想定問答3-想定問答

「なのに彼は、トロイの巫女と愛しあい、我々を見すてて彼女と二人で故郷のラリサに帰ると言った」トリオパスが言った。「それが、あの従弟を怒らせた。兵士たちから聞いた話だが、彼はアキレスに、アガメムノンが憎いからといって、同胞を見殺しにするのかとなじった。それに対してアキレスは、戦いたいなら他にもいくさはある、と言い、戦いというものはどちらかが負けるのだから、今回はギリシャが負けてもしかたがない、と答えたそうだ」
「歴戦の勇士らしい冷静な言葉ではある」ネストルが評した。「だが、それを聞いたらヘクトルはアキレスの方にわずかに顔を向けながら、かすかな深い吐息をついて言うだろう。君の従弟は戦いたかったのじゃない。味方の兵士たちを愛し、責任を感じていたのだ。君が感じるべき責任を。君が自分の言葉や行動で知らず知らずに彼に教えこんできていた、兵士たちへの愛、ギリシャへの愛を。教えた君自身が捨てようとした責任と愛を」
「そうしたらアキレスが、怒りに青ざめてヘクトルの方に向き直り、激しい口調で言い返すだろう」オデュセウスが沈んだ声で応じた。「それを彼に教えたのは、おれじゃない。トロイのために戦う君の姿と生き方だ。そしておれが、戦いをやめ、君の従妹と愛しあって、名前などこの世に残さなくても、ささやかな人間らしい生き方を選び、戦いに生きるのをやめようとしたのも、それも君と君の従妹がおれに教えた生き方だった。そんなら聞くが、君がおれなら、どうしたのだ?戦いをやめて故郷に帰ろうとはしなかったのか?」オデュセウスは首をたれた。「そうしたらヘクトルは、何と言うのだろう?」

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私たちは四人ともしばらく沈黙していた。やがて私はゆっくりと言った。「ヘクトルの答えは私にはわかる気がする。それは私がアキレスを大嫌いな理由とも一致するかもしれない」
「ヘクトルは何と答えますか」オデュセウスが聞いた。
「彼はおそらく、こう答える。ほとんど迷いも、ためらいもなく、静かな声で、確信を持って」私は言った。「私がもしも君で、アキレスで、故郷に帰って人間らしい静かな暮らしをしようと思ったら、その前にアガメムノン…この私だな…にかけあって、トロイから軍をひくよう説得する。オデュセウスやネストルやトリオパス、その他の王たちも味方につけて。ヘクトルはそう言うだろう。自分と彼女の幸せだけを守って、故郷に帰ったりはしない、と」
「あの王が説得できるか、とアキレスがわめきますぞ」ネストルが苦笑した。「やれるものなら今ここで、おまえがやってみるといい、と」
「さっきから、押されっぱなしのくせに、とか、つけ加えるかもしれませんな」オデュセウスが吐息まじりに笑った。
「どうしても説得できなければ、王を殺す」私は言った。「そして、オデュセウスたちと協力して、別のギリシャを築く。トロイとも争わない、どこの国も支配しない、新しいギリシャを。ヘクトルはおそらく、いや必ず、そう言うだろう」
三人はまじまじと私を見つめた。
「そんなことをあんた考えたことがあるのか」オデュセウスがちょっとどもりながら聞いてきた。「そんなギリシャを作ることを」
「まあ、気分がものすごくいい時や、逆にどん底の時などに、ちらとはな」私は兵士を呼び、新しいワインのつぼを持って来させた。「まあ無理だろうなと思うから、やらんだけだ。だが、アキレスが私のすることが気に食わないなら、本気で逆らう気があるなら、そこまでやってみるがいい。そこまで彼はやるべきなのだ。そんな努力はしもせずに、単に私に逆らうばかりか、私にひっぱり出された戦いで嫌いでもない相手の国や戦士を殺しては名を残すとかほざいていて、しかも私に感謝もしない。結局、私に甘えているのだ。馬鹿にされてもしかたがなかろう」
私は誰も座っていない私の前の椅子をながめて、「アキレス」と呼びかけた。「君がヘクトルに影響され、とり入れようとした生き方は、結局自分に都合のいい部分だけだった。そうでない部分をうけとめた従弟のことさえ君には理解できなかった。しょせん、器がちがっていたのだ。小雀が鷲のものまねなどしようとするから、しくじる。結局君はそうやって、従弟を失ってしまったのだ」

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「従弟を殺したのはおれだというのか、とアキレスは殺気立つでしょうね」トリオパスが言った。
「君たちが二人して殺したのだよ、と言ってやる」私は言った。「笑いながらな。君らはつくづく、哀れな二人だ、と。アキレスはヘクトルに中途半端に影響されたが、ヘクトルもまた、アキレスがせっかくあこがれてくれた自分の生き方を守れずに、逆にアキレスに影響されてしまった。君もまたヘクトル、その程度の男にすぎなかったのさ。白状するがいい、ヘクトル。君もまた、アポロン神殿で出会った相手の、自由で激しい生き方に圧倒され、魅了されたと。王者であり、政治家であり、父親で夫で息子である前に、君もまた一人の戦士だったのだと。空を飛ぶ槍の力強さ、遊びのように戦いを語る軽やかさ、何よりも全身から伝わってくる鮮烈な覇気に君は今まで生きてきて一度も感じたことのない、刺激と衝撃を受けたに決まっている。その相手に名指しされ、戦いを予告されて、君は脅えたか?当惑したか?ちがうだろうな。胸が躍ったはずだ。幸福だったはずだ。ちがうと断言できるならしろ。目は伏せたままでいいから、声に出して言えたら信じてやるから」
返事をする者はなく、やがてネストルが小さく首を振った。トリオパスはため息をつき、オデュセウスはうつむいて唇をかみながら、しきりと服のはしのほつれをひっぱっていた。
私はゆっくりと椅子にもたれかかった。
「アキレスのよろいかぶとを身につけて皆をたばかって戦場に出た若い従弟のパトロクロスと対決した時、何かがおかしいと、いつもの君なら気がついたろう」私は続けた。「なのに何も感じなかったのは、あの時の君が、人びとの見守る中でアキレスと対決できる幸せに酔いしれていたからに他ならない。見物人がいないと戦ってもつまらない、とうそぶいたアキレスに呆然とした君がな。だがそれは、アキレスが愛した君ではなかった。彼が王として、父として、兄として、尊敬したいと思っていた君でもなかった。彼がそれまでの戦士としての自分の生き方を捨てて、人間らしくつつましく生きようと決意するほど、あこがれた君でもなかった。死と血に酔い、栄光を求める孤独な獣…アキレスが捨てようとした世界の生き物そのものに、あの時君は成り下がっていた。パトロクロスを殺したのは、そんな君だった。だからこそアキレスの怒りは深かったのだ。彼は君に、新しい世界を見た気がしていたのに、そうでなかったことを思い知らされたからだ。落ちた偶像に、裏切られた理想に向かって、憎しみのありったけを彼はぶつけた。それがあの城壁の前での絶叫であり、挑戦だった」

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「そのことに君は気づいていたはずだ」私は言った。「だから君は出て行ったのだ。君は自分がアキレスの神になりそこねたのを知っていた。従弟が身代わりになって戦場に出て来るという信じがたい事実の背後には、アキレスその人が戦場から消えようとしている状況があったのだと君は感じとっていた。その彼を再びこうして、戦いの世界にひきずり戻したのが他ならぬ君自身であったこともな」
私は首を振った。
「いや、それは前と同じ戦いの世界ではない。城壁の下に君が見たアキレス、君を呼びたてる声からは、最初に会った時の少年のような無責任な軽やかさや明るさはもはやなかった。生きながらの地獄にいるような絶望と憎しみに荒れ狂っていた。彼を救うには、それがどんなに不可能でも、彼を殺してやるしかないと、君は知った。一度は神であった者の、それが責任であることも。何よりも君はもう知っていた。パトロクロスとの戦いはトロイや家族のためではなく、君がいつも心がけてきたような、ただ単に敵を倒すための仕事でもなく、もっと別の何かだったと。トロイとちがう何かにあの時、自分を捧げてしまったと。そうでないなら、首を振りたまえ。何も答えなくていいから」
「彼は動きますまい」ネストルが言った。「多分、アキレスも」
「そのアキレスにこう言おう」私は言った。「戦う前にアキレス、君は残酷な言葉の数々でヘクトルをののしったそうだな。そうしなければ憎みきれなかったのか、戦う勇気が持てなかったか?彼を連れ帰る時もその後も、乱暴なふるまいに及んだと聞いている。だが、君がいくらこの男にあたりちらしても、心が晴れることはあるまい。従弟を戦場へ、あんなかたちで追いやったのは、他ならぬ自分だと、君自身が薄々感じているからだ。まさにその通り、従弟の死の責任の少なくとも半分は、君にある。君がもし、ヘクトルという人物を正しく理解していたら、彼の世界に生きるということは、愛する女と自分だけの幸せを守って故郷に逃げ帰ることだけではなく、人間としてこの世に生きる責任を果たすということも必要なのだとわかっていたろう。それならあの若い従弟を死なせることもなかったはずだ」

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「二人の内のどちらかが、あるいはむしろ二人ともが声をそろえて、きっとあなたに言いますよ」オデュセウスが私をまっすぐに見た。「他ならぬあなたにそんなことを言われるすじあいはない、私たちにそこまで言う、あなたはいったい何なのか、と」
「おのれを知っている男だよ」私は即答した。「卑小で、尊大で、自己中心で、俗悪な。だが少なくともそんな自分を自覚している。残酷なことも愚かなことも、わかった上でやっている。後世に名を残そうとも思っていない。現世で人にもてはやされ、うはうは楽しい思いができれば死後になど何と言われても気にもならない。何が欲しいか欲しくないか、いつもはっきり知っている。君らは何だ、二人とも。中途半端に悩み、中途半端に誇り高く、中途半端に良心的で、中途半端に甘ったれだ。最高に悲惨なのは、そんな自分に自分で全く気がついていないことだ。だから周囲を傷つけるし、最愛の者を失う。どたん場で愛する者を裏切るし、そうやってまで求めたものさえ結局は守りぬくことができない。トロイの都も、パトロクロスも、あの娘ブリセイスも、おたがいどうしも、そして何より自分自身も」
「ああ、あのですね、そこまで言ったら」オデュセウスが、やけに悲しそうな顔でさえぎった。「ヘクトルよりもアキレスの方がいっそ泣き出しかねません」
「同感だな。彼はもうずっと前から息をはずませ、にぎりしめたこぶしも全身もわなわなふるわせていることだろうよ」私は言った。「そして、彼が本当に声をあげて子どものように泣きわめきそうになった時、それを感じた時、ヘクトルが動く。わずかに手を横にのばすか、身体の向きを変えるかして、少しでも私とアキレスの間に自分をおき、アキレスが自分の後ろになるようにする」
「彼を…かばうのですか、彼が?」トリオパスがとまどった。「自分がもうアキレスに求められ、すがられる存在ではなくなったことを彼は知っていると言いませんでしたか?」
「言ったとも。それでも彼はそうする。自分が落ちた偶像、裏切られた理想であったと知りぬいていて、それでもなお、彼はそうする。そうやって、いろんな人間を、国を、世界をかばってきたように、今度もきっと彼はそうする。涙以上に切ない悲しみをたたえた目で私を見返し、力つきた静かに澄んだ声で、訴えるように彼は私に聞くだろう。まだ何かおっしゃりたいのですか?これ以上私に何を認めさせたいのです?」
「それで?」
「私は首を振る。もうこれ以上、何もない。あとは君自身が、君の心に聞け。そして君の生き方を選べ。君の反応も返答も、すべて私の予想していた通りだった(そりゃそうでしょう、とオデュセウスが言うかと思ったが彼は黙って聞いていた)。だからと言って君の心の中までも私が理解しているかどうかわからないが、私は君のような人間を自分の側にほしいと思う。それは君にとっても私にとっても、悪いことにはなるまいと思う」

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「君が私に仕えれば、と私は彼に言うだろう」私は言った。「ここにいるすべての者たちと同様に、君も私を憎むだろう。時にさげすみ、私と対立するだろう。その中で君はこれまでよりもずっとよく、自分が何者で、何を求めるかを知るだろう。トロイが君にとって何であったのかも。そして今度は本当にそれを愛することができるだろう。それを失った悲しみと、奪った私への憎しみの中で。そして対立しあい、自分をぶつけあいながら、我々は協力し、理解しあい、何かをなしとげてゆけるだろう」
三人は黙って聞いていた。ネストルはほほえみ、トリオパスは私を見つめ、オデュセウスはわずかに目を伏せながら。
「さて、彼の返事だが私には思いつけない」私は言った。
「都合のいい空想なのかもしれないが、泣くのでもなく、何か言うのでもなく、ただ彼は黙って静かにうなだれそうな気がする。野生の馬が人間の前に優美にその美しい頭を下げるように。夕暮れの森かげで花が花弁を閉ざすように」
「もしも何か言うとしたら」オデュセウスが目を上げてテントのすみの方を見ながら低く言った。「…時間を下さい、でしょう。…もう少しだけ、と。そうやってうなだれたまま、静かな声で」
「いいとも、と私は答える」私は言った。「だがあまり待たせないでくれ」
「そこでおそらく、アキレスは立って、そっとテントから出て行く」ネストルが言った。
「やってられん、という顔でな」オデュセウスが微笑した。「それが彼には似つかわしい」
「我々も立って、出て行った方がいいのでは?」トリオパスが言った。
「できればそうしてほしい」私は言った。「と言って、二人になっても私たちが何を話すわけでもないが。彼の手の空の杯をとってそばにおき、彼をうながして私も浜辺に出るだろう」

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「海には波が寄せていましょう」ネストルが言った。「彼に何を話します?」
「もう話すことなどはない」私は言った。「だがおそらく彼が私に言う。海に目を向けたままか、わずかに私に顔を向けてか、それはどちらでもいいが。…弟君を愛しておられたのですね」
「どうお答えになるのです?」
「笑って言おうか。…人が思っているよりはな。そして、少したってから、波の音にまじって彼の声が聞こえる。…許して下さい」
「それで、あなたは?」
「私が君を許すことは絶対にない、と言う。そして君もまた、トロイを滅ぼしたことで私を憎みつづけるがよい。君に許しを乞おうとは思っていない。私は後悔していない。しかし、それと、私が君に、自分に仕え、手を貸してほしいと心の底から頼むこととは、まったく別のことだ、と。そして彼は言う。…お仕えします、と」
波の音がテントの外からわずかに聞こえてきたような気がした。私は目を上げ、三人を見た。
「何とまあ、ほれぼれするようないい場面だとは思わぬか」私は言った。「できればこう、海のかなたに夕日など見えていることにしたいものだが」
「無理でしょう」オデュセウスがにべもなく言った。「あっちは東ですからね」

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「それにしても」つぶやくようにネストルが言った。「現実にはヘクトルが死に、アキレスは今すべてを失って闇の中に一人とり残されています。この戦いのなりゆきはそれはそれとして、こうなってはもう、誰がいったい彼を救うのでしょうな、あの孤独で不幸な男を」
「我々ではだめだろうな」私は言った。「ヘクトルがこの世に残した彼の生き方、彼の築いてきた世界、彼の記憶、彼への愛…そういったものがどれだけ、力を発揮するかだが」
「死者に、それほどの力が持てましょうか」トリオパスがつぶやいた。
「ありえないことではあるまい」オデュセウスが遠くを見つめるように目を上げた。「今この瞬間にも、それは何かの、あるいは誰かの姿をとって、アキレスのテントへと夜の中を向かっているのかもしれないよ」
じいじいと小さく、灯皿の中の油が音をたてた。耳をすますと、その中に聞きなれないひずめの音や車の音がかすかにかすかに伝わってくるような気がした。

( 想定問答・・・・・終    2004.8.14.13:00 )

※最後の方で一箇所訂正。段落を一つわけました。コピーなどされていて気になる方は、お手数ですがご修正ください。別にそのままでもかまわないとは思いますが。(8.19.)

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