江戸紀行備忘録東西の記・再遊有馬記

何ということだろう

2020年9月の初め、台風の被害を確かめに、久しぶりに二階に上がった。特に窓ガラスにもその他にも別状なく、ほっとしながら、ついでにそのへんの本棚を見ていたら、古いファイルに「東西の記・再遊有馬記」とタイトルが書かれているのが見つかった。もちろん自分の字だが、昔のものすぎて何の記憶もよみがえらない。

開いてみると、それも古びた茶色の大型封筒に書かれた、見覚えのありすぎる文字が飛び込んで来た。大学時代の恩師の一人、中村幸彦先生のものだった。
緊張するよりなつかしくて、急いで開いてみると、中には封筒に入ったお手紙と、紀行のコピー、それに先生自らの翻刻のコピーが入っていた。手紙の消印は昭和六十三年、私が四十二歳の九月だ。私が初めて出版した「江戸温泉紀行」の本と、論文の抜き刷りをお送りしたのに対して下さったお返事だった。

拝啓
どうやら秋涼の気も加つて参りました 益々御清祥の御事と大慶に存じ上げます 七月の鳴門では皆様お集り下され楽しい会をお催し下され 有難うございました 一々に御礼も申さず失礼に打過ぎ居ります お許しの程を
その後 御論文の抜刷を沢山 それにつゞき 御高著
東洋文庫 江戸温泉紀行
をも御恵送 忝く拝受いたしながら これも御礼今頃に遅延いたし居ります あの会後 角川古語辞典第三巻の追込みと私の近世小説史の未執筆と校正を急がされて 今日に到りやつと終了いたしました処 右事情御斟酌の上 御海容をお願いして御礼申し上げます
江戸温泉紀行御解説から読み初めまして 私には珍しい「玉匣両温泉路記」からとりかゝりました 自分で旅行するなど器用なことの出来ない私のこと 日に一つつゞ拝見して御論文に迄及ぶ心算、旅行文でゆつくり楽しき気分を味う事でございます
御論文の方は 近世文学研究界でも貴女様の独断的分野 何とか一冊にまとめる機会がほしい事でございます
右御礼迄でございますが 時下御自愛 益々御研鑽の程を   敬具
四月廿八日                       中村幸彦

板坂様

この由良のうち 内田なる処の庄屋にて淡路の地誌を残した幕末の人士渡辺月石なる人に 有馬などへの紀行文あり、子孫から見せられてコピーをとつてあります 洲本の街へ出る機会あればコピーを作ってお送りいたします(この由良にはコピー屋もありません お笑い下さい)

思わず全文紹介してしまった。こうして読むだけでも、弟子のはしくれのはしくれにしか過ぎない私への大先生のお手紙とは思えない、暖かさと軽やかさに、自分がいただいたものという恐れ多さを別にしても、その人柄や品格に、身体が熱くなるような思いがあふれる。
そして、この手ずから取って下さったコピーをそのまましまいこんで放置してしまっていた私。せめてお礼のお返事くらい書いたのだろうか。翻刻や論文にしてからあらためてとか思って、そのままにした可能性も高い。
本当に、何ということだろう。若い後輩や教え子から送ってもらう論文や著書に、ろくに対応もしない今の自分を思うだけでも、あらためて、このお手紙を下さった中村先生のすごさがわかる。そのことに今ごろになって気づいている自分の浅はかさも、あらためて思い知らされる。

私の責任でご紹介を

この紀行の原本を所有しておられた庄屋のご子孫のお名前もわからないし、翻刻許可をいただくすべもない。せめて、ここに紹介するのは許していただけるかと、少しずつ翻刻して行ってみたい。まさか中村先生が私にコピーを下さったことを、問題にされることはないだろう。いずれにしても、公開の全責任は私にあるし、所有者や関係者のどなたかから申し出があれば、翻刻はすぐに中止する。

原文のコピーとともに、中村先生は、ご自分が翻刻した原稿のコピーも同封して下さっていて、それには次のような紙がはさんであった。

前便申しましたコピーですが 原物のコピーが悪いので 所有者の希望で翻字したものゝ写しが残っていましたので そのコーピーをも加えます 何か御役に立てば幸甚
田舎の人でも こんなことを書くことが流行っていたのでしようか   中村
板坂様

私はとても、このコピーを無駄にしたくない。もしかして私の死後には、これもまた、反故として廃棄されるのだろうかと思うと、それだけは許せない気になる。それを止められるかどうかもわからないが、せめてもということで、こんなかたちででも残しておきたい。

翻刻「東西の記 再遊有馬記」

東西の記

ことしとさす寛政の丙辰、不思義(ママ)の事にて東西の迫戸をわたり、左右に隣る紀播の両州に遊ぶ。弥生なかばの頃より、紀の大川てふ處の圓光大師の御戸開有。本ぞん掛たかの声に驚かされ和らかに清き空を待得て、棚なし小舟にたより、卯浪にさそはれ苫が島根を伝ふ。
折しも紀の中納言殿御詣の御舟にあふ。そこばくの官船、艫(右下は「男」。)拍子を揃へて太皷を合せて潔し。五色の旗印、風に飄て、綵鳳、雲に冲るかと怪しみ、七度焼のかな物、水に移りて、金竜浪を潜ると疑はる。諸州来往の商舶、向ふものは帆をさけて過ぎ、先だつものは行を譲りて後る。

須臾にして共に大川の岸に着。予が舟は少し隔て纜(舟偏)を繋ぐ。かの君は烏帽子に薄萌黄の直衣、免(ユル)し色のさしぬきをめされ、舟楼(ヤグラ)の高みくらに、いまそかりける。仁慈の御かほばせ、いまだ廿とせは過ざらまじ。此君、物の綺羅を好ませ給ひ供奉の御侍は、あるは緋と紫を染分て色を争ひ、あるは紫白の左巻、又は紫に立浪のはでもやう、藍に濃キ紅の大絞り、向ふ兎の伊達紋、おもひ<のふりう、いときらびやかに、さうぞきて、御傍に扈従せり。頓て屋形したる橋に移らせられ、汀にさし寄御乗物しとやかにまうでさせ給ふ。

恐れめせ若葉の花の御姿

続て幕打はへし楼船より鋲駕籠に女房たち、前後さう(左右)をかこみて見へしは、「姫君の御詣」とかや聞えし。又かなたの屋形舟より、ゑしらぬ匂して、やんごとなき上臈の眉は剃れども、未(いまだ)いざよふ月の御かほばせ、翠のかつらあやしき迄、妙々に、玉の笄も今様ならぬぞ、めでたけれ。ちりめんに濃染込の裾もやうは、君のゆかりの色深くぞ見えけらし。御手をとり<歩をひろはせらる。空曇り気なればにや、日傘をだにめさで、あらはに見えさせ給ひにき。
御しりへに従ふふたりの女房のみは、萌黄綾の下ゲ帯を秋津虫の羽の如く端長く結びたり〔左右両端は一尺余りニシテ丸ククケ綿ナク内空ニ見レドモシナヘズ。木口ハ縫ズ広ガリテ真ニ蜻蛉ニ髣髴タリ。〕先の鋲駕の後へにも又かくの如し。錦の袋物、巾包抔種々の御さゝげ物有。御詣の間は芝居歌舞の物の音をとゞめ、参詣の群集は処せく迄浜辺に並居て是を拝す。御拝終りて此里の潤ほはしき屋に、しばらく御憩ひありて又御舟に召させ給ふ。

折から降来るいさゝめをいとはで、群集は袖をしぼり裳裾をそぼちて拝す。「かゝる折に参り会、おふけなくも尊容を排し奉る事よ」と有がた涙に猶袖は濡まされり。頓て打出す太鼓につれ、から櫓の音も次第にはるけく、供奉の数艘も後れまじとおし出す。
跡は覗きからくりのふえ太鼓かしがましく、せき留しをちこち人も一むれにおしあふて、仏閣に登り大師の尊像を拝す。こも又すしやう(殊勝)さ、感涙にたえたり。内陣をめぐりて宝器の数々をはいけんす。大師の仏徳はいづれ尊き事なめれど、わきてこの大川は故ある処にて、片ほとりの淋しき浦半(うらわ)なれども、もろ人の渇仰、他に殊にして伝法の灯も光りは五百年来の後をてらし、讃仏の鉦の声は二六時中絶る事なし。

そも上人は承元の始、讒に遭ふて、たま藻よきさぬきの国に配せらるの時、此処に舟かゝりし給ふとかや。金地の一軸に其時の図、舟路の有さま、つぶさに模したり。時移れば縁起もそこ<に聞ながして下向す。かたへの茶店に友どちこぞり寄て弁当を開けば、忽(たちまち)とくりの内へ魂のはいりしこそ、ふしぎの手づま也。品玉とりの口車に乗て、そと立寄、一ぱいきげんの目からは、一ツの玉が二ツに見ゆるもことはり也。猶そふふる雨にぬれまじ物をと、見物はよもに別れさる。いざとく<と舟に乗、蓬(トマ)打覆ひ、日は午も過、未の歩み、牛が頭を漕ぬけ、加田の浦に舟さし寄、粟島の宮居にまうで来ぬれば、

(三ウ四オ、大川円光大師海岸の図)

「たそがれ近し」と舟人も、気の関守か梓弓、矢の如く舟を急げども、しらけたる薄月影の卯花くたしは佐野のわたりの夕暮に似て、袖打払ふ陰もなく、島根に舟を留めて、

雨を凌ぐ筥か島ねの新樹陰

小止をまちて古郷の岸根にかへれば、短夜はいと更たり。

日あらずして夏は半の十日まり二ツの日、又艤ひし、さなみにゆられて、はりま潟に漂ふ。明石の泊りを夜ほの<に出、響の灘を過て、あらい川に舟さし入、曽根のあまみつ宮居に詣、名におへる松を見る。龍鱗掩蓋、実に霊物なり。夫より姫路にいそぎ、幸に信濃なる善光寺如来開扉の折にあひ、直ニ広峰山に分登る。
坂口に石もて造れる駕あり。土俗のいへるは、牛頭天王のめさせ給ふ処也と。可否はしらず。哺(日へん)時、山頂に至り、神家福原氏に舎る。翌朝社前に額突(ヌカヅキ)すゞ、しめの笛の音に心耳を清マし、のつと終れば、遠眼鏡にて姫城を望み見るに手に取が如し。

笋の中にも太き天守かな

山を左りへ下れば増井山の薬師に至。許六が作る処の芭蕉翁の肖像あり。及び翁行脚中、旅の調度、爰に収む。且、蓑塚あり。傍に姫府侯の発句を碑に彫て建たり。其句に曰、

ばせを葉や風にやれても名は幾世 酒井氏雅楽侯

福原氏の家の子、何某に導れて姫城の廓内を順覽し、殿の氏神弓矢神に詣、肆店に少々休らい、酒を酌かはし袂を分ちて舟場に志す道筋、時光寺に詣。石の宝殿を尋んとすれども、日暮て方角を失ひ、魚崎に泊り、明れば望の朝まだきに漸、尋ね得て詣たり。大己貴、少彦名の両尊をめ祭るとぞ。元より聞及ぶ盤石を彫なしたるは実に神作ニあらずんば、いかでか人力の及ぶべけん。高砂の相生の松〔二代目也〕を見、尉と婆の像を拝す。祝部の曰、「此像はいづれの頃にか有けん、都がたの片ほとり何がし村の〔五所ノ内村トヤ聞シカト覚ユ。慥ト不記〕人の手に入、祭来れる事有。然るに旧処に帰るべきとの霊瑞ありて、強て乞請、都に滞留のうち、堂上へ洩聞へ御拝覧あり、和歌など御寄附賜り、此頃移し帰りしとぞ。実否はしらず。則、和歌は左に記しぬ。

彌無事被相渡候哉承度候。抑此節沙汰甚々尉婆其元領分鎮座也由承及候。家内名拝見希入候。不苦候ハヾ明日歟明後日之内勝手次第持参候事頼入候。 仍先申識之也。
六月三日夜         輝良 旅中の麁写不可察、忠良ニヤ
今城少将殿

幾世にもおなじ緑の色そへて
さかふるかげは高砂の松      一条内大臣 忠良

此ときにあひおひの名は高砂の
まつ吹風も千代よはふらじ     中山前大納言 愛親

浪の音も通ふ契を高砂の
おのへにかへる千代の松風     中ノ院 通古

むかしより世にはその名も高砂の
松のみどりも栄へ久しき      中山若殿 忠尹

たちかへる波をゆたけみ高砂の
松ふく風も千代よばふらし     野ノ宮 定業

うづもれし幾よの霜にあらはれて
栄へを見する高砂のまつ      今城殿 定成

夫より尾上に詣〔住吉太神〕。又、松有〔三代目〕。共に相生にして古代より名を伝ふる処は高砂といひ尾上といひ、いづれか是非を定め難し。今爰に有ものは三代目にして未(いまだ)若し。古木のしやれたるは両処共に宝物として諸人に見せしむ〔尾上ヲ以テ真也共云〕。緑の砂糖漬、松柴たばこ、尾の上の名産也。鐘は誠に霊物也。近頃迄は少し破損し、指を入るゝ斗開き有しが今はいへて元の如し。夫より戸田の薬師に詣〔堂棟三面ノ鬼瓦名アリ〕。加古川何がし寺の松は、見事なる老樹也ときけど、街道より二里斗廻り也と聞て見残す。別府に出、手枕の松を見る。中程は地にくゞまりて肘を突たるが如し。爰より舟に乗し明石の川に入り、名に負、人丸の宮居ニ詣、境内「蛸壺の碑」を見る。

蛸壺やはかなき夢を夏の月  ばせを

此碑を見て

夏の月はかなき夢をしたひけり

人丸奉納

言の葉の幾世ニ茂る宮居哉

両馬川を渡り〔六弥太忠度、馬上ニ組テ落重リシ処也ト云〕、休ミの天神に叩首。社前ニ石あり。菅公筑紫にさすらへ給ふ時、此石に憩ひ給ふと也。

菅公左迂ノトキ復此地を歴給フ。此トキ駅長迎奉リテ其事ヲ嘆ク。神、其志ヲ感ジテ楼ノ傍ノ石ニ憩息セ詩句ヲ給フ。駅長無驚時ノ変改一栄一落是レ春秋。既ニシテ宰府ニ赴給ヒ明年二月廿五日薨ズ。駅長哀慕ニ絶ズ、彼石ヲ以テ神トシ祭ル。采邑私記ニ曰、仁和四年菅公讃岐ノ任ニ赴給フトキ明石ノ駅ノ楼壁ニ詩ヲ題ス。離家四日自傷春 梅柳何因カ触所新也。為ニ問去来行客ノ艱。讃州刺史本詩人。 旁由縁深キ旧地也。 蛻巌ノ御廟賦并序有。明石ノ儒臣梁田才右衛門諱ハ邦美。

朝顔の光明寺〔一向宗ナリ〕、光る源氏の月見の池を見る〔此寺ハ明石ノ入道ノ宅地ニシテ入道ノ娘ヲ源氏へ奉リシトゾ〕。腕塚町に忠度の腕塚有〔今ハ家中屋シキト成テ狼ニ見コトヲ不免〕。

腕塚 腕塚や名乗がほなるほとゝぎす

忠度塚は大くら谷の西にあり。爰を忠度町と言〔蛻巌弔分并序アリ。何レモ文集ニ見タリ〕。

今はたゞ法の印に残る名の
苔にきざめる名こそ朽せぬ  前城主 源忠国卿

忠度塚 宿とせし桜は実さへ無世哉

十六日は小さめ降。蓑笠をまとふて出立。時に泰山寺に詣んといふあり。
予と琴風子とは、かれこれの女の童を伴ひ雌子雄子の山に志し、左右に別れて行〔泰山明石ノ北、メツコヲツコハ西、共ニ三里許〕。
晴間なき七月空道すがら田草取歌にうきを慰さめて、漸麓なる神ン出村とかやに至る。そこの人に委しく尋ねものして登る事十八丁、嶺に至れば四方ほがらかに雌子雄子の山、相対して秀たり〔相去コト十八丁〕。雌子の岑より雄子を望むに、嶺巓に古松二三株繁茂するのみにて、更に他木の有を見ず。処の人の曰、其嶺に八畳敷許の一巨石あり。爰に至れば摂播讃の海を一目中に尽すとぞ。もや深ければ至らず。雌子の牛頭天王に詣、本社の前に能舞台あり。祭祀の節、神ン出数村の氏子、爰に能を勤むといへり。此山中にかたくりといふ草あり。弥生上巳の頃、花開く。他処に有事なし。外に移せば育つ事なし。高サ一尺斗ニして百合に似たりと処の人のいへり〔考ルニ片クリトハ、カタコユリノコト也。旱□ト書。他処ニ非ルニモアラズ〕。

社頭の左りより山の腰を三丁許後へ廻り、裸石と称する石あり。雷木の如く長三尺ばかり、山根より斜に指出たり。小宇を建て雨露を覆ひ裸石大明神と崇む。都て陰部の病を救ひ給ふ。願有者は賽しに種々の貝甲を捧げたり。子なき者は此石を抱けば忽妊娠すとぞ。たはれたる事に似たれども、本朝かゝる形を模して神体とし恐れたう(ママ)める事、諸国往々にあり。誣べからざる事か。既に実方中将、みちのく歌枕の時、落馬有し事、古く言伝へたり。是より半町ばかり去て誕生石といふあり。山根の岸にそふて両片の石間に又一片の尖りたる小石を挟み、其額イに芒一むら生たり。是又、陰根を模したり。天王こゝに生れ給ふと言伝ふ。故に神出といふとぞ。傍に標札を掛たり。曰、開石也。則大己貴の命也と。

暮つかた明石の舎りに帰り、翌十七日、夜ほの<明石の浦を漕出、直ちに画島に舟をさし、雨にさへられ佐野の浦半に船がかりし、ゆかりのかたへ揚り一夜を明し、中の八日とさす日、我住む里の浜辺に舟つきぬ。

 

再遊有馬記

ことし戊辰後のみな月のはじめ、有馬に暑を避、兼は年頃のやまふを湯治せんと旅立を、ふたりの子共の本句脇しける、

予が自愛の馬頭の杖を携ふ。依て句中こゝに及べり。

旅の暑を□の蹄に懸給へ  達三
千里一はね竹馬に汗    □八

予も又、是に第三を綴りて留別のこゝろ述ぶ。

安らけさ見よと追風に真帆引て

誠に順風射るが如く七鼓ばかりに和田の岬を漕ギ入れんと、ふり返り見れば、

渡り来て古郷やいづこ雲の峯

築島の橋下に舟を繋ぎ、先、潮音閣に詣。処<徘徊し、暮つかた舟に帰る。実、日本の大湊、諸国の商舶檣を並べて虎臥藪のたかうなの時もかゝらましとおもほゆ。酒肴麺餅の類を商ふ舟は引もちぎらず竪に盪じ横に棹し斜に行かひて、ひねもす声をからし夜もすがら燈を照し朝に至る。舟路の労れ、舟底により寄て、いねんとするに、太鼓を打すさむ音、仄也。いづちにか囃子の催しにやと、あや憎に耳を聳れば、謡にもあらぬあやしき雑戯の声、浪に文(あや)ぎれながら夜嵐に吹送りぬ。扨は沖なる掛り舟に夜飲興に乗じて闌なるなめりと聞捨て、しばらくまどろむかとおもへば、余所の舟呼ひに夢を破られ、枕を上れば、早武庫の山かつら引渡しぬるにぞ、各したゝめして舟を揚り、鞋引しめ、此夏のはじめに作る処の龍馬の杖に扶られ、鞭を打て歩をすゝむ。

小幡にはあらで爰にも有馬行
手馴のつえの駒を勇めて

湊川懐古 水乾き砂熬れたりみなと川

天王越に指かゝる。弓手は平野、馬手はあら田の里々を経て坂口に牛頭天王の小祠有。爰を過て坂の半ばにしばらく憩ひ、汗をいれんと路傍の岩根に立よれば、きれ入ばかりの冷水そゝぎ出るあり。各、手を窪めて掬し、のんどを潤す。

行雲を結べば消る清水哉

猶峯を攀、溪をわたりて下谷かみに至る。爰ゟ丹生の山田へは半里ばかりと聞て、かの梅雨井を尋ぬ。栗花落氏の宅は物ふりて見えながら、近ごろ不幸重り今の主人は未齢の□ざるに孤独の身となれりと聞しが、実も戸に皆□して庭は夏草生茂り荒廃に及べり。かたはらに弁財天の小祠あり。是は白滝姫の葬地也とぞ。み前に今も清水そゝぎ流れたり。委しくは普く世に知処なれば書もらしぬ。

昔忍ぶ梅雨の名残の清水哉

是より又半里ばかり行ば、鷲尾の庄司が住し旧家ありと聞ど、足労れ日の暮なん事を恐れ、尋ねも尽さず。下谷がみより上谷がみに出んとほりすれど、草深くして道さだかならず。問んとするに人なし。かゝるいぶせき山中に処におはぬ、あやしきをうなのふたり連に遇たり。よき絹着て、其さま鄙びず、やごとなき人かと見れば下わらはをもぐさず、自(みずから)物を負り。いといぶかしく、若(もし)此わたりの人ならば上谷がみへの路しるべ頼ばやと、「いづこよりいづれにわたる人にや」と尋るに、「みづからは信濃路よりはる<まふでこし者にて、上谷がみとやらんへまかる也。君は淡みちの島とや。わらはが輩、さいつ頃そこの国へもまかりし」といふ。こゝに於て巫祝の女たる事を初て知る。

草茂る道から問ん信濃みこ

道程処々竹林有。又鶯を聞。かゝる陰地には初音の心地して、

初老を啼野鶯声若み

爰より有馬迄の道筋一條の谷川を左りにわたり右りに越へあまたゝびにして至る。

河水を機の竪とぞ経て登る
糸の細道よこにをりつゝ

唐櫃(ト)てふ処にてはぐれし連を待合せ、昼笥を開キ暫く足のほめきをさまして立出。未尅ばかりに温泉(イデユ)のもとの峠に至れば涼風身心をそゝぐ。

湯にかへて冷入風も命也

爰を下れば左右皆竹林也。鼓が滝の流れの末を渉り嚮キにこし時、舎り馴たる橘屋てふ家ニ入。

橘やむかしの薫る風の軒

頓て湯女竹女にいざなはれ湯に走り、きぬ脱すてゝ、

若竹に浴衣掛ればしいはしは

早、病も癒る心地して旅亭の楼上に寝転び労れを休めぬ。都(すべ)て此処の客舎は旧家は多く坊号をもて称す。皆二層三層に造りなして、間毎にへついをすへ、遊客自茶を烹、飯を炊く。其水は一の湯の方へは鼓が滝の流をせき下し、ニの湯へは六甲山の川より廻して家々へ筧にて配り、とことはに落。

夜たゞ聞夏の雨かも樋井の洩

暁隣寺の木魚に寝覚て、

温泉ぞくらき水鶏に叩起されて

一廻り浴す日の八日は亡父の忌日に当れば夙に起き、同宗なる金剛精舎に詣。御経の名を唱へ、追福の心を述ぶ。

(中村先生書き入れ、「□□□ニ『温泉に七日旅のたむけの万日紅』トアル上ニ□ヲハリテ」)

旅のけふ百日紅を手むけ草
湯のほとりなる名物を求て、
口きいて香花手向む茶巾餅

(中村先生書き入れ、「附箋一葉」)

○四方の遊客日々温泉寺〔常喜寺ト号ス〕薬師尊ニ詣、病を浴医するの仙恩を報ず。境内の左に温泉守護神の社有。〔クマノ三処ゴンゲンカ〕寺中清涼院極楽寺念仏寺報恩寺権現坊等の数寺有。別当権現坊の庭ハ利休の造る処とぞ。乞て見るべし。右へ下り路傍の石垣ニ仏像を彫たる巨石二ケ有。温泉寺ゟ遙東南に当て稲荷有。其ほとりに□□寺有。
○旅のけふ百日紅を香花とも
湯のほとりなる名物を求め、
○口きりて花香手向ん茶巾餅」(ここまで附箋の記事)

橘屋に隣れる川野屋てふ楼上には、都なには津抔より、やんごとなき人も来り、日夜しらべる爪音のほの聞へ、今様うたひ朗詠し抔いふ傍の月にてり透ば、吉野ゝ滝のふる事もしたはし。

糸の音やいづれの尾より風薫る

日々処々遊歴し、ひと日朝まだきに高橋をわたり善福禅寺の左りより竹林を攀登り落葉山の嶺に至る。

未茂る色をたのみぞ落葉山

此峯より見わたせば、三田のほとり眼下に見へ六景の一ツ爰に名を得たる富士の峯、霧の中より秀て、誠に田子の浦の眺望も多く譲らざるべしとおもはる。かの麓の霧は海に似てとよめる処の歌に景色を尽して涼しさのかぎり也。〔朝トク望メバ四時の詠メ変ルコトナシ。尤春秋ヲ勝レリトストゾ。〕

さればこそ西瓜を冷す有馬富士

温泉寺の境内、玉垣のもとゟも見へ、又愛宕山よりも見ゆる也。愛宕山よりは左に蜂が尾山こやの山、右にはつかやま大船山有馬ほじの峯々連りて眼中の客となる。

愛宕山秋松蔭に遠げしき

愛宕の鳥井を出て十歩ばかりにして大石数箇あり。南の後へ廻り見れば其石にちいさきへつゐを二ツ造り付たり。大なるはわたり八寸、小は五寸許也。泉必東が勝景図ニいへるは、此処に一亭有。南岳禅師の筆にて「衆楽亭」といふ額を打れたり。かの石野へついは実、春のあした秋の夕に紅葉を折くべたりと見へ百草霜黒々とおけりと書たり。かの泉楽亭は今は亡て、其頃と覚しき処少し斗り平面也。林間に酒をあたゝめてと賦せる詩を思ひ合せて、

紅葉焚跡なつかしや夏木立

愛宕と鼓が滝との間の山中に鳥地獄といへる湯壺あり。空を翔る鳥、この湯の気に射らるれば忽落入とぞ。今は埋れて其印に卒塔婆を立たり。先に来りし時は未(いまだ)其跡残りて実(げに)も小鳥のひとつふたつ落入侍りしと歟(か)朧に覚ゆ。誣るにはあらじ。是其湯中に砒石などの毒気有もの歟。此処を地獄谷といふとぞ。

炎天や地獄ときけば猶暑し

清水は滝に赴く町はづれ、左へ行ば滝右ニ分る。路傍の茶亭ニて遊客酒徒、日夜爰に飲を尽す。昔は都の清水に比して舞台なども立しとぞ。

味涼し茶に汲清き水の色

鼓が滝のほとりに有明桜あり。桜のもとに自然石に発句を彫付たり。曰、「桜ちれ桃々ちれば桜哉 天然坊」としるせり。天然坊は此地の俳士にて有しとぞ。

茂る葉の桜に月も有明て

川を隔てむかふに造化自然の奇岩あり。予、是に号(なづく)るの句及其詞有。曰、

鼓てふ滝の有明の名ある桜にむかふて奇なる巌有。宛(あたか)も、から人のさらそて(ママ)望み立るが如し。さるを先達の未沙汰せざるこそ恨なれ。予、私にいふ、号けて酒仙岩とも呼まほし。其さま滝を跡にし桜に背けるは一斗百編を案ずるなるべし。

滝に桜に酔ふて李白が涼哉

爰を左りに廻れば滝に至る。滝は乾に向て漲り落。左右は屏風を立たるが如く絶壁也。中間切入て二三廻屈曲ば左に傍ふて梯を造れり。是をつたふて奥に入れば又一段上の巌間より濺ぎ落て二段となる。

段々に落てつゞみの滝の音
ぼん< << << <<

亀尾の滝は高橋の向ふ、善福寺の前なる川べりを北に廻り、竹林の中に一亭有。其後を右へ廻り深林の中に入て岩石たゝみ□立り。石面に暁桜のニ字を大書に彫付たり。其石上より糸筋の如く流落。密葉日光を関して甚閑寂の処也。滝壺の左右向ひ合セの石上に小キほこらニ扉を安置せり。

滝細し滴る山の石の面

山姫のつむぎ出すか糸清水
きれざるものを結ぶ諸人

湯本より温泉寺に至る。町なかの隅に目洗ひ湯といふ有。眼気の者は是をもて洗ふてよしとぞ。名にふ糸細工竹細工てふ物をも見ふるし、つれ<のうさを晴さんと、ひと日六甲山に登る。絶頂に石の小槌あり。此処は神功皇后三韓退治まし<帰朝の時、継太子□坂王忍熊王、皇后を忌悪ミ兵を起して待給ふを武内の宿禰をして討しめ給ひ、其属廿六頭の甲首を埋めし処也とぞ。此処より眺望すれば直下は灘の浦々漕行舟を近く見下し、向ふは紀泉の海づら浮める山々を遠くながめ、右は苫が島淡路島雲(ママ)上に蒼く、左りは澱ないはの川水、眼下は緑也。頭を廻らせば四望濶然と開けたり。

峯高みどちへ向ても青嵐

とかくするうち早秋風の京口に立出る(ママ)れば路傍に妬(ウハナリ)湯と言あり。「徒ら者」などゝ罵れば、ぶつ<と吹出るもおかし。

ねたむ気の残る暑さや湯の匂ひ

是より嚮一夕橘屋楼上に敏馬(ミヌメ)の浦、里木なる人に〔通称柴田善左衛門ト云。酒肆也。〕招かれ、月に対して屡、酒を酌ム。湯女のだれかれ〔兵衛、ノジマ、其余両三人〕酌とり且弦歌し且舞踏して興爛なり。

声涼し歌にいざよふ月の顔  如泥
秋を隣に耳よする壁  里木

淡路なる海月庵のぬしに初て逢しによりて、
夏の月よき友ひとり設たり  里木
月の友猩々も出て夕涼ミ  如泥

猶興に乗じつゝ又清水へ宴を転ず。予は酩酊に託して密にふしどに転び入て、東方の既に白きをしらず。明る日、ほ句かい付てこしけるニ、脇を以、答ふ。

清水へ伴はんとすれば
忽木がくれて、
一眼見し隠れたり夏の山  里木
塒へさつとかほり来るかぜ

里木の妻女及難波の高濱氏の妻女は叔姪のよしにて〔高濱氏は叔母ナリ〕、我輩より少し先キに来たり。同舎の楼上に有けるかけふしも帰郷しけるに〔木子ハ湯治尋訪ノ為ニ来リ先キニ皈レリ〕、

橘の木蔭に舎りを同うし一瓶の水に炊ぎて、此頃馴睦びしも、今や湯治の日満て帰り給ふかた<に、名残をおしみ兼ては里木君に寄侍る、

語りませ夏の別れの旅の憂

ある時舎りを立出、あまみつ神の御前に夕涼し居けるに、又ひとりの老翁涼をいれつゝ寛歩し来り、予が国処を問ふに、答ふるに、「扨は如泥にこそといふ」に、「さいふはいづこのたぞや」ととへば、みはらの中島てふ里正也。

君も暑を避て歟爰で逢ふとは

帰るころほひ中島なる積成子のもとへ寄侍る。

病よりたつ秋告よ友千鳥

夫より、ひと日ふた日ありて、程なく浴治の日数も満ぬれば、人々「いざやかゑんなん」とて舎りを辞し、夜ほの<に立出れば道たど<し。此山中には狼のありて人をそこなふ事もあなりときけば、いと心細し。こたびは六甲山越と心ざし嶺に至れば、漸うほがらかに明渡り初て生たる心地せり。羊腸たる峻路を経て、たゞちに北畠に下り、公道を西へ渡辺伝ひに何がしのみやを馬手に遥拝し、

住よしやにぎてさゝげは茨の実

雀の松原を左に見、求馬塚、乙女塚などいへるを過がてに見やり、敏馬の浦を経、そこの宮居をよぎり、「帰りには必とへかし」と契り置つる里木が亭も此道筋にて、遠からじと聞つれど、出舟の待侘なんと心せかれ「海手にむらがる一里にこそ」と見やりつつ、

香ぞしるしみぬ日の新酒のまず共

摩耶が高嶺、布引の滝に志はあれど、一里程も山路を分登るなれば、猶及びなく生田の明神に詣、其花麗を讃嘆し、境内なる神功皇后の高麗竹、敏盛萩、箙の梅、梶原の井など見尽し、馬場に出ればいと長々しく左右並木の桜は紅葉んとして夕日まばゆく、ゆき<て神戸(かうべ)に暫く休ひ、腹のたるみを補ひ湊川楠公の碑□に感涙を催ふして、

石となる木にもしたゝる楠の露

夫より元の兵庫の津に出れば薄暮たり。頓て舟指出し和田の明神を舷より拝し、漕出て見れば久かたの雲井はるかに、

棹の露あれが我住淡路かも

一二の谷、鉄拐が峯、鵯越逆落とし、岩石落しなど聞及べども暮烟に見へわかず。洲(ママ)磨の浦、敏盛の石碑は「そこの程よ」と見やり、蘆吹送る汐風を青葉の笛と聞なし、洲摩寺、舞子が浜など思ひやりつゝ舟底に臥。灘の沖、岩屋の別当、汐をも漕ぬけて曙、須本の岸に舟着ぬ。

著者について

本文は以上である。翻刻のコピーの一枚目に、中村先生が原稿用紙にペンで書かれた、著者紹介の紙が貼られている。これもそのまま、写しておく。

著者
渡辺月石
諱は□(白+高)、字伯陽、通称 幼名太郎吉、長じて弥三右衛門、八十右衛門など。別号ハ、如泥、我物など。宝暦四年七月十三日生、天保九年六月三十日歿、八十五歳。淡路国由良浦支邑内田村の庄屋。淡路の地誌「堅盤草(ときわぐさ)」などの著がある。

中村先生は、「田舎の人でも こんなことを書くことが流行っていたのでしようか」とだけで、この紀行を特にほめてはおられないけれど、こうやって調べて、私に送って下さったことからも、一定の評価はされていたのではないかと思う。
実際に、私が読んでも、この紀行は面白い場面が多いし、当時の船旅や有馬温泉の様子がよくうかがわれる佳作である。淡路島は関西にも近く、それほど田舎ではないだろうが、それにしても、地方の庄屋が、これだけ観察も心情もきちんと記した、自分らしい紀行を書いていることはやはり印象深いことである。

余談ですが

中村先生の翻刻には随分助けられたのだが、研究室で「中村文書」とささやかれていたぐらい、先生の字は癖があって読みにくい。レポートを返していただいて、ていねいなコメントがついていても、読めなくてほめられているのか叱られているのかわからず、情けない思いをしたこともあった。
でも、この原稿はほぼ全部読めて、ほっとしている。
原文のコピーも翻刻も、紙をよったこよりで無造作に結ばれていて、先生の手がそれを結んだのかと思うと、なつかしくて、いつまでもながめてしまう。

 

この紀行の紹介は一応これで終わる。しかしまた「余談」を書き加えるかもしれない。(2020.10.14.)

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