三幅対第四章

2 四月のスパルタ ―メネラオスの日記―(その4)

4月27日

妃との会話のこともあって、何とはなしに気がめいり、しばらくこの日記を書かなかった。
その分ということもないが、今夜は長い文章になりそうである。

今宵は二人の王子たちとの別れの宴であった。和平交渉はうまく行き、私も満足して快く酔った。
宴席を好まぬ妃は早めにへやへひき上げたので、いつものように私は踊り子たちと遊んだ。これが妃ならというものたりなさと、いや妃にはこういうことはしてほしくないという思いとに交互にひきさかれながら、彼女たちの豊満な肩を抱きしめていた。
ふと気づくと兄王子が杯を手にしたまま、ほほえんでこちらを見ていた。私は彼を招き寄せ、「弟君はどうした?」と聞いた。
「少し気分が悪そうだったので、寝にやりました」彼はすみませんというように、軽く頭を下げ、憂いをふくんだまなざしを気がかりそうに曇らせた。「来る時もかなり船に酔っていましたし、今夜は早く寝させた方がいいのかと」彼は言いわけした。「もともと酒には強くない方なのです」
「あなたはそうではなさそうだ」私は踊り子に命じて彼の杯に新たな酒をなみなみとつがせた。「やれやれ、しかし、あなたは彼をあまり大事にしすぎてはいないか?」
「トロイの国中が彼を甘やかしていますから、私一人が厳しくしても、とても太刀打ちできません」彼は笑って杯をほした。
「それも、あなたがいるからだろう」私は彼の鎧の胸を指で突いた。「だから皆が安心して彼を甘やかす。あなたが消えれば否応なしに、周囲も彼に期待せざるを得んだろう」
彼は黙っていた。
「私の兄もそうでしたが、偉大な兄というやつは、弟にとってはやっかいなものでしてな」
「おどかさないで下さい」彼は笑ったが、どこか沈んだ表情だった。
彼を落ちこませてしまったらしいので、何とか陽気にしてやらねばと、私は膝にのせていた踊り子を下ろして、彼の腕をとった。「お見せしたいものがある。ちょっとこっちに来ませんか」
彼は驚いたようだが黙って私に背中を押されるままに広間を出た。

岩を削った階段を上がって、海を見下ろす崖の上にくると、風が私たちの髪をなぶった。彼はさりげなく剣帯をひきよせたが、さほど心配している風ではなかった。おそらく相当に腕が立つので、いざとなれば私を人質にできるとふんでいるのだろう。そして、海を見下ろすと息をのむようにしてから声をあげて感嘆し、杯を手にしたまま、岩の上にしゃがみこんだ。「やあ、ここはいいながめですね」
「入り江が一望できるだろう。だが、それだけではないぞ」私は酔った勢いで彼の肩をこづき、眼下の岩かげを指さした。「見えるかね?妃は侍女たちといっしょに、あそこでよく泳ぐのだよ」
「はあ?」何のことかわからなかったらしく、彼はきょとんと私を見上げた。
「生まれたままの姿で」私は声をひそめた。「その美しさといったらない。まるで女神だ。今夜もあるいは…と思ったのだが、残念だった」
彼は当惑と混乱の入りまじった表情で、どういうことか理解しようとするように、あわただしく眼下の岩かげや私の顔に目をやっていた。そして、次第にのみこめてきたのか、あっけにとられて私をしばらく見上げていたが、ようやく確信できたのらしく、声をあげて笑い出した。それこそ身体を二つ折りにして涙を流さんばかりに笑いこけた。あまり大声で笑うので、誰かに聞こえないかと心配になって、私は何度か彼の背中をどやしつけなければならなかった。「静かに!静かに!」

「こんな話は聞いたことがない」彼は杯を持っていない方の手で顔をおおって、笑いに声をとぎらせながらやっとのことで言った。「それではあなたは、一国の王でありながら、自分の妻の裸の姿を、ここからこっそりのぞき見されているのですか。なぜまた、どうして、そのような」
「そんなことをする男だと思われたくないからだ」私はとまどいながら言った。
「答えになっていませんよ」
「つまり、私がそんなものを見たがっていると思えば、妻は私をさげすむだろう」
「そうですか?」彼は私を見つめた。「喜ばれるのではないですか」
「冗談はよしたまえ」私は少し腹をたてた。
彼は笑いを消していた。「あなたって人がわからない」と彼は言った。「第一、トロイとちがってこの国では、人はもっと豪快で、裸もそれを見ることも恥ずかしがったりはしないと思った」
「妃はこのへんの女とちがう」
「そうですか?」彼はまた言った。「どこの女であれ、夫が自分の裸を見たがるのを喜ばない女などいないと思いますが」
「君の夫婦生活がしのばれるな」私は憮然として言った。「そういうことをいやがる女もいる。少なくとも王妃はいやがるかもしれない。私がそういう男だと知れば」
「裸を盗み見しておられるのを知られようと知られまいと、あなたがどういう男なのか、お妃さまはすでにもう、ご存じなのでは?」
「私は自分がどういう男か、妃に知られたくはない」私は言った。「その前に、妃がどういう男を望むかを知って、そのような男になりたいのだ。むろん、限界はあるにせよだ」
彼は驚いたように私を見つめていた。「なぜそんなことを?」と彼は本当にふしぎそうに言った。「あなたは魅力的な方だ。男の私の目から見ても」
「君と妃の男の好みが一致しているといいがな」私は皮肉っぽく言った。「おそらくそうではあるまい」
彼は岩に背中をもたせてよりかかった。「お妃さまには今夜初めてお目にかかったので、よくわからないのですが」彼はしばらく考えていてから言った。「少なくとも私の妻なら、あなたの魅力はわかるでしょう。私よりも魅力的だと思うかもしれない」
わけもなくこみあげてくる笑いの渦を今度は私が押し殺す番だった。「本当か?それは君には困ったことだな」
「あなたがわが国を訪れて妻と会われては困るから、和平交渉をぶちこわそうかと時々本気で考えていた」
「冗談だろう?」私はあきれた。
「冗談ですよ」彼は言った。
もしかしたらこの男は、私の兄やプリアモス以上にしたたかで食えない国王になるのかもしれないと、私は月光の中でこちらを見上げた彼のいたずらっぽい笑顔を見て思った。

この調子で書いていては、朝まで書いても書きつくせまい。パピルスも残り少なくなってきている。
だが、あと少しどうしても書いておきたいことがある。

「もう、今ならかまわないと思うが」私は聞いた。「この国の率直な感想を聞かせてほしい。トロイの都と比べたら、荒々しくて野蛮だと感じたことはわかっているが」
彼は空になった杯を指の中で回していた。「あなたに似ていると思いました。卑俗で乱暴だが、誠実だ。古めかしいようでいて、新しい。あと…これは少し、いや大いにふしぎなことなのですが、ここに来て、ここで過ごしている間中、私はトロイにいる時より、神々をずっと身近に感じました」
「またからかうのかね」私は言った。
彼はむしろ驚いたように私を見た。そういう時の軽く目をみはった無邪気な目つきは、はっとするほど弟王子とうり二つだった。「いいえ」と彼は首をふった。「本当です」
「トロイの都の信仰深さは有名だろう。神殿だらけで、神官だらけ、儀式づけの毎日だとか」
「だからこそ、あの都では神々を感じられなかったのかもしれません」彼は言った。「この地には神殿も神像も少なく、神々のことなど人々はほとんど話しませんが、だからこそ私は息がつけました。ここでは神々が自然に存在しています。だから、幼い時以来初めて、神々のことをずっと考えていました。妻のことは忘れても」
「奥さんのことを忘れようとして、神々のことを考えていたのではないのかね?」
「ちゃかさないで下さい」だが彼は笑っていた。「とにかく、ずっと長いこと忘れていた神々に、思いがけなくまた会えたような気がしたのです」

「トロイの人間に会ったらぜひ聞きたいとずっと前から思っていたが」私は言った。「神を見たことがあるのかね?」
彼は黙っていた。「いえ」としばらくしてから言った。「でも、声を聞いたことはあります。私を呼んでいた。まだ子どもの頃です。夢の中で。でもなぜか私はその夢の中でもう大人でした」
「晴れがましいことだな」私は素直にそう思った。
「そうでもない」彼は小さく吐息をついて笑った。「行けば殺されるとわかっていた。いけにえの動物のように」
「それはまた、どうしたことだ」私は驚いて聞いた。
彼は杯をもてあそんでいた。「多分、動物が好きだったから、儀式の時に牛や羊が殺されるのを見ていると、ついそんな気になったんだろう」彼は言った。「私が彼らが殺されるのを見て悲しがっているのに気がついたのは母だけで、一度私にこう話した。あの動物たちは満足している。自分が殺されることで神の怒りがやわらげられ、この世が救われることを知っているから、と。私は納得しなかった。それじゃなぜ、あんなにいやがって抵抗するのかと聞いた。すると母は、それは生きているものが死ぬ時の作法なのだと説明した。この世に別れをつげまいとして、必死に戦うのが、しきたりなのだと。それでも彼らは死ぬことに満足していて、悔いはないのだと」
私は吐息をついた。「それにしてもだ、いけにえの動物と自分を重ねて考えている王子なぞ、見たこともないぞ」
「そうかな?」彼は笑った。「国が敗北したり、人質にとられたりしたら、王子や王女はまっ先に勝利や追悼の儀式では殺されて焼かれるんですよ」
「それはそうでも、ふつうはあまりそういうことは考えん」
そう言ってから私は彼が和平交渉の時、いつも敗北や滅亡など、最悪の場合を頭において話をしたのを思い出した。
「悪いことばかり考える性格だと奥さんに言われたことはないか?」と聞いてみた。
彼は目をそらしながら苦笑した。「部下からはよく、苦労性だと言われた。だが、それはしかたがない」彼はちょっとためらってから思いきったように告白した。「トロイの人間は皆、人がいい。見ていて恐いほど、悪いことを考えない」
「神々に愛されていると思っているのだな」私は言った。

「なぜそんな風に思えるのかと、いつも思う」彼は言った。「神々はいつだって残酷で理不尽で気まぐれなのに。わがままで弱く、自分でも支えきれない大きな力をいつももてあましてあえいでいるのに。それを誰にもわかってもらえないことをよく知っているから、孤独で淋しくてたまらないのに。それでも彼は、周囲の人間の愚かさを許して、耐えて、優しくあろうとしているが、その心は純粋で美しい分、傷つきやすくて、いつでもこわれそうなほどもろく、狂う寸前だ。神であるとは、そういうことだ」
私は兄を思い出していた。いつも陽気で楽しげで、自分を悪く見せることが大好きな彼のことを。
「ささやかなものに彼はなぐさめられる。ヒュアキントスを愛したアポロや、アドニスを愛したアフロディテのように」王子は続けた。「だから、それを失うと、たちなおれない。偉大な力ほど、ささやかなもので支えられる。それを奪われると神は狂う。凶暴になり残酷になり、あらゆる厳しい罰を人間に与えようとする。彼はいけにえをさがす。狂ったように。もしもそれを人間がうけとめてやらなかったら、神はもう神ではなくなる。それは災厄となり恐ろしい怪物となって、この世界を破壊しつづけるだろう。愛する娘を奪われて涙で地上の作物をすべて枯らした大地の女神デメーテールのように。だから、そうなった時は、敵も味方も関係なく、人間ならばそんな時、それぞれにできるやり方で、彼の怒りをうけとめてやるしかない。なぐられ、蹴られ、傷つけられ、殺されて、神の怒りを鎮めてやるしか、この世を救う道はない」
「何とまあ」私は言った。「そんなことをしたら神はつけ上がりはしないだろうか」

半分冗談で言ったのだ。だが彼は微笑んで首をふった。
「人間ならばそうでしょう」彼は言った。「けれど神なら、そうはならない。こちらが逃げないでうけとめてやれば、彼はやがて我に返る。そして悲しみ、後悔し、再び神に戻れる」
「やっかいな相手じゃないか」
「そうですね」彼はため息をつき、海を見た。「できれば死ぬまで会いたくないな」
「だが、呼ばれたら出て行くのだろう」
「会ってしまえば、しかたがないから」ひとごとのように彼は言った。「ただの人間にできることなんて、しょせん、そのくらいしかない。神を絶望させないことしか」
「世界をほろぼされてはかなわんしな」
「それもあるんですけどね」彼はふっと肩を落とすようなしぐさをした。「世界とは関係なく、私は神を絶望させたままにしておくのが、きっと耐えられないんじゃないかな。そんなに偉大なものが、そんなに苦しんでいるのが何だかとても哀れでならない。見ていられない」
「だからって殺されに行くのか?」
「死ぬことぐらい!」彼は低く激しく言った。「本当の苦しみや絶望は、何かを失ったことじゃない。そのことについて恨む相手、呪う相手、怒りをぶつける相手がどこにも見つからないことです。誰が悪いわけでもなく、誰も責任をとってくれない。目の前の壁はただ高く、誰の顔も見えず、声も聞こえず、問いかけても呼んでも何の答えも返らない沈黙。それほど恐ろしく悲しいものはこの世にない。そんな大きな悲しみをたとえ神にでも人にでも、私は絶対味あわせたくない」
「それでどうなるのだ」私は聞いた。「神の怒りをうけとめて、君が残酷に殺されて、それで何かが変わるのか?その先に何があるのだ?」
「ささやかなものを失っても大きい神の怒りは、同じくらいささやかでも全力をつくしてうけとめれば、きっと鎮まります。遅かれ早かれ神はきっと我に返る。そして誰も知らなくても一人で涙を流す。私には神が闇の中で泣く声が聞こえる。苦しみからときはなたれて、悲しみの涙を流すことがやっとできるようになって、弱さをあらわにできるほど強くなった、あたたかい、やさしい泣き声が。それを本当に耳にすることのできるのは、いけにえになって殺された者だけで、それが母の言った彼らの幸福と満足なのかもしれません」
「人間はそれほどに強いのだろうか」私はつぶやいた。「神の強さを支えられるほどに。神を救って、よみがえらせるほどに」
「そう思わなければ少なくとも」王子は言った。「私は生きていけません」

宴の名残りのざわめきも次第にかすかになってきているようだった。私は立ち上がり、王子に手をさしだした。彼も立ち上がり、固く私の手をにぎった。
「会えて、話ができてよかった」心から私はそう言った。
「私もです」彼も私を見つめ返した。
「よい航海を祈るよ。堂々の使節ぶりであったと私からの言葉をお父上に伝えることを忘れないでいただきたい」
「私もまた、一刻も早く帰って父に伝えたい」彼は言った。「両国の間の和平の確立と、このたびのあなたの歓待、我々に示して下さったご厚意の数々を」
私たちは岩の上で最後にまた抱き合って友情を誓い、肩を並べて広間へと戻って行った。

4月28日

窓の外が白んできた。一睡もせずにこの日記を書きつづけたことになる。

私は今日、妃と会って、いろいろなことを話そうと思う。
どんなに彼女を愛しているか、彼女のために役に立ちたいと思っているか。
この前の夜、聞かないままにしてしまった彼女の話も、今度こそゆっくり聞きたい。彼女の怒りや悲しみを理解したい。
戦いが終わって、平和になるのだ。
もう、いろんなことに目をつぶっていてはいけない。
時間はたっぷりとある。話しあい、考えるための。そして、二人が愛しあうための。

私はいつも、嵐の翌朝の浜辺が好きだった。沖のかなたまで空は晴れわたり、ちぎれて飛ぶ雲の下、ひとで、桜貝、みる、砕けた船の残骸など、さまざまなものがいっぱいに砂浜にうち上げられて、それを白っぽくあわ立つ波が洗ってゆく。
そんな朝の風景のような、荒々しく生き生きとした何かが私の胸の中に広がる。
美しいふしぎな嵐のように二人の兄弟は訪れて去り、見知らぬ心躍る風景を私の中に残して行った。弟の無邪気さと、兄の深い覚悟とが、私の中の何かを変えた。失っていたものがよみがえったのか、あるいはこれまでなかったものが生み出されたのか。
時間はかかるかもしれない。私は頭がよい方ではない。心もすなおな方ではない。
それでも妃を愛している。愛するからには理解したい。そこから私の力が生まれる。
こんな男にも、きっと何かができる。

私が何より恐れることは、妃を失ってしまうことだ。
そのことを、妃をおびえさせないでうまく伝えることがどうしたらできるのだろう。
そして、妃がもしも私を憎んでおり、私から離れたいと願っていたら、あるいは私のいない方が彼女は幸せになるとわかったら、彼女を手放す勇気が自分にはあるのだろうか。
私にはわからない。自分にそんなことができるか、それが愛と呼べるのかも。
今のところは到底そんな気になれない、なれそうもない、と言っておこう。
だが、もしももっとよく話せば、私への憎しみや恐れも含めて彼女の心をよく理解できたら、たとえ彼女と別れても、もう一人の彼女を、あるいは彼女の一部分を、たしかに私は手に入れることができるように思う。それが彼女の心と言ってしまってもいいのかどうかわからないが、そうやって一人の人間を理解し、その心を手に入れたら、その人間の身体と別れ、その人間の心も他人のものになっても、私の手もとに残された彼女の心も、それはそれで本物で、それは永遠に変わらないもののようにも思えてくる。

しかし、とにかく彼女と話がしたい。
私のことを、知ってほしい。
彼女にだけは、すべてを。
もう、彼女から目をそむけたまま、彼女を愛するのはやめよう。
自分をかくすこともやめよう。
この力が自分の中から失せない内に、すぐに妃と話をしたい。
彼らの船が出たら。
館で二人だけになったら。

( 四月のスパルタ ―メネラオスの日記― ・・・・・終 )

3 五月のピティア ―若い従弟―(その4)

∞∞∞

「笑っちゃうよね」と彼が言う。
その生意気でしかつめらしい口調がおかしくて、編んでいたサンダルの紐の手をとめないまま、私は聞き返す。「何がだ?」
「エウドロスたちに、あんたが演説してるとき。えらそうに。自分でも信じてないことを」
私は手をとめて宙を見つめる。「何と言ってたっけ」
「そら、やっぱり!」彼は信じられないといったように、まっすぐに怒って私をにらむ。「だろうよね。わかってたよ。ちっとも心がこもってなかった」
私は手首で額をぬぐい、ぼんやりと小さく笑う。
「ちょっとだけ思い出したぞ」私は言う。「海賊を追っ払うのに出撃した時、皆にがんばれと言ったあれか」
「あれはまあ、よかった」彼はすらりと伸びた若い樫の木によりかかって、後ろ手に木の幹を抱いて身体をそらせながら、えらそうに批評する。「でも昨日、新しい兵士が加わった祝宴での歓迎のあいさつと言ったらもう、ひどかった。何であんなたとえ話をしたのかわからないよ。牝牛が水を飲む話なんか、あそこで何の関係があったのさ。意味もつながらないし、冗談にもなってないし」
「皆、大笑いしたぞ。立派にうけてた」
「あんたが先に自分で笑ったから、皆も笑わせたいんだってわかったのさ」彼はうつむいて首をふる。「あんないい人たちに、あんなに気をつかわせて。ひどいよ、あんた」
「何がひどいんだ?」私はため息をついた。「別におれが話したいわけじゃない。何でもいいからああいう時は何か一言言って下さいって、たのんできたのはエウドロスだ」
「いいけどね」あきらめたように彼は言う。「ああいう時に彼らに言うことって、あんたほんとに何もないの?自分の中に持ってないの?」
「なきゃいかんのか」私は指の間で皮紐をしごく。「どうせ人殺しだ。きれいな言葉で飾ったって、やることに変わりがあるもんか」
「じゃあんたはなぜ人を殺す?なぜ戦う?」
私は目を上げ、考える。「身体がなまる」そう言ってまた、仕事に戻る。
彼は私に木の実をぶつけ、私は顔をそむけてよける。

「しいて言うなら、この世に何か、生きた証しを残したいのか」私は紐を編みながら言う。「おれがたしかに存在したと、誰かに覚えていてほしい。おれの身体が塵になって虚空に消えてしまったあとも。ずっと後の、おれを見たことのない世界でも」
「人を殺すことで?」
「他のやり方を知らない」
彼はしばらく考えていた。
「僕は名前なんか残したくない」やがて彼は草の中に座り込み、投げ出すように身体を倒して横たわりながら、歌うようにそう言った。「あんたがどうして、そんなことに、そうこだわるのかわからないな。他に楽しいことってないの?ほしいものとか?」
私は笑い出した。
「あんたは神々をうらやましがってるの?神々がきらいなの?」彼は無邪気に寝返りをうって私を見上げた。「自分は本当は神になれたのに、何かのまちがいでなれなかったってコンプレックスがあるのかな?」
「なぐるぞ」私は言った。
本気でないのはわかっているらしく、彼は平気ではらばいになるようにして身体をのばし、私のひざに手をかけてきた。
「僕は永遠に消えてしまってもいい」彼は昂然と言った。「そんなこと少しも恐くない。あんたが生きている間だけ覚えていてくれたらそれでいい。いいや、あんたが悲しむんなら、僕のことなんか死んですぐ、忘れてしまってくれて、少しもかまわない」
「淋しくないのか?誰にも思い出してもらえず、暗い虚空にひとりぼっちで」
「おどかしたってだめだよ」彼は私を見上げて笑った。「僕は恐くない」そして挑戦するように私を見る。「あんたは恐いのか?」
「誰が、神々がか?」
「孤独が。暗い虚空の中の」
私は顔を上げ、少し荒れ模様の空を見る。
彼はそれ以上、何も言わない。

まぶしい光は嫌いだ。明るい白色の闇は私を盲目にする。
まだ、暗闇の方がいい。あたたかい、深い暗がりに抱きしめられている方が。
だが、暗い虚空とは、それは、どういうものなのだろう?初めてそれがどんなものか、私は考え、感じようとする。
どこまでも広がる暗黒。誰もいない。それは別に問題ではない。
そこに彼がいないのなら、子どものように私は恐い。
彼が一人でそこにいるなら、そんなことを私は許せない。
黙っていつまでも私が空を見ていると、彼はそれまでの話を忘れたように、ごそごそと起き上がって、藍色の衣のすそをひざの回りにたくしこみながら、両ひざをそろえて曲げ、細い肩を私に、もたれかかるように寄せる。
「嵐がくるね」空を見上げて彼が言う。
「そうだな」と私は答える。

私はよく、一人でここにこうして座って、嵐の空を見ていたはずだ。
なのに、その時のことをもう思い出せない。
彼の華奢な身体が私の肩に軽い重さでよりかかり、長いさらさらの髪が私のほほをあたたかくくすぐり、衣を通してその身体のかすかな息づかいが伝わってくる。
それがなかった日々のことを、私はもう思い出せない。
同じように彼がいなくなったらいつか私は、こうやって彼がそばに座っていたことも忘れるのか。
突然耐えられなくなって、私は手にしていたものをすべて脇に投げ出し、彼を抱き寄せる。
「いなくなるな」と、その耳にささやく。
彼は黙って、答えない。

∞∞∞

草の中にヒヤシンスの花が咲き乱れ、沖から吹いてくる風は少し強いが心地よい。剣の練習の合間に私たちは、このごろこうして二人で花の中に座って、日が高く上るにつれて、薄く緑色がかった海が次第に強い青に変わって行くのを見る。
「アガメムノンってどんなやつ?」と彼が聞いたのは、そんな花の香りと波の音の中だった。
誰のことかとっさに思い出せずに、彼を見返していた。他の者ならそんなことは思っても見なくて気がつかなかったかもしれないが、彼は気づいた。あきれた色が目に浮かんできて、それと同時に思い出した私が「あの豚野郎か」と言った。
彼はまじめに私を見つめ、「豚野郎なんて言いたくなるような相手のことは、ふつう覚えておかないかなあ」とつぶやいた。「時々、あんたがすごくバカなんじゃないかって思ってしまいそうになる…そうじゃないって知ってるからいいけど」
私はちょっと間のぬけた、当惑したにやにや笑いを浮かべてみせる。彼を怒らせるのは楽しい。彼にあきれられ、愚か者扱いされるのは楽しい。
「あいつのこと、きらいなの?」彼は聞く。
このごろ彼はときどきこうやって、私のことを、取調べでもするような調子で聞きたがる。私も神妙に訊問に答える。「うん」と素直に私はうなずく。
「嘘つけよ」彼はため息をついて、私のひざにもたれかかる。「覚えてもなかったくせにさ」
「思い出したら、きらいだった」
「だから、その程度か?」
私は彼の髪のはしを、指先にからめてはねる。「だいたい、やつの名前なんかどこで聞いてきた?」
「エウドロスたちが言ってた」彼は私を見上げた。「ミュケナイの王で、ギリシャ諸国の王たちを従えているアガメムノンは、あんたのことが大きらいだって」

「らしいな」私は草の中に肩ひじついた。「なぜそんなに嫌われるのか、よくわからん」
「あんたは嫌いなんだろ?」
「おれは嫌いだけど、あっちにそこまで嫌われる理由がよくわからん」私は言った。「おれがあいつに何をした?何もじゃまなどしていない。どころか、手助けしてやっている」
彼はしばらく考えていた。「言われてみれば、そうだよね」
「アルカディア、テッサリア、あいつがどこかの国に攻めいっちゃ、同盟と称して自分の属国にし、宝物や土地をまきあげようとするたびに、おれは呼び出されちゃ、手伝いに行った。一人の時も、エウドロスたちを連れて行ったこともあったが、何はさておき、協力はした。いろんなやつに泣きつかれてな。ネストルとか、オデュセウスとか。手際の悪い戦いがだらだら続いて、死体の山が増えるのは見苦しいから」
従弟はちょっと吐息をついた。「あんたがきれい好きとは知らなかったな」
「家が散らかっているのなんかどうでもいいんだが」私は言った。「戦場が汚いのはいやなんだ」
「そんなもんなの」彼は言った。「どうかと思うよ」
「とにかくそうして、いつでもとっとと片づけて勝利をもたらしてやったのに」私はふざけて、わざとちょっと哀れっぽい口調で言った。「それで嫌われちゃ、わりがあわない」
「アガメムノンって、どういうやつ?彼の望みって、結局、何?」
「知るか」私は顔をしかめた。「ギリシャを統一したいんだろ。おれの知ったこっちゃない」
「統一したら、平和がくるのかな?」
「来るかもしれんが、あいつが上に立つ平和じゃな」私は言った。「あいつは人が自分の言いなりになるのが好きなんだ。特に、すぐれた人間がな。ちやほやされて、皆が自分の顔色を見て、自分の目の届くところに集まってきていてほしいのさ。物でも、人でも、土地でも、自分のものになれば、あいつは愛する。なでさすって、抱きしめて、ほほずりして愛する。しかし、自分のものでないものは、あいつは決して愛さない。手に入れられなかったら、存在するのも許さない」
彼はしばらく黙っていた。ぴくりとその眉が動いたのを見て、私は彼が嫌悪を感じていることを知った。「そんなやつに、なぜ皆ついて行くんだろう?」と身体をよじって私を見上げながら、彼は聞いた。

「ほとんどのやつは、誰かのものになりたいのさ」私は彼のつややかな髪を手のひらでなでた。「その方が安心だからだ」
「わからない」彼は言った。
「ああ。おれもわからない」私は彼の肩に手をおいた。「だが、とにかく、そういうやつは多いし、そうでないやつでも、彼のものにならなければ滅ぼされるとなったら、それは従うしかない」
彼の身体が小さくふるえた。恐怖ではなく、怒りから。
「最低じゃないか」彼は言った。「醜悪だ」
「ああ」私は言った。「だが、それが世の中だ」
今度は演技をしたつもりはなかった。そうではなくて、ひとりでに自分の声にこもった疲れと、言っていることの自分らしくなさに、私は自分で驚いた。彼の前だと、私は愚かな子どものふりをしたり、人生に倦んだ老人のふりをしたりしてみたくなるのかな、と心のどこかでちらと自覚した時に、鞭のように私の腕の中で、彼の身体がたわんで、はねた。彼は飛び立つように立ち、怒りに目を輝かせながら私の前にすっくと立ったと思うと、荒々しく身体をかがめ、その少年のような長い指の細い手で、私の両肩をわしづかみにし、歯と歯がぶつかって鳴るほど強く、いきなり私に口づけした。
「僕は、あなたのものになどならない」激しく、誇り高く、昂然として彼は言った。「誰のものにもならない。だからあなたも、誰のものにもなるな!」
私は呆然と彼を見上げた。
「誰を愛してもいい。誰のために戦ってもいい」彼は叫んだ。「だが、誰のものにもなるな!」

私が子どもなら、その時私は成長した。私が老人なら、その時私は若返った。彼のことばと、しぐさとが、何の告白であれ宣言であれ、それは私たち二人の間に、いかにも似つかわしいものだったと思う。
私は彼を見上げて一言、「誓う」と言った。
身体の両側に下ろした両手のこぶしを強くにぎりしめたまま、私の前にまっすぐ立っていた彼は、その時、目に見えない何かに挑むように半身をねじって、沖の方へと身体を向けた。厳しい鷹のような目で、全身に怒りをみなぎらせたまま、彼はいつまでもそうやって、まるで何かから私を守ろうとするように、じっと沖を見つめつづけていた。

彼の前だと私は、自分以外の誰かになれる。
自分の心の一部分でしかなかった、まるで私でありはしない、さまざまな姿になって見せられる。
そして彼が私に教える。それは本当の私ではないと。
元のままの自分でいいのだと。
彼と会うたび、話すたび、彼の目を見るたびに、百年も遠いところへ旅して、帰って来たような気がする。
自分自身へ。永遠に変わることのない、自分の中のある部分へ。彼に手をとられて、彼に導かれて、戻って行く自分を私は感じる。

∞∞∞

豚野郎の弟の間抜けが、女房に逃げられた。トロイの若い王子パリスが彼女をさらって行ったそうだ。私と従弟とエウドロスの三人は、このことを聞いて、声をそろえて大笑いした。
「メネラオスはトロイを攻めるのかしら?」従弟が知りたがった。
「私なら放っときますがね」エウドロスが言う。「逃げた女房を追っかけたって、いいことなどあるわけがない」
「トロイのこと、何か知ってる?」従弟は興味しんしんで、子どものように目を輝かせる。
海を見下ろす丘の上、太陽の下。海風の中、串にさした羊肉を焼くたき火の、白い煙がたちのぼる。

「美しい都だそうだ」私は答える。「アガメムノンはずっと前から目をつけてるが、つけいるすきを見出せない」
そう言ってから、ふと気づいた。今回のことを口実に彼はトロイを攻めるのではないか。まさかと思うが、やつならあり得る。
「高い城壁に囲まれて」エウドロスが手で宙に描いてみせる。「難攻不落の城ですよ。治めるプリアモスは名王だ。あんな都を攻撃するのは、死にに行くようなものですな」
「アキレスでも?」従弟は私の名を出して聞く。
「それはまたちがいます」エウドロスは笑う。
「あの王の名声は高いが」私は言う。「いつのプリアモスだ。もういいかげん、じいさんだろう」
「ヘクトルという息子がいますよ。パリスの兄です。まだ若いが」エウドロスは前かがみになって、火の上の肉をひっくり返す。「プリアモス以上の名将で、戦士としてもすぐれているとか」
私はワインをあおって飲み、たっぷりとこくのある味をのどに流しこむ。そして見知らぬ国の、見知らぬ王子に思いをはせる。恋人を思うように、狩りの獲物を思うように。その男と会い、刃を交えたい。城や領地はどうでもいい。
「この前あんたが話してくれた」従弟が聞いている。「アイアスとは、どっちが強い?」
「アイアスは豪勇の士、へクトルは智将です」エウドロスはワインのつぼを、手で握りながら説明する。彼は従弟にこうやって、いろいろと教えてやるのを楽しんでいる。「アイアスと言えば、彼は先日、刀を胸に突き立てられても前進しつづけ、ついに敵の首をはねてしまったとか。すごいものですな」
私はほほえむ。アイアスが私を尊敬し、会いたがっていると聞いたことがある。残念ながら彼の国サラミスもアガメムノンの支配下にあり、私たちが敵味方になることは当面はなく、彼と戦う機会はあるまい。そのことを私は少々残念に思う。
アイアスも、きっとそう思っているだろう。

まさかと思ったことが本当になった。アガメムノンという男は、いつも最低のことで私の予想を裏切らない。弟の嫁をとり返すべく、彼はギリシャ全土から兵をかり集めてトロイを攻めるのだそうだ。
「むろん、女のことは口実にすぎませんな」エウドロスが吐息をついた。「愚かな息子を持ったばかりに、プリアモスも気の毒に」
「力づくでさらったのでないのなら、愚かな妃を持っていた夫の方にも責任があるさ」私は言った。
エウドロスは私の顔を見て何か言いかけたが、言わなかった。かわりに従弟が、「あんただったら、その弟王子と同じことするよね、きっと」と言った。「メネラオスの妃が気に入ったら」
「似たことはすでにもう何度かなさっていますよ」エウドロスが吐息をついた。「殺されなかったのがふしぎなことも」
「ほしいものを手に入れるという点では、おれはその弟王子を尊敬する」私は言った。「だいたい、女の方が夢中になってかまをかけてくることだってよくあるんだし」
「かまではなくて、こなでしょう」エウドロスが訂正した。
私の言い方でも別にまちがってはない気がしたが、私は反論しなかった。それよりアガメムノンが呼び出しの使者を私のところに寄越すとしたら、きっとまたオデュセウスなんだろうな、と思っていた。
まあいい。彼とはしばらく会っていないし、話し相手にすると楽しい。彼の声が聞けなくて、そろそろつまらなくなっていた頃だ。

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カツジ猫