12日間第七日~第八日

第七日

昨夜は眠れなくて、アンドロマケを訪ねた。彼女は髪をたらし、くつろいだ服装で赤ん坊を抱いて寝台に座っていた。私を見るとほほえんで、隣に座るように手ですすめたので、私は彼女の隣に座って、赤ん坊をのぞきこんだ。
「本当にかわいい」心からそう言った。「すごく美男ね」
「ヘクトルは、この子が大きくなって娘たちに追われる姿を見たいと言っていたわ」
「本当?」
私たちは顔を見合わせて笑った。
「今日はありがとう」アンドロマケは言った。「でもまだ明日からが大変よ。神殿や王宮での儀式がいろいろ続くから」
「あなたこそ。疲れない?」
「何かしている方がいいの」アンドロマケはあっさり言った。「何も考えなくてすむし」
そして彼女は私を見て、「あなたもあまりいろいろと考えすぎない方がいいわ」と少し気がかりそうに言った。

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へやにひきあげる途中の回廊で、ヘレンに会った。何だか落ちつかない、よるべない少女のような顔で、白い衣装を風にかすかにそよがせて、ぼんやり手すりにもたれていた。パリスは何をしているのかしらと、私はちょっと腹が立った。こんな夜に彼女を一人ぼっちにしておくなんて。その気持ちが顔にあらわれたのか、ヘレンは「パリスはお父さまと明日の打ち合わせをしているの」と弁解するように説明した。「神殿で儀式があるとか」
「そう、ずっとそういうのが続くの」私はヘレンと並んで手すりにもたれ、すみれ色の空に散らばる小麦色の星々を見上げた。
「明日もきっといいお天気だわ」ヘレンも空を見上げていた。

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「宮殿でも、町の通りでも」私は空を見たまま言った。「うんざりするわ、皆の視線に。ヘレン、あなたはどうやって、あんな目で見られるのに耐えてきたの?」
ヘレンはしばらく黙っていた。それからうつむいたまま、低い声で「耐えられなかったわ」とつぶやいた。「だから、逃げだそうとしたわ。最初の戦いがあった夜に」
「ここを? 宮殿を?」私は驚いて身を起こした。「そのこと誰か知ってるの?」
ヘレンは首をふった。「ヘクトル以外は誰も知らない。彼がとめたの。彼が、ここで」

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ヘレンの声がつまり、彼女は片手で口を押さえて必死で泣き声と涙をとめようとしていた。「私が泣くなんて」と彼女は声を殺して言った。「まだ泣かなくちゃいけない人や泣いていい人がたくさんいるのに。そんな人がまだ誰も泣いてないのに。私が泣くなんて。私なんかが泣くなんて」
そう言いながら次から次へと涙が彼女のほほを伝っていた。

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「ああ、ヘレン。泣いていいから」私は彼女の手をとった。「その時のことを話して」
ヘレンはまだ私の顔を見なかった。「もう夜が遅かった。ちょうど今頃の時刻だったかもしれない。私が外に出ようと歩いて行くと、呼びとめられて、追いかけられた。逃げたけど、すぐに追いつかれて抱きとめられた。私は彼に言ったの」ヘレンの声が乱れ、身体が震えていた。「死んだ兵士を焼くのを見たって。泣き叫ぶ妻たちの声も聞いたって。私が来たから、私がいるから、私のせいでこんなことに。だから船に帰ると言ったの。メネラオスの、夫のところに」
私はヘレンを抱きしめて聞いた。「そんなことができたの?」
「できるかどうかわからなかった。私は夫を恐れていたし、憎んでいた。でも、ここにはいられなかった。私がいれば皆が死ぬ。私は皆を不幸にする」
「ヘクトルは何と?」
「もう遅い。なぜメネラオスの兄アガメムノンがやってきたと思う。この戦いは愛なんか何も関係ない。権力のための戦いだ」
「その通りよ」私は言った。
「ヘクトルは私に言ったの。あなたはトロイの王子の妃なのだから、明日はメネラオスと戦う弟のために、今宵はそばにいてやってくれ…」ヘレンは声を殺そうとして身をよじって泣いていた。「私はそうした。ずっとそうした。もう二度と帰ることなど考えまいとしてきた。彼がそう言ってくれた、その言葉だけを支えに私は生きてきた。彼の言葉があったから、彼がいたから耐えられた。ブリセイス、もう私、どうしていいのかわからない。私がそんなこと思っちゃいけない。私にそんなこと言う資格はない。皆、耐えているのに、私なんかが…でも私、あの人が死んでしまったら、もうここでどうして生きていったらいいのかわからない」
私の肩に伏せたヘレンの熱い涙が、薄い二人の衣を通して私の肌をぬらしていた。

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「彼は本当に怒っていたの」ヘレンは涙をぬぐって言った。「船の上で私を見つけた時。恐かった。メネラオスよりもよっぽど恐かった。上陸するまで口もきいてはくれなかった。トロイに上陸して都の門に入る時、私はパリスと先頭で馬車に乗るように、あの人から言われた。そんなことしていいのかしらと思ったけど、兄上の言う通りにしておけば間違いないんだからってパリスは安らかな顔しているし」
そんな場合ではないにも関わらず、あまりにも想像できて私は吹き出すのをこらえた。
「私がまだとまどってひるんでいると、あの人は手をとって私をパリスの隣に引き上げ、とても冷たい、てきぱきした調子で『堂々として、笑っていて下さい』と言った。『この都と私たちのために』。だから私は必死でそうした。その時も、その後も。でも、嫌われていると思っていた。だって、それも無理がないもの。あの奥様とあの赤ん坊がいて、それを危機にさらすようなことをした私を憎まないはずがない。当然だもの、憎まれて。だから、あの人があんなことを言うなんて、私思ってもみなかった」
「彼は、あなたたち二人を許してしまわないかと、愛してしまわないかと心配だったのよ」私は言った。「だからあなたに、厳しい態度をとっていたのよ」

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「実際、怒っても嫌ってもいたのだと思うわ」ヘレンは少し落ち着いて言った。「でも、そんな相手にでも、ああ言わずにはいられない人だったし、それで私は救われたの。生きていく力が持てた」
「城門で最後に彼を見送ったの?」
ヘレンはまたこみあげる涙と戦っていた。「とめようと思ったの。行かせまいと思った。でも、近づけなかった。あの人は怒ってはいなかった。ふりむいて私を見た顔は安らかで、恐れも悲しみもなかった。あまりに静かで落ちついていて、私は自分がちっぽけな、ちっぽけな、何の力もない生き物になったようで、ただ見送るしかできなかった」
彼女は苦痛に顔をゆがめた。
「パリスの時もそうだった。負けるとわかっている、死ぬと決まっている戦いを、ただ見守ることしかできなかった。ブリセイス、ブリセイス、私はもういや。もうこんなことしたくない」

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でも、別れ際にヘレンは高く顔を上げた。「もう泣かない」と彼女は言った。「もうこれでおしまいにする。絶対にもうこれでおしまいにする」

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行かないで。戦わないで。
ヘクトルは私の従兄よ。いい人よ。
何と無力な言葉だったか。叫びながら私は自分でわかっていた。
アキレスが戦車に乗り、ただ一人トロイの城壁に向かって行く。パトロクロスの仇を討ちに。彼を殺したヘクトルを殺しに。
叫んでも、彼の耳には入っていても、心には届いていないとわかっていた。
ヘレンはヘクトルを、私はアキレスをとめられず、二人は殺し合った。
アンドロマケはどうしたのだろう? どこかでいつか、ヘクトルをとめようとしたのだろうか。
貞淑な、決して夫に逆らわないあの人だけれど。

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朝食の後、追悼の儀式に参加するために神殿に行った。神官たちがいけにえの獣をほふって神に祈りを捧げていた。
儀式のしきたりはよく知っていたから、見守りながら、別のことを考えることができた。
なぜか、ヘクトルよりアキレスより、パリスのことが気にかかってならなかった。ヘクトルのこともアキレスのことも、つらいなりに思い出せ、考えられるのに、パリスだけは暗い霧がかかっているように、考えようとしても何も見えないのだった。

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ひと月前まではその名さえ知らなかったアキレスはもちろん、幼い時から三人いっしょに育った中ではヘクトルよりもパリスの方を私はむしろ、よくわかっていた。ヘクトルがパリスを知っている以上に、よく知っていると思っていた。
それが今、ヘクトルの死とともにパリスの姿が見えなくなった。
考えてみると、パリスのことを私はどれだけ知っているのだろう?
彼は幼い時、神託でトロイに災いをもたらす者と予言され、王城を出されて山で羊飼いに育てられた。母の死とともに呼び戻されたらしいが、そのことを彼は恥じてもかくしてもおらず、山での暮らしをいつもなつかしそうに話した。幼い時はヘクトルの方がそれを聞いていて、つらそうにしていた。きっと、弟をそんな目にあわせた父や自分たちが責められているような気がしたのだろう。何でも自分のせいと思いこむ才能にかけては、ヘクトルは超一流だったから。

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私はいつも、兄弟を見ていて奇妙な感じにとらわれていた。
誰もが優秀で、勇敢で、武術学問人柄容姿すべてにすぐれていると認めるヘクトルよりも、顔や姿が女の子のようにきれいなだけで、のんきで遊び好きで恋ばかりしていると皆が笑ってながめているパリスの方が強くて賢く、優れているような気がいつもしていた。
ヘクトルは努力家でまじめだった。与えられた課題は絶対にこなし、義務は必ず果たした。そうやって彼は成長し、トロイの守護神とたたえられる名将になり指揮官になり、伯父の片腕以上の支配者になった。

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でも、そんなものには皆、パリスだって、なろうと思えばなれたのではないか。ヘクトルよりもずっと楽々と。もっと優れた軍人や指導者にさえ。
彼が初対面の人や都の人を本当に一瞬で魅了するのは、その美貌だけではなかった。彼には個人も群衆もあっという間にひきつける天性の才能がそなわっていた。仮に彼が醜くても、いやしい身分に生まれても、今とまったく同じように彼は周囲に愛されたはずだ。

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そんなことは誰にも言ったことはない。否、考えたことすらもない。心の奥のどこかでぼんやり感じていただけだ。
それをはっきり意識したのは、アキレスに会ってからだった。
彼とヘクトルが戦うと知って私が絶望したのは、アキレスが勝つとわかっていたからだ。剣の腕のことはわからなくても、アキレスにヘクトルは勝てないと私は知っていた。ヘクトル自身も多分知っていた。
与えられた役割を果たすために、誠心誠意努力してきただけの者には想像もできない天空の高みにアキレスはいた。そこまで行け、と言われたら、行ってくれと頼まれたら、ヘクトルは何とかして行ったにちがいない。しかし、そう言われない限り、あるいはそういう存在を見ない限り、そこに行くこと、あるいはそこがあることを想像もできないヘクトルに比べて、アキレスは初めからそこにいた。運命のように。呪いのように。

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アキレスを最初見た時から、よく知っているような気がした。
いきなり私の前で全裸になって、身体についた血を洗う傍若無人な様子を見ても、獣のようなしなやかな足どりで近寄ってきて、そばにかがみこまれても、私は彼が恐くなかった。よく理解できたし信じられた。
最初は疲れたりいらだったりしている時のヘクトルに少し似ているからだろうかと思った。そんなところもあった。だが、その内に、それ以上に彼はパリスに似ていると気づいた。パリスのあの幸福そうなのどかな笑顔や、あけっぱなしに無防備な甘えたまなざしはなかったが、それを彼が持っているし、やろうと思えばできるのがわかった。
それはヘクトルにはないものだった。自分の絶対的な強さを知り、他人が自分のためにあることに何の疑いも持たない、それほどの力を自分が持っていることをはじめから熟知している者だけが持てる、それは強さと残酷さだった。

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アキレスとパリスのちがいは、ヘクトルがいないことだった。私はいつからか、ヘクトルのいないパリス、あるいはヘクトルにならなければならなかったパリス、というようにアキレスを見ていた。そのいらだち、落ちつかなさ、何もかもが、そう思うとよく理解できた。
あの死んだ従弟パトロクロス。
アキレスは彼をかわいがり、彼の世話をし、彼の甘えを許すことで、自分が安定しようとしていた。彼は自分がヘクトルのような存在になろうとしていた。それは、彼なりの必死の生きるための努力で知恵だったのかもしれない。
けれども、今となってから言うのではないが、それは無理な試みだったように思えてならない。
ヘクトルは、ヘクトルにしかなれなかった。ヘクトルにしか、そんな能力がなかったという意味ではない。ヘクトルという人には、あれ以外に、またはあれ以上になれる能力はまったくなかったのだ。だからこそ、彼はあんなにもみごとに、ヘクトルになれたのだ。

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その気になれば、パリスはきっとヘクトルになれた。
だが彼はパリスにもなれた。
「兄にはあれしかないんだから」と彼はよく笑っていた。その後に、「だから僕があんな生き方をしちゃ、兄はすることがなくなってかわいそうだよ」とか言ったら、私は彼をひっぱたいただろうが、彼はそこまでは言わなかった。
でもきっと心のどこかで彼はそう感じていただろうし、それは多分正しかった。
ヘクトルと同じ生き方をして、兄を敗者にし、二番手にするよりは、その生き方を兄にゆずって、自分はちがう道をパリスは進んだのだ。
彼でなければ、自信をなくし、卑屈になり自堕落になってしまうような、華やかで危険な生き方を。

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ヘクトルのような人は、アキレスやパリスのような人を幸福にするために生きて、存在しているのだ。
そして、アキレスがヘクトルのように生きようと考えるなら、彼がそうやって自分を捧げて愛して守る存在は、アキレス以上の偉大な、神にめぐまれた人間でなければならない。
そんな要求や重圧に、誰が耐えられるというのだろうか。
あの従弟パトロクロスは、どこかアキレスに似た美しい若者だったが、私を見る目には時々狂気のような不安があった。
それは私への嫉妬だったとは思えない。彼の目にたたえられていたのは、そんな濁った光ではなかった。
彼もまた、ヘクトルにもパリスにもなれないでいたのではないか。
パリスほどには自分の力を確信できず、ヘクトルのように自分を捨てる決心はつかず。
支えるにも支えられるにも、捧げるにも捧げられるにも、アキレスという存在は巨大でありすぎた。

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神官や巫女のものうい詠唱が神殿をいっぱいに満たした。周囲の人々とともに私もひざまずき、床に伏して祈りをささげた。香の煙があたりにもうもうとたちこめていた。

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パリスとは何だったのだろう?
彼は今、何を考えているのだろう?
何になろうとしているのか。
それが、まったく読めなかった。
ただ、漠然と感じる思いがあった。
それもまた、気がつけばずっと前から感じていたことだったが。
アキレスよりも、ヘクトルよりも、パリスは敵に回したくない。
心の底から、そう感じる。
ヘクトルがアキレスと誤って殺したパトロクロスのように、アキレスもまた、真の強敵を見誤っていたのではないか。
アキレスにとって、本当に恐ろしい敵とは、最終の最後の敵とは、パリスなのではなかったか。

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私は目を閉じて、葬儀の時のパリスの表情を思い出そうとしてみていた。
けれども、また黒い霧が彼をおおいかくしているように、その顔も姿も浮かんでは来ない。
伯父が火をつける前に優しくいとおしむように、ヘクトルの顔の上にかがみこんでいたのを覚えている。
恨みも憎しみも、悲しみさえもない、したたるような愛情をこめて、伯父は息子を見つめていた。
パリスはひっそりと、そのそばに立っていた。
あの時にふっと感じたことを私は思い出した。
まるで、父親と母親のようだと思ったのだ。伯父とパリスが。
パリスが鎧ではなくて、儀式用の長い衣を着ていたからかもしれないが。

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祈りはもう、終わりかけていた。私は床から立ち上がるのが遅れ、隣の誰かに引き起こされた。悲しみで立てないでいると、きっと思われたのだろう。

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けれど、私のまぶたには、今、ヘクトルとパリスと三人でいたある晴れた日の情景が思い出されていた。
多分、宮殿の一室で、私が王宮に来て間もない頃だったろう。
パリスも多分、王宮に来てそんなに月日はたっていなかった。ということは二人の母である妃が病気で亡くなってから、まだそんなに長くはなかった。それでなのか、大人になってからは想像もつかないほど小柄で手足も細かった少年のヘクトルはいつも少し淋しそうで、私が櫛や飾り帯などといった女の人しか持たないものをうっかりそのへんに投げ出しておくと、母を思い出してしまうのか、いつもちょっとどきっとしたように見つめていた。

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でも、私も父母を疫病で亡くして間がなかったからわかったのだが、死んだ人の顔かたちや思い出が次第に薄れてしまって行く頃でもあって、それもヘクトルが淋しそうにしていた原因かもしれない。
私は従姉妹といっても大勢の王族の中では有力な方ではなく、二人の母の妃ともあまり会ったことはなかった。だから、その日何かの話から、二人の母のことになって「どんな方だったの?」と聞いたのだ。
「んー、僕は全然覚えてないの」パリスはいたってさばさば答えて、三人でその頃毎日やっていた、まり遊びに早く戻りたそうだった。
ヘクトルはそんなパリスにかえって救われたように、笑って弟を見ていたが、ふと何かに気づいたようにパリスを見て、「君にちょっと似てた」と言った。
パリスはきょとんとして「ふーん」と言ったが、よくのみこめてないようだった。
「顔が?」と私が聞くと、ヘクトルはうなずいた。そして、そっと目を弟からそらしてしまった。大切なものが、まぶしいように。

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パリスは無邪気に笑っていた。
彼がそのことを覚えていたかどうかわからない。
ただ、彼がヘクトルを見るまなざしは、仲のよい兄弟すぎて、恋人を見るようだとからかっていた侍女も多かったが、私は時々、何だか母親のようなまなざしだと感じたことがあった。
成長した息子をうっとりと見る母親のようだと。
彼は時々、ヘクトルに後ろから抱きついて、首に手を回し、ほほをすりよせていた。それは甘えているようでもあったが、それよりも自分より大きくなった大切な息子を羽根でおおって守ろうとする母鳥のようにも見えた。

∞∞∞

その時、私はぞっとしながら、あることを思った。
葬儀の席でもその他でも、パリスがしっかり見えないのも無理がない。
あれはパリスではなくて、亡き王妃であるヘクトルの母がそこにいるのではないか。

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愛する息子を殺した者への怒りに身をこがしながら。
落ちつこう、と自分に言い聞かせながら、それでもわずかにパリスの姿が見えた気がした。
彼が今、感じているのは、息子を殺された母親の心境に近いのかもしれない。
だとすれば、それは世界で最も激しい、恐ろしい怒りだ。

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私はぼんやりしたまま、神殿を出たような気がする。その女の顔が間近に迫ってきて、大きく口を開けて私に何かわめいた時、何を言われたのか一瞬わからなかった。
「この裏切り者!」と女は叫んだ。「トロイを裏切って、アキレスと寝た女!」
真っ黒い髪を女はわがねて、大きな髷にして頭に乗せていた。はちきれそうに大きな太った胸と腰を白い衣に包んでいる。ごくごく普通のトロイの市民だ。彼女の後ろに数人の女がいて、女の言葉にうなずきながら、じっと私をにらんでいる。
どの顔にも激しい憎悪があった。あまりにあからさまな、むきだしの憎悪だったから、私は恐怖や怒りの前に、とまどってしまった。なぜ、口をきいたこともない私に、見たこともないことで、これだけ大胆に憎しみを向けられるのだろう。信じられなかった。
私が黙って見返していると、女は勝ちほこったように、背後を見回して声をはり上げて訴えた。
「ヘクトル様を殺したあの怪物と、乳くりあった娘だよ! ぬけぬけと、よくも葬儀に出られたもんだよ!」

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儀式の終わったばかりのことで、あたりは人が入り乱れていた。アンドロマケもリュサンドロスも兵士たちもいなくて、私は市民たちに囲まれていた。
浜辺で、ギリシャの兵士たちにひきずり回された時と同じだった。
「メネラオス様を不意打ちで殺した卑怯者の王子の国の女だぞ!」口々に彼らは叫んだ。「たっぷりとかわいがってやれよ!」
あの時は私は暴れた。山猫のように彼らをひっかき、かみついて、けとばした。けれど今、それをするわけにはいかなかった。彼らはトロイの民だった。私と同じ女だった。

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女は私に近づいて、太い指を私の額につきさすように、つきつけた。
「アキレスと何をしたのさ? 正直にお言いよ!」
「アキレスが私に何をしたのか、と言い直しなさい」私は女を見返して、言い返した。
女は首をふり、みだらな笑いを浮かべた。「そう言いたいのなら」
「彼は私を救ったわ」私は言った。周囲をゆっくり見回して。「私を犯そうとしたギリシャの兵士たちから」
「へえ、それで、あんたをどうしたのさ?」
「その前に、お聞きなさい」私は言った。「ギリシャの兵士は、今のあなた方とそっくりだった。彼らは私をとりまいて、責めた。メネラオスを殺したヘクトルの責任を取れと」
私は彼らを見渡した。
「あなたたちも、ヘクトルを殺したアキレスの責任を、私に取れと言うのですか? 同じトロイの女であるこの私に。それなら私を殺すなり何なりするといい。ギリシャ兵と同じように」
ほんの一瞬のためらいと沈黙をぬって、私は一気に言った。「ヘクトルを殺したことでは、アキレスを決して許せない。でも、私を救ってくれたことでは、彼に感謝しています。あなたがたは、そうではないの? トロイの女を救ったことで彼に感謝はしないのですか?」

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「感謝だと?!」誰かが声をはりあげてあざわらった。「彼はあんたに自分の一物をつっこんで、あんたをひいひい言わせたかっただけだよ!」
「それも、ギリシャ兵が言ったことと同じ」私はそちらをわざと見ないで、冷たい笑いを浮かべて皆を見回した。「どうやらここには、彼らがまぎれこんでいるようね」
笑いと怒りの叫びが起こった。「アキレスを」と女は私につめよった。「あんたは愛しているんだろう?」
「そうだったなら、どうだと言うの?」私は言い返した。「今のあなた方よりは、はるかに彼は立派だわ」
「ヘクトルを殺して、引きずっていった男が?」女は両手を高く空につきあげた。「おお、アポロよ、これがあなたに仕えた巫女の口から出る言葉でしょうか?!」
「ヘクトルはメネラオスを不意打ちで殺し、アキレスの最愛の従弟を殺した」私は大声で言い返した。「だからといってヘクトルにあんなことをしていいわけではないけれど、ギリシャ人とアキレスの気持ちもくみなさい!」
「それでもトロイの人間かい?」
「トロイを誰よりも愛しているからこそ、私は言っているのです!」
私と女は階段の上で、獣のように身体を丸めて、にらみあっていた。

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「もうよせ」澄んだ強い声がして、誰かが階段を下りてきた。
女はたじろいだように身をひいて、一礼した。「パリス様」
「もうよそう」パリスは私の肩に手をかけて、自分の方にひきよせながら言った。「そんなことを言い出せば、この戦いのすべての責任は僕にある。敵国のひとを愛し、この国に連れてきたのだから。ヘクトルが死んだのは、すべて僕のせいだ」
「殺したのはアキレスです!」女はわめいた。
「そうだ。だから僕は彼を殺す」パリスはほほえんだ。「それでいいんだろう? それまで待てなくて、今ここで僕を殺すかい?」
私はふり向き、早口で言った。「パリス、それでは何の解決にもならない」
「黙ってろ」パリスは皆を見てほほえみを浮かべたまま、唇だけで私にささやいた。そして私を抱き寄せた。「従姉妹もそれに心から賛成してくれている」
皆が顔を見合わせていた。「アキレスを殺す?」誰かがつぶやいた。「だが、やつは不死身だぞ」
「彼とて人間」パリスは大らかな自信に満ちた声で言った。「弱点はある。彼を殺せば、ギリシャ軍は帰る。戦争は終わる。わが国の勝利で」

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嘘でしょう?! 私は怒った。その怒りをこめた目でパリスを見たが、彼はそしらぬ顔をしていた。「さあ、従姉妹」と彼はとろけるような優しい笑顔を私に向けて言った。「そろそろ王宮に帰らねば。夜の儀式の準備もあるし」

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ぼんやり間抜けた表情で、ぽかんと見守る人々の中を、パリスはほほえんで会釈しながら私を連れて、その場を去った。だが、角を曲がったとたんに私は彼をふり放した。「どういうつもりよ?!」と声をひそめて私は彼にくってかかった。「あんな口から出まかせの大風呂敷を広げるなんて?!」
「君をあそこから助け出す方法が他にあったんなら教えてほしいよ」パリスはのんきに、おっとり言った。
「アキレスをあなたが殺して、トロイがギリシャに勝つですって?」
「そうなっちゃ君は困るの?」
パリスは頼りなげなくせに、どこか鋭い冷たい目をした。
私は逆襲に出た。「私がいない間にあなたいったい何をしたのよ? 誰に聞いても困った顔をするばかりで何も教えてくれないけれど」
本当だった。リュサンドロスもグラウコスも乳母たちも、ヘクトルがメネラオスを殺したのはパリスがメネラオスに負けたからだというようなことまでは言うのだが、それ以上の細かい話を聞こうとすると、急に用事を思い出したり何か他のことに気をとられたりするのだった。
パリスは悪びれもせず、首をかしげた。「ヘレンとアンドロマケにはもう聞いた?」
「その二人には、まだ」
「じゃ、どっちかに聞けよ。僕が話してもいいけれど、自分に都合よく話してしまうかもしれないから」
そして彼はまた私の腕をとり、「急がないと、本当に儀式に遅れるよ」と言って歩き出した。

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本当に遅れそうだったので、宮殿に帰った時、私たちはどちらからともなく、近道をしようと足をそちらに向けた。それは、宮殿の中にある神官たちのへやの前を横切って行く半分地下の暗い廊下だった。そこで、おびえた叫び声がしたので、私たちは顔を見合わせ足をとめた。
「何かな?」パリスは言って、剣に手をかけながら、声の聞こえたへやの扉に歩みよって、それを一気に開け放した。
狭いへやの中に、儀式のための盛装をした何人かの神官がいた。アルケプトレモスがその中心にいた。彼らは一人の少年をとりまいて、何か問いただしていたようだった。
少年は私たちを見ると、かけていた椅子から飛ぶように立って、こちらにやってきた。その身のこなしや態度から、賤しい者ではないどころか貴族の一人だろうとわかった。暗がりから出てきて私のそばに、救いを求めるように身をよせてきたのを見ると、身分が高いどころではなく、彼は王族の一人である従弟のアイネイアスとわかった。
「アイネイアス」私は彼の腕をとった。「こんなところで何をしているの?」
「彼に何か用があったのか?」パリスは神官たちを見た。「こんなところに連れこむような?」
神官たちはちょっと困惑していたようだ。だがアルケプトレモスだけは落ちついて一礼し、「御意」と言った。「彼は大切なものを見ていたかもしれませんので、そのことを聞きただしておりました」
「いったい何だ?」
アルケプトレモスは衣の襟をつまんで直した。「儀式が始まりそうですので、その後でまたお話します」
「時間をかせぐな」パリスはぴしゃりと言った。「何なのだ?」

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アルケプトレモスは私たちなどバカにしていたから、何も言う気はなかったのだろうが、神官たちの一人がパリスの口調に恐れをなしたか、返事らしきことを口走った。「彼が、見たと言うのです」
「僕はそんなことを言ってない」アイネイアスが言い返した。「誰かが噂を」
「そのもとになるような話をしたのでしょう?」
アイネイアスは年取った父親がいるが、王族と言っても傍系でそれほどの勢力は持たない。神に仕えているくせに現世のことに敏感な神官たちの態度には、そういう彼への見下しが露骨にあったが、慣れているのかアイネイアスは冷静だった。顔立ちは少しパリスに似て甘く優しいが、時々話をする私は彼が年の割には大人びて、しっかりしているのをよく知っていた。
それだけに、彼の目にかすかな動揺があるのが気になった。神官たちに問いただされていただけではなく、彼自身、自分の軽率さを後悔しているようにも見えて、早くここから連れ出さなければ、と私は思った。
「行きましょ、パリス」私は言った。「ほんとに、儀式が始まるわよ」
そう言いながらアイネイアスの腕をとった。「あなたも、早く」

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くやしそうな顔のアルケプトレモスと、ぽかんと見送る神官たちをあとに残して、三人で廊下を急いで歩きながら、早口でパリスが聞いた。「やつらに何を聞かれたんだ?」
アイネイアスはためらった。
「話して」私はうながした。「悪いようにはしないから」
「ヘクトルとアンドロマケが、地下の穀物倉に下りて行くのを見たんです」アイネイアスはしぶしぶ言った。「それがそんなに大事なことだと思わなくて、何人かに話してしまった」
「どこの穀物倉?」
「北の古いやつです」
「あそこはもうずっと前、洪水で麦があらかた台無しになってから、使われてないはずよ。今はがらくた置き場だわ」私は言った。「そんなところに二人は何をしに? それはいつのこと?」
「ヘクトルが亡くなる前の日です」アイネイアスはすぐに答えた。「あの、アキレスの従弟の若者を殺した朝の、その日の午後」

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「何だって神官たちはそんなことを気にするんだ?」パリスは眉をひそめた。「あの二人だって、二人きりになりたいことも、そりゃあるさ」
「アルケプトレモスはヘクトルが、何かをこっそりアンドロマケに話したんじゃないかって思ってるんです」アイネイアスは言った。「秘密の抜け穴とか、隠れ場所とか、財宝の隠し場所とか。トロイの都が落ちた時に、アンドロマケと子どもとが自分たちだけ生きのびられるような、そのための何か手段を」
「兄上はそんな人じゃない」足もゆるめず歩きつづけながら、言下にパリスは言い切った。「義姉上だって」
「あなたほど、お二人とは親しくありませんが」アイネイアスは礼儀正しく言った。「僕もそう思います。でも、アルケプトレモスはそう思っていない。ヘクトルとアンドロマケが、トロイより自分たち夫婦と親子を守ろうとしているって、都の人たちに信じさせたくてしかたがないらしい」

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「バカな」パリスは足をとめた。「ヘクトルはトロイの要だった。今はアンドロマケがそうだ。その二人への、人々の愛と信頼が崩れたら、トロイの都はがたがたになる」
「そんなことは神官長にはきっと、どうでもいいのだわ」私は言った。「自分が要になれないのなら、トロイが滅びてもアポロが辱められても、彼はかまわないのよ。自分以外の誰かが要になると、何とかして、それをひきずり下ろすことしか考えない」
「それ、少しちがうよ、ブリセイス」アイネイアスが反論した。緊張と興奮とから少し顔を赤くして、いつも私と二人だけで話す時の言葉づかいになっていた。「彼は、自分が要にならないとトロイは滅びると思っているんだから。だから、自分以外の誰かで人の上に立つ人を引きずり下ろすのは、トロイのために正しいことと思っているんだ」
「つける薬もない大馬鹿者だわ」私は吐き捨てた。
「そんなわかりきったこと言ってても何にもならない」パリスはあっさり片づけた。「じゃ、彼らは君の証言で、あの夫婦が何かよからぬことをしていたという証拠をつかんで、都の人に広めようとしてるんだな」

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「でもそれも、中途はんぱにバカだわね」私はいらいらした。「そんなことがしたいのだったら、何もあなたを責めなくたって、そういうでっち上げのデマを流せばいいことだのに」
「彼らはもう、それやってるよ。知らないの、ブリセイス?」アイネイアスが目を見張った。「町にはもう、噂が流れているよ。ヘクトルが勇敢に戦ったのは、トロイの民のためじゃなく、王のためでもアポロのためでもなく、ただ妻と子どものためだったって。その二人のためなら、彼はトロイなんか敵に売っただろうって」
「何ですって?」
「だから、アンドロマケだって、トロイが落城する時は敵に交渉して息子と自分だけ助けてもらうか、自分たちだけ財宝を持って逃げ出すかするって。それがヘクトルの望みなんだし、そういうところがまたヘクトルのいいところなんだって、なかばほめ言葉みたいにしながら、噂が徐々に広まってってる」

∞∞∞

私はパリスの顔を見た。凍ったように美しい表情からは何もうかがい知れなかった。
「それはアルケプトレモスが広めてるのか?」彼は静かに念を押した。
「証拠はないけど、可能性は高いよね」アイネイアスは首をすくめた。
はっとして、私は聞いた。「さっき、神殿で、アキレスと寝たろうと激昂して私を襲おうとした女たちがいたわ。そういう噂も流されてるの?」
「わからない」アイネイアスはまっすぐに私を見た。「あなたの場合、アキレスと何があったかという噂は、もともと皆が話したがってる。でも、そんなに怒ってあなたに危害まで加えようとするのは、もしかしたら、意図的に誰かがそういう方向に話を持って行こうとしているのかもしれない」
私はパリスと目を見交わした。
この都はどうなるのだろう? 戦慄しながら私は自分に問うた。

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アルケプトレモスに、トロイへの愛はない。そもそも、自分以外の誰に対する愛もない。自らが頂点に立ち、あがめられる場所、それを求めているだけだ。
トロイが滅びれば、たしかに彼は困る。トロイの人々がいなくなれば、たしかに彼は困る。自分を尊敬し、信頼し、愛してくれる人がいなくなるのは、きっと彼にとって、身を切られるような苦しみだろう。
他国からの使節や商人が訪れて、この国の繁栄をたたえる時、彼の顔は常に誇りと喜びで輝いていた。ヘクトルの武勇やパリスの美貌をそういった来客がたたえる時も。幼い私はしばしばそれを、彼の愛の深さと見まちがえた。
たしかに愛ではあったかもしれない。それが彼の愛であり、それ以外の愛を彼は知らないのだから。

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彼は他人に見せびらかせる、すぐれたものしか愛せない。
彼は自分をあがめてくれる、自分を尊敬し信頼し快くさせてくれるものしか愛せない。
世の中にそれしか愛はないと思っている。
そんな彼だから、自分がトロイを愛していることを少しも疑っていはしない。自分のためになる、快くなるトロイであることを、ひたすらに望むしか、彼はこの国と民に対する愛し方を知らない。

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愛し方だけではない。彼は、それ以外のことを何も知らない。
だから、人々を幸せにするにはどうしたらいいかがわからないし、国を守るためにはどうしたらいいかもわからない。
そもそも、考えるつもりもない。考え方を彼は知らない。
この国にとって、トロイの都にとって、何がいいことか。誰が上に立てばいいか、誰が要になればいいか。
自分が最高のものとして尊敬されない場所は、彼には意味がないのだ。まちがっているとしか思えないのだ。自分の好きなようにできない限り、彼は何ものも愛せない。どのように接していいのかわからない。
わからないから、彼は自分が頂点に立とうとする。立てない限り、頂点に立つ者をどんなことをしてもひきずり落とそうとする。頂点に立つ者の、孤独も苦しみも愛も喜びも知らないままに。その結果起こる混乱も、人々の不幸も彼には関心がない。

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平和な時ならそれでもいいのよ。
激怒しながら私は思った。
宮殿でいくらも見た、吹き出したいような勢力争いや恋愛模様。そんなものの一つとして、彼の権力欲も支配欲も笑ってながめていればいい。
でも、こんな時に、この大切な時に。
こんな卑小で低級な人間の、自分かわいさのためだけに、自分よりまさったもの、気高いもののすべてに唾を吐きかけ、泥の中に引きずりこもうとする、そして最後の最後には彼自身をさえ不幸にする、こんな愚かな暇つぶしを、手をこまねいて見ていることしかできないの?
もう、最悪!

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ヘクトルはいつも、この神官長を嫌っていた。少し度が過ぎると思えるほどに。私やパリスはそのことを不思議がり、時々はからかいもした。あんなに優しく寛大なヘクトルが、この神官長だけは絶対に許さず、仮借ないほどに憎悪しているのが、私にはどうしても理解できなかった。
今、のみこめたような気がする。
ヘクトルには、アルケプトレモスのいじましさと空っぽさとが見えていたのだ。借り物の細かい道具がぎっしり詰まっているだけの、見れば見るほど価値あるものは何もない大広間のような。
パリスには、それはなかった。
彼にはいつも、神々しいほどの大胆さと、高貴なまでの計算のなさがあった。むぞうさに投げ出されたがらくたの、ひとつひとつが息をのむほど貴重品である、どこか異国の市の屋台の店先のように。だからこそ、弟がどんなに甘えても愚かなことをして迷惑をかけても、ヘクトルは笑って許していたのだ。

第八日

昨夜から今日いっぱいかけて、私がいない間に都で何が起こっていたのか(主としてパリス関係)を、いろんな人に聞いて回った。
そして、ぐったり疲れてしまった。
まったくもう、という心境である。

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アポロン神殿が敵に占領され、私がアキレスのテントに連れて行かれたあの日、海岸をギリシャ軍に明け渡したトロイ方では、今後の方針をめぐって深刻な御前会議が行われ、激論となった。
そう言えば、ギリシャ方では総大将アガメムノンが、緒戦の勝利に大喜びして勝ち誇っていた。「誰もいない海岸を占領したって何になる。浜辺の砂なんかにおれは興味はない」とアキレスは苦々しげに吐き捨てていたが。

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御前会議では、一騎打ちで勝敗を決しようとか、いろんな案が出たらしい。「王が私の意見を知りたがったので、戦いには勝てる、と私は申しました。城壁もあるしヘクトル様もおいでだし」とグラウコスは話した。「弓兵隊がありますし。ヘクトル様がいなくなられた今も、私のその確信は変わってはおりませんぞ」
「たしか、神官長がアポロンのお告げについて話したよ」伯父プリアモスは思い出すような目で言った。「農夫が、蛇をつかんで飛ぶ鷲を見たとか何とか言うてな。するとまあ、いつものことだが、ヘクトルがいきなりかみついた。鳥だって?鳥を見て戦をするかどうか決めるのか?とな。わしは一応たしなめておいた。神に仕えているものに無礼があってはならぬとな。すると彼は言い返した。私もトロイにこの身を捧げ、神々はうやまっている。しかし今日アポロン神殿が破壊され、神は侮辱されたのに、アポロンは敵に罰を下さなかった。神々はこの戦いに手を出されるつもりはないのです、とな」
「そのように王子がおっしゃったのを覚えています」アルケプトレモスは、私が伯父のことばをたしかめたのに対し、もったいぶってうなずいた。「彼はあなたが殺されたと思って絶望し、神を恨んでいたのです。それで私にもあたりちらしたのですよ」

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「ともかくそこで、パリスが立った。そして、これは自分とメネラオスが一人の女性をめぐって対立しているだけなのだから、国や国民をまきこみたくないと言った。だから自分が彼と決闘し、勝者がヘレンを得ればよいこと、敗者は死んで焼かれてそれで終わりだと」伯父は話した。「まあそれは、理屈ではある」
「私は聞いてあきれたわ」アンドロマケは首をふった。「パリスがひょっと勝ったとして、千隻の船団を組んで海をはるばる渡ってきた五万のギリシャ兵が、それで納得して帰って行くなんて、とても思えなかった」
「絶望したわ、それを知った時」ヘレンは両手で口を押さえた。「メネラオスは戦いが大好きで、私は毎晩血なまぐさい自慢話を聞かされていた。それが死ぬほどいやだった。パリスにそんなことしてほしくなかった。これまでも、これからも、そんなこと一生できない人、人なんか死ぬまで殺せない人と思ったから、私は彼を愛したのに」

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「だけどパリスにして見れば、そう言うしかなかったと思うよ」アイネイアスは私に言った。「彼は最初から、国をまきこむ気なんてなかった。それだけは、避けようとしてたんだと思う」
「ここに来て間のない、戦いの前のある夜」ヘレンは目を閉じて語った。「私とパリスは露台にいた。涼しい強い風が海から吹いて来て、私はギリシャの軍団が、この風に乗って海を渡ってくるにちがいないと恐れた。スパルタを出る時には、パリスと二人で、どこに逃げてもいい、見つかって殺されても、死んでもいいと思っていた。でも私…こんなに美しい平和な国があると思ってなかったの。しかも城壁に囲まれ、強い軍隊を持った難攻不落の国が」

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「それまでだって、パリスはいろんな危険な恋や冒険をしてたけど」アイネイアスは言った。「愛する相手を手に入れるのに、王子の地位や権力を利用したことなんてなかったろ。そりゃ、彼に惹かれた人たちの中には、彼が王子であることも大きな魅力の一つだったって人もいたのかもしれないけど、でも王子なんかでなくってもきっと彼は皆に愛された。もっと愛されたかもしれないよ。そのことを彼自身どこかでわかっていたと思うよ。彼は自分の楽しみや喜びを追及するのに、国の力なんか借りたことはない。むしろ、彼がいたから、彼を見てられるから、人々はこの国を愛してた。彼は存在そのもので、この国に貢献してたんだ。そのことだって何となく、彼にはわかってたんじゃないかな」
「こんな国があるって知らなかった」ヘレンはくりかえした。「こんな人たちがいるってことも。それまで、人を愛したことがなかったように、国も場所も国民も私は愛したことがなかった。仮にそんな美しい世界があっても、それは弱くてささやかで、つかの間の幻のように消えるものだと思っていた。だから、何となく、はっきりと考えていたわけではないけれど、パリスと逃げて、追われてつかまって殺されても、そのために、たとえば私たちの逃亡に手を貸した人たちにも迷惑がかかって殺されても、かまわないという気持ちだった。そんなこと考える余裕も感じる余裕もなかったの。私が逃げた後、身代わりになってへやにいて、皆をごまかし時間かせぎをしてくれると言った侍女についても、彼女がどれだけ私を愛してくれていたから、そうしてくれたか、その時はほとんど気がつかなかった。あわただしく口づけをして別れただけ。そのことを後でどんなに後悔したかわからない。人を愛して思いやる、そんな思いが生まれるのは、そんな苦しみを知るのは、この都の優しさと温かさの中でなの」

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「トロイ自体が幻で、奇跡かもしれない。時々そう思うことがあったよ。当の王である、この私でさえがな」伯父はほほえんだ。「ここまで、この都が栄えると誰が予想したろう。滅びない前から、この都は伝説となっている」
「こんな世界が現実にある。そして、それは滅びないかもしれない。そう思った時、そう感じられた時、生まれて初めて私は死ぬほど恐くなったの」ヘレンは言った。「滅びないかもしれないと思った時、滅びるかもしれないという恐怖が起こった。絶望は人を勇敢にするけれど、希望は恐怖を連れてくる。パリスとここで永遠に幸福に暮らせる未来が、かすかにかいまみえた時、私はこの都でも、よそでも、そのように平和に幸福に愛し合って暮らしている人たちのささやかな偉大な幸福があるのが、一気にわかった。数知れぬこんな暮らしが、まるで今までは虚空でしかなかった中に浮かび上がるように一気に見えてきた。そして、私たちがここに来たことで、それがおびやかされようとしていることも」

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「幸福の中にいると、人はそれに気づかない」伯父は語った。「だからいいのだ。幸福で満足していることさえも気づかないまま、人は生きて死ぬのが一番よい。支配者も国も自分自身も愛さないですむ状態が、人間は最高なのだ。そんなことをしなくても生きていられるようにするのが、支配者たる者のつとめなのだよ。パリスもヘクトルも、それぞれにそれをよく理解していた。あの二人は自分たちが人々に支持され愛されていることを、たしかめようとはしないし、求めようともしない。自分が相手に何をしてやれるか、相手は自分に何をしてほしいかを、何よりも先に、まず考える」
「パリスはきっと、ヘレンが夫メネラオスといて幸福だったら彼女に手は出さなかったし、そういう関係になった後でも、彼女があの国に残って何とかやっていけそうなら、自分がどんなにつらくても彼女を連れては来なかったよ」アイネイアスはそう言った。
「ヘクトルは彼女を船でスパルタに送り返したがっていた」伯父は言った。「トロイの民を彼は愛していたからな。だが私は反対した。この恋はパリスのこれまでの恋とはちがうと思った。それまでパリスが恋した相手は、それなりに皆、幸福な女たちだった。みちたりた楽しさの中でパリスと愛し合い、喜びを与え合っていた。ヘレンはそうではない。美貌も地位も彼女には何の幸福ももたらしていなかった。愛も生きる喜びも知らないで生きてきた女だった。それをみすみす見殺しにして、生きながら死ぬ、あるいは遠からず死ぬ運命に彼女をゆだねてしまうことは、パリスはもちろん、トロイという都の支配者にとっても決してとるべき行動ではない」

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「たしかに、とても難しい」アイネイアスは考えこんでいた。「僕自身がこの都の支配者で、王であったらどうしたか?それも時々考えた。自分が生まれ育った国、夫や家族を愛せなくて、そこでは生きていけなくて、逃げこんできた人間に戻れと言うのは、死刑の宣告と同じことだ。そのために攻撃されて国を滅ぼしてしまったら、たしかに元も子もないのだけれど…でも、そんな人間を見捨てたということは、それはまたそれで、国を滅ぼすことにもつながる」
「ヘクトルは時々言っていた。まじめな顔の時も笑っていた時もあったけど」アンドロマケはほほえんだ。「パリスはいつも私に、とても難しい大きな課題を与えるんだ、って」
「あの夜、パリスは私に言った。家族を捨てて、国を捨てて、二人でどこかへ逃げようと」ヘレンは言った。「今さら私たちが逃げても、この都にいなくても、夫とその兄は復讐のため、見せしめのために、この都を焼くと言ったら、あの人はどうしていいのかわからなくなった」
「彼は、できるだけの責任を自分でとろうとしたんだ」アイネイアスは言った。

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「そもそも彼に、勝つ見込みなんてあったの?」私は聞いた。
「そんな!ええ、決してまったくないとは言えませんでしたよ」リュサンドロスは力をこめて言った。「たしかに実戦の経験はありませんが、パリス様は弓は百発百中の腕前でいらしたし、訓練の時の試合で剣をとっても、決して弱くはありませんでした」
「彼のようなタイプは実戦に強いのです」グラウコスは説明した。「だから、大いに望みはあると思っていました」
「ヘクトルがどう思っていたのかはわからない」アンドロマケは言った。「ずっと感じていたのだけど、ヘクトルはここぞという大事な時になると、いつも考えるのをやめてしまうことが多かった。育ちがいい執着のなさだと、私の父は言っていた。だから、そこのところはおまえがしっかり、しつこく汚くあがくことを教えてさしあげなければいけないと。でも、そんなこと無理だった。彼がそうやって思考停止してしまうのは、特にパリスに関することの時に多かった。何だかまるで、パリスが何とかしてくれると思ってさえいるように見えることがあった」
「ヘクトルのすることは、すべて予想できる」伯父は言った。「だからこそ信頼できる。だがパリスのすることはわからない。予断も予測も許さない。若い時、私もよくそう言われたものだがね。人の目には魔術を使うように見えるのだろう。パリスにもそれがあった。常識でははかれない。奇跡を起こすのではないかと期待させ、しばしばそれを実現させる」
「負ければ負けたで、この問題にはそれなりのけりがついていたことでしょう」アルケプトレモスは分析した。「パリスは死に、我々はあの女を夫に返す。それで相手が承知しないでトロイを攻めれば、今度こそアポロンが黙っていない。ヘクトルは神々の力を疑いましたが、妻をさらわれた夫が取り戻しに来た戦いなどに、神々はそう大っぴらには手を貸せないのです。パリスもヘレンもいないトロイをギリシャが攻めれば、それこそ権力欲と物欲のための戦いでしかない。人心も神意も我々の味方です」

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要するに、パリスがメネラオスに勝てるかどうかについては、皆がまったくわからなかったのらしい。メネラオスの腕前だって、ほとんど誰も知らなかったのだし。
「あの、最初の海岸での戦いは奇襲だったからね」アイネイアスは言った。「実際には翌日が両者の初めての会談っていう変なことになった。軍隊は城壁の前に整列し、王族は城門の上の露台に並んだ。海の方から見たら、さぞ晴れがましく見えたんだろうな。露台の玉座の中央には王が、左にはアンドロマケが、そして右の席にはヘレンが座っていた」
「わしがそこに座るように言ったのだ」伯父は言った。「あれは何だか居場所がなさそうな、よるべない目をして城壁の上から下をのぞいたりしていたからな。第二王子の妻だとして、わしが認めていることを敵にも味方にも、何よりもあれ自身にしっかり教えておいた方がよいと思うた」
「お父上がそうして下さったのが、私はとてもうれしかったけれど、でも申し訳なくて、それはそれで身のおき場がない気がした」ヘレンはうなだれていた。「おかしいわ。最初にお目にかかった時は、そんなことなどなかったのに。この都になじめばなじむほど、好きになるほど、自分がここにいてはいけないこと、この都に何をしたかを思い知らされてしまう。そのことから逃げ出してはいけないという勇気がわくまではまだ時間が足りなかった」

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「晴れがましい思いでした」リュサンドロスは語った。「この国を守るという思いで城門の前に立っているのは」
「負ける気がしませんでしたな」グラウコスも言った。「前日の敗北は、あれは不意打ちでしたから。兵もそろっていなかった。今日はそうは行かないと我々の誰もが、張り切っていた。昨日、仲間を殺された者は復讐心に燃えていました。何より、パリス様がお一人で戦うと言われているのが、我々を鼓舞しておったのです」
「城門の前に立っていた兵士たちは、視線が低かったから、地平線から現れたギリシャの大軍の、一部しか見えない」アンドロマケは吐息をついた。「なまじ上から見ていたから、地表を埋めつくす恐ろしい大軍が見えた。最前線がこちらの軍の前に対峙しても、地平線からはまだ兵士が現れていたわ」
「何とも大軍にはちがいなかった」伯父は言った。「数だけはの」
「彼を見送るのが、つらかった」ヘレンは言った。「太陽の下、輝く鎧の兵士たちが二つに割れて、その真ん中の道を、ヘクトルとパリスの馬が進んで行ったわ。ギリシャ軍からは、五台の戦車がやってきた。それぞれに御者と武将が乗っていた。お父上に聞かれて私は彼らの名を教えてさしあげた。私の夫メネラオス。その兄で総大将のアガメムノン。相談役で賢人の白髪の老人ネストル。豪勇で知られたサラミス王アイアス。智将で有名なイタカ王オデュセウス。彼らもヘクトルたちも馬や戦車から下りて、双方から歩いて行って、両軍の間の広い空き地で、向かい合って立ったわ」

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