江戸紀行備忘録徳永信之「寄生木草紙」(4)
かくれんぼ
「寄生木草紙」写本二冊の、坤の巻の冒頭に収録された「姥子の温泉」は、かなり長く、一つの紀行として成立している。このように、随筆の一部などにかくれたかたちで、紀行が存在していることも時にある。何となく面白そうなので、以下に全文を紹介してみる。
姥子温泉紀行
姥子の温泉
己れ往年眼の病ひを患ひ、さま<療養を加ふといえ共、更に治せず。或人の云、「箱根七湯の奥、姥子山に温泉あり。いかなる難治の病といへども此湯に浴して癒ざる者なし」ときこゆるにぞ嬉しく、はや本復せし心地して同志の烏暁といへるをはじめとして、同伴の者三四人かたらひ、文化丙寅水無月のはじめ彼地へ志しいたるに、相州箱根山湯本道より入て七湯の奥、木賀の温泉より三里半、山深く入て仙石原といふ裏御関所あり。爰を過て冠ヶ嶽、公時山など遥に見へ、又山道三里余り入るに人跡たへ、葎、萱原を凌ぎ彼地に至り見るに、浴湯の家唯一軒あるのみにて、岡を隔て又壱町ばかり、明礬を製する家一軒あり。外には更に人家なく、三嶋の駅まで十余里にして誠に深山也。田畑も一向になく究めて不自由也。此温泉は箱根山別当の預りにて、権現の社人壱人ヅヽ年番にて来り守る也。此節は和田大炊といへるが勤番なるし。俗名を清三といへり。温泉は只一すじにて「姥子の湯」と号す。
つい無駄話がしたくなる。江戸時代の温泉紀行って数は多いし、おおむね楽しそうなのだが、中には治療の効果がなくて、くらーい雰囲気で終わるものもある。って、一つしか知らないが(笑)。「湯倉温泉紀行」ってやつで、私はその珍しさにちょっと感動して、初めて出版した本の「江戸温泉紀行」に収録した四編の中にそれを加えた。
徳永信之のこの紀行も、同じ眼病だから、それを思い出して、はなからいい予感がしない。予感も何もこの随筆の最後で彼の眼病が治癒しなかったことはわかっているから、ますますちっともいい予感がしない。おまけに「朽鞋雑話」のひどい宿の話でもそうだが、この作者の筆は、こういう不景気な宿だの場所だのの話となると、何だか妙に活気を帯びて冴えわたる。今ならきっと自虐ネタというやつが得意な人だったにちがいない。
まあとりあえず、先を読もうか。
浴槽(ゆぶね)二間に三間斗にて、家の内に有。又此分流に「薬師の湯」といふあり。みなもとはひとつのよしなれども、此湯はすこしやわらか也。是は湯ぶね壱間斗にて少しはなれ、地下りに並び建たり。入湯の者は長屋に居る也。凡(およそ)三間に十間斗りにて四棟程あり。外に「上段」といふ有。是は貴人豪家の設けにして、常人へは貸ず。爰にのみ内へ湯を取入てあり。其余は彼惣長屋に男女つどひ居る事なり。
山上に堂あり。姥子権現を安置す。相向ひに薬師堂あり。此湯に浴するもの、先(まず)此薬師と権現に日参して本復を祈念するに、きはめて験ありて難治の症といふとも全快せざるものなし。
先(まず)湯へ入もの、明礬屋の老婆にまみへて湯治の応不応を問に、彼老婆、其善悪を察し、応ぜざるものは其訳をいひて帰すなり。又、応じたると見れば路費尽て居がたきものにも、此老婆が家に食客となし湯屋へ断り遣はし無料にて入湯させ、帰国の路銭も程をはかりて、あたへ遣はすとぞ。
え、昔、温泉紀行はかなり読んだつもりなんだけど、こんな婆さん見たことないぞ。何者なんだ、この老婆(当時だからけっこう中年ぐらいなのかもしれんけど)。
ちなみに今の姥子温泉。何と「吾輩は猫である」にもこの温泉登場するのか。あれかな、迷亭がじいさんの煙草を盗んで、プレゼントしてもらう話のところかな。
此姥、任侠の行状あれども事長ければ爰にしるさず。湯屋にては集客の浴湯、応不応にかゝはらず滞留せさせざれば収納にあたらず。老婆最初に見究めて験なしとて帰す時は、湯屋にては迷惑なれども、是を制する事、箱根よりもなしがたきよし也とぞ。此老婆が家は温泉の湧出せざるむかしより爰に住するとかや。然るに諸国近郷のもの入湯するに、三五年もしは七八年に及び療養手を尽したるもの、此湯に浴し眼を洗ふに権現の感応霊験いちじるくして本復せざるはなし。皆、彼老婆の目利(めきき)に有事也。
然るに予も湯に入て三日斗の後、かの姥に相見するに、「いまだわからず。一両日過て来れ」といふに、又一日過て行たるに「相応」といふに嬉しくおもひ、其夕方いたれば「相応せず」といふ。心迷ひて日々両三度行て見するに彼老婆いふ、「扨(さて)御身の目ほど解しがたきは是まで見たる事なし。一年中には凡(およそ)千余人の眼病を見るに、我十七才にて此家に嫁してより、ことし六十八才成ば五十二年まで幾万の眼を見て、湯の応不応を察するに一ツも見誤ることなし。然るに御身の目は朝夕に変じて更にわからず。あしたに霊験あるかと見れば夕べに感応なし。幾万にもなき難症なれども、『帰り給へ』共いひ難し。今暫く信心をおこし入湯して見るべし」といふに、いと便なく悲しけれど、せんすべなし。
うーむ、老婆の任侠の行状って何だったのか知りたいなあ。もう今となっては絶対にわからないのだけれど。それはさておき、その婆さんがこれだけ困る作者の症状も何と申し上げたらいいのか。
同伴は三七日斗にして全快を得、皆帰路を催せども、己れは更にしるしなければ今一度本復なさん事を思ふに老婆いふやう、「御身の眼病は甚だむつかしく見ゆれど、全く療治の叶がたき症ともみへず。古郷には老たる母御もおわすとの事なれば嘸(さぞ)かし案じ給はんと思へど、今三十日斗も湯に入見給へかし。本復あらば御身は勿論親たちもよろこび給はん。夫(それ)とも御身の了簡に斗らひ給へ」といふに、心迷ひ進退いかんとも弁へがたく、湯屋にとへば、是も「今暫く浴し給へ」といふを便りに、おのれひとり留りぬ。
そしてますます、嘆きは深くなるのだけど、これだけ素直に落ちこめるというのも、ある意味すごいし強いよなあ。作者もここで引いているけど「平家物語」の俊寛僧都の「足摺」場面に共通するものがある。
此山の定めにて、本復して山を出るものは姥子権現を開帳し、拝み奉り御膳を供する事也。同伴のふたりは本復の祝ひとて、
奉捧 姥子権現宝前詠歌 烏暁
姥子山みねふく風のあればこそくもりもはるゝ暁の空
おなじく 旧穂
かげくらみ木の間を過る夕立の晴てあかるき姥子山の端
かく詠じ宝前に捧げ別れを告て、いさましく出たつにぞ、再会を期し送り出て別れに望めめば、たよりなく悲しく彼鬼界ヶ嶋の僧都もかくや有けん。
更に季節も移り変わって行くのよねえ。
夏もはて、秋の木のはの落るにつけ、風さへ身にしみて哀さやるかたなく、はや此頃は爰につどひし人々皆平癒したる由にて、権現の開扉、日に<四五度に及び、おのがさま<出去て此深山に人かげすくなく、残りしもの迚は江戸箕輪二丁め糸屋源七といへると我と唯ふたりのみなれば、かたみに顔を見合せ、うきを語るを友として袂のかわく隙もなし。文月半ば爰にも魂祭るわざ有て、老婆が宿も魂棚を設け「親類旧知のなきたま(亡魂)へも水をも手向けよかし」など、我等ふたりを殊にいたわりけるぞ少しはたよりある心地したり。
文月もはて葉月のはじめと成ても本復のしるしもなければ、老婆のいへるは、「さて、しばらくの滞留にて朝夕にしたしみぬれば、さらに他人とは思われず。我いふごとく、さすがに捨たる症にも非れば、今迄はとゞめしが、いかなる事やらん、更に功もみへざれば、いたづらに此山に起ふし、霧深き頃山気に中りて余病をうけ給わんも斗りがたし。此湯に限りたるにも有べからず。又よき療治もあるべし。是迄の辛苦を、いたづら事となして、『帰り給へ』といふも、いとおしけれど、先(まず)こたびは帰府し給へ」と深切にいひ聞するにぞ、古郷の母も心ならざれば帰国に決定して、湯守り清三に此事を語るに、「是まで此湯に浴したる人、最初に『相応』とみゆれば全快して帰国せざるものはなし。今より後は湯代雑用とても更に申請まじき間、当年中、心置なく入湯し給へ。我等と同じく麁食をも参らせんまゝ先とゞまり給へ。よもや本復なき事は有まじ」と懇(ねんごろ)に聞ゆれば、又進退斗方にくれ、此よしを老婆に語るに、「されば湯だに相応せば何しに清三どのに世話懸べき。こなたに食客として旅費の用をも贈り参らする心ながら、かくまでしるしなき故にこそ、『帰府し給へ』と申也」とて、互に「居よ」「帰れよ」の論、果ざりければ、又ふたりがいふ様、「さらば此よし、権現の神前にて吉凶を鬮(くじ)に伺ひ、神慮に任せん」といへるにぞ、かのふたりと我と三人、身を清め宝前に御鬮を捧げ信心を凝してひらき見るに、いかんせん「帰るべし」との御鬮なれば、頼みも(ママ)綱もきれ果て悲しさいはんかたなし。
作者の状況は本当に思いやるに余りあるが、「千と千尋の神隠し」の湯屋婆じゃないかと思うようなこの老婆が案外とても親切だったり、湯守りの清三も親身になってくれるし、両者の対立も含めて、温泉郷の実態がよく伝わる貴重な資料でもある。
でも、もう帰るのかと思ったら、これからがけっこう長いのよ。長いし、わりと、すごいのよ。
斯ても果ねば宝前を退き、明後日は帰府と治定し出山の例なれば本復にてはなけれども、赤飯其外神供を備へ開扉し奉るに、朦朧として更に神体を拝する事さへ叶はざれば、いと口おしさ、いわんかたなし。社壇拝殿は本復の詩歌発句文章など、いやがうへに張かさねたり。我も又一首の腰折を捧ぐ。
雨催ふ曇りと見しも夕風に晴る姥子の山の村雲 信之
かく認めて捧げ帰りしが、つく<思ふに此深山にわけ入、許多の月日を送りながら聊(いささか)も霊験なきに、全快の詠を捧げ明らかに神体を拝する事さへ叶はずして帰国なす事、返す<も口惜く、「よし今此山中人たへたれば来り咎る者もなし、密に神体を下し明るき方へ守り出て神拝の上、恨みを申奉らん」と、たくましき心をおこして、密に再び登山し、厨子とり出し奉りて是を拝するに、御たけ弐尺斗にして頭はおどろの髪を乱し、おもては老女にして、するどくして、け高く、また何となく愛敬有て、いと尊とし。左の膝をたてゝ左右の手をのせたる神像にて、性は黄石と見へ石肌滑らかにして冷ならず、いかさま霊有べきと思はるゝ神像なれば、人なきをさいはひ、さま<のねぎ事をし、或はかこち、あるひは恨みをのべなどせしは、今思い出るに、しばしの乱れ心にや有けんかし。
こっ、これはまた何ともとんでもない展開。さすがに予想しなかった。やっぱりこの作者、ただもんじゃないわー(笑)。恐すぎる。今の人でもまずできない。よね?
さて見とがめられば、いかにせんと頻に恐しければ、やがて神体を御厨子へ納め逸足して宿に帰り、両家への謝礼且滞留のうち世話に成しもの共へ、夫々の置土産など贈るに、あるじも「今宵限りなれば一ツ召せ」と酒肴など設け、懇にわかれを惜み「あすは明はなれて御立あれかし。未明には猪狼の恐れあり」など、さま<の物語に別れて臥所に入し頃は夜半過にや在けん。此ほどの労れ且好まざる酒に酔しれて、前後もしらず臥たりしが、いつか姥子の社前に至り、さきに烏暁、旧穂など捧げし歌どもを、それかれとくり返し、おのれのみ詮なく帰国するを嘆息して佇しが、かたへにて、
よしあしのなにはの事はいはずともよきめの出るふしをこそまて
と吟ずる声あり。「あな、ふしぎや」と耳そばだてゝ聞に高らかに再吟の聞ゆるにぞ驚き覚めしは一條の夢也けり。
そらまあ神様も黙ってはいないよなあ。でも里人と同じに神様も親切でよかった。
はや暁近く、人のしわぶくけわひなどせしかば、目覚て思ふに、「夢は五臓の煩ひにて取べき謂れなしといへども、我きのふ彼神像に向ひ奉り、人に物いふごとく、かき口説たるより、かく神霊の正しく告給へる事疑ひなし」と再拝なし奉り、よく<思慮するに己が眼病は高名の医家にゆだねしかど更に功験なく、然るに此山の温泉は老婆が目利に応ぜざるはなく、只我眼のみ、かれが考察分明ならず。しかれば「よしあしをいはず、よき目の出るふしをまて」との御示現成べしと信心肝に銘じ、此感夢を家土産に江戸へ帰りぬ。
温泉紀行を読んで、温泉について調べていると、どの温泉にも必ずセットのように神社があって神がいて、湯治の間に客はそこに参詣していた。それは気づいていたし知ってもいたが、まあ温泉のあるような辺鄙な土地だから娯楽もないし、湯治の間のつれづれをまぎらすのに皆そこに参拝しているのだろうと何となく考えていた。
それもあったろうが、そればかりではなかった。湯治はこのように病気療養でもあるのだから、治癒がはかばかしくない時の動揺や懊悩も大きいのだ。
私は大きな病気や長い入院の体験はないが、二十年ほど前に子宮筋腫の摘出手術で数日入院したことがある。同じ日に手術した同室の女性とは仲よく話をして親しくなっていたが、手術後のトイレに行くのか何だかもう忘れたが、ちょっとした経過が、その女性は私より少し遅れて、ベッドで泣いていた。そのくらい、他の患者が治って取り残されるのはつらい。湯治は娯楽だけでなく、そういう面もある。そういう時に、その地にいて、よりすがることのできる神が必要なのだと、この紀行を読むとよくわかったのも収穫だ。
これ以後は姥子温泉についての説明というか、ガイドブック風になる。
因みにいふ、此山に蚊といふもの更になし。蚤は多くして、夜るは眠る事を得ず。蝿至て多し。別て食事の折など群がり集りて器にもりたるが如し。然れども眼病重きものゝ膳にはすくなし。又、此山に烏只一羽あり。此地へ湯治に来る者あれば、必啼告るとぞ。予初めて至りし頃は湯治人三百五六拾人も有て賑はしかりしゆへ、心付ざりしが、七月の初め頃ゟ療治人追々下山せしかば、我等両人徒然に堪ず日毎に湯屋に至り遊びしに、盂蘭盆も過て後、烏の鳴けるに、あるじ「客来有」とてそこら取片付るにぞ、「兼て案内にても有しや。爰に居て邪魔ならば座敷へ帰らん」といふに、「いや、入湯の人なればくるしからず。烏の啼声にては江戸の人三人なるが、両人は駕籠にて壱人は馬にて来るべし」といふに、いとあやしく、虚実をためしみるに暫くして馬にて壱人来り、跡より駕籠二丁来れり。夫々に長屋に送り遣はせしかば、不思議晴やらず。此客人は江戸霊岸島のよし、互に旅のうき事語り合ひ、翌日もまた烏の鳴ゆへ「いかに」とあるじに問へば「是は田舎人也。四人にてかちにて来るべし」といふ。はたして相州厚木の人なるよし。三人にて供をひとり具し来れり。又の日も鳴ゆへ、これを問へば「人に非ず。畜類也」といふにぞ、あやしくて待居たれば程なく馬を牽来れり。馬士にきけば小田原の在郷山田惣右衛門といふものゝ馬なるよし。眼を損ぜしゆへ湯治につれ来れりといふ。此湯の溢るゝ所に方三間斗の堀有。爰に引入、目に湯をそゝぎなどせしが、二日斗にて全快せしとて牽帰りぬ。
「西鶴諸国咄」の「不思議の足音」もだけど、江戸の人、こういう話は好きよね。それにしても動物も湯治に来ていたのか。馬の目まで治るのに、と作者は思っていたかもしれない。
是のみならず日々入来る人の多少、国所をも此烏の声にて察するに聊(いささか)たがふ事なし。ある日、又啼くゆへ「此客はいづくぞ」と問に、「是は湯治人にはなし。湯取也。小田原か三嶋より馬の来る也」といふに違はず、小田原より此湯を取に樽を馬に負せて来れり。此山に一年中住む烏にも非ず。何国よりか来るよし。登山の人数、国所のあらましを告るも一奇事なるに、是を聞知るも又奇とすべし。
それは思う。烏もすごいが、聞き分ける人の方もすごい。
春に特に賑わうのは、周辺の機織たちが目を傷めて訪れるからだというのも、日本の産業の一端がうかがわれて、いろいろな世界がつながって来るようだ。
此山の温泉は予には応ぜざれども、誠に名湯にて眼病、金瘡、やけどに妙也。もし至るべくば正月下旬より四月頃迄よし。其砌は青梅、八王子、上州、郡内などの機織ども皆目を損ずれば、必此湯に入ゆへに、殊に賑わひ、小田原より芸者など来り、三嶋駅よりは日々魚類をはこび、七湯に劣らず繁花也とぞ。予がいたりし頃は水無月はじめゆへ、三百人余も湯治人有しかど、何事も不自由にて、豆腐を求るに三里余の仙石原まで飛脚を立て調ふる事なれば、朝とく出て暮に帰る。さるから、あたひも極めて尊とし。是をもて万事推て知べし。
作者はこの温泉のさまざまな不思議な現象を「理外の奇」とまとめて、この紀行というか体験記をしめくくる。有馬温泉もそうだが、温泉の多くは山懐にあり、一首の「かくれ里」めいた雰囲気を持つ。紀行の数としては少ないが、温泉でなくても、このような山間の辺鄙な村に江戸の人たちはある憧れを抱いていたことが、それらの秘境に目を注いだ作品類の存在からわかる。橘南谿「東西遊記」も、明らかにそれを意識した書き方をしている。
明礬屋の老婆、目の善悪を察し、烏来りて来客を告れば、あるじ其声を聞わけ、湯屋の蝿の眼病重きものゝ飯器に集らざる、是等「理外の奇」とすべし。猶、種々の珍話あれど事繁ければ、しるさず。彼地にいたりて、その実を知るべし。
やはり、徳永信之の作品は面白い。この紀行も短いが、温泉紀行としては名作の一つと言ってよいだろう。もっとも江戸紀行の中では温泉紀行はどの作品も具体的で楽しくて、あまりはずれのない分野だが、その中でもこの作品は注目されるに足る出来である。(2020.11.5.)