江戸紀行備忘録徳永信之「寄生木草紙」(1)(「朽鞋雑話」の附録として)

とりあえず、目次を

昔は、誰かの紀行について論文を書こうと思ったら、手に入る限りのその人に関する資料を集めた。作品が残っていれば、全部読んだ。たとえ論文に引用したり参考文献にあげないでも、そうすることが当然だと思っていた。
今もそれを心がけてはいるのだが、なかなか難しい。
この「寄生木草紙」は、徳永信之「朽鞋雑話」という紀行があまり面白かったので、どこかで紹介しようと思って調べているとき、作者が書いた随筆ということで、どこかから(調べますので少しお待ちを)コピーを取り寄せたものである。随筆という性格上、作者の人となりが、紀行よりよくわかるかもしれない。翻刻はしないが、内容をあらあら紹介して行く。
原本を見ていないので、詳しい書誌はわからないが、写本ニ冊の大本で、乾坤各冊の目録(目次)は次のようになっている。

奇才の幼童
言馴し謬
兵法乃印可
かしこ渕
人麻呂の像
北風の異名
四悪十悪
文字の問答
燕の性
蜷川の悟道
心学の論
辯者の閉口
祈念祈祷
言語の偽

姥子の温泉
自讃の歌人
中津乃仁君
禍の転遷
神職の過言
本朝医の祖神
附言 再話
追加 私旨

中身の紹介が、とまらない

その内容だが、いきなりですみませんが、わあ困った。
適当に概要を並べて終わろうと思っていたのだが、テレビの野球中継など見ながら適当に読み飛ばしていたら、これがまあ、なかなか面白い。作者の人となりを知る上でもいろいろ役に立つこともあるが、何しろ「朽鞋雑話」と同様、純粋に読み物として、やたらに読んでいて楽しい。ばかばかしいと反省しつつ、ひきこまれてしまうのだ。

先に、忘れそうなことから書いておく。その前に、というか、最初に言っておくと、この作者については「国書人名辞典」にも項目がなくて、わからない。
「人名辞典」については片岡寛光の項目でまた述べるが、「国書人名辞典」は、「国書総目録」(江戸時代以前の和装本の所在をすべて記している)に上げられた書名の著者についてわかることがあれば、すべて記載している。「朽鞋雑話」も「寄生木草紙」も「国書総目録」にはもちろん上がっていて、著者は徳永信之である。それで、「人名辞典」の方に名前がないということは、いっさい資料がないということだ。
まあそういう人物は珍しくない。少し調べればわかる可能性もむろんある。
「寄生木草紙」の序文では、徳永信之は祐哉堂主人と署名している。これも手がかりになるかもしれない。

「寄生木草紙」の中の記述から察すると、作者は晩年に目を悪くして、目指していた人生の目標は達成できなかったようだ。そう書いているぐらいだからまったく見えなくなったわけでもないだろうが、失意の人生ではあったらしい。
そのせいか、もともとか、たいがい厳しい極論を随所で吐きながら、すぐに「自分のようなものの言うことだから」とか「これが絶対正しいということではないが」とかいうような控えた言い方をすぐにする。
宗教特に仏教への批判も多く、だがこれは特に仏教というよりは、日本古来の思想や習慣を変化させる新しい思想や習慣すべてに対する疑問というべきだろう。最後の数章では特に医療や出産や性生活の面で、中華や西洋に影響されて変化して行く日常に激しい警鐘を鳴らしている。

もう少し、作者像について触れる。とても論文などでは書けない、こういうブログならではの書き方をするからお許しいただきたい。
「朽鞋雑話」を紹介していた時、やたら面白い面白いと言いながら紹介していて、あれ、もしかしたらそんなでもないかなと少し不安になったりした。何で私はこれが江戸紀行の中でも抜群に面白いと思ったのか、やや自信がなくなったのだ。文章も題材もたしかに悪くはないのだが、気になったのは思っていた以上の作者の理屈っぽさだった。

再三あちこちで述べるように、私は江戸時代の人の文章を読んでいて、紀行に限らず小説でも演劇でも、強く印象に残るし快いのは、その、時に奇妙なまでの精緻な論理性である。有名すぎる「仮名手本忠臣蔵」で、老父と夫の勘平の死を聞かされたおかるが、

もったいないがととさんは非業の死でもお年の上。勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのは、さぞ悲しかろ、口惜しかろ

とか言って泣く場面は、橋本治氏をはじめ多くの人がとりあげて、おかるっちゅう女は、みたいに苦笑する。まあたしかにこれは、おかるの人物造形の要素の一つでないこともないかもしれないが、でもひょっとしたら私はこれはそれ以上に「江戸時代」なんじゃないかなあと思ったりする。ものすごい悲しみでも、こういう風に理路整然と分析して述懐する傾向が、たしかに江戸の文学には、ひいては江戸の社会にはあるんじゃなかろか。

だから、おかると同様に徳永信之の理屈っぽさも、特に普通以上ということはない。ただ、それにしても、その理屈っぽさには新しさや珍しさはあまりなく、もしかしたら、けっこう古臭くてかたくななおじさんで、あまり魅力的な人柄とは言えないのかもしれないという印象が次第に強くなって行った。
「寄生木草紙」の最初の話を読んだあたりから、さらにその印象は強くなって行った。最後まで読むと、果たして彼がかなり古めかしい保守派と言っていいことはわかって来るのだが、逆にそこがわかってしまえば、一回りしてやっぱり面白い人物だという思いも強くなって来る。決して頑迷固陋でも偏屈でもないことが、むしろはっきりもして来る。

「寄生木草紙」は、江戸時代にさまざまな形式が山ほどあった随筆の一つで、しいて言えば奇談集の要素も強い。しかし、そういう作品の中でもやはり、理屈や論理が多いということは一つの特徴だろう。全編すきなく、理屈がしきつめられている風情がある。
だが、その一方で、先に述べたように、妙にへりくだって「これが正しいかどうかはわからない」という記述も多く、また何かについて相反する説を併記して、「どちらが正しいか判断できないから一応書いておく」という姿勢もよく見せる。
この断定しない不可知論、判断保留でとにかく記録する、という態度は江戸紀行にはよく登場する。「古松軒の林子平批判」「採薬記の世界」で私が述べたように、自分で直接確認できないものについては、江戸時代の知識人は実に慎重で寛容だ。ばりばりの学者や研究者はともかく一般の人なら、現代の人の方がはるかに理性的でないし、知的でもない。

徳永信之が自分のそうした傾向をどのように意識していたかはわからない。「寄生木草紙」の中には、理屈っぽい話が得意で皆に尊敬されたり、それが度を越してバカにされたりする人物(「理学者」と信之は呼んでいる)の話も出る。特に自分に引き比べて反省したりしている様子もないから、他山の石として記したのでもないようだ。ただ、こうした人物は怪しげな人も含めて世間にはしばしばいたということはわかる。「寄生木草紙」に登場する、さまざまな考察や論証を見ても、江戸時代の人々は、専門的な事柄から卑俗な日常的な次元の問題にいたるまで、あふれるような知的好奇心や観察や考証を好み、情報交換と討論を愛し、知識と思考の渦の中に身をおいていたことが伝わって来る。

ツバメの話

えっと、とりあえず、そういう理屈っぽい要素がほぼまったくなく、わかりやすくて面白い(と思う)ツバメの話を紹介してみよう(乾の巻「燕の性」。目次と本文のタイトルが少しちがう)。長短いろんな話が収録される中では、かなり長い話の一つだ。

燕鳥の性

乙鳥は毎年春分の頃、此地へ来りて巣を作る。家をたがへざる事、感ずるにたへたり。然れども見馴たる事なれば今更奇とするものも非ざれども、爰に一ツの奇談あり。
京橋南新両替丁三町目に、献上の上り太刀を製する川井次郎右衛門といえるあり。此家に燕、巣をくむ事毎年かわらざりしが、寛政の初メ頃なりし、向ふなる常是御役所の家根に雀あまた、朝まだきにむれ居たるを、餌刺来りて竿をもてさゝんとするを見て、かの川井のみせなる伝吉といふ小もの、「あな、可愛や(ああ、かわいそう)」とて念仏をとなへしを、鳥さし聞とがめ、大に怒り「おのれ、何やつなれば御用にて小鳥をさすをさまたぐる不届もの也」と罵りながら「御用なるぞ」といひざま、竿をみせ(店)の内へさし入れて巣に居たる燕を一羽さし、すぐ様、腰なる網袋に押入れ、悪口たら<にらみ廻して立さりけるにぞ、家内はもとより此有さまを見るもの、こぶしを握れども、「御用」といへるに恐れ無念を忍び、扨(さて)やみぬ(そのままにした)。

元来、此鳥さしは、おのれが渡世に小鳥をさしあるかんが為に、日本橋安針町にて東国屋といえる御鷹の餌の御用達あるに、一日に雀いく羽を運上に納めんと定めて、御府内をさし廻るべきしるしの鑑札を此家より借受て、運上の外を我物にして鳥屋に売て世わたりをする物也。此鳥刺どもに制禁あり。寺社をはじめ武家は勿論、町家たりとも人家の構へ内、飼鳥又は野鳥といへども人家の地覆に入たるなど、刺べからざる旨、厳重に申わたす事なれば、ましてみせ(店)の内などへ竿を入る事、右の東国屋へ届れば、此もの糺明に及ぶよし、後に聞て口惜がりぬ。

然るに此燕の雌雄はしらざれども、跡に残りし親子の乙鳥、狂ひなく声さながら妻を乞ひ親をしたふかと心耳に透りて哀さ思ひやるに限りなし。「かくては昼夜啼死せんは必定なり。如何せん」と、こぞりて評すれ共、せんすべなし。
しかるに残りし一羽の親つばめ、飛出てより帰り来らざれば、子燕ます<かまびすしく啼て声もかれ<なるにぞ不便さ限りなく哀也しに、やう<二タ時斗有て、かの親鳥帰り来り、又鳴声甚だし。一羽にては餌を運ぶ事の足らざるにや、唯(ただ)なきに鳴く事もとの如し。

「いづくよりか遥々き道を凌ぎ来り、巣をいとなみ卵(たまご)を孚(かへ)し、かく迄そだてし子鳥共の不幸にして爰に終らんは誠に是非なき事也」といひあへり。その日も夕ぐれになりて、なかば戸を入る頃、近きほとりの童ども、いつもの如く、蝙蝠をとる迚(とて)長き竿に、くちたる草鞋、或ひは古き裁などつけて、たはぶれ遊び居たりしが、打合ふはづみに何やらん外(そと)の方より打入れしを、みせのものども、しかりければ童らは逃ちりたり。

かの伝吉に「何やらん。取捨よ」といふに立寄見れば、「蝙蝠にや、むくめきて気味わろし」といえるに明りをよせて見れば、こはいかに、今朝(けさ)さゝれたる燕と見へて黐(もち)にまみれ目なども閉つき羽根もところ<ぬけ、殊につかれたる有様也。「かれ不思議にも遁れ来りしや」とて、家内大きによろこび、もちを油にてぬぐひとりなど、いろ<介抱して巣の中へ入れたりしに、燕ども又々大きに囀りしは、無事を悦べるにやあらん。

扨(さて)暫らくは巣をはなれざりしが、十日あまりも立て羽根もとゝのひ、本トに復せしかたちにて、其後は親鳥二羽ながら餌をもはこび、秋の末、雛ども恙なく立行しは誠に不測の命を全ふせし物にぞ有ける。
かの燕、其朝さゝれて雀とともに網に押入られしより、餌さし暮に戻りて網より取出す時に遁れ出たるならん。終日網に入て歩行し物馴れば、己が巣も何国や覚束なかるべく、殊に鳥類は暮頃よりは目も見へずと聞くに、家もたがえず帰り来り、其うへ暮時はいづかたにても子供らが蝙蝠打て遊ぶ折なれば、日本橋より十丁余里もある道を、ことなく帰りしは、いと危き事なりかし。「若(もし)打合ふ竹の下に命を落さば終日の辛苦もいやづらと成、つま子の嘆き、いか斗(ばかり)ぞや」と思ひやれば、身の毛もいよだつ事也。手の中にかくすべき程のちいさき鳥類すら此志あり。まして万物の霊たる人間におゐてをや。志は励むべし。孝慈は忘るべからず。

是に付ても殺生を世わたりとする者は是非なし、おのれが口腹を甘んぜんが為に狩すなどりをなすべからず。漁は風波の恐れあり。猟は狼豺の難、斗りがたし。俗にいふ「川だちは川で果る」の諺も恐るべし<。

これに続いてもうひとつ、ツバメの話が書いてある。これは短い、おまけみたいな話だが、ついでに書いておこう。こちらの話は感動的というよりは若干、眉唾ものだけど、奇抜な面白さはある。

或人の話に、さる片田舎に外療を業とする医生有。夏日、鍼を干せしが一本みへざる故、其ほとりさがし求むれども、ふつに見へざれば、其侭にさし置ぬ。此家に毎歳燕来り子をなすに、とし<卵よりも数不足して立つゆへ、不思議におもへども、さのみ心にかけず居たりしが、其夜かの燕の巣、大に鳴騒ぎしが、忽ち大きなる音してドウと落る物有しかば、あるじ驚き燈火をてらしみるに、いと大きなる蛇の狂ひまわりて暫時に死ける故、立寄みれば昼失ひし鍼、蛇の目につらぬき、首は嘴にて突たゞらかしたる跡あり。早々取捨たりしに其後は卵の数もたがわず、恙なく立しとぞ。年<此蛇に卵をとらるゝをいきどをり、子の敵を取たる成べし。又、南瓜の種を燕のくわへ来り恩を報ひし噺も聞り。是らを思ふに「一寸の虫に五分の魂」といふ諺もあれば、殺生はいとふべき事にこそ。かくいふも陰徳をすゝむるに似たれど畢竟は己が身の衰へたるゆへなるべし。

最後の一文は、「こんなことを言うのも、儒教の勧める、人知れずよいことをせよという教えを広めるようだけれど、ただ自分が年取って弱気になっただけのせいだろう」ということだろうか。熱く語った後に信之はこういう、さめた態度の発言をつけ加えることが多い。(つづく)

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