江戸紀行備忘録徳永信之「寄生木草紙」(5)

「自讃の歌人」も紹介します

毒をくらわば皿までというか、やっぱりあんまり面白いから坤の巻に入ってる「自讃の歌人」も紹介しとく。細かいところは、はしょりますが、だいたいの意味がつかめる程度の大ざっぱな現代語訳も一応つけます。

筑後国久留米侯の御医師高木元仲といへる人あり。以前は米を搗て渡世とせしかば、苗字を称する者なく米屋元仲とのみ呼けるよし也。かの医師、皇国(みくに)ぶりの歌に執心して仮初に人に応対するにも、其人の好き嫌ひにかゝわらず頻に歌道を勧むる事、極めて深切也。みづから「奇人也」とほこりて、いきほひたかく古歌の論などせられし也。自詠あまたの中、平生人に語れる自讃の歌、増上寺の境内、弁天の蓮池を見てよめる、

蓮池に亀の子虫が這出てお菓子投れば鯉がずんぼり

庭に土竜(むぐら)のうごめくを見て、

むぐらもちなぜに其様に持上るぞ頭出せば鍬でちよつきり

かく詠じたるよし。外にも数<聞しがわすれぬ。

(久留米の医者で米屋もしていた元仲という人がいた。和歌に熱心で人にも勧めまくり、理論もよくしていた。自分でも自慢の歌は、事実を述べただけの、わりとしょうもないものばかりだったが、とにかくたくさん詠んでいた。)

要するに、めちゃくちゃ下手な歌なのだが、こういうのが紹介されることもなかなかないから貴重な資料かもしれない。話は続いて、作者の身近な人物のことになる。

是に類せし事あり。予が家に喜三郎とて十二歳に成し小もの、かの御医者にひとしく生得歌よむ事をこのみて何につけても口ずさみしが、或時浅妻舟の額を見て、

浅妻や柳の下で袖ひろげ蝙蝠に似て川の水のむ

又にしき絵の忠臣蔵の画を見て、

判官の腹きり刀九寸五歩四寸五歩なら腹はきれまゐ

(私の家に十二歳の下働きの喜三郎という少年がいて、その元仲と同じように歌を詠むのがとにかく好きで、似たような下手な歌を詠んでいた。)

江戸時代の人たちが庶民や地方の人まで含めて、和歌や俳諧に文字通りうつつを抜かしていた様子は、島根の歌人森為泰の紀行類からも痛感させられるのだが、この喜三郎君にしても、思わず「あんたが好むんかーい」と言いたくなる。というか、そもそも何がきっかけだったんだろう。
えらいというかすごいのは、それを周囲もバカにせず(してるのかもしれんけど)ちゃんとそれなりにアドバイスを与えていることだ。続けます。

かたはらの人聞て「歌をよまば、よき題を得て詞も必ずよむべし。左なくては稽古にならず」と言たるとて、予に「題を給へ」といふに、折ふし狂歌の題に「名所の鶯」といへるが有けるをあたへければ、日夜何やらん、つぶ<と口ずさみ居たりしが久しくいひも出ざれば「いつぞやの『名所の鶯』はいかに」と問に、「題を取てはよみにくゝて遅なわりぬ。吉野山は名所に候や」と問にぞ、「いかにも」といへば、

よしの山花さく梅の枝に居てほうほけきやうと鶯が啼

と書て出しぬ。「われも元より歌の事はふつにしらねど、吉野は桜の名所なるを梅とはいかゞ有べき」といへば、「扨むつかしき物哉」と暫し案じて、

吉野山梅さく花の枝よりも桜にうつる鶯のこゑ

と、よみかへたり。よしとも、あしともしらねども、以前の歌よりは口ぶりもおもしろければ、「いとよからん」といへるに、人々もほめにしかば、よろこぶ事限りなかりし。

(周囲の人は、「題を決めて、詞書もつけないと上達はしない」と言ったようで、私に題をくれと言ってきた。適当に「名所の鶯」というのを課題に与えると、いろいろ考えて、吉野山の梅と鶯のことを詠んだ。「吉野は桜の名所だから」と言うと、かなり無理をして桜も入れた歌にして来た。自分も皆もほめてやると、めちゃくちゃ喜んだ。)

それ以後も習作の日々は続く。

其年の秋のなかば、かれを具して亀戸天神に参詣し、妙見の社を拝し夫より、みめぐりの稲荷に詣でし頃は、日もやゝ西に沈み、塒に帰る鳥の声々かしましく風も身にしむ心地ながら、「今宵は名にし十五夜なれば川伝ひに見んも興あるべし」と堤をさまよひ吾妻橋にいたり、橋上に彳(たたず)み、おちこちを詠るに、実に隅田川は名におふ名所とて、浅草寺の入逢の鐘、耳もとに響き、夕こへくれば、まつち山、浅茅が原、石浜の神社など朧げに見へ渡り、かなたは三圍、弘福寺、勤行の木魚は川水の音にかよひ、長命寺に並びし白鬚の社は詩人の対句に成けんかし。月やゝさしのぼれば堤は千丈に続きて蟻の這さへ見へわたり、詠めに倦かず、去るに物うし。折から一つらの雁鳴わたるに、

物がなし秋の心の深かれと空に告こす雁の玉づさ

てにはさへ、わからねど、おもふまゝを口ずさみて喜三郎をかへり見、「兼ての心がけは、かゝる時なるぞ。何ぞ趣向ありや」と問に、「さきより考へ候へど、いまだ浮み申さず。しばし御待候へかし。あるきては心散てよからず」と、おもひ入たるさまゆへ、かれがいふに任せ、欄干によりて詠やれば、月光水面にきらめきわたり、かの「金龍流る」と賦せし妙句を感ずるに、屋根おほひたる舟ども、あまた、酒くみかわし舷をたゝき、どよみ狂ふ酔客あれば、猪牙舟に北を望みて走るは衆星の北辰に向ふにもたとへて、おかし。

(秋になって、この喜三郎を連れて亀戸天神に参詣し、帰りに夜の隅田川のほとりを歩いた。月が美しく、私は思わず歌を詠んだ。喜三郎はどうかと尋ねると、「ずっと考えてはいるのですが、歩いていてはまとまらない」と言うから、橋の欄干にもたれて川を見ると、屋形船や、吉原の遊郭に行く猪牙舟などがにぎやかに通って行った。)

この前後の描写は、夜の隅田川の情景が目に浮かぶようで、いかにも生き生きと美しい。それを見ながら、歌を詠もうと苦心する若者と作者の姿もほほえましい。でも、これは今、花火大会で携帯ばかりのぞいて、いい写真を撮ろうとする若者と、ちょっと似ていないこともない。
作者は、猪牙舟について考察する。

此小舟はもと長吉といえる船頭、川舟のあし早きを工夫せしより名付しが、猪の牙に似たればとて、風流に文字を書替しと聞しが、牙にのみ似たるに非ず、猪のかけるもひとしければ、よくも応ぜし名にこそ有けれ。「さはいへ、かく走りたらん果<は己がじし手負にやなりなん」とおかし。
爰に若人三四人、頭陀袋かけたる法師をともなひ、物語つゝ過るをきくに、「今宵の月をよそにやみるべき。此あたりに舟もとめて綾瀬川にさかのぼり、興尽なば流に順ひ下り、此頃捨し扇をも、閨の伽にやせん、かきはらいにし松葉をや敷寝にせまし。丁子かしらのしるしもあらんにいざなへ」と、のゝめきゆくは、誹友の色このめるにやあらん。

(猪牙舟は形や速さがイノシシっぽいが、行った先の遊郭では金を使わされて、客がイノシシのように獲物にされると思うとおかしい。土手を通り過ぎる俳句仲間らしい若者たちも、遊郭で遊ぶ計画を話し合っていた。)

さて、いよいよクライマックス?が近くなる。

己も綾瀬の月のこのもしさに、かの跡影の見ゆる迄彳(たたず)みしが、果なきわざなれば「いざ帰らん」といふに、喜三郎「今暫しまち給へかし」ととゞむるに、「さらば我も、かの遊客たちの羨しければ、たわれ歌よまん」とて、

いと長き秋のよすがら月にめでゝ綾瀬の川のはたや経るらん

と口ずさみて帰りを催すに、高瀬舟の下るを見て、喜三郎、

すみ田川流るゝ舟の棹とめて今宵の月の影を濁すな

といひ出しにぞ、中<に、さきによみたる我腰折の恥かしくて、是を家土産とし、それより施無畏、薩埵を拝し奉り、戌の刻過る頃家路に帰りぬ。

(若者たちを見送って、「もう帰ろう」と言うと喜三郎が「もうちょっと」と言うので、私は待つ間に「秋の夜は長いので美しい月を見ながら綾瀬川のほとりを歩こうか」と、どうということもない歌を詠んだ。すると喜三郎は高瀬舟が通ったのを見て、「隅田川に映った美しい月の光をこわさないように、舟をこぐ人は棹をとめてほしい」という、とても美しい歌をみごとに詠んだので、私は自分の歌が恥ずかしくなった。喜三郎の歌をみやげに、途中の社寺を参拝して八時ごろに帰宅した。)

「奇跡の人」の「ウォーター…ウォーター…!」じゃないが、喜三郎の覚醒の瞬間である。以降は作者の感慨。

誠に歌は皇国の風俗とて、得しれぬ雑言も三十一文字につらぬるからに、かゝるめでたき歌もおのづから出くる物にこそ有けれ。此喜三郎など、中<歌よむすべ知たるに非ず。されど御国に生れし徳、爰にあらわれ、自然の風俗備はれるものなるにや。されば、かの元仲子も今頃は達人ともなりけんかし。

(歌はとにかく五七五七七に並べると、立派な歌が自然とできることもある。喜三郎は歌を詠む勉強などしていないが、わが国に生まれた成果で、こういう歌も詠めるようになった。はじめに紹介した元仲という人も今ごろは名人になってすばらしい歌を詠んでいるかもしれない。)

最後の一文は冷やかしかもしれないが、流れから行ったら案外本音なのかもしれない。おそらく、これは作者の実体験であるだろう。喜三郎がこれ以後も、このような水準を維持できたかどうかはわからないが、専門の歌人以外にも、こうやって歌を詠もうと努力する人はきっと多かったのだろう。その実態を、この挿話はそれなりにリアルに伝えてくれている。(2020年11月21日)

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