三幅対第三章

1 三月のトロイ ―王家の人々―(その3)

「あんまりだわ。ひどすぎるわ」ワインのつぼや、銀色の串にさされた羊の肉が並んだテーブルの前で、ブリセイスは怒っていた。「それでへクトル兄さまは本当にそれを承知したの?パリスをつれて行くっていったの?」
「私もそれがいいって思ったんだ」ヘクトルがなだめた。「こういう時にパリスがいると、思わぬ効果がありそうな気がする」
「それって相手のメネラオスが、パリスの美貌に目がくらむってこと?それともこの子の見事な天然ボケぶりに油断してしまうってことかしら?」
「ねえ、ブリセイス…」
「へクトル兄さま、そんなもののわかった顔をして、とりつくろうのはやめて。笑いたくっていらっしゃるんでしょう、でもこれは笑い事じゃないわ」ブリセイスは足を開くようにしてふみしめて座った衣の膝の上に、両手のこぶしをふり下ろした。「パリスなんかが行くぐらいなら、なぜ私ではいけないのよ?」
「正直、それはその方がずっと助かるな」ヘクトルはまじめにうなずいた。「だが君は…」
「女だもの!ね。いつもそう!お父さまだっておっしゃる。おまえが男だったら、へクトルよりもおまえに王位を与えたい、って。冗談よ、わかってる。でも私が男なら、それって冗談なんかでなくしてみせるのに!」
ブリセイスは両手に顔を埋めた。
「君を行かせるように、父上にたのんでみよう」パリスが身体をのり出して、ブリセイスの腕にふれた。「きっと聞いて下さるよ」
「やめて」ブリセイスは荒っぽく涙をぬぐい、乱れた髪をはらいのけた。「そんなの、だめなことわかってるじゃない。いいの。私が悪かったわ。ごめんなさい。夕食をむちゃくちゃにしてしまったわね」
「まだ始まってはいないわよ」アンドロマケがなぐさめた。

「父上は君に、兄上よりも王位継承者に向いてるって言ったことがあるの?」パリスは聞きたがった。
ブリセイスは何とかきげんを直して、羊の肉をかじりながら、ぐいぐいとワインを飲んでいた。
「ええ」彼女はあっさりうなずいた。「冗談よ、もちろん」
「冗談でもさ。理由は何?君のどこが兄上よりもいいって思われたんだろう?」
「聞かない方がいいかもよ」
「そう言われるとだいたいの見当がつくが」とへクトル。
ブリセイスは目を上に向けて笑った。「ええそう。おまえなら、へクトルよりもパリスを抑えられるだろうし、って」
皆、吹き出した。「それでもう一つは?」とへクトルが聞いた。
「もう一つ?」
「パリスを抑えられるだろうし、って言わなかったか?」
「あら!」ブリセイスはへクトルを見つめた。「よく気がついたわね」
「和平交渉の練習だ」ヘクトルはワインのつぼをつかんで、杯についだ。「細かいことも聞き落とさない」
「たのもしいわ」ブリセイスはほめた。「こうおっしゃった。おまえなら神官たちとも、もっとうまくやるだろう」
皆、ちょっと黙った。パリスとアンドロマケはそわそわし、ブリセイスは落ち着いてヘクトルを見ていた。ヘクトルはうなずいた。「だろうな」
「へクトル兄さまの気持はわからないでもないの」ブリセイスは貝の殻から実をはずしながら、はきはきと言った。「わが国の神官たちは皆バカよ。でも、それと神々への信仰は別でしょ。この国にも私たちにも、神々は必要だわ…正しいものを信じる力が」
「信じているつもりだが」
「そうかしら?」
「こんな話もうやめようよ」パリスが言った。
「あんたが言い出したのよね」ブリセイスはワインをがぶりと飲んだ。
「だから、悪かったよ。たのむから、もっと楽しい話をしよう」
「いいわ」ブリセイスは笑った。「それじゃあなたの、いなくなった恋人と、燃えつきた恋の話を聞かせて」
「君ってひどい女の子だなあ」パリスが傷ついた顔で言ったので、皆またどっと笑った。

∞∞∞

月の光がやわらかくトロイの都にふりそそいでいた。ブリセイスにつきあってワインを少し飲みすぎたのか、逆に眠れなくなったへクトルは、アンドロマケを寝床に残して、一人でそっとテラスに出た。
回廊や塔の白さも、それにまつわるきづたや庭園の木々の緑も、月の光の下で昼間とはまたちがう濃淡を織りなして、どこまでも広がっていた。ずっと向こうに海が見えた。浜辺には夜目にも白く、海に面してアポロの神殿がある。海に向かって弓を引く黄金のアポロの像は建物にさえぎられて、ここからは見えない。
長い年月をかけて少しづつ、自分はあの神殿から遠ざかってきたと思う。神官長とここまで対立してしまうほどに。
アンドロマケのせいだと彼自身思っていたこともある。たしかに彼女がトロイの神々や儀式に何となくなじめない思いをしているのはわかったし、それは自分が神々から遠のくきっかけの一つにはなった。だが、それ以前からすでにもう、へクトルの中で神々への信仰は薄らいでいた。
軍隊を率い、政治に携わり、現実と深く関わっていると、占いなどは利用はしても一々心を左右されてはいられないということもある。しかし、それだけではなかった。ずっと昔、もうすでに何かが終わってしまっていた。
まだ彼が少年の頃だ。パリスが彼とブリセイスに神殿の巫女と寝たと告白したことがある。ブリセイスは火のように怒ったが、へクトルは震え上った。そんな恐ろしいことをした弟と、この都に、どんな天罰が下るかと思って、しばらく夜も眠れなかった。パリスはおびえている兄にも、怒ってののしるブリセイスにも、むしろ当惑気味だった。「だって向こうから誘ったんだよ」と彼は無邪気に抗弁した。「彼女は素敵だった。とても優しくていい香りがした」
「聞きたくないわ!」ブリセイスは叫んだ。「何て恥知らずな巫女でしょう!お父さまに言いつけてやる!」
「だめだ。それだけはやめて。彼女は悪くない」パリスはびっくりしたように必死になって叫んだ。「あそこの暮らしは大変なんだ。とても早起きしなければならないし、冬は寒いし、淋しいし、夏は嵐が恐ろしくて、それでつい…」
「もういい、たくさん!あなたって最低よ、パリス、顔も見たくない!」
ブリセイスは本当にその後しばらくパリスをよせつけず、パリスはしょげていた。ブリセイスが告げ口したとは思えなかったが、その巫女もその内どこかに行ってしまったようで、パリスはまたしおれていた。しかしそれはただ淋しがっているだけで、天罰を恐れている風ではなかった。へクトルの方は恥ずかしいとは思いながらも、弟のそばにいるとアポロのたたりをうけそうで恐くて、それからしばらく生きた心地がしなかった。おっかなびっくりで恐々、弟を見守っていた。
そして、弟が太陽に焼かれて死ぬこともなく、疫病にかかる気配もなく、元気で次の恋にうつつをぬかし、トロイの都はあいかわらず栄えつづけていくようだとわかった夜、理由もない深い悲しみと絶望が彼をとらえた。

弟が寝たという相手の巫女が誰なのか、へクトルは知らない。
だが、まだ小さい子どもの頃、父に言いつかって何度かアポロの神殿に供物を捧げに行った時、出迎えて受け取ってくれた、へクトルと同じ年ぐらいの、少女のような巫女がいた。月の女神のアルテミスのような、清らかな近づきがたい厳しい気高さをたたえた少女だった。
時が流れるにつれて彼女も大人び、へクトルと目が合うと、かすかに目礼することもあった。
一生を処女として神々に捧げ、トロイの都のために祈りつづける彼女のおごそかな美しさが、血みどろの戦場でもいつもへクトルの心のどこかにあった。
手をふれることの決して許されない清らかなもの。絶対に犯したり汚したりしてはならないもの。
今思えば、あれが自分の初めての恋だった。
弟と寝た巫女が彼女かどうか確かめる勇気はなかったが、心のどこかでへクトルは彼女にちがいないと知っていた。
自分が少年時代に別れを告げ、大人になったのは、兵士たちとともに酒に酔って初めて商売女を抱いた夜ではない。戦場で人を殺した時でもない。たった一人で寝床の中で、あの巫女のことを思い出し、永遠に失われた何かを闇の中に見つめつづけた、あの夜だった。

∞∞∞

へクトルはテラスの手すりに手をかけて、月光にけぶる海を見つめつづけていた。
あの頃、何度か見た夢がある。大人になっても数回見た。夢とは思えないほどの鮮やかさで、細かいところまではっきりと今も思い出せる。
弟が逃げてくる。その後ろからかぶとをかぶった大きな男が剣をふりあげて追ってくる。弟はヘクトルの足もとに倒れ、男は大声でわめく。どけ。おれはそいつを殺す。
弟は自分の足もとで、みじめに震えている。美しい顔を血まみれにして。男の顔はかぶとの下でよく見えない。どくんだ、へクトル。そう彼が言う。おれがそいつを殺してやる。

おれにこいつを殺させろ。そうすればもう二度と、こいつにおまえは悩まされない。いつも、いつも、こいつに代わっておまえは戦い、こいつはおまえの大切なものを、こともなげに奪いとっては捨てたのじゃないか。こいつさえいなければ、おまえは信仰を失わなかった。こいつがいなければ、もっと人々に愛される。父親にも。民衆にも。

今のままでじゅうぶんだ。歯をくいしばってヘクトルは答える。今の自分に満足している。

嘘をつけ、と、きしんだ声で男が言う。実力のない、世の中をなめきった、甘えきったこの弟に、おまえはどこまでつくす気だ。こんな弟をどれだけ世界にのさばらせる気だ?こいつはおまえのすべてを奪うぞ。生かしておけば、そうなるぞ。

アンドロマケと子どもがいれば私は満足だ。彼女さえ私を愛してくれれば、世界などどうでもいい。

ごまかすな。男は剣を振り上げる。おまえがアンドロマケを愛したのは、彼女を選んだのは、弟に奪われそうにない女だったからだ。初めからおまえは、弟がほしがりそうにないものだけを選んできたのだ。自分がほしいものではなく。自分が愛したものではなく。それがどういうものなのかさえ、おまえにはもう、わからなくなっている。

しびれたようにヘクトルの身体は動かない。ふみしめた足が震えているのは、しがみついた弟の身体が震えているのか、自分の身体が震えているのかわからない。

弟がいる限り。男は声を限りに叫ぶ。おまえはすべてを失うぞ。この弟は回りにきっと不幸をもたらす。破滅、混乱、災厄を。そしてアンドロマケも、おまえの子どもも、おまえ自身も、その中で滅びて行くのだ。そこをどけ。まだ間にあう。今の内にこいつを殺せ。おれがこいつを殺してやる。

へクトルの頭がしんと澄む。弟の息を足に感じる。彼は男に向かって言う。パリスを失うことはできない。彼がどのような危険をこの世と私にもたらすとしても。彼を守りぬくことが、すべてを守りぬくことだ。彼は私の弟だ。夢みる力、生きる喜び。トロイの都のいしずえだ。

そんなことはできないぞ。男は叫ぶ。おまえは自分を過信している。どこかで聞いた、その声が言う。こいつを守り、こいつを生かしておいたままで、トロイを守るのは不可能だ。いくらおまえが強くても、すぐれていても。現実を見ろ。もうあきらめろ。たくさんだろう?こいつを守りつづけるのは。おまえの手は汚させない。一歩下がれば、それでいい。誰もおまえを責めはしない。こいつはおれが殺してやる。

立ちつくすヘクトルの前に、近づいてきた男の顔がもう見える。それはへクトル自身の顔だ。へクトルは驚かない。最初からそれを知っていた。憎しみにゆがんだ自分の顔が目の前に迫り、恐怖にひきつる彼自身の声がささやく。未来が恐くないのか?こいつが招く未来が。疲れたろう、こいつを愛しつづけることに。正直になれ。嘘をつくな。おれはこいつを許せない。ずっと、ずっと、憎んできた。こいつを殺そう。おれが殺す。いっしょに殺そう。今だ。へクトル。さあ。今だ。

夢はいつも、そこでさめた。

∞∞∞

へクトルは静かに手すりから手を離し、へやの中へと戻って行った。早く寝ておかないと、明日からは船への荷物の積み込みなどでまた忙しくなるだろう。パリスが船に酔わなければいいが、と彼は思った。

ブリセイスもまだ起きて、自分のへやのテラスから、へクトルが見ていたと同じ、月光の下の海を見ていた。
もう何日かすれば、パリスと兄は、あの海を渡ってスパルタに向かう。広い世界へ旅立って行くのだ。
彼らをうらやむまい、とブリセイスは思った。私には私の人生があるはず。私にできることをさがそう。二人が和平交渉をすませて戻ってくるまでには、自分の生きる道を決めよう。
へクトルとアンドロマケの赤ん坊の顔を思い出した。あの子のために、あの子と同じ子どもたちのために、私はすばらしい都を作ろう。すばらしい世界を作ろう。そのために自分には何ができるか考えよう。

へやに戻ると、貴族の一人からみごとな真珠の首飾りが届けられていた。この前息子に弓の手ほどきをしてやったお礼なのだろう。見たこともないほど大粒のばら色の珠が、夜のかがり火をうけて輝いていた。
パリスはそれを手にかけてうっとりとながめながら、でも自分にはもうこんなものはいらないのに、と悲しく思った。数日前ならどんなに喜んで彼女のところに持って行ったかしれないのに。
涙がまたにじみそうになったが、朝に比べると悲しみはずっと薄らいでいた。傷を負ったあとの手足を動かすようにパリスはそっと深呼吸した。兄と二人で船の旅ができる。父上からの大切な使節として。そう思うと楽しい気持ちが胸に広がってくるのをどうすることもできなかった。この旅をきっかけに自分は大人になろう、とパリスは思った。新しい自分に生まれ変わるんだ。
にぎりしめていた首飾りを手箱に放りこみかけて、パリスはふと手をとめた。これは持って行こう、そして船の上から海に投げよう。これまでの自分を葬るように。海から来たものを海に返そう。
エーゲ海の澄んだ水の中を、水面を透き通って落ちてきた薄緑色の光にきらめきながら、まっすぐに沈んで行く真珠の連なりを目に浮かべて、パリスは悲しいような喜びを感じた。何て美しいんだろう。いとおしむように目を閉じて、彼は別れを告げるようにそっとまろやかな真珠の粒に口づけした。

遠く、銀色に光る海が波をよせては返している。
トロイの都は、青白い月の光を水のように浴びて、荘厳な中にも美しくやさしい姿を浮かびあがらせながら、おだやかな眠りについていた。

( 三月のトロイ ―王家の人々― ・・・・・終 )

2 四月のスパルタ ―メネラオスの日記―(その3)

4月20日

珍しいことに弟王子は今日、兄がいないのに平気で私と妃がいるへやにいた。のど元すぎれば何とやらかと思ったが、どうやら妃がいてくれるから大丈夫と思っているらしいのに気づいて、私はあきれた。彼女にかばってもらえると思っているのが信じられなかった。誇りというものはないのか。あながち愚かな若者とも思えないのだが。
妃もそのことには少し気がついているのか、面白がっているように王子を見ていた。
妃のかわいがっている侍女のアンティアが、気の利いた女であったからさいころ遊びの道具を持ってきて、私たちは四人で興じた。妃はこの遊びに巧みで、王子はまったく不得手で、私とアンティアはその中間だった。それで、三度試合をして点数を勘定してみたところが、妃と王子の点数は二倍以上に開いていた。アンティアはもったいぶって、おごそかに、あなたは罰としてお妃さまのお言いつけを何でも聞かねばなりません、と言い渡し、王子は神妙な顔で座り直しながら、テーブルの上で両手の指を握りあわせた。

妃は目を伏せて口元だけでかすかに微笑みながら、指先でさいころをもてあそんでいた。「してもらいたいことと言っても別に」と低い声で言って彼女は首をふった。「何も思いつけないわ」
「キスしてもらってもよろしいのですよ」アンティアは笑いながらけしかけた。
「それじゃ僕が勝ったのとかわらない」と言って王子は耳まで真っ赤に染めた。
私は助け舟を出した。「私たちが友だちとやる時はよく、互いの最大の弱点を告白しあったものだ」
「ではそれにしましょう」妃は面倒そうに言った。「王子さま、あなたの一番恐いものは何ですか?」
「兄です」弟王子はすぐに答えた。
「これは聞かなくてもわかるぞ」私は評した。
妃はかすかに笑って、ものうげに続けた。「ではお兄さまの弱点は?」
「妻と子…じゃなくて」王子は一瞬眉をよせた。「そうだな。兄が一番弱いのは…誇りを失った時かしら」
「ほう?」私は共感して身をのり出した。「そうなのかね?そう言っておいでか?」
「口に出しては言わないけれど」王子は言った。「まちがったこと、してはいけないことをしてしまったと自分で感じたら、兄は見ていて心配なほど、弱ります。身体も、心も」

「たとえばどんな?」私は聞いた。
「兄は、小さい時、よく僕をかばって、父上に嘘をついたり、人のものを盗んでくれたりしたことがあるのですけど」
「どういう時に」
「もう、思い出せないぐらい、いろいろな時に」そして弟王子はちょっと顔を輝かせ、自慢するように言った。「兄はその気になったら嘘も盗みもすごくうまい。度胸があるし、器用だし」
「それにとてもそう見えないから、皆がだまされるのだろう」私は言った。「功徳はふだん積んでおくものだな」これは私の兄の受け売りだった。兄はよく、人にいっぱい食わせる時ににやにやしながらそう言ったものだ。
「そう」王子はうなずいた。「だから兄がやった悪いことって、ばれたことがないんです。ただ、そんなことした後で兄はいつも、高い熱が出たり、ひどく吐いたりしていた。眠れなかったり、ものが食べられなくなったり。それは、多分、ばれて罰をうけるのが恐いのじゃないんです。何か悪いことやまちがったことをして、誰からも罰されなかったら、兄は死にたくなるらしいんです」
「あなたはそうはならないの?」妃がふしぎそうに首をかしげた。
「そうだな。僕は…何が悪いことなのかいつもあまりよくわからなくて」
「あら、もう」妃はおかしそうに横を向いた。

「それはもちろん、子どもの頃のことですけど」王子は言った。「今も多分、そうでしょう。うっかりまちがえて部下を叱ったり、弱い者を苦しめたりすると、兄はもう生きているのがいやになったみたいに元気がなくなります。そんな時、あなたが悪いのではないとか、あなたのせいではないとかうっかりなぐさめたら逆効果で、もっとずんずん暗くなってしまうから、思う存分落ち込ませて一人で勝手にはいずりあがって来るのを待つしかないよって、兄の部下たちはよく言っています」
「兄上のお気持はわからんでもない」私はうなずいた。「人の上に立つ者はそんなものだろう」
「そうかしら」妃が小さい声で笑った。「人の上に立つ人はそんなこと気にしないものではないかしら」
「私も昔」私は軽く手を振って妃のことばを無視した。「さまざまな失策をして父や兄に叱られるとかえってほっとしたものだよ」
「ええ、兄も、たまに父に叱られたり罰を与えられたりすると、何だか救われたような顔をしていたことがあります」王子は妃の方を見た。「あの、僕も時々、兄は人の上に立つのには向いてないって思うことがあります。優しすぎるんだもの」そして自分で言っておいて息がとまったような顔をした。「何でこんなこと言っちゃったのかなあ。トロイで、よりによって僕が兄のことをこんな風に言ったってわかったら、きっとすごいことになるなあ」
その、自分でびっくりしている顔がおかしくて、私たちは皆笑った。

4月21日

和平交渉は終盤にさしかかっている。海の上での船の航海の安全をどのように保障するかという、微妙な問題にさしかかってお互いに気がぬけない。私も重臣らと協議を重ね、二人の王子も真剣にまなざしを交わしては、目で、あるいはひそひそ声で打ち合わせしている。
そんな緊張の合間にワインを飲んで一服し、海に沈む夕日をながめることもある。「奥方が恋しくなる頃であろう」と兄王子をからかったりする。彼の子どもは男の子だそうだ。妃もいつか私の子どもを生んでくれるのだろうか。ゆりかごをのぞきこんで二人して笑いあう日がいずれ来るだろうか。そんなことをふと思う。

4月23日

昨夜起こったできごとは、不愉快というよりは不可解なことだった。
王子たちとの話し合いが少し早めに終わったので私は妃のへやに行った。妃はかぶりものにする薄い布に金色の糸で何かの刺繍をしていた。私がそばに座り布の端を手にとって見ていると、妃は「鳥の模様なの」とひっそりと言った。「けれどもう、鳥が飛ぶ姿を忘れてしまったわ」
「今度つかまえてきてやろう」
妃はほほえんで「飛んでいないと」とつぶやいた。
「あの弟王子の方だが、あきれたな」私は布を投げ出して言った。「気がついたかね?おまえに守ってもらえると思っていた」
「そうではないわ」刺繍の手をとめないまま妃は小さく首をふった。「あの人は、あなたが多分、私の前ではひどいことをしないと思っているのよ」
「甘いな」私は鼻でわらった。
「そうね」妃は私を見ないままうなずいた。
しばらく時間がたってから、妃が言った。「私、結局お兄さまの方とはお会いできないままだったわ」
「明日の夜の宴会で会えるよ」
妃は低く笑った。「それが最初で最後になるのね」
「和平が成立すれば、またいくらでも二人がここに来る機会はあるよ」
「来やしないわ、二人とも」妃は今までと同じ口調で静かに言った。「こんな野蛮な国に。男は皆人殺し。女は皆なぐさみもの」
何となく私は息をのんだ。

妃は自分の手が自由にならないかのように、ゆっくりと持ち上げてそれを額におしあてた。「ごめんなさい」と言った声は弱々しく、はりつめていた。「私を許して。あなたの大切なものを傷つけて」
「いいさ」私は見なれた妃が突然何かおぞましいものに変わっていくような不快さを感じながら、それを押し殺してそう答えた。
妃は黙って、金と真珠の腕輪をつけたあらわな白い両腕を両脇にだらりとたらしたまま、じっと椅子に座っていた。

長い時間がたった。炉の中で火の燃える音だけがしていた。
妃がふいに口を開いた。
「小さい時は私は肥ったみにくい子だったわ。姉たちからもいじめられた。大きくなって美しくなったら皆にもっと憎まれた。どちらも私のせいではないのに。どちらの私も私じゃないのに」
妃は身動きもしなかった。両脇に下ろした手の先はいつの間にか椅子のはしを指先が白くなるほど力をこめてつかんでいた。目を大きくみはって火を見つめたまま表情をまったく動かさず、炎の光を浴びて黄金の彫像のように見えた。そのほおにとめどなく流れつづけている涙がなかったら。
「人は皆、理由を見つけて憎みあう。傷つけたがる。なぜか私にはわからない」
やっと聞きとれるほど彼女の声は低かった。
「なぜあなたは戦うの?人を殺すの?男の人は皆そうなの?」

私は妃の肩を抱いた。
「生まれたくて男に生まれたのではない」思ったままを口にした。「戦士にも王にもなったのではない。ふみにじられたくなかったから戦ってきた。私は戦いから逃げたくない。おまえを守るためにもだ」
「私がいるから戦うの?女がいるからいけないの?」
「そうではない」私は妃の髪に口づけした。「だが、勇ましい男は皆、美しい女を手に入れたいのだ。それが男と女の役割、何千年がたとうとも、そのちがいはなくならない。戦いもそうだ。弱いものは滅び、強いものが生き残る。それがこの世の掟なのだ」
「皆、同じ人間だわ」妃は炎を見たまま言った。「なぜ弱いものが生きていてはいけないの。強くない男や美しくない女が幸せになってはいけないの」
「それがこの世のしきたりだ。永遠に変わることはない。神々にもそれは変えられない」
「人間が変えればいいのだわ」妃の目はくいいるように火を見ていた。「プロメテウスは人間が持ってはいけない火を神々から奪って与えてくれた。その火が今、ここでこうして、燃えてるわ」
私は笑って、妃の髪をなでた。「その結果プロメテウスはどうなった?山の上に鎖でつながれ、荒鷲が毎日彼の内臓をついばんだ。血みどろになって苦しんでも翌朝には内臓はもとに戻り、また荒鷲についばまれる。その永遠の責め苦を彼は受けている」
「火を奪わなくても、しきたりや掟を破らなくても」かすかな声で妃は言った。「鎖でつながれ、はらわたをかみさかれるような日々が永遠につづくことだってあるわ。同じことならなぜ、火を奪おうとしないの?」

私は妃にこれ以上しゃべらせたくなかった。力をこめて妃の熱い、ほっそりとした身体を抱きしめた。
「おまえを愛している」私はささやいた。「おまえを私から奪う者がいたら、人でも神でも許さない。地の果てまでも追って行き、森を焼きはらい、海を干し上げてもきっと見つけて、そいつを殺し、おまえをこの手に奪い返す。いいや、そいつをひと思いには殺さない。プロメテウス以上の苦しみを味あわせてやる」
妃は静かにひっそりと笑った。「そんなことをなさらなくても、私はどこにも行きはしないわ」ものうく感情のない、いつもの声に彼女は戻っていた。

あれは何だったのか、今もまだよくわからない。
トロイの二人の王子が来てから私たちの生活のねじは、どこかで狂いはじめている。
まあよかろう。それもあと数日で終わる。

3 五月のピティア ―若い従弟―(その3)

∞∞∞

父が死んだ時、泣けなかった。
母も泣かなかった。
私たちはたがいに近づかず、ふれあおうとも抱きあおうとも、口をきこうともしなかった。
水をみたした器を運ぶようにしてそろそろと、家の中のあちらのはしと、こちらのはしを動き回り、ひっそりと息づかいさえひそめて生きた。
父のいなくなった屋敷の中は、にわかに広く、暗かった。
無口で、静かな父だった。考えぶかげなまなざしの。
小柄で、どこといって特徴のない、見た目もとても平凡な男。
だが、その笑いは太陽のように回りをあたため、そのことばは水のように人々の心をうるおした。
父にはかなわないと、いつも思っていた。
父は死ぬ時、母の心のあらかたも、いっしょに持って行ってしまった。
私の心のいくらかも。

「おまえの母は女神だ」父はある時、私に話した。「なのに、命ある人間の私を愛した」
「では母上は死なないの?」
「そう。私が死んでも、おまえが死んでも、あれはこの世に生きつづける」
父の声には、おごそかな悲しみがあった。
「では母上は、淋しいね?」
「でもそれが母上の運命だ」父は言った。「神に生まれてきたことが」
「僕が母上を殺してあげたらどうかしら?」私は言った。「そうしたら、皆いっしょになれる」
父は驚かず、笑って私の手を自分の手でつつんだ。
「そんなことをしてはいけない」おだやかに父は言った。「そんなことをしても何もかわらない」

父が生きている間は何でもなくできていたことが、父がいなくなってからは、難しい。
というよりも、どうやってそれをしていたのか、思い出せない。ちゃんとできていたはずなのに。
母を愛することも、その一つだ。
彼女を嫌いではないと思う。それなのに、なぜか、どうふれあっていいのかわからない。
父がいる間は、あんなにもよくわかっていた母が、時々見知らぬ他人に見える。
父を通してしか、おそらく私は母を理解していなかったのだ。
母も、そうだったのかもしれない。
父は、そこにいるだけで、回りの人々すべての心を通いあわせる人だった。

∞∞∞

一度だけ、父が怒ったことがある。
なぜそんなことをした、とけわしい声で母に言っていた。
この子にそばにいてほしかったの、と母は抑えた声で答えていた。いつまでもずっと、私のそばに。
そんなことはできないのに。父の声はむしろ嘆いているようだった。そんなことをしてはいけなかったのに。
だから、だめだったのよ。力なく母は答えていた。私にはできなかったのよ。
この子を傷つけたよ。父は言った。この子は覚えているよ。自分が神ではなかったことを。
まだこんなに小さいのよ。母は言った。覚えてなんかいないわ。何も。
ならいいのだがね。父は言った。私はそうは思わないよ。

まぶしい、まぶしい世界を見た。
凍りつく水で全身を洗われた。
あれ以来、私の目も肌も、どこかおかしい。
何かを感じられない。何かが見えない。
いや、何かを見ていて、感じているから、他のものが見えないし、わからないのだろうか。
光の中に巨大な哄笑をいくつも聞いた。
「かわいい子」「いとしい子」「珍しい子」とたくさんの声が言った。
母の声のようで、そうではなかった。
男とも女ともつかぬ、たくさんの人々の、恐ろしいほど澄みわたって力強い声が重なりあっていた。
たくさんの手が私の全身をなでた。髪を、顔を、のどを、手足を、身体のすみずみまで。その手は皆、やけるように熱いと思ったが、やがて氷のように冷たいとわかった。泣き叫んでのけぞる私を支えようと、母は私のかかとをきつくつかんで抱いていた。それでもたくさんの手と指は容赦なく私の身体をさぐりつづけ、なで回しつづけた。冷たい水に洗われるように、それは次第に快感になり、ぐったりとなかば意識を失った私の耳に母のすすり泣く声がして、明るく強い声の一つが言った。楽しませてもらったわ。けれども連れて帰りなさい。ここはこの子のいるところじゃない。
私が母の泣き声を聞いたのは、それが最初で、最後だった。

身体のしんに残る、深い、深い、痛み。
空しさとも、恥とも、名づけようのないもの。
人を殺さなくては消えない何か。

生きていることは空しい。
恥ずかしく、つらい。
だから人を死なせることを哀れとは一度も思ったことがない。
むしろ、救ってやっていると思う。
心の底のどこかで、いつも。

世の中はいつも、人が見るのと私が見るのでは逆立ちしている。
時々、いや、ほとんどいつも、人とちがったものを見ている気がする。
同じ花を見ても、波を見ても、人と同じように見えているという確信がない。
私の見る世界はいつも、人が見るのとは逆立ちしているか、裏返しだ。
あるいは、何かが欠け落ちている。
人に見えるものが、私には見えていない。

時々、ぼんやり知りたくなる。
これは私だけなのだろうか。
人間皆が、そうなのだろうか。
それぞれにちがったものを皆が見ながら生きているのか。
人はそれぞれ、相手にわからないことをしゃべり、自分勝手なものを見て、それでもたまたまうまい具合にすれちがい、身体をかわしあって、この世界にうごめきつづけ、死ぬまでの時間を走るのか。
幻と見間違いと行き違いだけの世の中を。

こんなに自分が人とちがっていると感じながら、なおも心のどこかで私は、自分がそんなに他人とかわっていると思えない。
他の人間だって皆、私と同じだと、どこかで思う。
ただ皆は私より賢くて、何かうまい方法で、そのことをやりすごしているのか。
それとも、そのことに気づいてないだけか。
いつも手さぐりで、半分何も見えないままに私は生きている。
戦う時の相手の身体と心の動きだけは、先の先まで読めるのに。
そのときだけは世界がいつもはっきりと、私の前に姿をあらわす。
殺してしまった相手のことが、いつも一番よくわかる。

Twitter Facebook
カツジ猫