三幅対第一章

映画「トロイ」が始まる数ヶ月前からの、三つの場所を舞台にした、登場人物たちの日々を描いています。
三つの話が同時進行しますが、時間はずれているので、同時進行とは言わないかも。ややこしくって、すみません。

1 三月のトロイ ―王家の人々―

パリスは悲しかった。
ぽっかりと胸に大きな穴があいてしまったような気がする。身体を起こす気にもなれず、彼は寝台の上にうつぶせに斜めに倒れていた。
すべてが終わった。彼女は永遠に去ったのだ。
テラスからまだ冷たいが確実に春の香りをたたえた風が吹き込んだ。ぼんやりとものうく顔を横に向けて外を見ると、透明に澄んだ空のかなたに薄紫の海が見えた。城壁のあたりでは巣作りをしているのか、鳥たちがくぐもった声で騒がしく鳴きかわしていた。
パリスは目を見開いてそれらをながめたまま、小さくため息をついた。春はトロイの都が一番美しくなる季節だと誰でもが言う。黄金のアポロの像が白い浜辺に輝き、日光を吸い込むざらついた褐色の石の建物の壁には、きづたが艶やかな緑を増す。厩では当歳馬たちが興奮していななき、馬糞のむっとする香りが甘い花の香とまじりあって、それが活気を呼ぶように、通りを行き交う人々の声も一段とはずんでくるのだ。
その春を自分は一人で過ごさなくてはならない。

あふれる寂しさで身体が沈んで行きそうだ。ようやく、のろのろとパリスは身体を起こし、ゆうべ着たままで寝台の上に倒れてしまって、しわだらけになった青い衣をものうい手つきで整え、黒い巻毛につけた金の小さい髪飾りをはめ直した。そうやって身体を動かすたびに悲しみがこみあげ、心の痛みがよみがえってくる。
何がいけなかったのか考えてみようとしたが、つらくて考えられなかった。
兄上に会いたい、とパリスは思った。
もうとりかえしがつかないことはわかっていたが、兄は何か役に立つことを言ってくれるにちがいなかった。
そう思っただけで少し元気になってパリスは勢いよく両足を床に下ろして立ちあがった。

∞∞∞

「貢物を与えよ」トロイ王プリアモスは言った。
白髪に包まれた、細面の上品な面差しと、青い目の優しいまなざしは、二人の息子にひきつがれていた。すらりとした長身も、やわらかく豊かでよくとおる声も。
王の向かいに座っていた長子のへクトルは首をふった。
「和を請うのではありません」彼はひかえめに、だがはっきりとそう言った。「対等の立場で交渉をしなければ」
「貢物というかたちで、トロイの富を見せつけるのだ」おだやかに王はさとした。「それが強さをも、おのずと見せつけることになろうから」
「ならばよいのですが」へクトルの顔が曇った。「メネラオスの欲望を刺激するかもしれません」
「彼は戦いに倦んだのではないのか?」
「そう聞いています。我々と同じに」
「彼はむしろ、おまえに負けるのに倦んだのであろう」王は笑って息子を見た。

その賞賛と信頼と、誇りのこもるまなざしが、かすかにへクトルの胸を痛め、気を重くさせた。父上は日々美しく、やさしくなられる、と彼は思った。王宮の神殿に飾られている神々の像のように。
昔、初めての戦いで武者震いしていた自分のそばで、巨大な馬をかり、トロイ王国に代々伝わる王の印の名剣をふるって敵に斬りこんで行った面影は、もうおありではない。冷たく鋭い眼光の一にらみで居並ぶ重臣たちを黙らせ、底力のこもる低い声の一言で自分や弟を震え上らせていた、あの迫力もおありではない。

老臣たちは自分のことを、昔の父にそっくりだと言う。外見も、気性も。それは最高の讃辞で、彼らの本心でもあるとわかっていたからへクトルは黙ってうけとめていた。しかし彼自身はそうではないことを知っていた。父の持つ一種狂気のような荒々しさ、得体の知れない底知れぬ子どもっぽさのようなものは自分にはない。
彼自身がひきつけられる、それは父の魅力だった。それを誰よりもそばで見つづけてきたからなおのことヘクトルは、自分にそれが欠けていることを強烈に自覚している。

弟のことをふと思う。少女のような甘いまなざしでまっすぐ自分を見つめ、自分を信じて頼りきっていることを誰にもかくそうともしない弟だが、ヘクトルが思いつけもしないような大胆なことを時々自分でもその重大さに気づいてないらしいままに、パリスはあっさりやってのける時があった。それはいつでもヘクトルに、弟に対するかすかな畏敬もしくは畏怖に似たものを感じさせ、その一方で自分では絶対に踏み込まず、存在さえも知ることのなかった別の世界に目隠ししたまま連れ込まれるような、ひそかなときめきをもいだかせるのだ。
「何を笑っているのだね?」プリアモスが尋ねた。「楽しそうに」
自分が微笑んでいたのに気がついた。パリスのことを考えるとよくそうなる。ヘクトルは首をふり、「長い平和が来るのだと思っていました」と、ごまかした。「もしこの和平が整えば」
「そうだな」プリアモスはうなずいた。「東方の国々とは今のところよい関係を結んでおるし、南方の諸部族もあらかた我らに従っておる」
父と息子はふと黙って、テラスの向こうに広がっている街並みをながめた。淡い金色の建物と緑の木々にいろどられたトロイの都は、太陽の陽射しを深々と吸いこんで、うつらうつらと安らかな眠りをまどろんでいるかのようだった。

∞∞∞

パリスは兄をさがしていた。厩をのぞき、屋上庭園に上がり、兵舎や神殿にも行ってみたが、兄の姿はなかった。どこでも家臣や兵士や女たちが、彼にほほえみかけ、珍しい果物をくれたり、新しい馬を見せてくれようとしたり、髪飾りを直してくれたりした。皆のやさしいまなざしや明るい声がうれしくて、パリスはついどこでもぐずぐずした。人々のそういう視線や口調をひき出しているのが、他ならぬ自分の笑顔やしぐさだということに彼は気づいていなかった。
彼は最後に、王宮のはしの、海を見晴らすへやに行った。そこはヘクトルと妻のアンドロマケのへやで、さわやかな光と海からの風にあふれていたが、王位継承者で都の守護者、全軍の指揮官の住まいとしては飾り気がなく質素だった。ヘクトルは父や重臣たちのような、神々の像やきらびやかな置物をへやに飾っていなかった。
黒く波打つ髪を肩にたらしたアンドロマケは、赤ん坊を抱いてパリスを出迎えた。このへやと同様、飾り気がなくしっかりした表情の無口な女性だった。彼女はパリスにやさしかったし、パリスも彼女を好きだったが、それでも兄が彼女の身体に手を回して肩や髪に顔を埋めているのを見たりすると、もう兄が自分だけのものではないのだと感じて淋しくなることがあった。
アンドロマケを、いかにも兄の妻にふさわしいと思う一方、どんな女性にもやさしくて、美しい身分の高い女性たちにいつもとりまかれていた兄を見ていて、どんな素晴らしい人だって兄には似合うと心から信じていたパリスは、兄が彼女と結婚すると教えてくれた時感じた、かすかな驚きを今もどこかに残している。兄はその時いかにもうれしそうで、パリスも喜んでくれるものとまったく疑っていない顔をしていた。それ以後も、なぜ彼女を選んだのか、彼女のどこがよかったのか、あらためてパリスが聞いたりできないほど、ヘクトルはアンドロマケを最高と思っているのが、ありありとわかった。

夫婦って、こんなものなのかなあ、とパリスは時々思うのだった。それとも、この二人が特別なんだろうか。
ヘクトルが疲れた表情をすると、アンドロマケの顔は曇る。いや、彼女のそういう顔を見て初めてパリスは、兄が疲れているようなのに気がつく。そして自分はそういうことをまったく考えないままで、兄に甘えていたのがわかる。それはいつも、パリスにはちょっと気が重い。今日のようにこうやって兄をさがす時、一番いそうな二人のへやを知らず知らず後回しにしてしまうのも、そのせいなのかもしれなかった。

「ヘクトルは朝からお父さまのところよ」アンドロマケは赤ん坊をあやしながら、そう教えてくれた。「スパルタとの和平交渉のことで、大事な打ち合わせがあるのですって」
「そうか」ここに来たら会えると思っていたパリスは、がっかりして柱にもたれた。
「そろそろ帰ってくるでしょう」アンドロマケはやさしく言って、青と白の布でおおいをかけた舟形のゆりかごに、そっと赤ん坊を下ろした。「ここで待っていたら?」
「そうしようか」パリスはほっとして、ゆりかごのそばに行き、赤ん坊をのぞきこんだ。大きなぱっちりした目を開いて、子どもはパリスをじっと見上げた。
「ちゃんとこっちを見ているよ」パリスは喜んだ。「かわいいな。兄さんにそっくりだ」
「そう?」アンドロマケは笑った。「あなたに似てるってヘクトルは言ってたけど」

∞∞∞

「え?」と、うれしそうに言いながら、ゆりかごのそばにしゃがみこんだパリスを見て、アンドロマケはかすかに顔を赤らめた。へクトルがそう言った時、「じゃきっと女の子をさんざん泣かせるようになるのね」と冗談を言ってしまった自分を思い出したのだ。
あの時ヘクトルはちょっときまり悪そうにした。それで自分も恥ずかしくなった。パリスに抱いている気持が無意識にそんなことばになってすべり出してしまったようで。
それにしてもへクトルはどうしてパリスのことで批判めいたことを言われると、自分のことのように間が悪そうにするのだろう?
そもそも、どうして弟よりも自分の方が目立たないし劣っていると信じているのだろう?初めてそれを知った時、アンドロマケは呆然として、本当にしばらく口をあけていた。
へクトルはそのことを苦にしているようにさえ見えなかった。それほど当然のように、結婚してしばらくした頃、ある夜の寝床の中で、君は変わっていると思った、とあっさり言った。弟よりも私を選ぶんだから。
思い出すと自分でも苦笑してしまうほど、その夜夫を抱きしめてアンドロマケは何度も何度も、あなたの方が彼よりずっと美しいと口走った。パリスが魅力的だなんて考えもしなかった。二人を見た最初からあなたしか目に入らなかった。そう繰り返した。ヘクトルは妻がどうしてそんなにむきになったのか、むしろめんくらっているようで、黙って彼女の髪をなでながら聞いていた。でも別に彼を説得できたとはアンドロマケは思っていない。やっぱり人と変わっていると思われてしまっただけのような気がする。
そのことを思うと、まったくの筋違いだが、少しだけ彼女はパリスが憎らしかった。

そんな時、アンドロマケが話し相手にして楽しいのが、王の姪にあたる、ヘクトルやパリスには従姉妹のブリセイスだった。彼女はパリスと同い年だった。ふっくらとした愛らしい顔だちには、甘やかされて大切に育てられた王族の娘ならではの、ものおじしない闊達さと陽気さがあふれていた。
「パリスなんて見かけだおしのクジャクだわ。どうしてあんな子、皆はちやほやするのかしら」彼女は黒い大きな目を明るくきらきら輝かせてそう言った。「へクトルの方がずっと素敵よ。背だってパリスより高いし、目だって髪だって、彼の方がずっと、ずっと、きれい。つつましくしてるから目立たないだけ。パリスなんて何よ。間延びした顔だわ」
「そんなこと言うのはあなただけよ」アンドロマケはそこまで言われると少しひるんでしまうのだった。
「誰かが言わなきゃ」ブリセイスはかわいい唇をとがらせた。「へクトルはあんなに戦いに行っているのに、彼はまだ戦場に行ったことも、人を殺したこともないのよ。都の中でちやほやされて、女の子には片っぱしから手を出して。こんな風だと、あの子その内絶対にこの国を滅ぼすわ」
「行かないですむなら戦場になど行かない方がいいわよ」アンドロマケは笑った。
「皆、本当にパリスに甘いのね」ブリセイスは怒るのだった。「だからもう、あの子、いい気になっちゃって。あの、世界が自分のためにあると思ってるような笑顔ったらまったく頭にくるわ」
「でも、誰もあれには抵抗できないわ」気がつくとそうやってアンドロマケはパリスの弁護をしてしまっているのだった。「本当に太陽のような笑顔だもの。太陽神のアポロって、きっとああいう笑顔をなさるのではないかしら」
「やめて、お姉さま!」ブリセイスは本気で身震いした。「アポロへの冒涜よ」

ブリセイスがさんざんパリスの悪口を言うのは、パリスが好きだからなのだということも、アンドロマケはわかってきていた。ヘクトルも含めて三人は、いつも会うと子犬のように楽しげにお互いをからかい、ふざけあう。
「ブリセイスはそれは頭がいいんだよ」兄弟は彼女がいない時、アンドロマケにそう教えた。「父上や家庭教師にいろいろ教えてもらう時、私たちよりずっとよくできた。作文も、計算も」
「武術も」と言って二人は顔を見合わせ、何がおかしいのか笑い転げていた。
あとで聞くと、子どもの頃、ふざけて王宮の庭で木剣で打ち合うと、勝つのはいつも彼女だったらしい。
「女の子だからって手かげんしたんでしょう」とアンドロマケが笑うと、兄弟は大まじめにそろって首をふり、そんなことは絶対ないと声をそろえた。
「何ていうのかなあ、迫力がちがうんだ」パリスが言った。「もう、絶対勝ってやる、って感じで向かってくるから」
「こちらのすきを見つけて不意をうつのがうまいし、ためらいもない。決断が早くて情容赦ない」ヘクトルもわきから言った。「パラス・アテネ女神が戦う時ってこうなんだろうとよく思った」
「でも、今はちがうんでしょう、いくら何でも」
アンドロマケが言うと、兄弟は顔を見合わせ、「どうなんだろうか」とどちらからともなく言った。
「まさか」アンドロマケは吹き出した。
「そりゃ、大人になってからは彼女は訓練もうけてないし、戦いに行く機会もなかったし」考え考え、ヘクトルが言った。「でも、ああいうことは…筋のよさとか素質とかっていうのは変わらないからな」
「案外夜中にこっそりと自分のへやで、剣の素振りをしてるんじゃない?」パリスが言って、二人はまた笑いこけていた。

∞∞∞

それはさておいて、ブリセイスがそんな風に真剣にアポロへの信仰を口にする時、アンドロマケはいつも内心たじろぐ。彼女にしろパリスにしろへクトルにしろ、この美しい長く続いた都の中で生まれて育った人たちには皆どこか、人間離れしたような、のどかで華やかな明るさがあって、彼らの中にいると自分が土の香りのするがさつな田舎者と実感した。
アンドロマケはトロイのやや東にある小さい国の貴族の娘だった。豊かな馬の群を持っている国で、馬の買いつけに来た兄弟と父が親しくなったのだ。だが、貴族とはいっても暮らしぶりはトロイの都の平凡な商人よりもずっとつましく単調だった。この都の豊かで優しい魔力のようなものに、彼女はいつも圧倒され、かすかな恐怖を抱いていた。
特に、トロイの人々が信仰している巨大な神々の像、壮大な神殿、不思議な香の香りに彼女はなじめなかった。その前にぬかづく神官たちのものうい声の詠唱や、王家の人々のきらびやかな儀式用の衣服がいつも彼女の息をつまらせた。
そんなそぶりを夫の前で見せたことなどないつもりだ。だが、素朴なように見えてもヘクトルはトロイの人間らしい洗練された繊細さを人一倍そなえているのを、アンドロマケは知っていた。親や兄弟姉妹からは大人びていると言われた自分を小娘のように感じてしまうほど、ヘクトルは彼女の気持を不安も怒りも悲しみもよく見抜いた。だから、わかられているだろうと、心のどこかであきらめてもいた。

そして、いつか気がつくとヘクトルは必要以上の儀式にはあまり参加しなくなっている。
神官たちの占いにもしばしば冷やかな反応をして、父や重臣をあわてさせているようだった。
自分の影響を誇る気になどなれなかった。アンドロマケはむしろおびえた。夫をこの都の中で孤立する立場に自分が追い込んだのではないかと。だがへクトルには、追いつめられている様子などはなかった。自然に静かに、だがきっぱりと自分の立場をつらぬいていた。
そんな夫がたのもしく、いとしく、切ない愛情がつのって行くのが、アンドロマケは自分でも少し不安なほどだった。
ふと我にかえって、アンドロマケはパリスを見た。
ゆりかごにひじをかけたまま、ぼんやり海の方を見ているその横顔は、いつにもまして美しく見えるが、それがその表情にただよう悲しみのせいだと、アンドロマケは気がついた。
あたりは静かで、遠い噴水の音が聞こえるだけで、その静けさの中で忘れていた悲しみがまたよみがえってきたように、パリスのほおは青ざめて、少しやつれてさえ見える。無防備なまでに感情をさらけ出しているその顔は、抱きしめてやりたくなるほどのみずみずしさにあふれていた。
何か言ってやりたかったが、自分ではだめだろうとアンドロマケは思った。パリスが求めているのはヘクトルだ。乾いた者が水を求めるように、傷ついた子どもが母の手をさがすように、何か途方にくれた時、パリスはいつもヘクトルをさがし、同じへやの中にいて、アンドロマケに遠慮している時でもずっと目で追いつづけている。最初は彼女に気をつかって少しづつ話していても、すぐに夢中になって兄の衣のすそをつかみかねない熱心さで話しつづけて、とまらない。ヘクトルは微笑んで聞いているだけで、わずかな言葉をひとことふたことかけるだけだが、それでパリスはしおれた花が水を注がれたようにみるみる元気になる。
せめてワインでも出そうと思って、アンドロマケは立ちあがった。漁師たちの舟の行き交う海の上に、太陽が輝いているのがテラス越しによく見える。時刻はもう、昼近い。

∞∞∞

ブリセイスは、つむを放り出して機織り機の前から立ちあがった。中途半端な長さのままの群青色の布を嫌悪をこめて見つめ、思いきり身体をそらして伸びをした。
もううんざりだわ、と彼女は思った。こんな、女のする仕事など。
自分はこれからどんな風に生きていくのだろうと、彼女はこのごろよく思うことがあった。結婚して子どもを生んで、家を守って年老いて行くのだろうか?どんな男と自分は結婚するのだろうか?
ヘクトルやパリスを結婚や恋愛の対象として考えたことが、ブリセイスはなかった。二人の方もそうだろう。兄弟姉妹のような同性どうしの友人のような、それは不思議な関係だった。この二人にはブリセイスはライバル意識すら、いつもどこかで持っていた。
年上なのにおっとりしていたへクトルよりは、自分と同じに積極的で明るかったパリスの方に対抗意識を感じていた。特にへクトルの方は、アンドロマケと結婚した時、なぜかブリセイスは負けたと思った。こんな見事な妻を選ぶとは、とてもかなわないと思い、うすうすは感じていたのだが格がちがうという気がして尊敬するようにさえなっていた。その分パリスの方へ親しみをこめた敵愾心がつのった。彼がまだ戦場にも行かず、競技のためだけのような弓の腕をみがくだけで、都の中で遊んでいるのを、心の中でバカにしながら、でもどこかほっとしていた。
あの人だって、まだ何も始めちゃいないんじゃないの…。
それでも月日は過ぎて行く。パリスも自分もいつかはもっと大人になり、一人前になり、家族を作らなければならない。
くさくさした時はいつもそうで、ブリセイスはヘクトルとアンドロマケの夫婦に会いに行こうと思った。いつもつつましくて、あけっぱなしで幸せそうなこの夫婦を見ていると、人生はとても単調で単純なものに思えてきて、ほっと心が休まるのだ。
機織り機をそのままにして、彼女は自分のへやを出た。

ヘクトル夫婦のへやに行くと、パリスが来ていた。心なしか沈んだ顔つきで黙ってワインをすすっている。アンドロマケは赤ん坊をあやしている。ヘクトルの姿は見えなかった。
パリスはブリセイスを見ると、うれしそうに声を上げた。それで彼女もつい笑ってしまった。「どうしたの?」と彼女は聞いた。「こんなところで朝からワインなんか飲んで」
「もう昼だよ」パリスは彼が時々する、全然言いわけになってない意味不明の言いわけをしながら、身体をずらして椅子をあけた。「兄さんを待ってるんだ」
「私もよ」ブリセイスはアンドロマケのそばに行って赤ん坊を見た。「なぜかしら。この王宮では朝から晩まで誰かがヘクトルをさがしているのね。彼に自分の話を聞いてもらおうとして」
「そろそろ帰ってくる頃よ」アンドロマケが笑った。「朝からずっとお父さまのところなの」
「スパルタとの和平交渉のことかしら?」
「どうして知っているの?」アンドロマケは驚いて目をみはった。
「そうじゃないかと思ったの」ブリセイスはにっこりした。「だって、あれだけ何度も敗北したんじゃ、スパルタだってそろそろ音を上げる頃だと思ったわ」
アンドロマケがかなわないわねと言いたげに首をふって何か言いかけた時、ヘクトルが入ってきて、人の多さに驚いたように立ちどまった。「何かあったのか?」と聞きながら、その目が赤ん坊の方へ向いたので、アンドロマケは歩みよって夫に子どもを見せながら「何でもないわ」と言った。「二人とも何か、あなたに話があるようよ」

∞∞∞

「私の方は何でもないの。仕事が進まずいやになって、ちょっと赤ちゃんを見に来ただけ」ブリセイスは椅子に座って足を組んだ。「パリスの話を聞いてあげて」
「弓の競技会の話なら、テクトンに伝えておいた」へクトルは子どもを抱きあげながらパリスの方を見た。「おまえが参加してくれるなら、弓兵隊の連中はきっと喜んではりきるだろうと言ってたぞ」
忘れてたとパリスは思った。それは彼女が、自分が競技会に出るのを見たがったから、申し込んでもらおうとしたのだと思い出して、また胸がぐっとつまった。ついこの間のことだったのに、あっという間に何もかもがこんなに変わってしまうなんて。それでも海の青さも空の青さも人の暮らしも何ひとつ変わることなく、そのまま世界は続いて行くなんて、信じられない。自分が胸もはりさけず、気も狂わずに生きていられるのが、ふしぎでふしぎでしかたがない。
「どうしたんだ、パリス?」兄が心配そうに顔をのぞきこんできた。「顔色が悪いが」
兄がこんな気づかわしげな目で語りかけてくれるといつも、パリスは回りに誰がいるのかもいっさい忘れ、気にもならなくなってしまう。「彼女と別れた」と彼は小さい声で言った。「あんなに愛しあっていたのに」
ヘクトルはちょっと考えていた。「ええと」と彼は慎重な口調で言った。「どの人だ?この前の朝、タマリスクの木の下に二人だけでいた、あの人か?薄紫の衣を着ていた…」
「ちがうと思う」ブリセイスが口をはさんだ。「神殿の門が完成した祭の時にいっしょに踊っていた人でしょう。金色の髪の、背が高い」
パリスは首をふった。「彼女とは人前でいっしょにいたことはない」彼は言った。「いつも二人だけで会っていた。彼女の父親が旅の間に滞在していたその弟の屋敷で。彼女の父という人は商人で…滞在を終えて街を出た。彼女もいっしょに。もう二度と会えないと思う」
「ひきとめなかったのか?」ヘクトルが聞いた。
パリスは黙って首を振った。
「なぜ?おまえがたのめば、きっと…」
赤ん坊が泣き出した。誘われてパリスも泣きたくなってきた。兄が赤ん坊を抱き上げ、小さく唇を鳴らしてあやしているのを見ながら、黙って涙をこらえていた。
「相手の人の愛がさめてしまったのね?」ブリセイスが聞いた。「それで、ひきとめなかったのね」
「彼女は残りたがっていた」パリスは言った。
アンドロマケが驚いたように「まあ」と息を吸いこんだ。「じゃあ、どうして?」
「僕の気持がさめてしまったんだ」パリスは涙をのみこんだ。「彼女に対する愛情が」

2 四月のスパルタ ―メネラオスの日記―

4月2日

新しいパピルスが届いたので、またこの日記を書けるようになった。高価なものに、このような、とりわけて意味もない独白を書きつづるのなど、何とも無駄なことで、我ながらまともとも思えぬ。兄が知ればさぞ笑うだろう。
これを書くような気持ちで王妃と話ができればよいのだ、と思った。とりとめもなく、他愛もないことの数々を。あるいはそんな期待をこめて私はこれを書くのかもしれぬ。王妃への気持をこのように書くことなら私にも可能だ。だが面と向かうと何も言えない。彼女の前では何か意味のあることを言わねばとひたすらにあせる。そして彼女を退屈させる。

4月3日

それにしても奇態なことだ。なぜこの私ともあろうものが王妃の前でこれほど卑屈になるのか解せぬ。確かに王妃は美しい。ただ美しいだけではなく、とらえどころなく高貴で人をよせつけない風情がある。めったに口をきかないし、ほほえむ時も何とはなしに上の空に見える。
王妃は美しい。そして私は美しくなく、さほど若くもない。しかし男にとって大切なのは見かけではあるまい。私は自分の武勇に誇りを持っており、私の陽気さを、冗談を、そして荒々しい愛撫を女たちは愛したのだ。

4月4日

問題は私が他の女のようには妃を扱えないことにあるのだろう。この豪奢だが薄暗い館の中で輝くような彼女の姿を最初に目にした瞬間から、彼女は私にとって特別な存在だった。話そうとすると舌が上あごにはりつき、抱こうとすると腕が緊張でこわばった。
妃の表情はいつもどこか、うつろだった。抱きしめるとこの上なく従順にその身体は私の腕の中でいいなりになった。それでいて、彼女に届くことができなかった。微笑んでいても彼女の心は遠くにあった。抱きしめても口づけしても、愛したという実感がなかった。

4月5日

昨日、侍女たちと海に入って泳いでいる妃を見た。ばら色の夜明けの光の中で、そのほっそりとした身体が透きとおって消えていくようで、息を呑んだ。だが、そうやって泳いでいても、浜辺を歩き、沖を見つめていても、彼女は誰も近づかせない見えない壁に囲まれているようだった。

4月6日

鬱々と楽しまぬ。毎日が味気なく、ただ過ぎて行く。
平和とは何なのか、と思う。酒を飲み、女たちと戯れ、せいぜいが猟犬を連れて狩をして鹿や兎をひきさくしかない。
こんな自分が妃の目に魅力的に映るはずはあるまい。私の活躍の場は戦場だが、それを妃に見せることはできない。
結婚して間もない頃、兄が館を訪れて、二人でいくさの思い出を語った。だが、血わき肉おどる戦場での我らの行為の数々は、陽光と海の風につつまれた静かで平和なこの館で語られると、ただ血なまぐさい残虐な話に思えた。聞きながら、妃が終始青ざめて、どこかこわばった表情をしていたからかもしれない。
兄は別れ際に私に「美しいが、おまえの妻ならもっと覇気があってもよいのにな」とつぶやいた。それがまた私の心を重くした。
あれ以来、兄は館に訪れない。私が途中で退いてしまった、全ギリシャを統一して強大な帝国にするという夢に向かって邁進している。もう八分どおり兄はそれをやりとげている。血のにじむ思いをしながら、決して深刻な顔をせず、いつも冗談をまじえながら気軽な口調で兄は偉大な仕事をする。その磊落さ、豪快さが多くの国王たちの心をとらえ、心服もさせるのだろう。
「兄はあれでけっこう優しいところもあるのだ」と妃に言うと、彼女は黙ってうなずいた。「面白おかしく話しているが、あれで苦労が多いのだ」とつけ加えると、「そうね」と小声であいづちをうった。
妃の返事や反応はいつもこうで、これで私は満足しなければならない。
もっと話したいし、人前で思いきり抱きしめて見たい。他の女にするように。
だが、そうすると徹底的にうとまれそうで恐ろしい。

4月12日

数日前から、トロイの都から若い王子が二人、和平の交渉に訪れている。
彼らとの交歓を楽しんでいる。プリアモス王はよい息子たちを持ったものだ。
どちらもすぐれた若者だ。一見似ている。背が高く、黒い巻毛で、聡明そうな整った顔だち。だがすぐに性格は火と水のようにちがうとわかる。弟は明るく、兄はもの静かだ。
交渉の相手としてはどちらも手ごわい。弟の方がものおじせずに大胆な条件をいろいろと提示してくるので、最初は彼が主導権を持っているのかと思った。だが実際には兄の方だ。ひかえめで思慮深く、まなざしと微笑だけで深い人格を感じさせる。

武器を使わないとはいえ、交渉も一つの戦いだ。彼らは敵だ。それでも会話を重ねていると、彼らを愛さずにいられなくなる。そうなる理由の大きなひとつは彼らがはた目にもほほえましく、互いを思いやっていることだ。おそらくは彼らにとっては初めての重要な交渉で、私が最初に予想していたよりずっと、実は二人は緊張していた。次第にそのことに気づいたのは、二人が相手の弱点をかばいあおうとしあっては、かえってそれを目立たせるという小さな失策を何度かしでかしたからである。
戦いにおいてのみならず、交渉ごとでもプリアモスは常に老獪で有能だった。この二人にもそれぞれに、その片鱗は見えている。が、まだ父の足もとにも及ばない。
私は当面ほっとしている。卑怯なことをする気はない。だから、私が誠実でいさえすれば、トロイとはさほどどちらも不利でない協定を結べるだろう。ありがたいことだ。この二人とは戦いたくない。

3 五月のピティア ―若い従弟―

心の中にわきおこる優しい思いをもてあます。
こんな気持は母にさえ感じたことがなかった。
従弟のことは知っていた。子どもの頃に何度か会った。
だが、これという印象はない。
両親が死んだと聞いてもさほど同情はしなかった。
人は皆、いつかは死ぬ。それが親ならなおのこと、子どもより先に死ぬのは当然だ。

従弟はすらりと背の高い美しい青年になっていた。私の館にひきとられたことで卑屈になっている気配はみじんもなかった。悲しみも見せなかった。無口だったが、気がつくと、黙って私についてきていて、私が槍を削っている後ろの岩の上に座って黙って海を見ている。そんなことがよくあった。
美しい、と彼のことを私が言うと、母はけげんそうに首飾りを作っていた手をとめて、おまえに美しさがわかるの、とたずねた。
私が黙っていると母は白い回廊の柱ごしに海の方へと目をそらしながら、彼はおまえに似ているわ、と言った。美しいかどうかは私にはよくわからないけれど。

そう言えば夜明けの薄暗がりなどで、私の部下がまちがえて何度か彼に声をかけていた。
彼はそういう時、ふりむかず、笑いもせず、黙って私の方を見た。私の視線をとらえると、初めてかすかにその唇がほころび、目が輝いた。その表情を私は美しいと思った。人間に対して初めて持った感情だった。

∞∞∞

彼を、おもちゃにしたくなる。
私のそばを通って行く時や、横を歩いている時に、前ぶれもなく、いきなりその手をつかまえて、ねじあげて、壁に押しつけ、地面に押し倒してみる。
彼はおびえる風はない。驚いたように口を開けて顔をのけぞらせるが声はあげない。数秒押さえてはなしてやると、はね起きて逃げてゆくが、気がつくとまたそばに来ている。
彼を見ないまま、私は笑う。
彼も笑っているのだろう。肩のあたりで切りそろえた長いまっすぐな金色の髪が、なめらかなほおを波うつのが見ていなくても私にはわかる。
このごろでは三度に一度は彼は私につかまらない。すばやく身体をかわして逃げる。
私は時々、彼を追う。藍色の長い衣をひるがえして、白い柱や黒い岩の間をかもしかのように走りぬけて行く彼を。
時々私は先回りして、彼のゆく手に姿をあらわす。驚いて息を引いてとびのく彼に、獲物を見つけた獅子のようにおどりかかって、彼の足や肩をつかまえ、二人で砂の上にころがる。彼はそれでも声を出さない。激しく息をはずませながら、しなやかな全身を巧みによじって私の腕から逃れ出そうともがく。しばらくそうしておいてから、いきなり解放して両手を大きく広げてやると、とまどったようにつかの間じっとしていてから、はじかれたように飛び上がって走り去る。

空が、波が、白い砂が、彼の後ろでぐるぐる回る。
太陽がまぶしい。

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カツジ猫