12日間第四日~第六日

第四日

明け方に、また夢を見た。
また、あの露台の夢だ。ヘクトルとアキレスが並んで立って私に背を向け、海を見ている。
話をしながら、時々二人はたがいを見るので、横顔が見える。夜のような昼のような、ふしぎな澄んだ光の中に、私のよく知っている二つの顔が浮かび上がる。

∞∞∞

「どんなに混乱した戦いの中でも、最初にやらなきゃならないことは一つしかない」アキレスが言っている。「それが見えるんだ。真っ白い光に照らされて、進むべき細い道が浮かび上がる。突進すべき目標が浮かび上がる。で、おれはそっちに走る。ためらいなんてない」
「今もそうなのか?」ヘクトルが穏やかに聞く。いつもそうだったように、皮肉な調子は少しもない。彼はいつも、他人がどこか自分よりすぐれていると思っていて、自分の知らないことを聞かせてもらえると思っている、そんな無心なまなざしをした。
わずかに手を動かして熱心に話していたアキレスの顔がくもる。不機嫌そうにも見える当惑。彼は目をそらし、露台の下の方を見ていてから、不意に言う。「おれもすぐ、そっちに行く」

∞∞∞

「そっち?」ヘクトルは一瞬わからなかったように眉をひそめる。「ああ、こっちか」
アキレスは黙って海を見ている。
「それが細い道なのか? 白い光に照らされているところの?」
ヘクトルは勉強熱心な子どもだった、と私は悲しいようなおかしいような気持ちで思い出している。緊張すると必要以上に堅苦しいことばを使ったりする。そのくせ、そんなまっとうな言い方で、とても鋭いことを言ったりして、あれはきっと本人はあまり気づかないで言ってると思う、とよくパリスと私は笑った。「私にはそれは大きくて、何だかぼやけた道に見える」
アキレスはいきなりふり向き、とがった、とげとげしい目でヘクトルをにらむ。その鋭いまなざしに気づいてないのか平気なのか、ヘクトルは何の警戒も萎縮もしていない澄んだ目でアキレスを見ている。「ちがうのか?」と彼はかすかに笑って首をかしげる。

∞∞∞

「おまえは?」アキレスはやがて、あきらめたように力の抜けた、かすれた声で聞き返す。「おまえは道が見えていたのか? だから私と戦うために、城壁から出てきたのか?」
今度はヘクトルが黙り込む。何か考えているように。自分の心をのぞきこんで。
それから彼は首をふる。「そうじゃないだろうな。するべきことなんて、いつも私にはわからなかった」
アキレスはいらだたしそうに吐息をつく。「いつも、迷いはないように見えた。おれなんかよりずっと。誰よりも、おまえは」
ヘクトルはまた首をふる。そして、苦笑する。「そうじゃない」と彼はくり返す。「時間かせぎをしていただけだ」

∞∞∞

「時間かせぎだと?」アキレスは首をそらす。「それは何だ?」
「私はいつもただ何かを、くいとめていた」考え考え、ヘクトルは言う。「どこに行こうとか何をめざそうとか、そんなことは何もわからなくて、ただ、他の人たちがいろんなことをできるような時間をかせごうと…それまで、とにかく、もちこたえられればと。皆が逃げるとか、成長するとか、安らかに死ぬとか、何かがわかるとか、何かを決めるとか…それまでの時間をとにかく私がかせぐんだと」
「何てばかなんだ」アキレスは怒ったように言う。
「そうだな」ヘクトルはまた、かすかに笑う。

∞∞∞

そして、朝もやの中にすべてがかすんで行く。

∞∞∞

目をあけると、本当にばら色のもやが、露台をつつんでいた。その中にあの二人がいるような気がした。

∞∞∞

寝台の上に起き直って、私は壁に目をこらす。君がそうやって壁をにらんでいると恐い、とヘクトルとパリスはよくからかったものだ。何かとんでもないことを思いつくんだから。とんでもないことを言い出すんだから。
アルケプトレモスのことばが、耳によみがえった。
時間がない。
休戦はたった12日間。ヘクトルの葬儀のために、アキレスが、ギリシャ軍が約束してくれた時間。
それが終われば、また戦いがはじまる。運命の歯車が回り始める。たくさんの人の命と未来を乗せて。
12日間。
ヘクトルが私たちにくれた時間だ。
死骸になってまで、敵をくいとめて、もちこたえて、私たちのために確保してくれた、最後の彼の贈り物。
もう二度と彼が与えてくれることはできなくなった、最後の、最後の贈り物だ。

∞∞∞

涙が突然、噴き出すように頬に流れ落ちた。
そして同時にふとんをはねて、私は寝台から床に下り立った。
一刻もぐずぐずしてはいられない。
ヘクトルが与えてくれた最後の贈り物を無駄にしてはいけない。
トロイの都をどうしたら守れるの?
私たちは皆、どこへ行くの?
一刻も、一瞬も早く、それを決めなければ。
12日間。それはもう、3日がすぎた。
残る日数は9日しかない。

∞∞∞

やみくもに、とにかく廊下にかけ出したら、ちょうどこちらに歩いてきていたアルケプトレモスにぱったり出くわした。彼は私のところに来ようとしていたのらしく、足の先から頭のてっぺんまで、じろじろと私を見て「お元気そうですな」と言った。
この男が私を巫女として認めないのなら、実際今の私はもうそうではないのかもしれないのだから、王族の一人として、いっそ高飛車に出るしかないと、とっさに思った。私は彼にたずねた。「あと9日で、また戦いが始まるのですね」
「そうなりましょうな」彼は答えた。
「あなたの考えではどうなのです?」私は聞いた。「勝つ見込みはあるのですか」

∞∞∞

彼はまた品定めするように私をじっと見た。「わが都はアポロン神に守られており…」
「そんなことはわかっています」私は彼をさえぎった。「食料の備蓄や兵力はどうかと問うているのです」
「さようなことは軍人たちにお聞き下さい」彼はむっとしたように言う。
「もちろん、聞きに行くけれど、あなたの見通しはどうなのです?」
彼はしかつめらしい、もったいぶった顔になった。「我々神官は、俗界の事情などは考慮しません」
あら、とてもそうは思えないわ。でも口には出さなかった。
「神のご意志と、人々の士気があれば、どんな敵にも勝利することは可能です」
「よくわかりました」私はそらっとぼけて言う。そして彼のそばをすりぬけようとすると、彼は「どちらに行かれるのですか」と聞いてくる。
「伯父のところに」ことさらに、王ではなくて伯父と言った。
「まだあまり人前にはお出にならない方がいい」神官長は忠告する。「あなたを見ると人々が動揺します」
「なぜですか?」
「とにかく、もう少しお待ち下さい」
「なぜ私を人々の目からかくそうとするのです?」私は切り返す。「トロイの都の人々に対して恥ずかしいことなど、私は何もしていません」

∞∞∞

本当にそうだろうか?
まっすぐに顔を上げて、まっすぐに彼を見つめて。自分にそう言い聞かせる。後ろめたい心や、ひるみが少しでもあれば、彼からそれを見抜かれる。いいえ、彼など恐いものか。これからもっと恐ろしい、たくさんの人々のまなざしに私は自分をさらさねばならないのだ。
間違ったことなどしていない。巫女として、トロイの民として、王族の一人として、女として、一人の人間として、恥じなければならないことを私は何もしてはいない。アキレスのテントで夜の闇の中で、波の音を聞きながら何度も自分に問いかけて、そして確かめた問いと答えだ。

∞∞∞

けれど、何をかくせばいいのか、何を見せてもいいのかがわからない。
自分に嘘をつきたくはない。そうしたとたんに足元の砂がくずれて私は地底にのみこまれる。かくしてもいい、けれど自分についてはいけない嘘がある。
私はアキレスを愛している。
もう一度彼に会いたい。
そのことを恥じてはいない。
それをいつ、言うべきなのか。
かくし続けていたら、言う機会を逃したら、それはそれで、とても危険だ。

∞∞∞

「君って僕らより、よっぽど戦士だな」
昔、あんずの花の下で私にそう言った少年は、ヘクトルだったかパリスだったか。
「それに政治家だよな」もう一人が続けて言った。
そして私たちは三人とも笑った。
当然でしょう。あなたたちみたいな王子とはちがうわ。幼い頃に父母を亡くした。伯父さまにひきとられ、あなたたちといっしょに育てられても、私はあなたたちとはちがった宮廷の姿を見てきた。そこは戦場で、ひとつの発言、行動がどんな危険を招くかもしれなかった。それに、私は女よ。あなたたちが想像もできないような汚い恋のかけひきも見てきたわ。その中で生きて、滅ぼされないで無邪気に笑って見せてきたのよ。
あの時も、それを彼らには言わなかった。
彼らもまたそれぞれに、私には言わない、言えない戦いがきっとあったのだろう。
何となくそれがわかっていて、だから私たちは誰よりもお互いに心を許し、愛し合っていた。

∞∞∞

アルケプトレモスは、あいまいな顔のまま、身体を開いて私を通した。私は彼のそばを通りぬけ、まっすぐに伯父のプリアモス王の部屋へと急いだ。

∞∞∞

回廊を歩いて行くと、何人かの侍女や王家の人々とすれちがった。皆、私を見るとはっとしたように息を殺し、どんな表情をしたものかと一瞬とまどい、私が微笑みかけると、とまどいがちな、ほっとしたような笑みを返した。それが何度もくりかえされる内、かすかと思っていた風でも、ずっと向かい風で歩きつづけているとくたびれるように、私の中に重苦しい疲労がたまっていった。微笑がだんだん、こわばりはじめるのがわかった。
ここは宮殿で私の家で、私は蝶か鳥のように軽やかに行き来していた廊下だったのに。蜜の中を歩くような、この空気の重さはどうだろう。

∞∞∞

唐突に私は、浜辺がなつかしかった。敵兵があふれ、異国の奇妙なかたちのさまざまなテントが立ち並んでいた、それまで見たこともなかった、あの浜辺の風景が。
回りはすべて、敵だった。何度も私の腕をつかんで砂地をひきずり、髪をつかんで衣を引き裂こうとした、荒々しい腕の男たちがひしめいていた。彼らは通り過ぎる私に、野卑な笑いと冗談を、ひっきりなしに浴びせてきた。ようよう、アキレスはかわいがってくれたか? ひいひいあんたがよがってる声がテントの外までゆうべは聞こえて、寝不足になったぞ。
私はそんな声と視線の中を、大股でざくざくと砂を踏みしめて歩いて行った。私は少しも恐くなかった。ただ怒りに怒っていた。ここはトロイの浜よ。泥棒たちが。人殺しが。野蛮人が。そんな思いを目にたぎらして、怒りもあらわに進んで行くと、彼らはちょっと顔を見合わせながら、おどけたしぐさで道を開けた。

∞∞∞

「一人で浜辺を歩いたって?」アキレスはそれを知った時、驚いたようだった。「それで何もされなかったのか?」
私は首をふった。
「あんたを怒らせるようなことを誰もしないだろう、アキレス」若い従弟の少年がそばから言った。
アキレスはしばらく黙っていてから、「おれの力だけじゃない」と言った。彼は私をじっと見ていた。「おまえがやつらを、恐がらせたんだ」
その目には、興味と賞賛があり、そしてまるでそれをそのまま反射するように、若い従弟の少年の目にも私に対する驚きと尊敬と、それと軽い淋しさに似た色が浮かんだようだった。それはどちらも私をとまどわせ、だから不機嫌に目をそむけて私はじっとテントの床にしきつめられた敷物の間の砂を見つめていた。

∞∞∞

ヘクトルがずっと前、一度言った。
戦いはおぞましい。だが、それなりに快感なんだ。
あれは夕暮れの回廊だった。夕焼けに、海は赤く燃えていた。回りに誰もいなかった。ヘクトルは血の色の空と海を見ながら、ひとり言のように言った。何も考えなくていい。抑えていたものが、解き放てる。
それと似た気持ちなのだろうか。
憎しみとさげすみのすべてをあらわにぶつけられる、あの男たちがなつかしい。
血と鉄の香りがただよう、あの海岸が好きだった。
たとえ彼らに犯されても、なぐられても、殺されても、それでもどこかで私はあの、荒々しい男たちと場所を愛しただろう。
同じさげすまれるでも、あざけられるでも、あそこにはもっと血の通った温かい何かがあった。
今のこの、私をとりまく、臆病な傷つきやすい世界に比べると、あの浜辺の方がずっと優しく、さわやかな風が吹いているように思えてならない。
あそこへ帰りたい。そんなことさえ、ちらと思った。それほどに今のこの回りの空気は、ひよわで、ねばっこく、蜘蛛の巣のように肌にまつわる。そして、どこかで、いくつもの目を持つ蜘蛛の顔が、声もたてずにじっと私をうかがっている。
もしかして、ヘレンもこんなまなざしの中にいたのだろうか。この都に来てからずっと。

∞∞∞

伯父は自分のへやにいた。老将軍グラウコスとアンドロマケ、それにパリスもいっしょだった。ヘレンが赤ん坊を抱いて露台をゆっくり行き来していて、朝の光が彼女の金色の髪を白く輝かせていた。
グラウコスは私を見ると、正直にとまどったまぶしそうな顔をした。一本気な老将軍ではそれも無理もないと思った。彼はうやうやしく立ち上がって私を椅子に導いた。
「葬儀の打ち合わせをしていたところだ」伯父は明るい、屈託のない調子で言った。「明後日に、都の広場で行う。祭壇の準備もようやく整った」
パリスが私にほほえみかけた。「とても立派な式になる」
「全軍団が参列します」グラウコスが胸をはった。「ヘクトルさまをお見送りしたいと、トロイの兵士のすべてが望んでおります」
「わしとパリスが祭壇に登って、あれを焼くたきぎに火をつける」伯父は言った。「アンドロマケは、正面に座ってもらいたい」
「そのことなのですけれど」アンドロマケは落ち着いた、穏やかな口調で言った。「お願いがあるのです」

∞∞∞

伯父がうなずくと、アンドロマケは露台の方に目をやりながら、「ヘレンと」と言って私に目を戻した。「ブリセイスを私の両側に座らせていただけませんか」
「ふうむ」伯父はちょっと目を閉じて、広場を思い浮かべるようにして、細長い指先で小卓の上を軽くなぞった。「あそこには三つも椅子がおけたかな。あまりくっつけあわせるというわけにも行くまいが」
「大丈夫だと思います」パリスが行った。「あそこ、案外広いですから」
「ヘレンに子どもを抱かせるの?」私はほほえんで口をはさんだ。
アンドロマケは私をしっかりと見て笑い返した。「ええ。でもあなたは大丈夫?もしも疲れがまだとれていないのなら…」
「大丈夫」私は彼女の手の上に手を重ねて強くにぎった。「お義姉様さえよかったら、どうかそうさせてほしい」
アンドロマケは手のひらを返して、私の手を握りかえした。
ヘレンは何も気づいていないようで、静かに子どもをあやしながら、露台を歩いている。時々、海の方に目をやっている。ギリシャの船団はここからは見えず、朝の光に海だけが眠たげに広がっている。
「では、そのようにするとしよう」伯父はのどかな口調で言った。それから私を見て、こともなげに「あれに会うかね?」と聞いた。

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とっさに言葉が出なかった。「あれは今、地下の霊廟にいる」と伯父はあいかわらず坦々と続けた。「変わっていないよ。おまえは、あちらにいた時もゆっくり会ってはおらんだろう」
私は静かに首を左右に振った。「一度も見てはいない。ここで、戦いの始まる日の朝に会ったのが最後よ」
アンドロマケがうなずいた。「まだ暗かったわね。夜明け前」
「寝過ごして、神殿の儀式に遅れそうになって、急いで近道をしたの」私は誰にともなく話した。「それで、義姉さまたちの部屋のすぐ下の屋上庭園を横切って」
「あの人は、赤ん坊が目をさまして泣くのを抱いて露台に出ていて、あなたを見つけて笑っていたわ」
「日の神と競争だな、って、露台の上からからかわれた」
「へやの中に引き返してきて、あの人心配していてよ」アンドロマケは笑った。「大丈夫かな、馬で送ってやればよかった、って」
「厩の馬を拝借して乗って行ったわ」私は言った。
「そうじゃないかと思ってた」アンドロマケはまた笑った。

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「それで思い出したけど」パリスが、ちょっと眉をひそめた。「神官長が文句を言わない?」
「なぜだね?」伯父はのんびり尋ねた。
「だって、彼は自分が火をつけるか、中央に座りたいんじゃないの?」パリスは皆を見回した。「何かそんなこと言ってなかった? この前」
グラウコスは首をかしげて「記憶にございませんな」と言った。
「わしも覚えておらんな」伯父は目を宙に上げた。「まあ、どっちにしてもこれは家族の儀式ということだから、彼も納得するだろう」
「ならいいけどさ」パリスは小さく吐息をついた。そして立ち上がった。「地下に行く?」
グラウコスは軍の訓練があるからと帰り、ヘレンもついて来なかった。私たち残りの四人は、たいまつをかかげて地下の霊廟へと下りた。私もここにはほとんど来たことはない。もう今は見られない古い形の鎧や武器がひっそりと並んでいて、ひんやりと冷たい空気の中に香の匂いがたちこめていた。
ヘクトルは黒と銀の衣に身を包んで、大理石の台に静かに横たわっていた。両手を胸の上に組み、眠っているように安らかな顔で目を閉じていた。
「葬儀の時は金色と白の衣でおおってやろうと思っている」伯父はいとおしそうに、その顔を見下ろして、そっとほおや髪に触れながら言った。「今、職人たちに織らせているところだよ」
アンドロマケとパリスは黙って、ヘクトルを見ていた。二人が私を見て、うながすようにうなずいたので、私は近づいて彼の組み合わせた手に触れた。冷たくて固く、死の重さが感じられた。ヘクトルの身のこなしはいつも優雅で軽やかだった。呼びとめられて向きをかえるとあまりの速さに、藍色の衣のすそが長い足にまつわってなびき、背が高すぎてぶつかりそうな低い入り口の横木などをよけようと顔をそらせると、うずまく巻き毛がしなやかな首筋にもつれた。そのすべてがもうよみがえらないのだということを、あらためて強く感じた。

∞∞∞

「耳を見て」いつの間にかそばに来ていたパリスが、低い声でささやいた。
私はヘクトルの横顔に目をこらした。注意深く医師が修復をほどこしたようだが、その耳は引きちぎられているように、あとかたもなかった。
「アキレスがやったんだ」パリスはやはり低い声で言った。
「戦いの時に?」私は前を見たまま聞いた。
「ちがう。殺した後でだよ」じれったそうな響きがちらと、パリスの声音にひびいていた。「やつらの陣地にひきずって帰って、その後…」
うめくように声がとぎれて、私はあわただしく思い出そうとしていた。あの時、アキレスにそんな暇があったかしら?
彼がテントに入ってきて、荒々しく水がめの水で身体を洗って、その後、酒と食べ物を持ってくるよう部下に言いつけて、それには私は手もつけられず、彼は一人でテントのすみで飲んで食べて、その後ずっと私になかば背を向けて、剣を研いでいたような気がする。私はぼうっとしていて時間の感覚がなく、何も考えられなかった。眠ってはいなかったと思うし、目は開いていたけれど、ちゃんとものが見えていたのかどうかわからない。
アキレスはテントから出て行ったかしら?
ヘクトルの死骸はテントの外にあった。アキレスは夜ふけて伯父が訪れるまで、そこに死骸を放り出していた。出て行って、侮辱を加える時間があったかしら。それともテントに入る前にもう、そういうことをしていたのかしら。仲間と笑いながら。
「あの男はそんなことはしない」伯父の静かな声がした。それは慈雨のように快くひんやりと、私の胸のほてりをさました。「したとしても、もう今ではそのことを後悔している」

∞∞∞

パリスは答えない。荒々しく身をひるがえして彼が出て行く気配がする。足音が地下の石壁につかの間こだまを返して、やがてまた、あたりはしんとする。
アンドロマケが静かに進み出る。彼女は夫に手を触れない。伯父に手を貸して、そっと支える。
「大丈夫ですわ」と彼女は言う。「何もご心配はいりません」
伯父はアンドロマケの腕に手をおく。「不思議だな」と彼はヘクトルを見下ろして言う。「この子はこうして死んだのに、まだ生きているような気がする。あなたの中にも、わしの中にも。この子を知る、すべての人の中に、まだ今も」
「ええ」とアンドロマケは言う。彼女はヘクトルを見下ろしている。いとおしみに満ちた目で。だが、その腕はしっかりと老王を支えて抱きとめている。
「私が失ってしまったのは、この世から消えてしまったのは」伯父は急に老人めいた、どこかおぼつかない声で言う。「パリスのような気がするのだよ」

第五日

ヘクトルの葬儀は明日だ。
しめやかな中にも華やいだような、悲しい興奮が町に流れている。トロイの市民は祭が好きだ。なのに、祝うこととてないから、葬儀を前にして妙に生き生きするのかもしれない。女たちは白い大きな花飾りを作って家の扉にかけている。貧しい者たちの家からも、ここぞという時の高貴な香の香りがしている。
今日、初めて町を歩いた。厚い布で顔をおおって。そんな姿の女は今はトロイでは珍しくない。夫を失った妻、息子を亡くした母たちが、皆そのようにして通りを歩いているからだ。
私は顔をかくしたくなかった。いつも、どこでも、私は太陽や風を顔に浴び、人々に笑いかけ、言葉をかわしあいながら、町の通りを小走りにかけていたのだもの。でも、アルケプトレモスに言われるまでもなく、今そうするのは軽率だということは、私にはわかっていた。

∞∞∞

ヘクトルの部下の一人、若いリュサンドロスが私についてきてくれた。グラウコスの命令らしかった。彼はすぐれた軍人らしく、さりげなく巧みに人目をひかないようにして、町のあちこちに私を連れて行ってくれた。
回りに人がいない時、私たちは小声でいろんなことを話した。リュサンドロスはそうやって、私といろんな話ができることを喜んでいるようだった。彼がヘクトルに忠実で、かわいがられていたのを知っていたから、あまりヘクトルの死を悲しんでいるように見えないのが最初少しふしぎだったが、まもなく私はリュサンドロスが、自分もすぐに死ぬだろうから、またヘクトルと会えると思って、だからあまり淋しがっていないのだと気がついた。「お目にかかった時に笑われないようにしないと」と彼はすぐ先のことを話すように何度も口にするのだった。

∞∞∞

「結婚してる?」私は聞いてみた。
「そうするつもりでいたのですが、戦いが始まってしまって」彼はあっさり、そう答えた。
「相手の娘さんはそれでもいいって?」
「戦いが終わって、何もかもかたづいてから、ゆっくり式をあげようと話していたんですが」彼は少し考えてから言った。「やはり、かたちだけでも何かしておこうかと思い始めています、おたがいに」
私は彼を見た。「ヘクトルが死んだから?」
「そうですね」リュサンドロスはうなずいた。「彼がいてくれた間は、戦いはすぐ終わるし、長引いてもいずれは勝つという気がしていたんですが」
「そうよね」
「結婚する兵士たちが多いですよ、この二三日」
「そうなの」
死の影が町の上にしのびよってきている。だからいっそう、人々は激しく幸福を求めている。

∞∞∞

ヘレンと同様、リュサンドロスもまた、私がギリシャで捕虜になっていた間、どんな目にあったのかを知りたがっている様子はまったくなかった。それよりむしろ意外なことに、彼はアキレスや、ミュルミドンと呼ばれる勇猛な彼の部下たちのことを何かと聞きたがった。「いつもアキレスのそばにいる副官がいますね」と彼は聞いた。「あれがミュルミドンの長なのですか」
「エウドロスのことかしら」私は言った。
「目が青い、がっしりした身体つきの」
「ええ。ずっとアキレスといっしょに戦ってきたみたい」
「アキレスは信用しているのでしょうね」
「みたいよ」私はほほえんだ。「あなたとヘクトルみたいに」
リュサンドロスはちょっと吐息をついた。「ヘクトル様があんな風に信頼しておられたのは、テクトンですよ。いっしょにスパルタにも和平の交渉に行ったし」
リュサンドロス自身も気づいてないかもしれないが、ヘクトルがパリスをその旅に連れて行くと聞いた時、後に一人残されるくやしさにむしゃくしゃした私は、彼の声音にかすかなうらやましさのようなものを聞きとった。

∞∞∞

たしかにテクトンに比べるとリュサンドロスは優秀だがやや線が細いというようなことを、ヘクトルが言っていたような気がする。頭をくるくるそりあげて、たくましい肩をゆすって歩くテクトンは、豪快でのんきな男だった。いっしょにいると気が晴れてくる、とヘクトルはよく笑っていた。とんでもない失敗をするから、どなりつけると「はあ」と言ったきり、ぼうっとこっちを見返していて、けろっと気にもしていない。自分が間違えておいて「大丈夫ですよ」とこっちをなぐさめたりするからな。またそれで、けっこう本当にうまく行ったりして。そうぼやきながら、ヘクトルは楽しそうだった。
「そう言えば彼の姿が見えないわ」私は言った。「どうしたの?」
「誰ですか?」
「テクトン。まさか…」私ははっとしてリュサンドロスを見た。
「ええ。最初の日の戦いで」
「私って、何も知らなくて」やりきれない思いで唇をかんだ。「聞いてないことばかり」
「いらっしゃらなかったのだから、無理はありません」リュサンドロスはなぐさめた。「神殿にヘクトル様とかけつけた時、アキレスの投げた槍にのどをつらぬかれて落馬して、そのままでした。何とか死骸は仲間が持ち帰ったので葬式はできましたが」
「たしか子どもがいたわよね?」
「まだ赤ん坊です。妻は灰の中にふしまろんで獣のように泣きました」
「そう」
「アキレスを呪い、ギリシャを呪って」
そんな人たちがどれだけいるのだろう? その人たちに私の気持ちをどう伝えたらいいのだろう?
「でも今はヘクトル様といっしょですからね」リュサンドロスはちょっぴりまた、うらやましそうな声を出した。「きっと、アキレスの槍はすごいでしょう、とか何とか言ってるんだろう」
「ヘクトル兄様も、アキレスの槍で殺されたの?」
「折れた槍と剣を両手に持って戦っていて、アキレスに槍を奪いとられたのです。あの時のアキレスの動きは稲妻以上だった。その槍で肩を刺されて、なかば勝負はつきました。膝をつかれたところを、アキレスが剣で胸を刺してとどめを」
「そして戦車でひきずって行ったのね」
「私たちの皆が城壁から見ている前を」

∞∞∞

やりきれなくなって私はリュサンドロスに向き直る。「誰も、何もしなかったの? 彼をそのまま行かせたの? 弓兵隊は何をしてたんだろう?」
「ヘクトル様が命令しておられたのです。アキレスが単身、城壁に近づいてきた時に。撃つな、何もするな、手を出すな、と。指揮官の命令でした。彼が死んだ後もそれは守られた」
私は首を振った。「トロイらしいわ。何という軍規の正しさ。何という文化の高さ」あざけりを、かすかにこめずにいられなかった。「あなたも黙って見ていたの?」
リュサンドロスは何も言わない。「むしろ、それを言うのなら」と、ようやく彼は口を開く。「むしろ、お出しするのではなかった。ヘクトル様を、城門から」

∞∞∞

「私は城門にいたんです」リュサンドロスは今まで誰にも話せなかった秘密をうちあけるように言う。「あの方が出て行かれる最後の身繕いのお手伝いをした。兵士たちが重い大きなかんぬきを開けて門を開く。あの方はいつものように、いつも以上に落ち着いた、水のように静かなしぐさで、馬の尾の飾りがついたかぶとをとって、かぶられました。そして私から槍を受けとられて、一人で門を出て行かれた」
私たちは一見何気なさそうに肩をならべて町の通りを歩いている。細い水路が足元をさらさらと流れ、頭上には木々の葉が緑がかった影を落とす。
どこからか、うめくような激しい泣き声が起こる。その声はこのごろよく、町のあちこちで聞こえるのだ、とリュサンドロスはさっき私に説明した。愛する者を失った悲しみを押し殺していた人が、突然我に返って寝床に倒れ、のどの奥、胸の底からほとばしらせる慟哭だ。以前は決して聞こえなかった声だ。それが唐突に町のあちこちの窓の中から起こることにも、もう人々は慣れてしまって足もとめない。
その声は、かすかに遠く、王宮の高い露台まで響いてくる。最初私は何かわからず、珍しい鳥の声かと思った。夜の空気をひきさいて、それは長くひびいてまたぴったりとやんで消える。

∞∞∞

アキレス、と私は呼びかける。この声を知っているの? 聞いたことがあるの? それはあなたの母親が、やがてあげる声かもしれない。この私があげる声かもしれない。

∞∞∞

リュサンドロスは足をとめ、その声を目を閉じて聞いている。「私は」と彼は言う。「あの時にあの方を行かせたくなかった。ひきとめたかった。何をしてでも」
「見送ったのは、あなた一人?」私は聞く。「兵士たちの他には?」
「ヘレン様がいらっしゃいました」リュサンドロスは言った。「私たちは二人して、門が開くのを、その向こうに立つアキレスを、そして、ヘクトル様が私たちに背をむけて、そちらへ歩み出して行かれるのを見送りました。門が再び閉まるのを、二人で黙って見ていました」

∞∞∞

どこかで見た風景だ、と思う。不吉な、悲しい光景だ。
「浜辺で、あなたとヘレンのように」私はつぶやく。「私とエウドロスも肩を並べて見ていたわ。パトロクロスが焼かれるのを。ヘクトルが殺したアキレスの従弟が」
私はくりかえす。
「何もできずに、ただ見ていた。何をしていいかもわからずに」
ぼんやりと私はくりかえす。
「何もしないで。ただ見ていた」
あんなにも愛していたのに。何もできなかった。リュサンドロスもヘレンも。エウドロスも私も。
またどこか、さっきとはちがった建物の奥で、つんざくような悲しい女の絶叫が起こる。むせび泣き、吠えるように叫んで、女は泣いている。
「あなたの故郷はどんなところ?」私はアキレスに聞いた。「美しいところ?」
「海と野原と空しかない」そう言いながら、アキレスは幸せそうに目を細めていた。

∞∞∞

ギリシャ。彼の故郷。彼の兵士たちの故郷。私がまだ一度も見たことのない土地。
そこでもやがて、そっくり同じ悲鳴と泣き声が響くだろう。ギリシャ全土で。あちこちに。そのことで、二つの土地は結びあわされるのだ。私たちの間には何のちがいもなくなるのだ。ちがった風景の、遠い見知らぬ土地と土地はそうやって、どんどん似通っていく。どの国も、どの世界も、悲しみに洗われて、のっぺらぼうにひとつになる。

∞∞∞

「リュサンドロス」私は思わず声をかける。「まだヘクトルのところに行ってはだめよ」
「はい?」彼は、けげんそうに私を見る。

∞∞∞

宮殿に戻ると、伯父のへやに人々が集まっていた。ちょっと険悪な空気が流れていたので、何かと思ったら、パリスが言っていた通り神官長のアルケプトレモスが葬儀の席のことで文句を言っているのだった。神官長の自分がグラウコスたちと並んで壇の下にいるのはおかしいということらしい。
「祭壇の正面の席は、トロイを支配し、司る者の席ですぞ」彼は主張していた。
「わしとパリスは火葬の薪に火を入れるという役目があるからな」伯父は説明した。「祭壇のすぐ下にいないといけない。できたらそこで、なるべく近くで、あれを見送ってやりたいのだ」
正式の会議ではないから、アンドロマケもそこにいた。いつもの飾りけのない服装で、少し身体をそらすようにして、一方の足に体重を預けるようなくつろいだ姿勢で立って片方の手で腕を抱えていた。髪は簡単にまとめただけで肩にたらしている。
彼女はとても背が高い。素朴な感じの人で、さっさっと気どらない歩き方をする。まるで普通の町の主婦のように見える時もあって、そこが市民にはとても人気がある。
でも、そのように一見華やかさはないようでいて、どんな豪華な衣装や装身具を身につけても彼女は少しも不自然ではない。むしろ、あんなに美しいヘレンだと飾り立てると安っぽくなりそうな派手な衣や首飾りでも、アンドロマケにはしっくりと似合って彼女をひきたてる。
今そうやって、男たちの中に立っていても彼女は少しも弱々しくも影が薄くも見えなかった。歴戦の勇士のような静かな澄んだ目をしていた。

∞∞∞

「だからと言って、正面の席に女性三人がつくのはいかがなものかと」アルケプトレモスは言いつのった。「兵たちの士気にも関わります」
要するにあなたがそこに座りたいのね。私は目だけを天井にあげた。アンドロマケはそれを見て、かすかにほほえんだようだった。
「しかも、両側の二人は」アルケプトレモスは声を高くした。「敵国から来た女性と、敵の捕虜だった女性です」
ざわめきが起こり、貴族や神官や軍人たちの何人かがちらちら私の方を見た。
「あなたのおっしゃっているのが、ヘレンとブリセイスのことでしたら」アンドロマケの落ち着いた声が響いた。「ヘレンは王子の妃だし、ブリセイスはアポロン神殿を最後まで守り、王と共に敵地から戻ってきた巫女です。これからのトロイの民が心の要とするのには最もふさわしい二人ではありませぬか」そして彼女は堂々とつけ加えた。「亡き人の妻である、この私と、私たちの息子とを除いては」

∞∞∞

またざわめきが高くなる。うなずく者も多かった。
「その通りです」パリスが言った。「アルケプトレモス、町を歩いてごらんなさい。兄のことを皆は神のように語っている。その妻である彼女には、父や夫や息子を亡くした女たちの同情と共感が集まっている。兄の妻と忘れ形見のおさなごは、トロイの民の希望なのです。彼女を見ていれば、人々は救われるのです」
「もう決まってしまっているのだ」伯父がとぼけた調子で言った。「椅子も三つ運ばせたしな。頼む、皆。息子を失った父親のわがままと思って、このままの手順で葬儀を行わせてくれ」
こんなしめやかな口調で言われたら、最後の切り札じゃないの。伯父様ったら。私はあきれながら感服した。どこまでが計算なの。それでアキレスも籠絡したってわけね。
アルケプトレモスはまだまだ何か言いたそうだったが、さすがに沈黙した。だが、これで話が一段落と思ったらしい皆が、ざわざわと散りはじめた時、彼はへやを出て行きかけていたアンドロマケを呼びとめた。正面の席に座れなかったくやしさが、どんな勘の悪い人の目にも透けてみえるような、でも本人はそれを隠し通せていると信じているにちがいない、ばかばかしいうやうやしさで彼はアンドロマケに尋ねた。
「お妃さま、王位継承者で最高司令官である人物の葬儀であの席に座るということは、彼に代わってトロイの民を率いて、まとめて、最後まで守るということです。そのお覚悟はおありでしょうな」

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アンドロマケはふり向いた。「当然です」簡単に彼女は言った。
「たとえば戦いが利あらずして負け、トロイの都が炎上したら、あなたはお子さまもろともに、都と運命をともにされるのでしょうな」
アンドロマケのまなざしに生まれたのは、冷ややかな軽蔑だけだった。「当然です」かすかに笑って彼女は言った。「それ以外の何が考えられましょう」
「トロイ再建を口実に、お子さまを抱いて都を逃げ出したりはよもやなさらぬでしょうな。死にゆくトロイの民を見捨てて」
パリスが何か言いかけた。人々の多くもまた立ち止まっている。アンドロマケは静かに私に歩みより、私の肩を抱いた。
「こんな若い娘さえ、アポロン神殿で最後まで残って敵を迎えました」彼女は低く快い、そして力強い声で言った。「トロイの都が滅びる日は、私と息子が炎の中で死ぬ日です。けれど、そんな日は来ないと私は信じています。あなたこそ、今からもうそんなことを考えておいでなのですか」かすかに起こった笑い声の中で、アンドロマケの声が鋭い厳しさを帯びた。「ヘクトルはそんなことは、一度も口にしませんでしたよ」

∞∞∞

その亡き人の名が、こうまで公然と宮殿の中で口にされたことはなかったのではないだろうか。皆が雷に撃たれたように粛然とし、首をたれ、水をうったような沈黙があたりに広がったのを見て私はあらためて実感した。
ヘクトルは生きている。
いいえ、生きていた時の何倍も大きな存在になっている。
アンドロマケが私のほおに優しく口づけするのを感じた。高く頭を上げたまま、彼女はへやを出て行った。その背の高い後ろ姿も足どりも、うなじにかかる黒髪も、見送る誰もがはっとするほど、彼女はヘクトルに似て見えた。

第六日

ヘクトルの葬儀の朝。空は悲しむように、やわらかく曇っていた。
だから、日がいつ上ったのかわからない。
夢の中で、彼がアキレスと並んで言葉をかわしながら海を見ていた露台に立つと、私の白い寝間着を風が静かに吹き乱し、たらしたままの黒い髪をほつれさせた。ヘクトルの指がいたずらっぽくかきなでているように。

∞∞∞

トロイの都が穏やかに私の眼下にまだ眠っている。
この都と、そこに住む人たちを守らねば、と、こうやってここから都を見下ろすたびにヘクトルはきっと思っていたはずだ。
私は彼の、そんな思いをひきつげるのか。
この都が滅びる日は、自分と子どもも火の中で死ぬ日だと言い切った、アンドロマケのことばが思い出された。

∞∞∞

海が遠くに見えている。でも、ギリシャ軍の船が停泊する浜辺はここからは見えない。

∞∞∞

アキレス。
彼を忘れられるだろうか、と初めて自分に問いかけた。

∞∞∞

もう一度会いたい。
それとも、ただ生きていてほしいだけ?
幸せでいてくれれば、それでいい?
もし、私たちがトロイの都を守りぬき、ギリシャ軍があきらめて去れば、彼とはきっと、もう二度と会えない。
それでも私は満足?
おたがいに、ただ生きていれば。どこか遠くで。ちがう誰かと。
そうやって思い出にできるだろうか? 私は彼を。彼は私を。

∞∞∞

彼ともう二度と会わなくていいから、この都を守ってくれ。
そうアポロに祈れるか? 私は。
首をたれると、アポロの代わりにヘクトルの声が聞こえた。
「私は神など信じない」
「自分で戦い抜く者しか、神は決して救わない」
苦々しげな、低い声。私と多分パリスしか知らない、しわがれて、すさんだ、暗い声。
あれはいつ聞いたことばだったか。

∞∞∞

私は首をふって髪をはらい、一刷毛の青い絵の具のように遠くに見える海を見つめる。
アポロは神の中では単純で正直な方だ。意地悪で厳しいアルテミスより。したたかで食えないゼウスより。
それでも神なら油断できない。
取引をするなら、慎重であらねば。
そもそも、トロイは勝てるのか? 都は守りぬけるのか?

∞∞∞

昨日、皆が伯父のへやから帰る時、私は老将軍のグラウコスをつかまえた。「戦いの見通しは?」
「ヘクトル様が亡くなられても、私たちは都を守りぬきます」将軍はなだめるように力づけるように私の腕を軽くたたいた。「弓兵隊も城壁も無傷です。何年でも籠城はできます。どうぞ、姫。お心を痛められますな」
「その弓の矢は?」私は聞いた。「都の市民の食料は? 薬は? どれだけ残っているのです? 城外からの補給は可能?」
彼は驚きながらも、うれしそうに私を見た。そして、頭に耳が生えたら虎そっくりだよ、と幼いパリスが私たちにささやいて笑わせていた丸顔の、小さい目をいっそう細めて喉を鳴らしているように、うきうきと説明した。「籠城でまず欠かせないのは水でして、これで音をあげた城や都が古来たくさんあります。しかしながらトロイは豊かな水脈の上にあり、城内には川が流れ、数知れない井戸があります。水についてはまず心配はいりません」

∞∞∞

「食料は?」私は聞いた。
「城内には牛も羊もおりますれば、菜園や畑もございます。いざとなったら通り一面に畑を作れるだけの種の確保も、たっぷりとしてございます」彼は胸をはった。「わが都の財宝は王宮の倉にあふれており、諸国の商人たちはそれをあきらめはいたしません。彼らは勇敢で、危険を冒し、ギリシャ軍の目を盗んで、夜の内にこっそりと抜け道を通って城内に物資を運び込んでおります。彼らも武装していますし、ギリシャ軍とて、そう簡単に手は出せません」
「国庫の財産は無限ではありますまい」私は言った。「彼らは音をつりあげては来ないの? こちらの弱みにつけこんで」
「わが国は長い交易の歴史がある。都の商人たちはそうそう足元を見られはしません」

∞∞∞

「疫病が流行らないために死体を焼く薪は?」
「今のところ充分に蓄えがありますし、近隣の山からも取って来れます。ギリシャ軍は海岸に布陣するのみでせいいっぱい、わが都を包囲する兵力は持ちません」
「それで、こちらの兵力は?」
「あれだけ激しい戦いをくりかえしたにしては驚くほど」将軍は言った。「損害を受けておりません。緒戦の浜辺での死者が一番多かった。それ以後は相手の方がずっと被害が大きい。敵は連合軍なので統率がとれておらない。一気に攻略してきても、城壁や門を防ぐ兵力にはまったく不足がありません」
「それでも、市民たちにもそろそろ」私は言った。「戦う訓練をさせた方がいいわ」
「あまり不安をあおってもいけませんでな」将軍は言った。

∞∞∞

私は侍女を呼び、葬儀に着て行く服の支度をさせた。
髪を結い、香をたきしめ、寝台の枕元の小箱をあけて腕輪や髪飾りを選んでいると、白い貝殻の首飾りが手にふれた。
アキレスが別れ際にくれたものだった。彼の死んだ従弟がつけていたものだ。
「君を傷つける気はなかった」
そう言って彼は私の手の中に、この首飾りを落とした。荒れ狂う感情のすべてを洗い流したような無心な澄んだ表情で。まるで私にふれることも遠慮しているように、そっと。そうやって渡されたこれを握りしめて私は、ヘクトルの遺体とともに伯父と戦車に乗ったのだ。
私はそれを指にからめた。
ヘクトルがアキレスとまちがえて殺した従弟。
アキレスが誰よりも愛していた、まだ少年といっていい若者。
彼にとっては何よりも大切な、かけがえのない思い出の品。
それを私にくれたのは、彼の謝罪でもあり訴えでもあるのだろうか。
もしもこのまま別れたら、これが彼の唯一の思い出になるのだろうか。

∞∞∞

ヘクトルの葬儀はおごそかに行われた。都の広場は黒い衣装の貴族や町の有力者、甲冑に身を固めた兵士たちで埋めつくされた。高い台の上に薪が積まれ、金と白の衣装に包まれたヘクトルが、その上に横たわっていた。
生前にそうだったように、つつましい人でありながら、こんな晴れがましい儀式の中心にいても彼はおだやかに落ち着いているようだった。悪びれずに安らかに目を閉じて最後の勤めを果たそうとしているかのようだった。
見守る人々も、彼の心をくんだように静かだった。泣き声さえもひそやかで、温かく優しく皆が彼に別れをつげているようだった。戦いのことも籠城のことも、皆は忘れてさえいるように見えた。神官長の祈りがあっさりしていたのもよかったのかもしれない。ふてくさっていたのかもしれないが、思っていたより心のこもった声音としぐさで、彼をよく知っている私は、何かよからぬたくらみを思いついて気をよくしているのかもしれないと思った。壇上のヘクトルを見ると、そんな私を彼は笑っているようだった。

∞∞∞

伯父とパリスが設けられた階段を上って、ヘクトルの横たわる床の薪に、手にしたたいまつで火をつけた。炎は静かに広がってやがて大きくなり彼をつつんだ。私のわきでそれを見守るアンドロマケの頬にはとめどなく涙が流れていた。ヘレンはその向こうで黒い衣装をまとって、無心な表情で赤ん坊をそっとあやしていた。
さよなら、ヘクトル。
もう本当に彼が消えて、どこにもいなくなると思うと、私の目にも涙があふれた。

∞∞∞

そして突然、不思議な感覚が私をおそった。
周囲の人々の姿が消え、建物がかすんだ。
おぼろに浮かぶのは、海辺で見たギリシャの兵士たちだった。彼らがびっしりと、この同じ広場を埋めていた。だが勝ち誇った顔ではない。死者のように彼らの顔には生気がなかった。
回りの建物も同じかたちで、ただ、焼けただれて黒こげになっていた。露台から乗り出している人の姿はまったくなく、壁にはう緑の蔦も見えなかった。見渡す限り、そこには廃墟が広がっていた。
広場の中央の台は同じ高さ、同じかたちのようだった。同じようにそれは炎に包まれて、今、そこに横たわる人の姿を呑み込もうとしていた。

∞∞∞

炎に包まれて行くその人の髪は、黒髪ではなかった。
その人はヘクトルではなかった。
金色の髪がちらと見えた。獅子のたてがみのような。
ヘクトルと同じように、たった一人、その高い台の上で焼かれているのはアキレスのように見えた。私の目にはたしかにそう見えた。

∞∞∞

目をこらすと、ヘクトルを焼く炎は天にそびえて空気をゆらがせ、回りの人も建物もゆらゆらと動く巨大な陽炎の中だった。それでも、それは見慣れた人々、いつもと変わらぬ美しい緑と白のトロイの建物だった。
私の見たのは幻だったか。
アポロは私に何を告げようとしたのだろう?

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カツジ猫