想定問答1-想定問答

アキレスという男はまったくのバカだ。
いつもいつも私の期待を悪い方に裏切る。あらゆる戦士の中で、やつが一番嫌いだ。
トロイのヘクトルと決闘に出かけた、しかも戦車に綱を積んで行ったというから、てっきり生け捕りにしてくるのかと期待していたら、殺して死骸をひきずってきた。
ご苦労なことだ。まったく何の役にもたたない。殺してどうする。あんな勇士を、優秀な指揮官を。
生かしておけば、いやというほど使いでがあった人材なのに。
「そうはいきませんでしょう」とネストルが言った。「あれだけの男を手なずけられるのですか」
「牢に放り込んでおいて」と私が言いかけると、オデュセウスが「ここには牢はありません」としょうもない訂正をした。
「どこかのテントに放り込んでおいて」と私は言い直した。人間に余裕があるからとは言え、どうしてこう素直なのだろうな。我ながらあきれる。
「人質にするのですか」とネストルが言った。「毎日、耳や指でも切って一つづつプリアモスに送れば、老王は何でも言うことを聞くとでも?趣味が悪すぎますぞ」
私は何もそんなことは言っておらん。趣味が悪すぎるのはおまえだろうが。
「プリアモスが、息子の耳や指のかたちなど、いちいち覚えていると思うか」私は言ってやった。どうしてこう親切に人の話にのってやるのだろうか。おのれの人格の立派さにため息が出る。
「弟なら覚えているかも」テッサリア王のトリオパスが言った。「あれだけ仲がよかったのだし」
「それはなかろう」オデュセウスが反論した。「あの弟が覚えているのは、自分の耳や指のかたちだけだと思うぞ」
「同感だが、そういうことはどうでもいい」私は言った。「とにかくどこかに捕獲しておいて」
「拷問するのですか」ネストルが眉をひそめた。
だから、そういうことを考えたがるのはおまえだろうが。それが表情にあらわれたらしくネストルはせきばらいした。「前にもなさったではありませんか。メッセニアの王子や、アルカディアの妃を」
「人による」私は言った。「効果がないとわかっている相手を責めるのは薬や油の無駄遣いだ」
「媚薬でも飲ませて犯すのですか」オデュセウスがうんざりしたように言った。「ミュケナイの抵抗勢力をそうやって屈服させたように」
「さよう、誇りを奪えば人はどうとでもなるものとおっしゃって」ネストルがうなずいた。
「いかなる媚薬も鞭も鎖も、あの男には必要ではなかったろう」私は言った。「そもそも彼に指一本触れぬまま、向かい合って座っていただけで、私は彼を屈服させ、私の臣下にできたはずだ」

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「ははあ」トリオパスが言った。「おまえが私に仕えれば、トロイはそのままにして救ってやると言うのですな。愛するトロイや一族とひきかえになら、彼はあなたに仕えるでしょう。涙を呑んで」
「ヘクトル一人にそれだけの価値がありますかな」ネストルが言った。「第一トロイの都と民をそのままにしておいて、彼を臣下にしておくなど、剣呑でしかたがありますまい」
「そうともよ」私は言った。「だから私が言うのは、彼をどこかに閉じ込めておいて」
「さっきから、そこから話が進まないのですな」オデュセウスが言った。「失礼しました」
私は彼にうなずいてやった。「…そうしておいて、トロイは滅ぼす。焼き尽くす。しかるべき後に彼を引き出し、おまえの都も民ももう滅びた、私に忠誠を誓え、ともちかける」
皆、しばらく考えていた。「不可能でしょう」とやがてトリオパスが言った。「そりゃ、どう考えても」
「そうか」私は椅子にもたれかかった。「どう考えても成功するとしか思えないのだが」
「ごくごく普通に考えても」ネストルが言った。「王がそう持ちかければ、彼は毅然と申すでしょう。トロイは滅びたのではない、あなたが滅ぼしたのだ、と」
オデュセウスもうなずいた。「見くびるな、と言うでしょう」
「声が聞こえ、顔が見えるようです」トリオバスが言った。
「私もだ」私は目を細めた。「彼はそう言うだろう。そう言ってほしいものだ。できれば私と二人だけではなく、君たち皆がいる前で、彼にそうして思うさま私をさげすませたい」
「美しい男にいたぶられる趣味がおありとは知らなんだ、とアキレスあたりが言いますぞ」オデュセウスが苦笑した。「何のために、そのような」
「おお、アキレスの馬鹿者にもな、ぜひともその場にいてほしい」私はうなずいた。「それでオデュセウス、何のためにと申したか?それはな、そうやって、怒りに燃えてまっすぐに私に立ち向かう彼が美しければ美しいほど、りりしくて気高ければ気高いほど、次の私のひと言で、泥の中にはいつくばらせてやった時の落差が大きく、印象があざやかになるからだ」
「そんなひと言があるのですか」ネストルが尋ねた。
「私は彼を見つめよう。表情のわずかな変化も見逃さぬよう、じっと見つめて、こう言おう」私は言った。「私の弟をあんなやり方で殺したおまえに、そんなことを言う権利があるのか?と」

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沈黙が落ちた。「それは…」と、しばらくしてからオデュセウスが言った。「たしかに…だがしかし」
「だがもしかしもあるものか」私は言った。「さて賢いオデュセウスよ、彼の返事を予想せよ」
オデュセウスは、あごに指をあてて考え込み、うなった。
「彼は何か答えられると思うか?あの行動に何か理屈がつけられるか?」
「彼はあなたにそう言われるまで、そのことを思い出さずにいますかな?」ネストルが言った。
「君らも忘れていたではないか」私は指摘してやった。「もしも、そのことを覚えておれば初めから彼はもっと用心深い。私にたてついたりはせぬ。しかし、覚えておらぬと思う。上陸した時、最初に対面した折のことを覚えておるか?」
私は三人を見回した。
「君たちは皆、私のすぐ後ろに立っていた。彼の顔をよく見ていたはずだ。忘れもしないが、最初、君たちは招いていないから船で帰れと言った時、ヘクトルは明らかに後ろめたそうで、ひるんでいた。噂ほどもない弱気な王子と私はとっさに思ったものだ。ところがその後、王妃を引き渡し、わが国に従属せよと条件を持ち出したとたんに、彼の態度は一変した。私の背後のギリシャの大軍を睥睨し、たった一人の欲のために五万の兵士が戦わされるかと吐き捨てた。その威風に私は目を見張り圧倒された」
ネストルがうなずいた。「若いのに王者の風格がありましたな。今もありありと思い出せます」
「私はあの時、彼の変化にとまどって、対応に迷った」私は言った。「だが、後で気がついた。最初彼が弱気で自信なさそうに見えたのは、弟が理不尽なことをしたのを意識して恥じていたのだ。だが、私がトロイ併合を持ち出し、いわば彼にとっては理不尽な要求をしたとたん、彼は一気に自信にあふれた。正義が自分の側にあると自覚したからだ。その時に意識的にか無意識にか、彼は弟の行いについての恥を忘れた」
私はゆっくりワインをすすった。
「今度もきっとそのはずだ。トロイを滅ぼし、同胞を殺し、しかも自分の味方になれと誘う私の理不尽さに彼は怒りに燃えている。清らかに、まっすぐに、私をさげすみ、憎んでいる。自分がやった過去の卑劣な行為など、もともと見たくもないものだし、心の奥に封印して忘れてしまっているはずだ。思い出させてやれば充分。あばかれた傷口から噴き出す泥水で、彼は一気に首まで溺れる」
私はネストルを見た。「どう思う?軍師の意見を聞きたいが」

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ネストルはゆっくりうなずいた。「彼は動揺しましょうな」
「まちがいないか」
「疑う余地はありません」
「まずまちがいなく、目は伏せる」オデュセウスがつぶやいた。「あなたの弟を殺した時のように」
「泣き出すかもしれない」トリオパスが言った。
「そう一気には崩れない」私は首を振った。「いくら彼の心が清らかでも、それほどにもろくはない」
「で、どうなさる?」ネストルが聞いた。
「声も高めず、身体も動かさず、私は彼にただ要求する。顔を上げ、私を見るようにと」
「そうしなかったら?」
「そうするまで、繰り返し命ずる。声は高めず、あくまでもおだやかに、単調なくらい静かに。大丈夫、そう何度も繰り返す必要はない。彼は顔を上げる。どんなにつらくても、そうせずにはいられない」
「なぜ?」
「それが彼の生き方だからだ。生きている限り、彼はそうする。どんな表情であれ、必ず顔は上げる。私を見る」
「そして?」
「どうおっしゃる?」
「私はただ言う。君の弁明を聞こう、と」

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「答えられますまい」ネストルが言った。
私は黙っていた。
「あの行動に、弁明の余地はまったくない」トリオパスが言った。「彼の弟パリスは、大勢が死ぬようないくさは避けて、一対一の決闘で勝負を決めようと申し出た。勝った方があなたの弟メネラオスの妃、パリスがさらった美しい金髪のヘレンをわがものにすることにしようと。我々は皆それを了承した。むろん、へクトル自身も含めて。だが実際にはパリスは一方的に負けて逃げ出し、兄の足にしがみついて助けを求めた。あなたの弟は、メネラオスは、ヘクトルの前に進み、下がって弟を引き渡せ、殺させろと要求した」
「敵も味方も全軍が彼らを見ていた」ネストルが言った。「トロイの城壁の上からは王家の皆が見下ろしていた。ヘクトルは下がらなかった。困りきって、途方にくれて、メネラオスを見返していた苦しげな顔をまだ覚えている。彼はとうとう、勝負はついた、とだけ言った。まだついてない、とメネラオスは言った。下がれ、ヘクトル、と繰り返した。その時彼は、うつろに見えるほどいちずな目で、彼は私の弟だ、とつぶやき、次の瞬間、彼の剣はメネラオスの胸をつらぬいていたのだ」
「私は今、諸君が話した通りのことを、ていねいに、かんでふくめるように彼に語って聞かせよう」私は言った。「彼の目に、心に、その一瞬一瞬が再びはっきりよみがえるように。私はこうだと思ったが、これでいいかな?まちがっていないだろうか?とひと言ごとに念を押し、彼がうなずくまで待とう」
「彼は耳に入っていないと思いますよ」ネストルが言った。「うなずいていても」
「そんなことがあるものか」私はにんまりしてみせた。「彼は生まじめな性格だ。私にそう聞かれて念を押されたら、本能的にまちがいがないかどうか確かめてしまう、頭の中で。そうすることが刻々自分を苦しめるとわかっていても、そうしてしまう、それが彼だ」
「なるほど指一本ふれてはおられない」オデュセウスが首をすくめた。「だが何という残酷な」
「彼は聞いている内に、また目を伏せるか、うなだれるか、顔をそむけるかするのでは?」トリオパスが言った。「あるいはいっそ、やめてくれと叫んで両手で耳をおおうか」
「おそらくあの男は、そのどれもしまい」私は言った。「顔から血の気はひいても、黙って目はそらさずにいるだろう」
「同感です」オデュセウスが言った。
「その話が続く時間、彼は耐えられまいが、それが終わるのはもっと恐れるだろう」ネストルが言った。「あなたに何を聞かれるかわかっているから。こういうことのすべてを、君はどう説明するのか?と」
「そのとおり」にこやかに私はうなずいた。「まさにそれを私は聞くのだ。私の弟を刺したあの瞬間、君はどういう気持ちだったか、つつまず、かくさず、話してほしい、と」

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「答えようがあるまいな」今度はオデュセウスがそう言った。「弟がかわいかったから?どうしても助けたかったから?」
「その気持ちが強ければ強いほど、同じ弟を亡くした兄としての私の気持ちもわかってしまう。ヘクトルとはそういう男だ」私は言った。「だからとても、それを私には言えまい。そんなことはあまりに私を侮辱した、人の道にはずれた醜いことだということが、彼ほどよくわかる者も少なかろう。だから何も答えられまい。何も言えまい」
「お許し下さい、とわびるとか?」とオデュセウス。
「彼は、それもしまい」ネストルが首をふった。「わびても取り返しがつかないと知っているから、わびることも彼にはできまい」
「結局、あなたを見つめて黙っているだけだろう」トリオパスが言った。「あの、メネラオスと向かい合っていた時のように」
「いや、もっと苦しげな顔で」ネストルが言う。

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「私はそこで彼に告げよう」私はきげんよく目を細めた。「弟はあれだけ腕がたったのに、なぜ、ああも簡単にむざむざと君に討たれたのか、その理由がわかるか?と。それは彼が、君を信じきっていたからだ、と。君があんなに卑怯なことをするなどと、弟は心の底のひとかけらでも決して思ってはいなかったろう、と」
「よくもそこまで」と言ってからオデュセウスは思い直したように「だが、事実ですからな」と言った。
「そうとも」私は落ち着いて言った。「人を、特に彼のような人間を一番苦しめるのは、事実をさしつけること、これが何より肝心なのだ」
「そろそろそこで彼は涙の一つでも流すのでは」
「こんなところで、はやばやと泣かれてしまっては困る」私は言った。「もう少しもちこたえてもらわないことには」
「まだ何か言うことが?」
「ありすぎて困るほどにな」私は椅子にもたれた。「私は更につけ加えよう。パリスとヘレンが駆け落ちをした直後、私のところに協力を求めてきた時も、戦いが始まってからでも、弟はパリスのことはくそみそに言っていたが、君の悪口だけは決して言ったことがなかったと。尊敬していた、信頼していた、戦うことになったのを、しんから残念がっていた。友人として最高の男、兄弟であったらどんなに楽しかったろう、できればいつの日かもう一度笑って酒をくみかわしたい…」
「本当ですか?」ネストルが言った。
「そこまで言っていたか?」トリオパスも聞いた。
「やりすぎるとしくじりますぞ」オデュセウスが忠告した。
「こういうことは少々大げさに言っておいてもいい」私はうそぶいた。「それに、大すじではまちがいはない。弟は本当にヘクトルを好いていた。妃のこともあれこれ話していたようだし、弟があれなりに妃を深く愛していたことを、ヘクトルは知っていたはずだ。そのことも、思い出させる。彼の良心を苦しめるようなことは、すべて、話して話しまくる。スパルタでの交流を、弟の人柄を、まざまざと彼が思い出せるように、私のレトリックのすべてを駆使してな。目を少しでもそらしたり伏せたら、私を見るよう要求して、ずっと私を見つめていさせる。それにはもう一つ理由がある。私と弟は顔が似ていて」
「あーもう」オデュセウスが両手で頭を抱えてつっぷした。「そこまでやるんですか」
「弟の微妙な表情とか声とかを、私はいくつか完璧にまねすることができるんだ。目つきやちょっとしたしぐさもな」私はのどで笑った。「それをちらちらのぞかせて、いやが上にも思い出させて」
「彼は死んでて幸福でしたよ」オデュセウスはつっぷしたままの顔をおおった指の間から言った。
「笑うな」私は言った。
「泣いてるんです」オデュセウスは抗議した。

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「彼が君ほどそうすぐに、がっくり来てくれればありがたいが」私は言った。「おそらくそうではあるまいな」
「いっそのこともう先にあんたが泣いたらどうだ」トリオパスがため息をついた。「思うにそれが一番彼を苦しめるんじゃないのか」
「それはまだもう少し先だな」私は言った。「この時点ではまだこちらの手の内はさらせない。何を考えているのかわからないぐらい、おだやかに話す方が彼を不安にさせられる。言っている内容だけで苦しめるのには充分だ」
「だが、彼は何も言いませぬぞ」ネストルが言った。「本当に言うべき言葉がないでしょうから。これがあの弟パリスなら、さめざめと涙を流しましょうし、アキレスなら怒って何かを投げつけるかもしれませぬが、彼はどちらもしますまい。そんなことではごまかしますまい」
「ついでに言うと舌をかんで死にもすまい」私はつけ加えた。「そんな卑怯な男ではない。だからそんな用心は無用だし、指一本ふれる必要はないというのだ」
「あなたはほんとにいやな男だ」オデュセウスがようやく顔を上げながら吐き捨てた。
「彼がそのことをよくわかっていてくれるといいのだが」私は眉を上げてみせた。「であれば、そろそろあきらめて、私にこれ以上つけこまれて醜態をさらす前にさっさと屈服しておいた方が得策と判断してくれようがな」

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「それはともかく、どうするのです」ネストルが聞いた。「彼が沈黙しつづけたなら」
「彼はそんなことはしない」私は首を振った。「君たちの誰も、あのアキレスでさえ、そんなことはしないだろう。思考を放棄して相手の言うなりになるのも、黙りつづけてあてのない時間かせぎをはかるのも、戦士や男のすることではない。理不尽な問いに対してや、自分が正しいと確信している時になら、沈黙も許されよう。それは相手の愚かさへの軽蔑ともなり得よう。だが、答えなければならない場合に、自分もそれを知っているのに、答えないでいつづけるのは、王者には許されない。王者であった者にもだ。彼はそのことを幼い頃から教えこまれて育っている。それが血肉となっている」
「それでも、答えられますまい」ゆううつそうにトリオパスが言った。「死人のように青ざめても、言葉は口にできますまい」
「なら、もう少し答えをしぼろう」私は言った。「せめて聞かせてもらえないか。君はいったい、いつ、どの瞬間に私の弟を殺そうと決意したのだ?と」
「それを聞いて何になるのです?そんなことがわかって?」
「別に。ただ彼に少しでも答えやすくしてやりたいのだ」私は情け深そうな声を出した。「できの悪い生徒に教師が質問を工夫するように」
「どこが答えやすいんです」オデュセウスが私を上目づかいににらんだ。「ただ彼を苦しめたいだけなのでは」
「忘れては困る」私は両手を広げた。「それがそもそもの、本来の目的ではないか」
オデュセウスは目を天井に向け、そっぽを向いた。

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「それにしても、いつなのでしょうな」ネストルが眉をひそめた。「彼が、それを決意したのは」
「あの時か」トリオパスが言った。「彼は私の弟だ、と言いきった時。あの時、彼の表情が変わった。何を犠牲にしても弟の命を守ると決めた顔だった」
「その前かもしれない」オデュセウスが言った。「王が、トロイが約束を破ったと叫び、戦闘準備を全軍に指示した時。おそらく彼はあの時に、弟の生死とは関係なしに、どのみち攻撃はかけられると判断したのではないだろうか」
「そうかもしらんが、子どもの理屈だ」私はあざ笑った。「仮にそうなるとしても、私を侵略者、征服者として歴史に残すためには、絶対に彼はあそこであんな風に手を出してはならなかった。そのことの重要さに比べれば、弟の命など、比べ物にはならん」
「第一、殺さないでもよかったろう」ネストルが言った。「たとえば、剣を抜いて威嚇し、弟をかばって後ずさるのでも充分に目的は達せられたはずだ、あの男の腕ならば」
「万一、かばいきれないことを危ぶんだのだ。メネラオスはパリスのすぐそばにいた」トリオパスが言った。「安全な方法はあれしかなかった」
「そうは思えなかった」オデュセウスが反論した。「王も言った通り、メネラオスは彼を信じきっていた。彼が剣を抜いただけでも驚いて、弟に手をかけるどころではなかったろう。あの時のヘクトルの様子はまことに常軌を逸していた。何かにとりつかれてしまったように」
ネストルがうなずいた。「おそらく、メネラオスを刺す瞬間まで、彼には自分が何をするかわかっていなかっただろうし、その時のことは自分でも覚えていまい」

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「おそらくな」私はうなずいた。「彼が答えるとしたら、それしかあるまい。覚えていない、か、思い出せない、か。考え抜いて、思いあぐねて、結局それしか答えが見つからないことに、何より傷つくのは彼だろう。それでも、それを言うしかあるまい。覚えていない、思い出せないと。おそらくは疲れ果てた小声だろうが」
「当然あんたは、聞きとれないとか何とか言って、数回言い直させるんだろうな」オデュセウスは投げやりに言った。「いかん、もう目に見えるような気がしてきた」
「目に見えると言えば私は」ネストルが苦笑した。「アキレスもその場にいることになっていましたな。彼がそわそわしはじめるのが目に見えるような気がします」
「忘れていた」オデュセウスが声を上げた。「そうだ、あいつが介入するぞ。そんなしつこいいたぶり方は一番嫌いなやつだから。もうそのへんにしとけとか言って、ヘクトルをひっつかんで、ひきずって行ってしまいそうな気がする」
「あり得る」トリオパスが賛成した。「肩にひっかついで行きかねん」
「ふふん」私は鼻で笑った。「ヘクトルが拒絶する。彼の従妹と同じようにな。王家の者は誇り高い。よほどがっくり来ていれば別だが、この段階でまだそれはない。それを言うならアキレスも、このくらいではまだ介入せん。パトロクロスだったかな、あの若い従弟をヘクトルに殺された恨みをそうそうは忘れはせん。かわいそうとは思っても、救ってやろうとまではまだ思わん」
「まだ?」オデュセウスが聞きとがめた。「まだ先があるのですか?」
「こんなのはほんの序の口でな」私は言った。「とりあえず、何とか彼が答えたとしよう。思い出せない、とか、覚えていない、とか、そういったたぐいのことを。私はしばらく黙っている。それから次第に…」
「何をそこで、ほくそえむんですかね」オデュセウスが気味悪そうに私を見つめた。「何をするんです?」
「ぶるぶると、細かく椅子の腕をにぎりしめた手をふるわせる、こんな風に」私はやってみせた。「それをだんだん大きくしてゆく。もちろん、ワインの杯を握っていて、それを握りつぶしてもいいが、力が足りずにつぶせなかったら困るのでな」
「いずれにせよ、何をするんです?」
「そして、目をぎらぎらさせ、涙をあふれさせてな。しばらく無言でいる」
「彼がそれを見ていますか?」
「目を離せまいよ、普通」トリオパスが言った。「で、何とおっしゃるのです?」
「ふざけるな!!」私は声を限りにどなりつけた。

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皆が椅子から飛び上がった。ネストルはよりかかっていた椅子を倒し、トリオパスはかじっていた果物を落として床に転がした。テントの入口の衛兵たちもぎくっと身体をこわばらせ、一人が手にしていた槍を落としかけた。
「覚えていない!?思い出せない!?」それにはかまわず、大声で私は怒りにわななきながら言葉をたたきつけた。「私の弟だぞ!君が殺したのだぞ!覚えてないとはどういうことだ!?剣が勝手に動いたのかね?夢を見ていて気がついたら、弟の胸に剣が刺さっていたのかね?いっそ、神のお告げだったと言ったらどうだ?アポロン神に命じられて、逆らえなかったのですと?」
私は顔をのけぞらせ、狂ったように笑いながら、全身から搾り出すあざけりとさげすみを声に、ひと言ひと言にこめた。
「せめてそのくらい、ぬけぬけと言ったらどうだ。それなら私もまだ面白い冗談だなと泣きながらでも笑ってやるから。弟が人妻をさらったのはアフロディテのお告げ、それに抗議した夫を兄が殺すのはアポロン神のお告げだと、いっそ言ってみてくれたらこちらもあきらめがつくというものだ。君らの国の狂気と腐敗ぶりとにな!だが君は、その程度の工夫もしようとはしないのだな。弟と同じに、まるで自分が被害者のように、当惑した、罪のない、無邪気な顔をして見せるだけで!そうやって虫も殺さぬ顔をしていれば皆が見逃すと思っているのか?高潔な君子面して、処女のようにうぶな態度をとっていれば、それですむと思っているのか?それとも弟同様に、何がいいのか悪いのか判断つかない馬鹿なのか?生きて、そうして私の前にぬけぬけと座っていられる神経が信じられぬぞ!トロイを滅ぼし、たくさんの人を殺してもまだ気のすまない、私の怒りがどれほどのものかも君はわからない。そうやって君を苦しめてやろうとしている私の憎しみを君は感じてもいない!よく何も感じないでいられるな、知らない顔を決め込めるな!君はそうやって育てられてきたのか?弟をそうやって教育してきたのか?恥とは何か、罪とは何か、誰一人、君らに教えなかったのか!?」
呆然と見守っている三人の前で、私は涙を流しながら笑った。氷のような冷たさと炎のような激しさをこめながら、次第に声を低めて行って、刺し通すような鋭い口調に変えて行った。
「その、いつも困ったような悲しげな顔は君の癖かね?自分一人が世の中の苦労をすべて背負っているとでも言いたげな、被害者めいた苦しげな、涙をたたえているような目つきは?せめて私の目の前ではやめてくれんか。虫酸が走る。もっと大きな苦しみを抱えていても、それをおくびにも出さず、冗談まじりで陽気に笑って耐えている人間たちをいくらでも私は知っているのでな。そんな悩ましげな、犠牲者めいた顔つきは見ているだけでも吐き気がするのだ。君の表情、君の態度、それが表す君の生き方、すべてがわざとらしく、安っぽく、嘘っぽく、歯が浮いて、鼻持ちならない。自分でもそう思ったことはないのかね?文化を誇る君らの都トロイにはどうやら鏡がないのかな?あれば、それだけ深刻な顔をしている自分を見たら笑い出さずにはいられまいから。覚えておくがいい、王子。辛そうな顔をしている者だけが苦痛を感じているのではない。大きな悲しみを笑って耐えている者にとっては、君の態度のすべてはこちらが見ていて恥ずかしい、人の同情をひくための哀れっぽいただの猿芝居に映るのだよ!」

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三人が石のように身体をこわばらせて見ている前で、私は大きく息をつき、緊張をといて椅子の背にもたれてワインを飲んだ。「…むう、のどがからからだ。どうだね、迫力がちと足りないか?」
三人はあいまいに首を振った。
「…とまあ、このように全身全霊をこめてまくしたてたら、彼も少しは動揺しないだろうか」
「う、動揺も何も…」オデュセウスが口ごもった。
「いや、勉強になりました」トリオパスが一礼した。
「ご本心をかいまみさせていただきまして」ネストルも吐息をついた。
「待て待て待て」私はワインを飲んで、口をふき、片手を上げた。「そういうことは誰も聞いておらん。第一、何か勘違いしていないか。私はヘクトルは立派な男だったと思っている。誠実な人間だったと」
「嘘つき」オデュセウスが小声で言った。
「どんな人間でも、悪口は言える」私は言った。「かくれた悪をあばいて、見かけとちがう、と言ってやる方法もあるが、それではいささか芸がない。面白いのは今まで長所と言われていたところをそのままにまっさかさまの欠点に見えるようにしてしまうことだ。今まで見ていたと同じものを見せながら、それがまったく反対に見えるようにしてしまうことが、言葉ひとつで可能となるのだ。効果的だし無駄がない。何より本人が動揺する」
「でしょうな」ネストルがうなずいた。
「しかし、ヘクトルほどの男だ。このくらいのことを、ただ言われたって普通ならまだ自分を見失ったりはしない」
「そうですか?」
「だから、どなりつけて迫力で威嚇する。これも、それだけならこけおどしと感じて彼は平気だ。だが、そこに心をこめる。弟を殺された私の怒りと悲しみは本物だからな。彼への憎しみもだ。そこを利用する。その思いをこめて言葉をたたきつければ、私の言葉がまがいものではないことが彼には十二分に伝わる。真実があると感じる。そして、いっしょに告げられた、自分についての考察も真実ととらえてしまう。そこがつけめだ。今まで考えてもいなかった自分の姿、知らなかった自分の心。それを見せつけられて混乱している彼に、たたみかけて攻撃する」
「何と言って?」
私は目を伏せ、ワインをすすった。
「…君は弟を、本当に愛していたのかね?」

∽∽∽

オデュセウスが目を閉じ、トリオパスはうなった。
「愛してなかったと思うのですか?」ネストルが聞いた。
「知らないし、そんなことはどっちでもいい」私は言った。「ただ、こう聞こう。…君を見ていると、わからなくなるのだよ。そもそも君は、私がわめくまで、私が弟を失った悲しみに気づいていなかった。自分の弟を本当に愛していたのなら、それは少しおかしくはないかね。おかしいと言えば、もっと不思議でならないのは、君ほどの人が…パリスもメネラオスもよく知っていたはずの君が、ああなるまでパリスが負けて殺されることを予測してなかったことだ。あそこで私の弟を殺すほど、何が何でも守りたいと思っていたなら、なぜ決闘を承知した?噂では前日からそのことは決まっていたというではないか?くいとめようともしなかったのか?」
「弟が言い出したことには誰も逆らえない、と彼は言うでしょうな」ネストルが苦笑した。「淋しげに笑いながら」
「そんな顔をしないように気をつけているのじゃないのか」トリオパスが言った。「さっき、王からあんなことを言われたばかりだから」
「しかし、ひどい言いがかりですな」ネストルが首を振った。「彼の目が憂いに満ちて美しいのは、何も彼のせいではありますまいに」
「わかっておるとも」私は笑った。「だが、そう言うのだ。自分がそれまで何げなくしていた表情が、人に不快かもしれないと意識して、そういう顔をしまいとしながら話すのは限りなく消耗するからな」
「やれやれ」トリオパスが目を上に向けた。「それで?」
「君はひょっとして、弟が負ければいい、死ねばいいと思っていたのじゃないか?と聞く」私は言った。「他の人たちだって、君にあの決闘をとめてほしがっていたはずだ。だが君は黙殺した。パリス自身が決めたことには逆らえないとか何とか言ってな。そもそもパリス自身がとめてほしいと思っていたかもしれないのに。自分はあくまでやりたかったと言い張れるよう、力づくで、君からな。だが君はそうしなかった。自分ではどうしようもないという態度をあくまで、とりつづけた」
私はゆっくり頭を後ろに引いた。
「いや、君という人は、そのやり方が得意なのかもしれんな」考えぶかげに私は言った。「それが君という人のいつものやり方なのかもしれん。人に押しつけられていやいやしているように見せながら、結局は自分の好きなことをするのが。あの決闘の時もそうやって、弟が殺されそうになるたびに、身も世もない顔をしてみせていたな。人が、戦っている弟よりも、見ている君の方に同情したくなるほどに。見事なものだよ。まことに君は弟以上に、被害者面、受難者面して人の心をつかむのがうまい。そうやって真実を糊塗してしまうのが。どうなのだろう、その娼婦まがいの手管は、君らの一家の血統か?それとも父上じきじきのご指南か?」
「そこで彼が耐えかねて無言のまま、青ざめた顔に涙の一すじでも流したら、絶対にアキレスが立ち上がって、もうやめておけ、と叫びますな」ネストルが考察した。
「いや」私は首を振った。「ヘクトルは逆境に強い。おそらくは微笑さえ浮かべて逆に聞き返してくるだろう。何のために私が弟の死などを願わなくてはならないのですか、と」
「どう答えます?」
「私にわかるか、と言い返す。このやりとりの一番大事なところは徹底的に彼自身に考えさせることだからな。なぜ、あの決闘をくいとめなかった?弟が勝つと思っていたのか?負けたら見殺しにできるつもりでいたのか?君ほどの人がなぜそのことを考えなかった?そう繰り返し聞き続け、あくまでも彼自身に答えを考えさせるのだ」
私はゆっくりワインをついだ。
「誠実で、聡明な人間ほどな、自らの心の奥をのぞきこめば、誰もが持っている心の闇の中の怪物とまともに向き合ってしまう。ヘクトルのような勇敢な人間ほどそれを直視してしまい、それを見つめて戦わなくてはならなくなる。こちらはそれを見てさえいればいい。何もする必要はない」

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「いやしかし、実際にそれは私も不思議です」トリオパスが身をのり出した。「あれほど夢中でメネラオスを手にかけてしまうほど弟を愛していたのなら、決闘をくいとめる努力を、なぜ彼はしなかったのでしょう?」
「それは私にはわかる気がする」私は言った。「おそらく彼は、あの瞬間まで、自分がどれだけ弟を愛しているか、きっとわかっていなかったのだ。実際、前の晩あたりまでは、弟に腹もたてていたろうし、死んだらそれはそれで自業自得、と考えていただろう。その程度の気持ちでいたのだ。言いかえれば、あの決闘でみっともない姿をさらした時、初めて彼は弟を愛したのだと思う」
「そこまでわかっているのなら、わざわざ聞かなくてもいいのじゃないか」トリオパスが言った。
「そうではない」私は言った。「これは駆け引きだ。彼自身に、自分をいやが上にも醜い人間と感じさせ、徹底的に自信を失わせるための。ここに一人の美しい、やや頼りない弟がいる。しっかり者の兄は彼を嫌いではないが、困った者と感じていて、特に深い愛情も持ってはいなかった。しかし彼が子どものようにみじめにおびえて自分に助けを求めた時、初めて強い愛情を抱き、弟のためにすべてを捨てた。これは少しもおかしくはない。自然な、ことの成り行きだ。しかし、同じ事実を、少しだけずらして見ると、この話はこうも作りかえられる。兄はずっと弟が嫌いだった。憎んでおり、死を願っていた。チャンスは訪れ、兄はそれに飛びついた。だが、それが成功しかけた最後の瞬間、そんな醜い自分にいや気がさし、衝動的に弟を救ってしまった。二つの話は歴然とちがうが、二つの話の間には紙切れ一枚の差しかない。同じ材料から、ちがう話がつむぎ出せる。そこがまた、面白いのだがな」
「それで、あとの方の話を彼に信じさせようと言うんですか、あんたは」オデュセウスは苦々しげだった。
「君がそうやって腹を立てるのは、ヘクトルへの同情か、策士としての私への対抗心か、どちらなのだろうな」私はやんわり彼の無礼な物言いを牽制してから話を続けた。「そうとも、私はそう狙っている。それが成功しそうな理由もある。ヘクトルは疲れて混乱した中で、それでも懸命に判断しようとする。どう答えたら私につけこまれないだろうか。逃げる方法が何かあるだろうか。おそらくは真実により近い、前の話で返事をすれば、まずはまた確実に私にどなりつけられ、ののしられる。今まで大して愛してもなかった弟への愛にいきなり目覚めた、その程度の衝動的な気まぐれで私の弟は殺されたと、私に納得しろと言うのか、と。確実にそう言われ、責められる。悪いことには彼の頭でも、それは当然のことと思える。これを認めるのはつらすぎる。私に何を要求されても拒否できない状況も作ってしまう。何とかこれを避けねばならない」
「だからと言って、あとの方の話を認めるのですか?」
「私たちが予想もしていなかった、自分の心の奥底の醜さをあらいざらいぶちまけて、泣いて告白すれば少なくとも迫力負けはしない。私たちを呆然とさせられる。ある程度の同情もかえる。当面の時間は少しかせげる」
「でしょうかね」オデュセウスが半信半疑の声を出した。「それにしても、引き換えにするものが大きすぎやしませんか」
「忘れてはいけない」私は言った。「ヘクトル自身がそう思い込むのだ。それが真実だと。彼のように良心的な人間は、常に自分に厳しい。だから、自分の心をのぞきこんで、いやしいものや醜いものがあったら見逃さない。どんな人間にも当然あって不思議はない、ささやかでほほえましい、弟への嫉妬、いらだち。それを見つめている内に、幻想がふくらみ、実際にはない怪物が彼の目には見えてくる。自分は弟を憎んでいたような気がする。そのために死を願ったのかもしれない。そんな自分に気がついて、なりふりかまわずあんなことをしてしまったのかも。それほどに暗い、重い、邪悪なものが自分の中にあったのなら、あの時にあんなことをしてしまったのも無理はないと思ってもらえるかもしれない。もうこれ以上責められることはない。自分が悪人と認めれば。自分の醜さを認めれば。両手で顔をおおって、ただすすり泣けばいい。とぎれとぎれに、実はあんな弟は嫌いだった、ずっと憎み続けていたと言ってしまえば、それでいい。そして彼は抵抗を放棄し、戦うことをやめる。全身の力を抜いて私の腕の中に落ちてくる。私に許され、なすがままにされることに安らぎを見出すのだ。裁かれ、罰されることに喜びを見出すのだ」

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カツジ猫