ヤバいヤバいヤバい
月末にはお客さんが来るかもしれないのに、母屋も離れも片づけがちっとも進まない。そろそろ本腰入れないと、とんでもないことになりそうだ。そんな中、あいかわらず毎日最低の家事をして食事して洗濯して掃除して水まきして、あっという間に夜が来て朝になる。まあこんな日も楽しくないわけじゃないけど、どうにかしないと、もうさすがに。
ことの始まりは数日前から、また変に雨が降りそうで降らないこと。実際毎日曇っているし、水をまこうとしたら、ぱらっぱらっと雨のしずくが落ちてくる。どうせまただますんだろうと思っていると、すぐまたやんでしまう。もしかしたらと思って一日水まきをしないで、いらいら日を過ごす。それでペースが狂ってしまう。
とにかく、片付けの方針は決まっている。実行できないだけだ(笑)。まあ、とにもかくにも、もうこうなったら、未整理用のボール箱を作って、当座の整理でもしなければ。

そんなこと言いつつ、やってることはあいかわらずで。
月曜にちょっと用事があって出かけたら、目的の事務所のあるビルの前のコンクリートの敷地の上に、先日埋めたばっかしのクマゼミとそっくりのセミがひっくりかえって、これはもう完全に死んでいた。熱波の町中、アリもまったく来てなかったし、人の気配もない真っ昼間だった。
町と言ってもこのへんは、田んぼも森もふんだんに入り混じっているので、どうせそこらで暮らして天寿をまっとうしたのだろうとは思ったが、何となく反射的に拾い上げてポケットに入れてしまった。そのあと打ち合わせをすませて帰る途中、一度落っことして脚が一本もげてしまい、それも拾っていっしょにティッシュに包んで持って帰った。
仏壇のミニろうそくの空き箱があったので、散らかったがらくたの中から拾った紙ナプキンをしいて、とれた脚もいっしょに入れてやって、前のクマゼミを埋めたキナモチの樹の下に並べて埋めてやった。話し相手にはなるだろうさ。
しっかしまあ、こんなペット・セメタリーみたいなの作ってる自分にもつくづく感心しないけど、前から思っていることだが、私のこの小動物やら雑貨やら、あらゆるものに対する擬人化症候群は、克服しとかないと危ないぞ。いよいよ認知症になって高齢化した時に、思わぬ精神障害につながるかもしれん。
何しろ、台所道具の鍋や包丁まではともかく、おんぼろぼろの布巾やスポンジまでも、つい別れがたくていつまでもとっておいてしまう。さすがに来客に見せるには恥ずかしすぎるから、そこそこ新しいのも買っていたら、布巾が余って置き場がなくなってしまった。この際一気に処分したら、それだけでもすっきりするんだろうがなあ。
菱岡憲司氏がいつか何かで(多分「断捨離狂騒曲」の感想)書いてくれてたのだが、私のこの擬人化症候群は、かなり異常な域まで達していて、たとえば、パソコン打ってて、「ねこまた」と打つのをまちがえて、「ねこまま」とか「ねこままた」とか打ってしまい、「ま」のどっちかを消そうとする時、もちろん一瞬の何分の一だが、どっちの「ま」を消すのが正しいだろうか、どっちを残してやるべきだろうか、どっちを消すのが理不尽だろうかあきらめてもらえるだろうかと、二つの「ま」の気持ちを思いやって、迷って逡巡する。
福岡県議会の議長辞任要求の発議が緊急動議でつぶされて、その理由がどうやらニュースによると、議長が自分から辞職する方が(時がくれば、だってさ)かっこいいというか、少しは面目が保てるからと、辞任要求の採決がなされると、起立したかどうかで各議員の去就がはっきりわかり、後の報復が恐いからと、何だかそんな理由らしい。この期に及んで何という価値観か美学かと、口をあんぐり開けたくなる。
ちなみに、これもただの偏見ですけどさ、あのとんでもないボスの議長さんですが、取材を受けるたびに余裕の優雅さで、外国の会議に参加して(獣医さんなのかな)、講演したとか楽しかったとか、上品でエリートっぽい圧力を相手に押しつけてくるのが、堂に入ってるというか、田舎者やら成り上がり者は、ははーっと威圧されるような雰囲気がすごく身についてるなあと感心する。かしづかれて、ちやほやされるのに、慣れきって、磨かれてきてるんだろうな。
偏見と言うのはね。そこで私が思い出すのは大昔に読んだ山口瞳氏の『江分利満氏の優雅な生活』なんですよ。のんきで洒落たエッセイみたいなこの本が、ラストに近く激しく熱く骨太の戦争反対の精神をあらわにするのは、ちょっとジョセフ・ヘラーの『キャッチ22』を思わせる衝撃と感動なんだけど、そのときの話の枕に、作者は戦争を起こした、若者たちを戦地に追いやった老人のイメージとして、「白髪の上品な紳士」を描いて、そのイメージに向かって語ってるんだよね。その時同時に、「ハゲ頭の紳士」をあげて、そういうイメージじゃない、ハゲ頭はお人好し、とか決めつけてたの。もうそれっきり何十年も読んでないけど、多分そう。
当時は子ども心にも何ちゅう決めつけ方だと思ったし、それは今でもそうですよ。でも、だからなのか、忘れられなかった。そして今、福岡県議会の蔵内議長の外見や雰囲気を見ていると、ひとりでに思い浮かぶの、山口瞳の、江分利満氏の、警戒し、攻撃した、戦争を起こし若者を殺した、品の良い白髪の老人の姿が。もの言いも態度も余裕があって落ち着いて、攻撃する相手を下品で乱暴に見せる手際が磨かれてる、立派な紳士が。
あまりにうろ覚えなのもどうかと思って原文を探したけど、まだ著作権があるから「青空文庫」には入ってません。「すのさ」さんという方の感想から一部抜粋させていただきます。そう、江分利満氏は、自分の戦争責任も感じていて「昭和の日本人は、恥ずかしい」と言ってたのでした。他の他愛もないことと、ごたまぜにして、さりげなく、激烈に。
江分利満氏の何気ない日常や回想に戦時中、敗戦後、高度成長期という昭和の日本がある。明治生まれで戦争で儲かった実業家の男である父との、考え方の違いも描かれる。そして、江分利氏は軍隊に入営したものの出兵せずに終戦を迎えている。戦中派である。「白髪の老人は許さんぞ。美しい言葉で、若者たちを誘惑した彼奴は許さないぞ。」「この人たちを殺したのは誰か。殺したのは江分利自身でもある。昭和に生きた日本人である。昭和の日本人は、恥ずかしい。」この言葉に戦中派の、戦争への意識と戦時中のトップ層への嫌悪感を感じ取れる。
この感覚が高市首相の「責任を感じておりません」という発言や感覚とは対極にありすぎて、ほとんど笑いそうになるのですが、それだけしっかりした土台に支えられた、首相とその周辺の、過去や遠方への無関心、共感や共鳴の薄さは本当に、ことあるたびに痛感し実感します。熊本地震のときにパーティー開いて「まちがってなかった」と言った福岡県議会の議員もそうでしたが、この人たちが災害や死刑執行の夜に、平気で宴会やごちそうや会話を楽しめる精神が、本当に筋金入りの鈍感さだと感じます。
これは以前に書いた医療関係者の冷たさとはちがいます。何より自分たちにするべきことがあって、それをするより先に飲み食い会話を楽しめるのが、私はまったく理解できない。
この人たちが仮に宴会やパーティーを自粛して中止するにしても、それは「他人にどう見えるか、ひんしゅくを買わないか」という基準でしかない。その判断さえできていない暗愚さはおいとくとして、そんなことより被災者や被害者のことを想像したら、いてもたってもいられない、食べ物飲み物も喉に通らないという気持ちは、きっとかけらもないんだろうなあとしか思えない。
被災地や被爆地を目の当たりにしても、首相は何より関心があったのは、「こうしている自分がどう見えるか」だったのでしょう。しょうもないメディアのせいで、まさにそれが支持率にもつながったのだから、そこにまず、そこにだけ、関心が集中するのは無理からぬことで、そういう意味では、メディアや私たちが作り上げた首相でもあります。そこにだけ熱中するのも、当然なのかもしれない。
そう思えば、外遊のときも天皇との相席のときも、この人(首相)は、どんなにうれしく楽しく幸せだったんだろうなあと、あらためてつくづく思います。その幸福に水をさし傷つけるものは、ひたすら不愉快なのでしょう。
それはさておき、この他者への共感のなさ、無関心さや想像力のなさは、とことんしょうもないですけれど、一方で私の、台所のたわしにまで感情移入して、捨てられるもののひとつひとつについて湊かなえもそこのけの、恐い物語をいくつでも書いてしまいそうな精神も、いいかげんにしておかないと、自分が危ないとつくづく思います。
優しすぎて滅びる危険、というのだけでもないのですよ。むしろ私が恐いのは「たかが、布巾」「たかが、猫」と彼らの悲惨や運命に無関心になったとき、即座にそれは「たかが、人間」につながりかねないことです。かつて私は、初代猫おゆきさんについて書いたエッセイ「雨の夜のある町から」のラストに近く、次のように書きました。
だから、どんなに愛した猫の死にも私は涙をこぼしたことはありませんし、これからもないでしょう。「たかが猫」と私は自分に言いきかせ、涙を押しやり、忘れます。しかし、そうやって自分に言いきかせるたびに、心の中で一つのこだまがひびくのがわかります。「たかが、人間──」と。猫や、動物たちの死に涙しないでいいのだったら、人間の死にも苦しみにも、泣く理由はないように、私は思ってしまいます。それは理屈ではなく、心の中にひとりでにおこる共鳴音のようなもので、どうしても消すことができません。
私が文字のひと文字や死んだセミへの連帯感を、甘い優しいと心配して下さる方は、むしろ私が人間や他者にかろうじてつながっていられるのは、この感覚のせいだとわかってほしいです。「しょうもないものとつながらないで、もっと人間や私を愛して」などと言われようもんなら、人間もその人も、私はたわし以下にしか扱わなくなるかもしれない。それが自分でもわかってるから恐いのかもしれない(笑)。
ところで、カツジ猫の墓のそばの鉢に植えていて、ずっと緑の葉っぱだけだった花が、きのういきなり白い花を咲かせはじめました。びっくりしました。枯れてしまった他の鉢にも、そろそろ何かを植えてみようかな。


