江戸紀行備忘録己巳紀行

京都府立丹後郷土資料館からのメール

2020年の8月に、京都府立丹後郷土資料館資料課長の森島康雄氏から、貝原益軒の「己巳紀行」について、メールをいただいた。資料館で購入された「己巳記遊」の写本についての、ご質問であった。

メールから引用させていただくと、

写本は、茶色表紙。25.6㎝×19.2㎝。外題「己巳記遊/丹波丹後若狭近江河内/和泉紀伊大和/摂津之嶋上山城之西山」。

奥書は、「元禄二年八月望日 貝原篤信書/壬申夏六月二十六日/竹洞野冝卿一校/元禄五年六月十八日検閲之了」

また、「丹波丹後若狭紀行」の末尾には「元禄二年八月既望 貝原篤信書」「南遊紀事」の末尾には「元禄二年八月十一日 貝原篤信書」とあります。

本文は癖のある文字で書かれ、読みにくい字の脇には朱書の書き込みがあります。

とのこと。新出の写本ではないかと思うので、教えてほしいというご依頼であった。
結論から言うと、新出の写本である。貝原益軒また江戸紀行についての貴重な資料である。
「国書総目録」にも掲載されていないから、早くどなたかがどこかで紹介して、CiNiiなどの検索にひっかかるように、記録に残しておいてほしい。

ただし、内容はすでに翻刻されている「己巳紀行」と、おそらくはほぼ同一であろう。「新日本古典文学大系」で、比較的手軽に読める。
それでも、貴重な資料である理由を、以下に書く。

写本と板本

古い話だが、私の叔父の板坂元が出した新書「町人文化の開花」の中で、「印刷された本と書写された本を時代別に積み上げるとすると、江戸時代になって、いきなり前者が圧倒的に増加する」というようなことを書いていた。その通りである。
印刷された本は、板本とも版本とも書く。中世以前は印刷された本と言えば、仏教徒やキリシタンの教典を信者が小規模に印刷していたぐらいだったが、秀吉が朝鮮半島に派兵して、印刷技術と印刷工を持ち帰り連れ帰った。それで天皇など身分の高い人たちが、ぜいたく品のようにして、いろんな書籍を印刷した。

そのころは、朝鮮半島から持ち帰った技術のまま、印刷は銅や木の活字だった。そのころの本は、古活字本と言って、内容に関係なく、稀少価値があるから今見つかるとバカ高い。しかし、その内、ページまるごと(ちなみに、江戸時代の本の多くは、紙一枚を二つに折って重ねて綴じた「袋とじ」。そして、紙一枚を一丁と数える。つまり裏表二ページ分で一丁となる)を印刷する「製版」に切り替わる。江戸時代の大半の本はこれである。
古活字本を整版本と見分けるちがいは、活字の向きがばらついていたり、周囲の枠が角のところで切れたりしているから、だいたい、わかる。

もちろん今の出版部数とは比較にならぬが、それでも印刷技術はやがて一般社会に広がり、書肆(書店)も多く生まれた。当時は貸本屋が大きな役割を果たしていたが、そこで扱われる本も含めて、流通する本の多くは板本となり、写本は主流ではなくなった。
それでも、出版したら法に触れる内容とか、個人的な日記や記録、紀行などは、写本も相当存在した。

ずっと昔に、今井源衛先生だったかが、しみじみ言っておられたのが、「平安時代専門の自分たちだったら、資料調査で源氏や伊勢の板本が出てきても、ふんっという感じで、やっぱり写本の方を重視する。でも逆に江戸時代の研究者の人たちは、板本だとていねいに見るけれど、写本だと大抵が板本を書写したものだからつまらないという感覚で相手にしない」ということだった。
のちに江戸文学の中野先生は「江戸時代の写本は、そうバカにしたものではない、重要な存在」としきりに言っておられたが、そう言っておられたということそのものが、ひょっとしたら先生ご自身も含めて、江戸時代の人にとって、貴重な資料は板本であり、写本は板本を買えない人が写したにすぎないものという感覚があったのかもしれない。

私自身の研究対象の江戸紀行は、むしろ写本も板本も同じように名作やヒット作が存在したから、そのへんの区別は私の中には全然なかった。ただ、やはり江戸時代の人がよく読んだ名作と言えば、紀行でも板本ということになるだろうというのは、代表作家の益軒、南谿を通しても感じていた。後期の代表で江戸期の到達点として、小津久足の紀行類をあげるのは、その点では勇気が必要だったかもしれない。でも実際には何の勇気も必要なく、私は久足を他の二人と並べた。それは私の頭の中にうずたかく積もっていた、江戸紀行のたくさんの作品の記憶から、自然に生まれた判断だったのかもしれない。

書型とジャンル

江戸紀行の代表的な作者は、前期の貝原益軒、中期の橘南谿、後期の小津久足、と定義づけたのは私である。今のところ、これは通説として、認められているようである。
だが、実は、益軒と南谿については、若干微妙な点がある。

今でもそうだが、江戸時代の本は写本でも板本でも、大きさつまりサイズや色などの体裁が、そのままジャンルを示している。黄表紙にしても洒落本にしても、見た目のかたちがそのまま内容を示しているし、書肆の目録の分類もそれに一致する。
紀行は、写本の場合は大きめのサイズで、縹色(青色)の表紙が多い。板本だとそれより少し小さめの半紙本というサイズもある。
益軒と南谿の本は、どちらもこれにあてはまらない。サイズとかだけではなく、全体の雰囲気や体裁が、完全に益軒のは小ぶりで厚めの実用書としての案内記だし、南谿のは紺色の半紙本が、どこから見ても奇談集である。だから、図書館の目録では、どちらも「紀行」の部に入っていないことも多い。

(写真は、右が案内記、左が奇談集。案内記の方は、新書本よりちょっと大きめぐらいのサイズ。)

その一方で、古い文学史や紀行全集のなかでは、どちらも普通に「紀行」として、とりあげられている。
これは、もともと現代でもそうだが、「紀行」というジャンルそのものが、一方では地誌や記録、一方では歌集や句集など、他ジャンルとの境界があいまいで、区別がつけにくいことも原因である。あまり厳密に「紀行」の定義をしようとすると、かえって実態も魅力も見失いかねないから、私はそこはゆるやかなままに研究を進めて来た。

奇談集と紀行

これは他でも何度か書いたし、これからも書くと思うが、奇談集と紀行の関係には、いろいろな背景がある。「事実を書き、実用にも役立つ」のが江戸紀行の基本であるとともに、「藩の内情などにつながる情報をとがめられずに、写本でなく板本として公開するために」奇談集という形式が意図的に選び取られた可能性が高い。江戸時代、写本は非公式なものとして何を書いてもとがめられることはまずなかったが、板本は厳しく取り締まられた。「奇談集」という形式は、虚構を交えた読み物であるというスタイルを守ることで、検閲を逃れようとし、事実逃れたと私は考えている。

「案内記」というスタイル

益軒の板本として刊行された紀行類は、いずれもそれとは逆に、すべて事実に即しており、実際の旅のガイドとして利用できることを標榜している。そしてこれは、古松軒や久足などの代表作家も含めた、江戸紀行のひとつの守るべき基礎でもあった。
当然ながら、益軒の紀行類は、すべて小型の実用書としての体裁を守り、内容もそれに合致したスタイルで表記されている。江戸時代から近代にいたるまで、これらが自然に「紀行」として扱われ、私もそれを踏襲したが、思えばそれは、この書型を見る限り、かなり大胆な視点でもあった。

ただ、福岡市の貝原家に残る「東路記」という分厚い写本、各地の図書館に数点残る「己巳紀行」という写本を見ると、もともと益軒は、これらの案内記のもととなった記事を、普通の紀行のかたちで書いており、京都の書肆茨木屋太左衛門(柳枝軒」が、案内記の形式にして出版するときに、中身はほぼそのままだが、表記などを案内記風にして編集したということがわかる。

貝原家所蔵の「東路記」

「東路記」については、私が前に書いた論文を見ていただきたい。特に16ページの図を見ていただければ、「己巳紀行」と合わせて、益軒のこの二冊の写本から、彼の代表作とされた、「案内記」形式の紀行が抜粋編集された過程がわかるだろう。

従来の紀行全集などに紹介されていた益軒の紀行類は、いずれも、この「案内記」の板本である。だから私は「新日本古典文学大系」で、益軒紀行を紹介するとき、そのもとのかたちである、貝原家蔵「東路記」と京都大学建築学科所蔵の「己巳紀行」を使った。これが益軒紀行として紹介されたのは初めてのことなのである。余談だが、古川古松軒の「東遊雑記」も、本来ならより原形を残した南葵文庫本を、いっぺんどっかで絶対紹介しておくべきだろう。言っちゃ何だが、この益軒紀行のもとのかたちの写本二つを、そうそうめったに絶版にはならないだろう岩波書店の全集に残せただけで、私は自分の人生の仕事のノルマはたいがい果たしたと言っていいぐらいの気持ちでいる♪ 自己満足ですいません。

「東路記」の写本は、今のところ福岡の貝原家にしかないはずだ。益軒の若い愛妻東軒が書写した本である。ご一家では、益軒の蔵書をとても大切に保存しておられるので、最近の図書館よりは。きっとはるかに安心だと思う。

建築学科のガラス戸棚の中に

「己巳紀行」の方は、これまた私の古い論文の46ページを見ていただくとわかるように、全国に四点残っていることになっているが、うち一冊は戦災で焼失、宮内庁書陵部の一冊は叢書「扶桑残玉集」の中の作品だが、タイトルは「己巳紀行」でも、中身は板本の案内記「諸州巡覧記」と同様の、つまりガセ。天理図書館の一冊は、内容は確かに「己巳紀行」なのだが、冒頭に「諸州巡覧記」と記して、全部にわたって板本「諸州巡覧記」を書き入れ補充している。
だから私は、一番もとのかたちを残す京都大学本を使ったわけだが、この本は実は建築学科にあるということで、図書館ではなく、広いキャンパスを右往左往したあげく、たどりついた研究室のガラス戸棚の中に、いかにも場違いな感じで入れてあって、私が新古典文学大系の底本(翻刻のもととした本)に使ったからといって、少しは大事にしてもらえるようになったのかしら、建築学科では不要の本としてもうあっさり処分されているのじゃないかしらなどと、ずっと気にかかってはいる。

要するに、「己巳紀行」は、そうそう、どこにでもある本ではない。そして私が最善の本として選んだ京都大学の本にしても、貝原家の「東路記」のように絶対に一番由緒正しい本かどうかはわからない。というか、比べる対象さえもない。
私のおぼろすぎる記憶では祐徳文庫かどっかにもう一つあったような気がするが、さだかではない。未整理の文庫や個人宅から、まだ出現する可能性はある。

というわけで、今回、丹後郷土資料館が購入された「己巳紀行」は、とても貴重な資料である。森島課長はすでに私の論文「己巳紀行の場合」(ものすごく読みにくい論文で申し訳ない)をチェックされて、たしかにこの資料の内容が「己巳紀行」であることを確認されている。あとひとつ気になるのは、京都大学本と比較してどちらが古いかということだが、送っていただいた部分コピーを見る限り、何となく丹後本は比較的江戸後期、つまり新しいもののような気がする。ただし私は書写年代の判別については、あまりというかほとんど能力がないので、これはどなたか資料を見慣れた方に判断してもらいたい。

ちっ、これでだいたいおしまいなのだが、読み返しても面白くないだろうなあ、専門外の方には、ややこしすぎて。ちょっと画像でもつけてみようかな。乞うご期待。もうちょっと待って下さいませ。

いただいた画像

その後、京都府立丹後郷土資料館の森島康雄課長から、この己巳紀行の表紙と、末尾いわゆる奥書の部分の複写の掲載を許可していただいた。深く感謝して、画像を冒頭に掲載する。本の体裁や、字体がいつごろのものか、ご意見がおありの方は、「お手紙」欄から私にメールをいただけると、とてもありがたい。

同館では、以下のような催しも計画されていて、この本も展示される予定という。お近くの方はどうぞぜひ、足を運んでごらんになっていただきたい。

森島氏から、いくつか記述の誤りを指摘していただいたので訂正した。青の下線を引いた部分である。

画像はいずれも、クリックすると、少し大きくなって、読みやすくなる。

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