12日間第一日~第三日

第一日

夢を見た。
私がよく知っている宮殿の露台だった。かなたに海が見え、でも夜で星が光っていた。海もきらきらと光っていた。船の光か、星の光か、わからない。
従兄弟たちの髪のようだ、と思った。二人は、二人とも漆黒の豊かに波打つ髪をしていた。そして、昔から金の小さい輪の髪飾りで、そのあちこちをとめていた。神殿の儀式の時などに二人が身動きするたび、薄暗がりでそれがおぼろに輝くのを、夜の海に浮かぶ船の明かりのようだ、と幼い私はよく思った。
あれはもう、遠い昔だ。でもそれほどの昔でもない。何を基準に時を測ればいいのか、私にはもうわからなくなった。
この数日は永遠のように長く、そして一瞬のように短かった。

∞∞∞

夢の中で私は、部屋の中にいた。炉には香が焚かれて紫の煙がゆるやかにたちのぼっていた。多分、その煙は実際に寝床に横たわっていた私をも、とりまいていた。夢とうつつとの区別は私の中でとけあって定かではない。目を閉じているのは知っていた。それでいて露台を見ていた。
遠い海、露台の向こうの暗い闇。それをさえぎるように、人影が立っているのがわかる。一人ではない。二人だった。同じぐらいの背格好の男で、衣からむきだしにしている腕がわずかに夜の中に白かった。
二人は私を見ていない。海を見て低い声で何か話していた。一人の黒い髪の中に、あの髪飾りが金色に光る。もう一人の髪はもっとおぼろに全体が淡い光に包まれて見えた。獅子のたてがみのように。

∞∞∞

私は、二人をどれだけ知っているのだろう?
闇に包まれて消えてゆく過去のように、光に溶けて見えない未来のように、私はこの二人の男の、どちらのこともよく知らない。
この世の誰よりも、よく知っている二人だというのに。

∞∞∞

今は昼。まぶしい光がトロイの町に注いでいる。
昨夜、城門から私と伯父が馬車で戻ってきた時には、ほぼ半月ぶりに見る町の様子は、よく見えなかった。
最初の攻撃の時に海辺の神殿で、私は敵にさらわれた。そして、敵のギリシャ軍の一人アキレスのテントで日々を過ごした。最高の勇士で英雄と皆が認めていた男のテントで。
彼と、この国の王子である、私の従兄ヘクトルが戦って、彼がヘクトルを殺した夜、ひそかに息子の遺骸を返してくれとアキレスのもとを王である伯父プリアモスは訪れた。アキレスはそれを承諾し、私がともに帰ることを許した。

∞∞∞

私は何をしたのだろうか。何か恥ずべきことをしたろうか。昨夜、夜中に帰ってから侍女たちの何人かとだけしか、私はまだ会っていない。彼女たちは皆泣いた。私が帰ってきた喜びと、私が味わった苦しみを思いやる悲しみで。年老いた乳母は私を抱きしめて、おかわいそうにと繰り返した。誰も私に何も聞かなかった。敵の中で過ごした日々を、わずかでも思い出させようとしなかった。薔薇の香料の風呂に入れられ、アキレスが貸してくれていたギリシャの衣は汚らわしいもののようにすぐにどこかへ持って行かれた。もうきっと、誰かが燃やしてしまっただろう。

∞∞∞

「もう大丈夫でいらっしゃいますよ」と乳母も侍女たちも私を抱きしめて何度も言った。「こうして帰って来られたのだから、もう何も心配なさることはございませんよ」と。でも、その言い方は、まるで自分たちに言い聞かせているようだった。夜が明けて、宮殿の中を歩き、露台から都の通りをながめて、そのわけが私にはわかった。
都は変わってしまっていた。こんなにわずかな、たった十数日の間に。
でも、変わったのは私の方なのかもしれない。

第二日

宮殿の中を歩いていると、ヘクトルのいなくなったことが信じられない。どの回廊でも、どの露台でも、どこに行っても彼の姿がないという事実に永遠に私はなじめそうにない。
背が高く、たくましい身体つきをしていながら、彼は少しも目立たなかった。気品のある静かな顔立ちで、穏やかな深い声でしゃべった。弟のパリスや私がわがままを言うと、時々少し困ったように小さく首をかしげた。いつも着ていた青い衣。いつもつけていた銀と碧玉の首飾り。いつ、どこで手に入れたのか、そんな話も聞かずじまいだった。私もパリスも、いつも自分のことばかり彼に向かってしゃべっていて、彼のことは知ろうとも聞こうともしなかった。
理不尽だ、と思う。なぜ、あんな人が私たちより先に死ぬの。
もっと、もっと、いろんなことをしてあげなければいけなかったのに。誰かが、皆が、私たちが、私が。

∞∞∞

昨日の夕方、ヘクトルの妻のアンドロマケが、パリスといっしょにやってきた。パリスの恋人のヘレンもいっしょだった。
三人とも元気そうだった。静かで陽気で、勇敢に運命に立ち向かおうとしているようだった。
「帰ったって、ゆうべ聞いて」とアンドロマケが、いつもの何でもない調子で言った。「もうそろそろいいんじゃないかって思って」彼女はほおえんで軽く手を広げてみせた。
「疲れもとれたし、落ち着いたんじゃないかってさ」パリスも明るくつけ加えた。
ヘレンはアンドロマケとヘクトルの赤ん坊を抱いていた。私が手をのばすと、子どもはにっこり笑いかけた。
「父上といっしょに帰ってきたの?」パリスが聞いた。
「そうよ。伯父さま、どうなさってるの?」
「お疲れのようだわ」アンドロマケが吐息をついた。「ヘクトルの葬儀の準備に夢中で、何も他のことは考えられないでいらっしゃるようよ」
「もう二回も僕に、『そのことはヘクトルに聞きなさい』って言ったよ。兄上の葬儀の手順や何かでだよ」パリスが肩をすくめた。「大丈夫なのかなあ」
「葬儀が?お父さまが?」アンドロマケが聞き返した。
信じられなかったけど、私は笑ってしまった。すると三人も笑った。小さな声で、でもどこかとても、ほっとしたように。

第三日

神官長のアルケプトレモスが今朝早く、私を訪ねてきた。疲れが出たのか、とてもけだるくて、私はまだその時、寝床の中にいた。彼はそれが当然と思っているらしく、乳母たちがとまどっているのもかまわず、さっさと入ってきた。銀髪の美しい男で、この国の政治に絶大な権力を持っている。ヘクトルもパリスも、彼のことは神のお告げしか頭にない愚か者だとばかにしていたが、決してそんな男ではない。私は彼が嫌いだった。王家の娘が巫女になったら、普通都の神殿にいるものなのに、彼のそばにいるのが厭で、敵が攻めてきた時にはまっさきに攻撃されて危険な海辺のアポロ神殿に住まわせてもらうようにした、大きな理由の一つは、彼を見ないですむことだった。
で、彼は私の寝台のそばに座った。見舞いのことばも気遣いもなく(こちらもそんなものは、ほしくなかったけれど)私をじっとながめてから、「率直に聞きましょう」と言った。「何しろ時間がありませんから」

∞∞∞

「朝の儀式なら」と私は聞いた。「もう終わったのではありませんか」
「そういうことではなくて」と彼は窓の外を見た。「王子の葬儀のために我々に与えられた時間です。12日間しかない」
「伯父は、立派な葬儀をしますわ」私は答えた。
「葬儀とは」彼はへやの向こうの乳母たちをちらっと振り返り、声が届かないことを確かめてから続けた。「死者のためのもの以上に、生者のためのものでもあります。お帰りになってから、トロイの町をごらんになりましたか?」
「あまり、よくは」
「それでも、あなたなら、気づかれたはずだ。あなたでも、かな」彼はかすかに唇をゆがめて笑った。「都はたいそう、変わりました」
「そうですか」私は言った。

∞∞∞

帰ってきて最初の日、露台から通りを見下ろした時のことを思い出していた。
物売りの屋台は減り、街路を歩く人の数は減っていた。いつも遠くで聞こえていた、子どもたちの笑い声も消えていた。それだけではなく、何か、つかみどころのない空気がただよっていて、建物のかたちも色も同じなのに、あの時一瞬、私は見知らぬ町にいるような気がした。

∞∞∞

「美しい町なんだってな」とアキレスは私に言った。
「住んでいると、よくわからないわ」私は笑った。「伯父も神官も軍人も、皆そう言っているけれど」
「高い建物があるんだろ? 水を噴き上げてる泉とか、ずらっと木が両側に並んだ通りとか」
「あなたの故郷にはないの?」
「プティアは」彼は目を宙にやる。「海と、草原と、花だけだ」
「素敵なところのように聞こえる」
「そうか? 建物は皆、低くて小さい。神殿もあらかた廃墟だ。皆は目に見えない神なんか信じない」
「トロイの都を見たい?」
「見たいけど、住みたくはない」彼は言った。「城壁に囲まれた町なんて窮屈だし、おれはきっと、動き回るたびに、何かこわしてしまいそうな気がする」

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もしかして、あの時私は、アキレスの目で都をながめていたのだろうか?
アルケプトレモスの声がした。
「都は、疲弊しています。活気を失ってきている。ヘクトルの死で、それが決定的になりました」
私は心をひきしめて、固く閉ざす。その事実に触れたくない。
「彼の葬儀で、もう一度、都のために彼に役立ってもらわなければなりません」アルケプトレモスは冷静に言う。「そして、あなたにも、ブリセイス」
「私は、ただの巫女ですわ」ぼんやりと私は答える。「王家の一人と言ったって、たくさんいる王族の、とるにたらない一人にすぎない」
「しかし、ヘクトルがあんなに激しく戦ったのは、あなたのことを気にかけていたからですよ」アルケプトレモスは、そんな大変なことをいともあっさりと口にする。「最初はあなたを心配していた。アポロ神殿であなたが殺されたと思ってからは、あなたのために怒っていた」

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私はアルケプトレモスを見つめる。何も感情を表情に出していないという自信はあるが、一人になりたい、と激しく思う。
「彼ぐらいのものでしょう。あなたのことを、あんなにも気にしていたのは」アルケプトレモスは平気で言う。「おっしゃる通り、王家の一族は多いし、戦いで討ち死にした者もいるし、都の城壁が破られるかどうか、誰もが生きた心地もなかったから、あなたのことを心配している暇はなかった」
伯父も、パリスも、アンドロマケもそうだったろうかとふと思う。この神官は、こうやって、人の心に暗い波紋を起こさせるのが好きだし、うまい。それを感じていたから、私はずっと彼が嫌いだったのだ。
そしてヘクトルは、私が生きているかどうか、結局知らないまま死んだのだ。黄泉の国で、今頃、死者たちの中を私をさがしているのかもしれない。祭や宴会の時、よく人混みでそうやって、彼は私をさがしてくれた。私のことや、パリスのことを、彼はいつでも気にかけて、どこにいるのか目で追っていた。私が露台の上に腰かけて髪を風に吹かせて杯をすすっていたりすると、あきれたように近寄ってきて、「そんなことしてたのか」と、面白そうに笑った。他国の王女や王子たちに、私を紹介するからと露台から抱き下ろしてくれたりもした。少し酔っていた私は彼の腕の中でのけぞって笑い、酒をこぼすまいと杯を高くかかげていた。
父母を早く亡くして、伯父のところにひきとられ、彼らといっしょに育った私は、血筋は王族でも、後ろ盾のないその他大勢の従姉妹の一人にすぎなかった。ヘクトルやパリスとは本当は立場がちがった。ヘクトルは、それを私に気づかせなかった。「変だなあ。まだ来てないのか」と黄泉の国の人々の中で、腕をくんであたりを見回している彼の姿が目に浮かんで、アルケプトレモスに気づかれないよう、私はのどにこみあげてきたかたまりを呑み込んだ。

∞∞∞

「そういう意味では、あなたは役に立ちました」アルケプトレモスは言った。「ヘクトルをあれだけ、ふるいたたせてくれた」
「でも彼はもう死んだわ」私はわざと冷たく言った。
「そうですな。だから我々は、その死を徹底的に利用して、トロイの民を奮い立たせないとなりません」神官長はうなずいた。「あなたの死で彼が感じたような怒りと闘争心を、今度は彼の死によって、トロイの全国民が抱くように。それは彼の、ヘクトルの望みでもあるでしょう」
そうかしら? 私にはわからない。
「それで、私にどうせよと?」私は話を変えようとした。「何ができるというのです?」
「この国の民は、美しい高貴な男女にまつわる物語が好きだ」アルケプトレモスは言った。「今、町の人々の興味は、死んだヘクトルと同じぐらい、生きて帰ってきたあなたに集まっています」
「どういうこと?」
「ヘクトルが死に、あなたが戻ってきた。あなたはヘクトルが命をかけて取り戻したもの、尊い戦利品です。同時にヘクトルの生まれ変わりであり、彼の遺志を継ぐものです。彼に変わって、あなたがトロイの守り神になるのです」

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私は突然、この男はもうそうやって、皆を鼓舞するお話を作りはじめているのかもしれないと思った。そうだとすると、ヘクトルが私のことを心配し、私の死を怒って戦ったというのも、彼が作った物語かもしれない。突然めまいがし、吐き気がした。そこで彼が次の質問を繰り出さなかったら、私は倒れていたかもしれない。
「そこで、問題になることがあるから、はっきりと聞いておきたいのですが」彼は言った。「アキレスと寝たのですか?」

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私は彼を見返した。
「今、トロイの民のすべてが、ある意味、戦いのなりゆきよりも興味をもって日夜話題にしているのはそのことです。あなたも、それを知っていた方がいいと思う」彼はひるむ様子もなく言った。「噂が噂を呼んでいて、あなたは敵の中にいながら操を守った聖なる巫女という者もあれば、敵の兵士たちに蹂躙されたあげく殺される寸前に救い出された犠牲者という者もあれば、アキレスとの恋に酔いしれて味方を売った裏切り者という者もある。あなたを殺せという者や追放しろという者もいるし、あなたをあがめて次の王にしろとか神官長にしろとかいう者もいる」
「そんなくだらない噂にうつつをぬかしているようでは」私は口走った。「この国にはもう未来なんてないわ」
「民とは常に、そういうものです」アルケプトレモスは落ち着いて言った。「彼らの気に入って、なおかつ彼らを救うような物語を与えてやるのもまた、支配者や指導者の義務なのです。あなたについてどんな物語を作るか、あなたをどうするかは私の意のままです。しかし、その前に、真実を知っておきたい」
私は彼を見つめつづけていた。
「ひとつひとつ、かたづけましょう」彼は妙にてきぱきと言った。「ギリシャの大船団が浜辺に押し寄せ、上陸してきた時、あなたは海辺のアポロ神殿にいた。そうですね?」
私はうなずいた。

∞∞∞

あの日の朝は晴れていた。何の予兆も予感もなく、とき色の朝焼けが空を染めた。神殿の外に出ると夜明けの風が涼しく、振りかえると遠く城壁の上に、見張りの兵士が危急を知らせる鐘のそばで、ゆっくりと行き来している影が見えた。彼らも、私同様に、まだ一度も鳴らされたことのないその鐘が、まもなく激しく打ち鳴らされて、敵の到来を告げ、それ以後は平穏な毎日は失われることなど、思ってもみていなかっただろう。
日が昇らない前に、いつものように朝の勤めをした。その日はアポロの儀式の日で、暗い神殿の奥で神官たちがいけにえの獣の内臓を裂き、私は香の煙がもうもうとする中で、慣れない儀式の手順をまちがえないように緊張していた。
あの時に髪にしみついた香の匂いで、アキレスは私が高貴な身分だと後に察したのだ。

∞∞∞

儀式はとどこおりなく終わった。獣の内臓にも特に不吉な予兆はなかった。神官は手を洗いながら、すこし染みがあったのは、嵐でも来るのか、この季節には少し早いが、などと言っていた。

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その水を捨てに行った下働きの少年の叫び声で、私たちは皆、神殿の露台にかけ出した。それと前後して、澄んだ重々しい不思議な音が、朝の空気をゆらがせた。聞いたことのない音だった。振り向いて城壁を見て、鐘楼の鐘が大きく左右にゆれているのを私たちは見た。

∞∞∞

海のかなたの水平線がゆがんでいると、とっさに思った。それは、盛り上がり、ゆれて、動いていた。まもなく、それは、何百艘とも数え切れない、さまざまなかたちと色の船の帆とわかった。私たちはまだ何が起こっているのかわからずに、ただ呆然と海を見ていた。
従兄弟の王子パリスがスパルタから連れてきた王妃ヘレンと、少し前の日、王宮の露台でかわした会話を思い出していた。スパルタ王の夫メネラオスが、きっと私を追ってくる。怯えているというよりも、むしろ悲しげに、あきらめたように彼女はそう言った。

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神官たちが私と同じに、そのことと目の前の情景を結びつけて考えたのかどうかはわからない。
「あわててはならない。まだ間がある」と神殿長が言った。彼は優しい、落ち着いた人だったが、その顔はひきしまっていた。「神器と宝物を急いでまとめるように」と彼は言い、私たちは皆無言で神殿の奥へ散った。

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「彼らが神殿に攻め込んで来た時、あなたはどこにいたのです?」神官長はそう聞く。「抜け道をたどって逃げ出して来た巫女たちの話によると、あなたは神官たちとともに、一人そこに残ったそうだが」
「扉が閉まらなかったのよ。長く使っていなかったから」と答えながら、私は彼が巫女たちということばを使ったことにこだわる。あれは巫女などではない。見習いの少女たちと下働きの少年たち、それによく歩けなくて目もほとんど見えない予言者の老人。あそこで、正式な巫女は私だけだった。他の者はともかく、神官長がそれを知らないはずもない。
彼は私が、他の「巫女」たちと行動をともにせず、奇妙なふるまいをしたと言いたいのか。そういう話を広めているのか。私の心はひきしまる。彼の一言ひとことに。あの日、アキレスのテントで彼に初めて会って、言葉を交わした時のように。

∞∞∞

「名は何と言う?」
「神官たちを殺したわね」
「おれは殺してはいない」
「あなたの部下たちがよ」

∞∞∞

彼は、大らかで、温かく、少年のようにうかつで無邪気だ、とあの時私は感じていた。絶体絶命の、絶望的な状況の中で。そのことにいっそうの怒りと恐怖を感じながら。

∞∞∞

どっちみち、あれは愚かなことだった。神殿長が神器や宝物にこだわったのは。私たちがそれを集めて荷造りしている間、彼は落ち着いた手際のよいしぐさで、祭壇に香を焚いて最後の祈りをしていた。そうすることで私たちを落ち着かせようとしていたのか。初めから自分は残る覚悟を決めていたのか。
暗い神殿の中をかけ回りながら、私たちがちらちらと見まいとしても見てしまう、露台の向こうの明るい海で、船団の船影はそちらに目をやるたびに信じられないほど刻々と大きさを増した。甲板に動く人影が、それぞれの帆に描かれた模様がやがて見えはじめた。
私たちが荷物を持って、神殿の地下にある抜け道の扉の前に集まった時、神殿長は私たちに言った。この道の奥は都の神殿の広間に通じている。あちらには扉はないから、閉じこめられる心配はない。だから急いで行きなさい。敵に見つかって追われないよう、扉は閉めておくように。そして私たちに祝福を与え、もう一人の神官をうながして、あわただしく祭壇の方へと戻って行った。立ちつくす私たちに、神官が振り向いて笑った。私と神殿長は祭壇で祈りを捧げます。敵が来た時、この神殿を空にしておくわけにはいきません。
私たちは二人を見送った。誰も泣いても震えてもなかった。気分が妙に昂揚して、恐怖を感じられなかった。私たちは抜け道に入り、扉を引いて閉めようとした。

∞∞∞

「扉が閉まらなかった?」アルケプトレモスはとても信じられないというように、私の言葉をくりかえす。
「見習いの少女たちから、聞かなかったの?」私は聞き返す。「そのままでは、敵が追ってくるし、追いつかれるのはわかっていた。誰かが中から押して扉を閉めなければならなかった。私しか、それをする立場の者はいなかった。だから、皆を行かせて残り、中から扉をしめて、壁の一部にしか見えないようにものを立てかけ、自分はそこからなるべく遠くのへやに、わざと見つかるように走って逃げて、隠れたわ。もうその時は彼らは神殿の中に入りはじめていた」
「アキレス麾下の精鋭部隊です。ミュルミドンと呼ばれている」
「そうらしいわね」
「彼らはあなたをどうしました?」
「とらえて、彼らの陣地に連れていったわ。もう浜辺一面にいろんなかたちのテントが張られていて、彼らの迅速さに私は驚いた」
「ギリシャ兵たちはあなたを縛りましたか? 裸にしましたか? 押さえつけて足を開きましたか? 凌辱を? 輪姦を?」
彼は私をじっと見ている。私も彼を真っ正面から見つめ返す。「あなたよりずっと、彼らは礼儀正しかったわ」

∞∞∞

アルケプトレモスは、まだ何か話したそうだった。けれどその時、回廊の方で軽い衣ずれの音がして、赤ん坊を抱いたヘレンが入ってきた。神官長を見ると、彼女は立ち止まった。その顔は少し緊張しているようだった。
「話はまた後で」と言ってアルケプトレモスは立ち上がった。「わかっていただきたいのですが、私は何よりもトロイの都のことを思っているのでして」
私は答えなかった。
軽く一礼しあって彼とすれちがったヘレンは、赤ん坊をあやしながら近づいてきた。ヘクトルの子どもはきげんよく彼女の腕の中で笑っていた。
「すっかりあなたに、なついているのね」私は両手をのばしながら言った。
ヘレンは赤ん坊を私の腕にのせるようにしながら、「まだ二、三日にしかならないのに」と言った。
「そうなの?」
ヘレンはうなずいた。「ヘクトルが亡くなった後すぐ、アンドロマケが私にこの子を抱かせたの。皆の前ではこれからずっと、そうしているようにって言って。きっと、そうでなかったら」ヘレンはちょっと口をつぐんだ。「アンドロマケに同情する分、皆が私を責めたでしょう。ヘクトルが死んだのは、おまえがこの都に来たせいだと言って」

∞∞∞

アンドロマケらしいと思った。子どもは木彫りの獅子のおもちゃを手ににぎって、ごきげんでしゃぶっていた。その髪をなでながら私は聞いた。「皆は、ヘクトルのことで、あなたに何かひどいことを言ったりしたりしなかった?」
「少しはね」ヘレンはさらりとほおえんで答えた。「でも、それは前からよ」
「この都に来た時から?」
「それほどじゃなかったわ」ヘレンは首を振った。「この都の人は、皆とても優しくて明るかった。逆にそれが恐いって、前にあなたに言わなかった?」
「言ったわ。憎しみを知らない人たちは、いったんそれを知ったらとても残酷になるって…ねえ」私は獅子のおもちゃを子どもの顔にくっつけてやりながら、聞いた。「皆は今、私のことをどう言っているの? 王宮でも、町の中でも」

∞∞∞

「町の中のことはよくわからないわ」ヘレンは答えた。「王宮では、あなたの帰ったことを皆とても喜んでいる。あなたは、王家の太陽だったわ、ブリセイス。戻ってくれて、皆ほっとしている。何かがもとに戻るんじゃないかと思ってる」
「私がいなくなったのを、誰も気にしちゃいなかったって、アルケプトレモスは言ってたわよ」
ヘレンは美しい眉を軽く上げる。「あの人こそ、いなくなったって誰も気にとめはしないでしょうに」と彼女は冷たい口調で言う。「きっと、あなたに嫉妬しているんだわ」
「それって、すごい見解ね」私はまた思わず笑う。
ヘレンは苦笑する。金髪碧眼白い肌の本当に美しい人なのだけれど、私は彼女のこういうちょっと意地悪で疲れたような複雑な表情が、かわいくて好きだ。「誰も口に出しては、あなたのことを嘆かなかったわ。忘れたふりをしていたわ」彼女は言う。「今は、ヘクトルのことを誰も話さないように。思い出すのがつらすぎて。アルケプトレモスは自分が悲しんでいないから、それがわからないのよ」

∞∞∞

空気が静かに晴れやかな色と香りに変わっていくようで、私は深く息をする。そして一気にヘレンに聞く。「アキレスと私のことは? 私がギリシャの兵士たちにどんな目にあわされたかとか、そういうことも噂になっているの?」
ヘレンはきつい目で私を見る。「彼は、そんなことも言ったの?」
「本当なの?」私はたたみかける。
「あの人自身が話して回っているんでしょ」ヘレンは苦々しげに言う。「それは、心の底では皆、気にしてはいると思うけど。口に出すようなことではないわ。パリスのやったことだって、皆、見て見ぬふりをしているのに」
「パリスのしたこと?」
「あ…」ヘレンの目が大きくなる。「そうよね。あなたは知らないんだわ」
たった数日間なのに、何と話さなければならないことが多いのだろうと思う。私は疲れて目を閉じる。もう行くわね、と言ってヘレンはそっと私の髪に口づける。行かないで、と私は言おうとする。アルケプトレモスの言った通りだ。時間がない。いろんなことを急いで全部聞かなければ。私はどうしたらいいのか考えなければ。行かないで、まだ、ヘレン。そう言おうとして唇を動かすけれど、声にもことばにもならず、私はまた、眠りの中に落ちてゆく。

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