あー、いらいらする
田舎の友人が、もらいものの古米や古古米が余っているというので、ありがたくおすそわけしてもらって、米不足の季節を乗り切った。巨大な十キロの袋をひとつ食べあげて、そろそろ次のにかかれそう。
多分、古い方から開けたと思うんだよね。友人が「あんまりひどかったら捨てていい」と言ってくれてた方の。私は全然気にならないんだけど、洗い方が充分じゃないときだろうか、ときどき微妙にかび臭いような時もある。でも慣れるともはや、その臭いも癖になって、何だかおいしくいただける(笑)。
でもさー。このごろスーパーで、結構な新米が二千円台で売ってあったりするんだよね。ニュースではコメ不足が一段落したら今度は倉庫に米があふれて、売れないで困ってるんだて。何てことだよ。
あのコメ不足で農家が得したとか儲けたとかは全然思ってない。むしろとことん被害者だと思う。だけどなあ…あの長期間、高いお米で苦しんで困りきってた身としては、そりゃ、この機会に麺やらパンやらに乗り換えるのは無理ないし、米がいまさら安くなったら、農家にじゃないけど、どこにかわからないけど、ざまみろとか、おごる平家は久しからずとか思っちゃうのよ、多分誰でも。
こうなることって、とことん予測できたろうに、政府も何とかできなかったのかなあ。ミサイル買ったりしてるひまにさ。
とか思って、イライラしてたら、連休の間だったか、Eテレの特別番組で、障害者施設の「やまゆり園」で入居者たちが殺された事件から何年目とかで、いろんな障害者の人たちが座談会をしていた。犯人はその施設の職員で、障害者の介護とかしている内に、「こんな障害を持って生きていても、本人も回りも不幸なだけだし、生きている意味も価値もない」とか思って、見境もなくのべつまくなし、入居者たちを殺したらしい。
事件から十年目とかいうことで、いろんなニュースで回想され、Eテレでは特別番組を組んで、いろんな障害を持った人たちが語り合っていた。私は知らなかったが、当時は犯人に同調し、障害者は存在価値がないという発言や意見や感想がそこそこ世間にはあって、障害を持つ人たちは、とても不安で不幸で苦しかったそうだ。それはそうだろうと、心から共感する。
だけど、その座談会も、ニュースも、聞けば聞くほど私はイラつき、もう本当に腹がたった。だって、その障害者の人たちも、司会者も、誰も彼も「障害者は生きていていいんだ。存在価値はあるんだ」ということばっかり、懸命に熱心に主張するんだもんなあ。何を言ってるんだ考えてるんだと、もうじりじりして、ムカついて。
私は当時その事件のニュースを見ても、そんなに関心も興味もなかった。ショックも受けなかった。だから今になって驚いている。そりゃひどい事件だが、災害事故や通り魔事件と大したちがいがあるとは思わなかった。徹頭徹尾感じたのは「何ちゅうバカや」という感想でしかない。もちろん犯人に対してである。
早めに私の中にある差別意識っぽいものを披瀝しておく。私は高齢者で最近では足元もおぼつかなくて、つい前のめりになるし、スーパーのレジの前でもしっかり立っていられない。だから、ひと目には、それこそ弱者の障害者の欠陥人間の厄介者だろう。
ただ、ひとつ感謝するのは、それも最近ちと怪しくなったが、長いことしゃべるのを仕事にしていたおかげで、いろんな窓口や店舗で相手と話すときは、一応まだかなり、きびきびと有能な秘書風の会話ができる。この前、歯の治療をしてから、ほっぺたを噛むようになって、前ほど鮮やかではなくなったけど、まあ簡単な会話なら、滑舌がいいふりをして、ごまかせる。
詐欺師の気分に近いかもしれないが、このことは毎回ありがたい気がしている。障害者の方の多くは話すのに苦労されるし、聞き取りにくい。それで、相手が見下す気分になることもあるだろう。母が高齢になって、身体や会話が少しおぼつかなくなったころ、見舞いに来てくれた私の友人たちが、母を子ども扱いし、私にもそのような存在として語るのを、私は心の底から軽蔑し怒ったし、内心では二度と彼らを許さなかった。そんな見かけで、人を値踏みし、幼児のように扱う人はけっこういる。自分がしゃべりや声音では、まだごまかしておられることを、私は自分の有利な条件として考えてはいる。
もうひとつ。Eテレの座談会では、そのように発語に苦労される人とともに、私のように流暢にしゃべる障害者もいて、その方たちは盗癖とかその他の精神的な障害で苦しんでおられる人だった。これは中学校の先生をしていた友人などから、障害者学級などの話を聞くたびに、私がどうしても納得できなかったひとつである。やまゆり園の加害者も、身体の不自由な人も精神を病む人も区別せずに殺したのだろうが、障害者学級もその点では同じじゃないかと思う。ひとつひとつの障害に見合った世話や教育をするのがあたりまえで、「普通とちがう」子どもを、とにかく皆いっしょくたに隔離して、それを特別支援と考える発想が私にはまったく気に入らない。そんなことなら「健常者」だって千差万別なのだから、全部ごったまぜに育てる方が、よっぽど理屈にあっている。金や人手が足りないとか言うのは、また別の問題だ。
まあそんなことはいい。私がその座談会その他を聞いてイライラしたのは、何で障害者が生きていていいという主張やアピールをこの人たちがするのかさせるのかという怒りだった。それこそ高齢者で認知症予備軍で、若い時から運動神経が鈍い私など、イチローだの大谷翔平などと比べれば、障害者と変わりない。学問研究だって、不十分で未完成だし、もっと優れた知性を有する人なんて、市井にもアマゾンの奥地にもサハラ砂漠の中にだって、きっと山ほどいるだろう。だいたい、一国の首相や大統領があんなんですよ。何をどこで線引きして、順位や分類つけるんですか。
あの事件に私が「バカかいな」と思っただけで何の関心も当時抱かなかったのは、何をどう考えても、あの事件の中で、一番の障害者は加害者の犯人でしょう。それ以外の人はどこもどっこも、おかしくも何ともない。それこそ普通の人たちで、何も生きてる価値があるなんて証明する必要なんかない。十年もたって、まだそんなこと問題にして主要なテーマにするんですか。すっとぼけるにもほどがある。
特集を組むなら、加害者=犯人=最大の障害者について、考え、語るべきです。それは私も興味がある。自分の安全確保と防衛のためにも、それは、大いに知っておきたい。
その人は、なぜ「こんな人たちは生きていてもしかたがない」と思ったのでしょうか。仕事がつらかったのか。疲れていたのか。何か引き金になるようなことがあったのか。そういう育てられ方をしたのか。そういうことを何より知りたい。彼がそう思い込み、思い詰めた過程を知りたい。
家族や職場を責めるのじゃありません。被害者たちを責めるのじゃありません。この私でさえ、どこかで関わっていたかもしれない、世間の風潮、社会情勢を責めるのじゃありません。彼その人さえ、責めるのじゃない。ただ、どうやって、そんな考えが生まれ、実行するまで追い詰められたのか。それをこそ、知らなくちゃいけないのじゃないでしょうか。
なのに、私が知る限りでは、そこに触れた報道や発言はひとつもなかった。何か事情があるんでしょうかね。
あいも変わらず猛暑つづき。昨日はカーラジオで聞いてたら、美しい海岸線が次第に狭くなりつつあって、どこかの観光地では、白砂を入れて砂浜を復活させたというニュースで、識者が「これは世界規模、地球規模での現象であって、根本的に考えなくては、砂を投入するような対策をしても、火に油だ」と言ってました。多分「焼け石に水」と言いたかったんだろうなあ。この暑さじゃ、ぼうっとしてまちがうのも無理もないかもしれない(笑)。
