映画「十三人の刺客」感想集映画「十三人の刺客」感想-2

この映画の最大の魅力は俳優を見る楽しさかもしれない。暴君の殿も悪くないのだが、自分は人格立派なのに、仕事だからとその殿を全身全霊で守る家臣鬼頭半兵衛(市村正親)の立場は身につまされるし、登場した瞬間から自然なようでめりはりのある演技とたたずまいが、その悲劇性をいやが上にも高める。殿の迫力に絶対に負けてない存在感だ。

それが今度は普通なら目立ちすぎて、肝心の正義の味方が影が薄くなるのはよくあることだが、刺客のリーダーつまり主人公の島田新左衛門(役所広司)がおだやかで落ち着いて、正義感に突き動かされながら「仕事をきちんとする」ことに徹するひょうひょうと自然な様子なのが、がっちり殿の異常さ、鬼頭の悲劇性を受けとめて、少しも食われてないし負けてない。これはすごいことだ。

他の刺客は人数が多すぎて、誰が誰だか状態だが、その一人松方弘樹が最後のすさまじい乱戦の中でなお、刀をふりまわしているのが絵のように美しかったのには驚嘆した。役所も市村も決して殺陣が下手ではなく、十二分に見せてくれるのだが、それでも集団の接近戦の中での松方の太刀さばきは、時代劇の伝統を身にしみこませた俳優のみごとさを教えてくれた。殺陣という芸術も実感した場面だった。

その他の俳優たちも脇役まで皆いい。セットも演技も映像もすきがない。
ただそれでもなお、私には最初に言ったようなこととも重なる異和感が残り続けた。いらだちと、もどかしさ。一口でいえばそれは「遊ぶな」ということにつきる気がする。それは監督や制作者たちに対してか、登場人物に対してか、よくわからない。

キャラママこと板坂が、このブログで「格差論」をいろいろ書いていて、そのひとつに「仕事だったらしかたがない」というのがある。正義の味方は使命や信念ではなく、「仕事」として悪を滅ぼすという設定が最近は多いという考察だ。
なんでもキャラママは、この対として「生きるためならしかたがない」というのも書く予定だそうで、「仕事」か「生きるためにやむを得ず」かしか、最近では正義が貫けなくなっているということを言いたいらしい。

この映画の島田と鬼頭は、どちらも優れた人物で、ただ暴君の殿を殺すか守るか、与えられた任務のちがいによって真反対のことに努力しなければならないことになっている。
いろいろ単純に考えれば、島田は運がよく鬼頭は運が悪いとか、鬼頭もそういう立場なら、もっと広い視野で動いて仕事をさぼって殿を殺させろとか、人は考えるだろう。実際そういう感想もネットで見た。

だが鬼頭は殿が改心更生するなどという見込みも何もないままに(ほぼ同様の設定で凶暴な王を守り抜こうとする「仮面の男」の忠臣ダルタニャンとは、そこがちがう。ダルタニャンは絶望しかけながらも王を愛し、人間の本質を信じつづけようとしている)、愚直なまでに狂気のように、与えられた仕事に殉ずる。そんな彼を尊重してか、島田たちも私が最初に言ったように鬼頭をまず葬って消去してゆっくり殿を料理しようとは考えない。
こういったことのすべてに、私はいらだつ。「無駄な」と思い、「遊ぶな」と思い、「なにかがどこか決定的にまちがってる」と思い、「つきあってられっか」と思う。

ま、まさか、まだ終わらないってか。つづけます。

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カツジ猫