おのれを知れ(2、これでおしまい)
少し古い大きな図書館には、よく「◯◯文庫」と名づけて、著名な大先生の蔵書が、他の書籍とは別のひとまとめにして、保存してある。もちろん普通に閲覧もできる。最近でも多分そういう形で個人の蔵書が、まるっと図書館に収められていることは、あると思うが昔ほどではない気もする。
(1)で話した大先生の蔵書は、古本屋が購入して保存し販売するわけだから、そういう点では、ひとかたまりのものではなくなっている。それはそれで一番いいのだし(広く世間に流通して、求める人に買ってもらえるのだから)、自分の本もそうしてほしいと語っていた先輩もいた。
そのへんの感覚は今も私には何がいいのかどうなのか、よくわからない。
ただ、そういう先生や先輩に比べると、ささやかすぎるなんてものじゃない、自分の乏しい蔵書について考えてみても、たしかに、ある個人の蔵書は、バラバラにしないで、その人がまとめたままのひとかたまりで、保存し味わってもらえた方が、その研究の過程や全体像や、研究者の人となりや人生が、よく伝わるだろうとは思う。
本に限らないが、蒐集者のコレクションというものは、それ自体が、ひとつの作品でもある。個々の本とはまた別の、その人が人生を賭けて築いた総合体として保存し鑑賞してくれたら、それはやっぱり喜びだろうなと思う。私が死ぬまでは自分の蔵書に手をつけず、分散しないようにしておこうとするのも、死後は無理でも、一応最後まで、そういうかたちを守ろうとする本能が、どこかにあるのかもしれない。
しかし、八十歳近くなり、家や土地の処理などを現実の問題として、考えて行く中で、何となく、そういう幻想を保っている場合ではないという気もしはじめた。
そして気がつくと、遺産を相続する人に伝えるべく、残った本の処理方法を、具体的に考えているようになった。
それは、おおむね以下のようなことだった。
1、私の書籍は、どこかの大学や図書館に引き取ってもらう必要はない。そんなことは第一無理だろうし、今の日本の状況では、大学でも公立私立の図書館でも、早々に廃棄される可能性が高い。それよりは、ほしい人にもらってもらったあとは、古本屋に売却してほしい。古本屋も受け取らない本はそのまま廃棄してもらってかまわない。
2、現在、私に目録を送ってくれる大きな書肆はひとつあるので、そこに連絡して買い取ってもらうよう頼めば何とかなる。もちろん誰かが別の書肆を知っていれば、そこに頼んでもかまわない。
安い文庫本やコミックは、ブックオフでも売れるだろうが、大きな全集は多分、ブックオフは引き取らない。大きな古本屋に頼むしかない。
3、それどころか、最近不安なのは、もしかしたら伝統ある古本屋でも今日びは、全集などは引き取ってくれるかどうか怪しい。そうなると、私も死ぬまでなどとは言ってられなくて、生きている間に、どれだけの研究体制を残すかということを考えながら、大きな古い全集は、もらってくれそうな人にさっさと引き渡して行くべきかも知れない。
4、そもそも、これこそ、実際に老いてみなければわからないことだが、もはや私の体力では、ちょっと重い厚い本は簡単に扱えないのだ。非常勤の授業はもう来年でやめることにしているが、これももう昔のように、学生に見せるような大きな重い本を授業に持っていく力がない。これからは研究も授業も、重い本を使わないで、遺憾ながらせいぜいありあわせの知識やセンスで勝負することをめざすしかない。大きな立派な本はもはや手放すしかないのだ。まあ、ボディービルでも今からやって身体を鍛えるってこともできないじゃないが(笑)。
5、ちなみに、私が持っている全集で、これだけは誰かにしっかりまとめて引き取って保存してほしいのは、「帝国文庫」(多分百冊ぐらい)だ。
なぜかというと、これは他の全集と違って、おそらく全国の図書館でも全巻そろってはほとんど保存されてない。もともとが、わりと大衆的な全集だったせいか、気軽に読まれて、大事に保存されることが少なかったせいか、どこの図書館でも散逸して数冊程度しかない。
若い頃、全册ほぼ揃いで古書目録に出たときは、夢かと思った。息をのみながら注文した。高かったけど、それほどではなかったのは、実は一冊欠けていたからだ。私はそれを後に一冊バラで見つけて買って補充したので、今は私のこの全集は完璧だ。
これはもう、多分二度と手に入らない。使おうとどうしようと、この全集だけは、誰かにちゃんともらってほしい。傷みがひどくて製本し直した方がいい本も多いが、それでも私にとってはこの全集は、どっかの女王のダイヤの首飾りぐらいな価値がある(笑)。
6、他には新旧の岩波の古典大系、日本随筆大成の一期から三期までの全巻(最後の特別編が数冊欠けているだけ)、有朋堂文庫全巻、近世名著全集全巻、角川と平凡社の地名辞典全巻(どっちかの大分県の部が一冊だけ欠けている)、日本古典文学全集(古いやつ)、名所図会全集、日本国語大辞典、平凡社の大辞典、大漢和辞典、こういうのがいずれも数十冊の大量で、まあ売れないこともないだろうと思う。他にもいくつかそんなのがある。
7、最近の若い研究者は、あまり蔵書を持ちたがらない。場所の確保だけでも大変なのだろう。だから、どれだけもらってくれるかわからない。無理な押しつけにならないよう、今から少しずつ打診していくしかないだろう。
8、これは蔵書とは言えないが、私の書庫の大半を占めているのは、専門の紀行研究の資料で、具体的には全国の図書館や文庫から集めた、江戸時代の紀行の原本のコピーや印刷を閉じたファイルである。蔵書とちがって、見た目はぱっとしないが、かけた費用は蔵書に匹敵するほどと言っていい。
これもできれば、紀行研究を引き継ぐかどうかはともかく、できれば若い研究者にまるごと引き取って保存しておいて、いつか誰かが役立ててくれたら、まあ無駄にはならない。だが、その前に、私が最後まで、これらを使って研究をして、どんなかたちでも世間に紹介しておく方が一番いいのかとも思う。
9、あとはもう、私が授業用や趣味用に作った自費出版の書籍類で、これはさっさととにかくいろんな方にいろんなかたちで、配って広めて行くしかない。大量に余っているテキストもあるので、これも早いところ、大学の同僚の皆さんに配ってしまうぐらいでいいのかもしれない。ただ、これも、実際に本が余っているものと、Amazonの方で私が購入しなくてはいけないものもあるため、いろいろ判断しながら、広めて行くしかない。
10、当面こんなところかな。私が寝る前のお茶がわりに読み飛ばす軽い文庫本やコミックについては、ブックオフで売却していくのが一番いいだろうと思っている。
11、ところで最初の問題に戻る。私のこのような方針を見てもおわかりのように、私は自分の蔵書をひとかたまりの作品として扱ってもらったり評価してもらったりすることは、とっくに完全に考えていない。
ただ、蔵書の中に、いくつかの、ひとかたまりのグループがあり、これはできたら、まとめて誰かふさわしい人にもらってほしいという希望はある。
たとえば、新美南吉の「てぶくろをかいに」の作品で畑違いの論文を書いたときに集めた、この童話を題材にした絵本類や教育関係の書籍類。
たとえば、授業で「ないたあかおに」を扱ったときの資料に買い集めた同じタイトルの絵本類。
たとえば、ひとりでに集まっていた、アンネ・フランク関係の書籍。
たとえば、「西部戦線異状なし」の作者レマルクの古い著作の数々。
たとえば、広島で被爆した演劇グループ「さくら隊」に関する書籍。
たとえば、コミック「はだしのゲン」全巻。
たとえば、コミック「ペリリュー」全巻。
他にもあったかしれないが、とにかくこういうものについては、できるだけ有効活用してくれる場所と人に、まるごと固めて手渡したい。
今も、その望みを捨てたわけではない。だが実は、これは案外難しい。
「むなかた九条の会」や社民党や共産党の方々は、読書好きという印象があったから、自分のエッセイや、読み終えた文庫本を集会や講演会のたびに、持って行って「ご自由にお持ち下さい」とお願いしたことがある。ところが皆さん遠慮されるのか、びっくりするほど持って行く人が少なかった。主催者にもご迷惑をかけそうだし、最後は私もいろんな方に押しつけるようにしてもらっていただいたのだが、実はもう、それにつくづく、いやけがさした。この方法は二度とやるまいと今では決意している。
まあ自分のエッセイがさばけないのはしょうがないし不満はないが、一番愕然としたのは、皆さんただで持っていくのは申し訳ないと遠慮されるのか、数冊からなるシリーズの作品の文庫本を、一冊だけ持って行かれる方が、ときどきおられたことである。五冊や七冊や十冊のシリーズものを、まるごと持っていくのが、はしたないと思われるのか何なのかわからないが、これだと、その本のシリーズの価値がだだ下がりして、ただの端本になってしまうのが、わからないのだろうかと、くやしくて情けなくて、叫び出したくなった。
もうあんな体験は二度としたくない。「ゲン」も「ペリリュー」も若い人やリベラルな仲間に読んでいただきたかったのだが、今ではもう、売れそうな本はすべて、ブックオフで売ろうと思うようになったのは、その体験がとても大きい。
だいたい、以上が現状の方針だ。しばらくは、これで進めて行ってみるつもりである。
ふう。こんなところかしら。
タイトルがつりあわないと言われそうだが、これは要するに、年をとって死がせまると、自分よりはるかにはるかに偉大な大先生たちの一生かけた貴重過ぎる発見や業績でさえも、時の流れや歴史の中に静かにとけこんで目立たなくなると実感する。ましてや私の研究や生きた証しなんて、何か残ると思うほうがまちがっている。そう思うと、自分がいかに犠牲をはらい、良心を守って築き上げた業績や人生でも、散逸して消滅して忘れられてあたりまえだという実感が、次第に強くなってくるのだ。正しさや真実や人間らしさを積み上げて、ゆるぎないものにしていく流れの中に、無名の存在として加われば、それで充分だし、それ以上に望むものはないという気持ちに、自然になって来るのだ。
