の人間として充全に生きながら、しかもその幸福をなげうっても守りぬくもの、自らを捧げるものを彼は持っている。
その豊かさと正しさと、完璧なまでの調和。
剣の腕はどうであれ、負けるかもしれない、と私はその時実感した。
それは少しも不幸には思えなかった。
彼の剣か槍でとどめをさされて、私のいびつにゆがんで、自分でも収拾のつかなくなった人生は終わる。
薄れつづける霧の向こうに、宝石のように海が輝く。
花の香りがむせるように甘い。

「死神を抱きたいな」私は口笛を吹いて、ひとり言を言った。
従弟がふしぎそうに私を見た。
「殺されるとわかっていて、抱きしめたい」私は言った。
人を殺しつづけ、自分に自信がなく、神にも人間にもなれず、そのどちらも愛せない、こんな私を許さずに、私が自分を憎む以上に私を憎んで殺そうとしてくれる、誰か。
そんな私でも、私が何とか自分を愛してきた以上に私を愛してうけいれて、許してくれる、その同じ、誰か。
男でも、女でもいい。
トロイの王子でも、他の誰でもいい。
刃を胸につきつけられて、それでも相手を抱きしめられたら。
それほど相手を信じられたら。
「それでもし、私が殺されずに、相手が私をうけいれてくれたら」
私はことばをのみこんでしまう。
そのあとのことを何も私は予想できない。

( 五月のピティア ―若い従弟― ・・・・・終 )

(「三幅対」・・・・・ 終   2004.7.25.21:25 )

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