想定問答2-想定問答

「だが問題は、彼が果たしてそれほど弱いかということだ」私は首を振った。
「弱くなければ、どうなのです?」
私は衣を腕にまきつけ、座り直した。
「ヘクトルは良心的で自分に厳しい、ともう一度言おう」私は言った。「それは彼にとって危険だ。だがまた何よりも、それが彼を守る。人からおまえはこんな人間だと指摘されれば、言われた相手が誰であれ、彼は素直にそれをうけとめ、うけいれて、考える。本当にそうかどうかと。自分に悪いところがあれば直そうとして。痛さにも苦しみにも恥ずかしさにも耐えて、自分の心をつかんでさぐって、調べぬく。そんな人間だけが、確信できる。自分はまちがってはいないことを。他人から指摘されたような事実はないことを。何かから逃げているなら、目をそむけようとしているなら、見落とすものがあるかもしれない。けれども、どうなってもかまわない、真実だけを確かめて、必要なら生まれ変わろうと真剣に自分と向き合った者は、やましいものが見つからなければ、しっかりと頭を上げる。自分がおかした、とりかえしのつかぬあやまちは認めても、それで自分の真実の姿は見失わない。とは言え、彼は自分の犯した失策は痛烈に自覚する…私の弟を殺したという。それをうかつに反省すれば、私につけいられることも重々わかっている。だから、用心深くなる。あなたの言う通りかもしれないが、私にはまだよくわからない、ときっちり答えて、あとは私が泣きわめこうがどなろうが、無言をつらぬき通すだろう。そうなると私が愚かに見えるだけだ」
「しかし、それは容易ではない」オデュセウスが私を見つめた。「人から自分の本質を指摘され、いくらかは思い当たることもあってみれば、しかもそれが敵からの攻撃だとしたら。実際に敵に囲まれ、あなたの前に引き据えられて、それらの言葉を浴びせられたら、とっさに心を閉ざして防御しつつ、一方で自分の心のすみずみまでを、曇りない目でおさなごのような無心さで見渡して調べることなど、できそうにはない。片方だけでもむずかしいのに、両方一度にやれるのか」
「あの男なら、やれたのかもしれぬ」ネストルが吐息をついた。「アキレスめ」と彼は言った。「惜しい人間を殺してしまって。王と彼との、そのような対決、私はぜひともこの目で現実に見たかった」

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「それで結局、どうなりますな?」興奮したのかトリオパスが、テッサリア地方の方言になった。「ヘクトルは泣き崩れて自分の醜さを告白するか、あるいはまた、澄んだ目で毅然とあなたを見つめ返すか」
「まあ現実には、その中間のいくぶんかどっちかよりだろうな」私は目を細めた。「不安を押し隠してはいるが、もちこたえるだろう。そこで私は…」
「ちょっと待って下さい」オデュセウスがさえぎった。「まだ続くんですか」
「もう、どこまでも続く」私は言った。「こんな話になると、私はとまらない」
トリオパスが、やれやれと言うように首を振った。
「さしあたり、私はそこで立ち上がり、おもむろに彼にワインをすすめよう」
「休戦か、情けをかけるのか」トリオパスが聞いた。
「彼の手がふるえてないかどうか見るためだよ」私はにんまりして見せた。「そして彼のそばに立ち、彼の手にしたカップのふちが、私の注ぐつぼの先にあたって、かたかた音をたてるのを楽しむ」
「彼の手が震えているものと決めておられますな」ネストルがあきれた。
「それ以外、何が考えられようか」私は言った。「これだけの緊張の中で、混乱の中で、そうでなかったら、それこそ彼の神経は強いというより鈍いのだ。だが、その音が静まりかえったテントの中に響けば、それだけ皆が彼の動揺を知り、彼もまた更にそれで動揺する」
「何から何まで行き届いたことですな」ネストルが言った。「それで何を聞くのです?」
「彼のかたわらに立ったまま、彼を見下ろし、世間話をするような口調で、それはそうと、と問いかける。そもそも君は、トロイを愛していたのかね?国民も、家族も?」

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「これはまた大変な」トリオパスが不安そうに身じろぎし、笑った。
「彼はワインをあなたにぶっかけますよ」オデュセウスが肩をすくめた。「まずはもう、まちがいなく」
「いや実はそうするかどうかも確かめたくて、ワインの杯を彼に渡したのだが」私は笑った。「彼はそのことに気づくかな?」
「彼はそうはしないと思う」ネストルが言った。「そろそろもう、あなたがわかってきています。落ち着いて一口ワインをすすった後、思いに沈んだ静かな声で、どうなのでしょうか、私にもわからない、とか何とか言いそうだ」
「どちらでもいいのだ」私は言った。「ワインをぶっかけに来たら、私は酒をぽたぽたたらしながら笑って彼に言おう。なぜそう逆上する?図星をさされたというわけかね?と」
「ますます怒って彼があなたにつかみかかったら?至近距離なら彼は指先であなたの首の骨ぐらい折りますぞ」
「そんなことは絶対にないと思うが、そうさせないよう、目で抑えつける。目が合ってなければ気配だけでもな」私は言った。「そのくらいの力はある。妻を奪われ、あげくの果てに殺され、しかも何の同情もされなかった弟のために、おまえの家族や都ひとつ滅ぼしても私は何とも思っていない。おまえからも誰からも、謝罪のことば一つ、同情のまなざし一つもらっていない私に、そのくらいのことはさせてもらうぞ。その思いをこめてにらみつければ、彼を椅子に釘付けにして立ち上がらせずにおくことぐらい、いくら私でもできるとも」
オデュセウスが顔をそらしながら、ため息をついた。「それで、彼が、さっきネストルが言ったような慎重な態度に出たら?」
「ではいっしょに考えてみようではないか、と、子どもを生もうと苦しんでいる女をはげます産婆のような甘ったるいやさしい声をかけてやる」
「ああもう、どっちもいやだいやだ」オデュセウスが身震いして、また頭をかかえた。「よくもあなたは平気だな。次から次へと、そんなにもおぞましいことを考えついて」
「彼がトロイを愛してなかったと思う根拠は?」ネストルが私をじっと見た。
「愛してなかったと思わせられるかもしれないと思う根拠は、と聞け」私は答えた。
ネストルはうなずいた。「それは何です?」

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「第一に、トロイが滅びていることだ」私は言った。「人間誰しも、特に強い人間ほど、起こってしまったことについて、これでよかった、と自分を納得させたがる。自分はひそかにこれを望んでいたのかもしれない、とさえ思いたがる。認めがたい苦しいことであると同時に、それは一つの救いでもあるのだ。生き残った人間の。これから生きて行かねばならない人間の」
三人はそれぞれ何かを思い出しているように、じっと私を見つめていた。
「特に、ヘクトルのような人間は」私はワインを飲んで笑った。「起こったことから逃げたがらない。敵や仲間に責任を押しつけたがらない。自分が悪かった、と、まずまちがいなく思う。自分が原因だった、自分に責任があった、自分がもっと努力すればこんなことにはならなかった、彼はずっと、心のどこかでそう思いつづけている。トロイが滅び、家族が死んだのは、自分の愛が足らなかった。賢さや、力が足らなかった。なぜもっと死ぬ気でがんばれなかったろう。正しい判断ができなかったろう。自責の念と誇りとが、やがて一つの結論を見つける。結局私はそうまで愛してなかったのではないか、そうまで望んでなかったのではないか…良心的で誇り高い人間ほどが、常に陥りやすい落とし穴なのだ」
「落とし穴なのか?」ネストルが聞いた。
「ああ。そうだとも」私はうなずいた。「本当に勇気があって、謙虚な人間なら、認めることを恐れはしない。何ものにもかえがたく、失ったものを愛していたことを。それを奪われたのは、自分の力が及ばなかったにすぎなくて、愛が足りなかったのではないことを。悲しみ、苦しみつづけながらも、その事実から決して目をそらすことはない」
「ヘクトルが、その強さを持っていないと、なぜ言えるのです?」ネストルが聞いた。

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「それは第二に、本当に彼はそれほど、トロイを愛してはいなかったのでは、ということでもある」私は答えた。「あの男は生まれた時から王子だった。ほしいものを奪いとる前に、すべてを与えられていた。彼は生まれてから自分で何かを選びとったことがあったのだろうか?期待にこたえ、義務をはたしつづける以外に、何かを愛したことがあったのだろうか?」
「妻との仲はいたってむつまじかったと聞いていますが」トリオパスが言った。
「国のため、一族のため、彼につくしてくれる妻、あとつぎの男子を生んでくれた妻」私は言った。「それを愛することが、王子としてのあるべき勤めと、どこかで区切りがつくのかね?パリスのように、神々からも人間からも呪われののしられ、自分たちも他人も不幸にするが、それでもこの人がほしい、というのなら、それはまちがいなく愛だろう。だがヘクトルの愛はいつも、世界の幸福や回りの幸福、国の発展、家族の平和と一致する。たまたま、そうだったのかもしれん。だがまたそれは、彼がすべて、そういうものを第一の基準にして行動してきたからかもしれん。王子として、指揮官として、息子として、兄として、夫として、父としての義務を誠実に彼は果たし続けてきた。だが、それは愛かね?生まれてこのかた、彼は何かを望み、何かに渇き、何かを求め、愛したことがあるのかね?拒絶や、逃走や、反抗さえも、一度も彼はしていない。何ひとつ選びとらず、ひたすらにうけとめ続けてきた。愛など知らないということでは、処女どころか、彼は幼児なみだ。だからあれほど無垢に見えるし、すべての人をひきつけるのだ」

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「それはあなたが本心からそう思っていることですか?」オデュセウスが聞いた。「それとも、彼を攻略するため思いついた理屈?」
「ただちょっと、彼にこう言ってみたら、どんな反応をするか見てみたい、面白かったろうなあ、と思っているだけでな」私はしのび笑いをした。「どうだろう、彼はどう答えるだろうか?」
「知りません」オデュセウスは不快そうに言った。「私は彼ではありませぬゆえ」
「つまり、君はトロイを愛しているのか、と聞き」ネストルが考えこみながら言った。「そもそも君は何かを愛したことがあるのか、と聞くわけですな。君が愛だと思っているものは実は愛でも何でもないぞ、と言うのですな。世間のすべての人々が…そのへんの下っぱ兵士、鍛冶屋の女房、村の小娘、羊飼いの少年でさえが皆持っている感情を、おまえはまだ知らずにいるのではないか、と」
「そんな途方もない言いがかりをつけられたら、かえって答えるすべがない」トリオパスは呆然とした顔をしていた。「おまえにはまったくわからない感情が世の中にはある、おまえ以外の者は皆、それを知っている、などと言われたら、人はどうしたらいいのです?」
「もうそれは泣きくずれるしか」ネストルが言いかけた。
「どうでも彼をそうさせたいのか」私は舌打ちした。「まだ早い。そんなにあっさり降参されてなるものか。第一こんなことを聞かれて彼が泣き出したりするわけがなかろうが。とことんまじめな男だぞ。私からでも誰からでも、そんなとんでもないことを言われたら、それがとんでもないことであればあるほど、泣くのも笑いとばすのも忘れて、一生懸命まじめに、本当にそうかどうかを考えるに決まっている。驚いてまん丸くなった目で私を見つめたまま、忙しくせっせと自分の心の中をかけずり回って、ああかこうかと考えつづけて」私は笑いをかみ殺した。「諸君にもわかっていようが、何とかわいい、美しい表情であろうな」
「それをほくそえんで見ているあなたを、アキレスがそろそろぶったぎるのじゃないか」オデュセウスが警告した。

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「アキレスにこの際何ができるものか」私はあざ笑った。「彼は愛などわからない。私たちの会話は彼には異国のことばのように何ひとつ理解できまい」
「これはまた」トリオパスがのけぞった。「そこまで言いますか」
「やつは嫌いなんだ」私は念を押した。
「あの女はどうなのです?」ネストルが思い出させた。「ヘクトルの従妹とかいう、捕虜になったアポロン神殿の巫女は?」
「ブリセイスか。同じテントに住まわせて大事にしているようだな」私は言った。「あれはアキレスと同じ気位の高いねえちゃんで、からかったら面白い。この前浜辺で会ったから、アキレスの味はどうだ、最近めっきりいい身体になったじゃないかと尻をなでてやったら、ものすごい目でにらまれた」
「二人は愛しあってるのではありませんか」オデュセウスが聞いた。「ヘクトルが従弟を自分とまちがえて殺す前は、アキレスは戦いをやめ、彼女を連れて故郷のラリサに帰る気でいました」
「知っとるよ」私は言った。「おまえが世にも不景気な顔で報告したではないか。アキレスは、この浜のカモメの数以上の女と寝ておるが、まともに人間としてつきあった相手は男女を問わず、これまでいない。部下は彼に忠誠を誓うだけ、あの従弟も気のあった、いわば双子のかたわれだった。人間らしい感情で相手とぶつかりあい、うけいれあったことはない。あの娘が初めてだろう。だが、ヘクトルを彼が殺した今となっては、それもどうかな。それでも彼女を抱けるほど無神経ならいっそ、逆に見所もあるのだが」
「あの娘は、ヘクトルに少し似ていませんか?」トリオパスがためらいながら言った。「外見はそうでもないが、どことなく思い出させる。同じトロイ人だからかな」
「ことばが同じトロイ風の抑揚だし、髪や身体にたきしめている香が、似た香りがするのですよ」ネストルが言った。「トロイの貴族や王族は皆そうです」
「そういうことは別にしても、彼女はヘクトルに似ている」私は認めた。「優等生で正義が好きで、世間知らずで、そして強気だ。汚されたり辱められたりしたことがないから恐れを知らない。そういう点では彼女もまた、愛を知らない。愛とはとことん醜くて、汚いものだよ。人の誇りも良心も捨てさせる。そういう意味では、彼女も、アキレスも、むろんヘクトルも愛を知らない。だから、ヘクトルが愛を知らないと言われているのを見ても、アキレスには何のことかわからない。ヘクトルと同じに忙しくあれこれ考えているか、あるいは思考停止して、ぽかーんとしているか、どっちかだな」
「ぽかーんとしたついでに、ええめんどうな、と剣を抜いて斬りかかるとか」オデュセウスがこだわった。
「まあな、それに近いことを何かしてくれれば、ありがたいのだが」私はもみ手をした。「最後の仕上げにかかれるからな」
「どのようにして?」
「おお、アキレス!と両手を広げて満面の笑みを浮かべてやる。君がそこにいるのを忘れていた。どうして今日はそんなに静かだったのだ?ちょうどよかった、君の顔を見て思い出したよ、ヘクトルに一番聞きたかったことをな。それは他でもないのだが…」
「やつが、うさんくさそうに、あなたを見つめ返している顔が目に見えるようだな」トリオパスが評した。

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「実のところ」私は言った。「ヘクトルがトロイを愛していなかったという点については、さほど確信があるわけではないのだ」
「あたりまえでしょう」オデュセウスが言った。「考える方がどうかしていますよ」
「そうではない」私はぴしりと言った。「充分に可能性はあるが、今ひとつ確信が持てないのだ。兵たちや近くの住民、つきあいのあった諸国の貴族らの噂を聞いても、ヘクトルという人間の生き方は、優等生であるにしては、実にのびやかで無理がない。怒って切れる時は切れているし、弱音を吐く時は吐いている。子どものように素直で無邪気で、生きることを楽しんでいる。おまえの人生は嘘だったとか、愛を知らないとか言ってみても、こういう人間にはなかなか効果がない。幸せだった日々の記憶が、実感となって彼を支えるからだ」
「むしろ、愛とは、幸福とは」ネストルが言った。「激しく実感されるものではないかもしれない。王が先ほどからおっしゃる、泥にまみれて傷つけあう、神々に逆らってでも求める愛は、それはそれとしてありましょうが、ヘクトルのように、与えられたものを受けとめて、せいいっぱいに応えて、つくす生き方、おだやかで、ひかえめで、つつましい日々、それもまた幸せ、それもまた愛です」
「そう思う者は多かろう」私は言った。「それが正しいかどうかはまた別としてな。だが、ヘクトルはかえって、それに気づくまい。あまりにも自然に幸福や愛を手にしているから、それを自覚していないし、ましてや人に誇ろうなどとは夢にも思ったことはない。だから、君の人生に愛などなく、すべては偽りだと決めつけられると、かえって、きょとんとし、どきっとする。おまけに生来素直だから、これまた、そう言われればいつも何だかつらかったなあとか、回りはちっともわかってくれなかったなあとか、すがられてばかりで誰も慰めてくれなかったなあとか、どうしてこんなに肩の荷が下りたような気がするんだろうとか、いろんなことに思いあたってしまう。そうこうする内、そう言えばつらいことばかりだった、こんな都は好きじゃなかった、自分で何とかしろよと、父にも妻にも国民にも言いたかった、実はいつもいつも一人になりたかった、都が滅びて、皆が死んで、心の底からほっとしている…と、プロポンティス海の真珠のようなきれいな涙をほろほろほおにこぼして、のどをつまらせ、とぎれとぎれのかすれた声で、つっかかりつっかかり告白してくれるということも、まかりまちがえばないわけではないが」
「どのくらい、まかりまちがえばそうなるんだ?」トリオパスが聞いた。「たしかに、そうなりそうな気もしないではないが」

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「何とも言えん」私は言った。「幸福か幸福でないか、愛なのか愛ではないか、しょせんは個人のとらえ方だ。ヘクトルがどう思うか次第で、どっちにでもなる。案外その日の体調次第だったりして」
「だからちょっとぐらいは拷問しておけと」ネストルが吐息をついた。
「またそれか」私は目を閉じた。「言っておくが、体調がよければ祖国を愛していたと信じられ、死にかけていたら、あれは愛ではなかったと思うほど、人間は単純ではないぞ。苦痛にあえいでいる時ほど愛が信じられたり、やたら気分がいい時に、あの頃は幸せなんかじゃなかったと言い切る勇気が出たりする」
「アキレスでなくても、そろそろ私も何かものを投げたくなった」オデュセウスが言った。「それじゃ彼が、トロイなど嫌いだった、憎んでいたと涙にむせびながら告白するか、面白い冗談ですねと余裕で笑って返してくるかは、出たとこ勝負というんですか」
「出たとこ勝負の一か八か。そして、あの浜辺のように、最悪の場合、彼を完璧に立ち直らせてしまう危険もある」私は言った。「私の弟を殺したことで彼がどんなに傷つき、自分を責め、崩壊寸前になっていても、こうして私が次々かける攻撃の中に、まやかしを見抜き、いやしさを見抜き、ヘクトルという人間を見誤っている私の目の鈍さ、心の狭さを見抜いたら、彼はたちまち力づき、私への軽蔑と不信から、あっという間に誇りと気概を取り戻す。彼の図星をあやまたず刺しつらぬき続けることが必要で、急所をはずす攻撃は一度たりとも許されない。しかも、私という人間がいかに表面はいやしげでも、根本的には人間として偉大な、信頼できる器の持ち主であると感じさせ続けなければ、彼は本当の意味でおびえはしない」
私は大きく息を吐いた。
「もし、彼に…自分はたしかにまちがいを犯した。だが、この男に許しを乞う必要はない。そんな価値のある男ではない。こんな愚かで卑小な男に自分をあけわたしてしまったら、かえってまちがいを重ねることになる。許しを乞うのは、この男にではない。許しは神々に乞えばいい…そう思わせたらおしまいだ。そうなったら彼を屈服させるどころか、こちらが逆に圧倒されよう。どんなに残酷な見せしめのための処刑をしても、それを見ている我々の側の兵士の士気が低下するぐらい、最後の最後の瞬間まで、彼は堂々と高貴で誇りにあふれているだろう」

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「勝負はそろそろ大詰めに近づきつつあるというわけか」トリオパスが言った。「そこでアキレスをどう使う?」
「今言ったように、トロイを愛していなかったとヘクトルに認めさせるのは大きな賭けだ」私は言った。「成功すれば万万才だが、その分危険も大きい。だから彼が、彼らしく素直にあれこれ言われたことを頭の中で検討しながら、私を見つめているかわいらしい様子にあまり長いこと見とれていると危ない。唇が震え、へたばって泣きくずれる気配が当面ないと見たら、早々に次の手をうつ。で、それがアキレスなのだ」
「どう使う?」ネストルが身をのり出した。
「はっきりさせておきたいのは」私は念を押した。「最終的にヘクトルがどっちに転ぶにしろ、トロイや国民や家族が、彼の負担になっていたという事実は、あることはあるのだ。彼がトロイを重荷に感じ、憎み、滅びてほっとしているというのは、完全に嘘ではない。彼の心のどこかには、どんなにわずかでも必ず、きっとそういう思いはある」
「だから?」
「全面的に屈服しないでも、最低、自分の中にはそういう気持ちもあることを見つめさせ、理解させ、自覚させ、この私、アガメムノンがそれを知っていること、気づかせてやったこと、それを充分に彼にかみしめさせなければいけない。そうすれば彼は私の弟を殺した責任感とともに、私に理解されていることを知り、私を信頼し、私に仕える道を選ぶ。そのための駄目押しをしておく必要があるのだ。君の中には、トロイにも家族にも捧げきっていないものがあったのだ、と。彼が立ち直ったり、逃げ出したりして、その事実から目をふさぐ前に」
「アキレスを使ってか?」
私はうなずいた。

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「私がヘクトルに質問する最後の問いだ」私は言った。「彼がもうこの世にいない以上、答えを考えるのがむずかしい問いだ。しかし何とかやってみるとしよう。諸君もせいぜい考えてみるんだな。その目に思い描いてみるがいい。ヘクトルは私の前の、その椅子に座っている。先ほどからの質問攻めに混乱し、疲れ、自分を見失いかけている。青ざめて、目には涙をにじませているかもしれないし、額は汗ばんでいるかもしれないが、まだまだ冷静で沈着で、戦いを放棄してはいない。澄んだ目を大きく見はって私を見返しているが、その目はむしろ自分の心を見つめている。全神経を集中し、答えをさがしている。自分にとって祖国とは家族とは何だったのか。自分は何かを愛したことがあったのか。自分の人生とは何だったのか」
三人は黙って私を見返していた。彼らもまた同じ問いを自分に問いかけているのかもしれなかった。
「アキレスが立ち上がる」テントの暗い片すみに私が手を振ると、三人の目がいっせいに、そこに彼の姿を見るように、そちらに動いた。
「もうやめろ、と彼が言う。もうたくさんだ。聞いてるだけで不愉快だ。…もっと複雑なことを言わせてもいいが、彼ならまあ、こんなところだろう」
「彼のことになると、とたんに手を抜くんですな」オデュセウスが不満そうに言った。
「ヘクトルが驚いたように彼の方を向く」私はそれにかまわず続けた。「私はすかさず声を上げる。おおアキレス!そこにいたのか。ちょうどよかった。何とまあ好都合な。ヘクトル王子に君に関することでもう一つ、どうしても聞きたいことがあったのだよ。二人の英雄の目が一瞬合う。それから同時にどちらも私の方を見る。私は二人を交互に見て聞く…実はそれではいささか目が疲れるので、できればアキレスが、ヘクトルを守ろう、さらおう、と狙っているかのように、あの猫のような(獅子のようなとは死んでも言わんぞ)しなやかな忍び足で、ヘクトルのそばまで近づいて、彼のかたわらに立って私を見返していてくれればいいのだが。どうせ空想なのだから、そういうことにしておこう。二人はそうして私を見ている。そんな二人を見つめて聞こう。ヘクトル王子、このアキレスが従弟を殺されたのに怒って単身トロイの城壁に赴き、閉ざされた城門の前で君の名前を連呼した時、何でまたそれに応えて一人でのこのこ出て来たのだ?アキレスだって内心驚いたと思うぞ」
「驚かなかったと思いますよ」オデュセウスが反論した。
「たしかに」私は賛成した。「だが、そう言うのだ。そうしたらアキレスは、あれ?そうかな?と思って若干ひるんで、おとなしくなる」
「どうですか」ネストルがつぶやいた。
「まあそれはどっちだっていいのだ」私は言った。「とにかく私はヘクトルにそう聞く。その結果、君はこうして捕えられ、トロイの滅亡を手をこまねいて見ているしかなくなった。あるいは殺されていたかもしれんが、それでも結果は同じだったろう。君のいないトロイなど、早晩滅びたに決まっている。それでな、不思議でならないのだ。君が本当に少しでも国と家族を愛していたなら、なぜあそこで君を呼ぶアキレスの声にあえて応じて、下りて来たのだ?」

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「私にはこういうことはよくわからんが」トリオパスが自信なげに言った。「もう二度と、逃げたくない、と彼は思ったのではないかな。あなたの弟を殺した罪。少年のようなアキレスの従弟を、アキレスとまちがえて殺した罪。それをつぐないたかったのだ」
「指揮官として王位継承者として、無責任にすぎないかね?いかに良心にさいなまれていても、自殺同様の戦いに自ら赴く必要があったろうか?」
「勝てると思っていたかもしれない」オデュセウスがあいまいに言った。「二人の力の差は見た目ほどではなかったと私は思っている。アキレスは自信満々ですることが派手だから、一見負けることなどありそうもないが、あれで案外ころっとやられそうな気がいつもしていた。ヘクトルのタイプというのは、もうだめだとか、今度こそ死ぬとか人に思わせておきながら、しぶとく意外に勝ち残り、生きのびることが多い。案外トロイの連中もそれに慣れていたんじゃないか。プリアモスも彼があの悲しげな顔で、今度という今度はだめですと言うから、だめかと思いつつやらせてみたら、いつでもちゃんと成果を上げるから、ああ、またこういうこと言ってるが、これはこの子の癖なんだからなあ、と思って」
「本人がそう言ったら、それはそれで面白かろうな」私は言った。「私が負けるものと決めておられるようですが、失礼じゃありませんかとか。自信満々の顔をしてると不安でしょうがありませんが、深々とため息ついて目を伏せながら今度こそだめと悲観的な顔をしていたら大船に乗った気分で安心できますと、常日頃部下からも市民からも言われておりましたとか」
「しかし、彼がそう答えたら困るのでしょう?」
「どう答えようが困りはせんよ。どう流れても川の水がすべては海に注ぐように、落ち着くところに話は落ち着く」私は眉を上げて皆を見た。「私は彼に言うつもりだよ。はっきりと認めるがいい。君があの時出て行ったのは、トロイの都より父や弟より妻より子より、アキレスを君が愛していたからだろう?」

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「少なくともその時のヘクトルの返事だけは私にもわかりますな」ネストルが言った。「どういう意味です?と言うにちがいない。まったくの無表情で」
「アキレスの顔も見たいものですよ」オデュセウスが慨嘆した。「あっけにとられて口をあけっぱなしにするか、ヘクトルの隣りにすとんと座り込んでしまうか」
「そんな彼に私が教えてやるとしよう。そしてアキレス、君もまたこの男を愛していたろう」
「あのなー」
「と、アキレスが言うのか、オデュセウス?」
「ちがう、今のは私の言葉だ」オデュセウスはぶるぶると頭を振った。「アキレスはこう言うさ。おまえ、馬鹿で性格が悪いだけかと思っていたら、気も狂っていたんだな!」
「君たちはまったく不幸で気の毒な二人だ、とそんな二人にしみじみ言おう」私は言った。「アキレス、君は前々からヘクトルの噂を聞き、私とはまるでちがう、その清潔さにあこがれていた。君は一匹狼だ。誰にも支配されたがらない。だが実はそんな人間こそ、信ずるもの、従える主君を心のどこかで求めている。君は自分の持つ力を、激しい性格をもてあましている。自分を抱きしめ、すべてを受け入れ、認めながら、叱り、許して、導いてくれる人がほしいと、誰よりも願っているのは君だろう。君が私の何を憎んでいるかわかるか?私がそういう存在になってやらないからだよ」
「はん、なろうと思ったらなれるのか!?」オデュセウスは吐き捨ててから、つけ加えた。「…と、アキレスはきっと言うな」
私は彼にうなずいてやった。「なる気はないよ。なれてもな。人にあがめられるのは好かん。信じて、すべてを捧げられるのも。主従の間にべたべたと恋愛まがいの心の絆は持ちたくない。かけひき、とりひき、力関係、それだけで充分だ。だがアキレス、君はそれでは淋しいのだろう?部下が君を無条件にあがめるように、君も誰かをあがめたい。父親のように、兄のようにだ」
「そんな相手に、戦いを挑むか?」
「子どもは父に挑戦する。父の力をためしたがり、屈服させられたがるのだ。最初に会ったアポロン神殿で君はこの男を見逃したそうだな、アキレス?戦いを先にのばした。なぜだ?何を恐れたのだ?彼を負かすのが恐かったからではないのか?やっと見つけた理想の男を?行動も発言もたたずまいもすべてが私とはちがう、完璧な主君になれそうな男を?君とちがう価値観で、堂々と君に対峙し、君をたしなめた人物を?」
私は笑ってワインをすすった。
「君は、この男に屈服し、従いたかった。王として、父として、兄として、あがめたかった。噂どおりの、いや、それ以上に君の期待を裏切らなかった、初めて目にする不思議な戦士を。その彼が、戦ってみたら自分より弱かったら、それでもまだ自分は彼を尊敬できるか自信がなくて、君は戦いを避けたのだ」
「しかしよくもまあ、それだけ都合のいい理屈を次々考えつけるものだな」トリオパスが声をあげた。
「もっと面白い話があれば、いくらでもうけたまわろう」私は彼に向かって杯をかかげて見せた。「もっとつじつまの合う、もっと納得できる話がな。どんなにとっぴに見えようとも、矛盾がなければ真実なのだ。それをうけいれられない、かたくなな頭の持ち主は早晩滅ぶし、滅びるまでのつかの間の人生すらも楽しめまい」
「そういうことをおっしゃるから、あなたは敵が増えるのですぞ」ネストルが忠告した。

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「その後でアキレス、君はヘクトルとどこか似た、トロイの巫女と会う」私は言った。「君が彼女に惹かれ、愛したのは、そこにヘクトルの面影を重ねたからと言ったら、それは言いすぎだろうが…」
「言いすぎだな」トリオパスがうなった。
「では、トロイそのものへのあこがれと言ってもいい」私は言った。「神々を信じ、この世に正義はあると信じ、この私、アガメムノンに屈服しない人びとに君は惹きつけられて行った。人を殺す自分を責め、許そうとせず、しかも自分を理解してくれ、うけいれてくれる娘を君は愛したのだ、アキレス。獅子は、飼いならされたがっていた。というよりも、飼いならされたがる君は、しょせん、獅子ではなかったのだ」
「私がヘクトルなら」ネストルが、おもむろに衣をさばいて居ずまいを正した。「おそらくそこで王に反論する。さっきからあなたは、私があなたの弟を殺した行為を責めつづけた。ならば、それを遠目とはいえ、目のあたりにしたアキレスが、どうして私を信ずるに足る正しい人間だなどと思えるのでしょう、と」
「たしかに彼なら、聞きかねないな」私は笑った。「おそらく私に、目を上げておけ、と言われなくなったのをいいことに、彼は目を伏せるか閉じるかしているのだろう。そして、隣りに座っているアキレスの息づかいが激しくなったのを察して、わずかに彼の方に顔を向けながら、それでも彼を見るのではなく、私に目を向け、その問いを投げてくるな」
「どうお答えになりますな?」
「むずかしい問いだが、こう考えておこう」私は答えた。「アキレスにとって、この私アガメムノンとその弟は悪だ。だから、それを殺したヘクトルは、正義とまでは行かずとも、決して単純に悪ではなかった」
「わからない、とヘクトルは、あの清らかな目を見はって問い返すだろうな」オデュセウスが首をすくめた。「それほどに憎い王のために、アキレスはなぜ戦う?」
「いや実は私もそれが不思議でならなかったのだ」トリオパスが眉をひそめた。「オデュセウス、君がよほど言葉たくみに説得しているのだろうと思っていたが」
オデュセウスはため息をつき、手のひらで顔をこすった。「むろん、説得はしているさ。だが、それは、彼がしょせん、ギリシャを愛しているからなのだよ」彼は、やるせなさそうに言った。「自分で思っているよりもずっと、ギリシャと、ギリシャの兵士たちをな」

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