映画「十三人の刺客」感想集映画「十三人の刺客」感想-3

「仕事だから」と「生きるためには」のどちらが、正義が悪を倒し滅ぼす口実?として役に立つのか許されるのかは、キャラママこと板坂の考察にまかせよう。
この映画について言うなら、「仕事だから」と悪を倒す役所広司の島田新左衛門が私にはちょっとずるく思えた。

彼はのんきに魚釣りなどしてサラリーマンみたいな武士生活を送っている(太平の世だからしかたがない)が、そのことに満足しているわけではない。武士としての死に場所を、そこにいたる生き方を彼はひそかに求めている。
だがそれは平和な時代には許されないことも彼は知っている。対峙したとき、「おとなしくまつりあげられておけばよいものを」と殿に向かって吐き捨てた彼のせりふは、刺激ある激しい日々を求め、そこでこそ発揮できる自分の才能を感じて、無聊と無為にもだえていた殿に対して、的確すぎる批判だが、それは彼もまたひそかに、殿と同じ欲求不満を抱いていたことを示す。武士としての才能(人殺し)にすぐれている者なら、その不満は抱いて当然だが、殿とちがって島田は自分のそんな才能を開花させないままに死んでいくことが、この時代では人間として正しいあり方ということを知っていた。

だからこそ彼は、殿と会っていなくても殿を充分に理解したろうし、彼が無残に傷つけた犠牲者を見たとき、怒りとともに武者震いに震える。自分で武者震いと言っているからまちがいなかろうが、武者震いというからには、それはやる気まんまんなのであり、殺していい悪、戦っていい敵をついに与えられたという、これまでは昼寝しかすることがなかったペットのドーベルマンの血に飢えた喜びである。実際、彼はその点では殿といい勝負である。

でもね、そこがずるいと言えばずるい。運がいいと言えばそれまでだが、彼は仕事にかこつけて自分の趣味を満足させている。なりふりかまわず鬼頭を殺さず、あえてきっちり戦おうとするのも私に言わせれば滑稽だ。こんな非公式もいいとこの、しょせんはテロの戦いに、ルールもマナーもモラルも武士道もあるかい。卑怯なことでも何でもして、さっさと仕事はかたづけんかい。
だが彼はテロではなく戦争ごっこをしたかったのだ。それもとびきり上等の。

そのお相手、好敵手にされた鬼頭も気の毒だが、こっちも似たりよったりで、殿の更生の見込みがないと判断したら、世のため人のために自分が毒でも盛るか、手を抜いて島田に殺させるか、それも早いとこすべきなのだ。
それをしないのは、彼もまた民のためより自分の美しい生き方が大事なのであり、あんなに殿を守り抜くのは、自己憐憫、自己陶酔、自己満足、ではあっても決して自己否定や自己犠牲じゃない。
案外どころか多分彼は、島田の気持ちをよく知っており、彼を失望させまいとして、彼を怒らせまいとして、彼を喜ばせようとして、手抜きをしないで殿を守って、いたずらに死傷者をふやしているのじゃあるまいか。何ちゅうもう、腐女子の喜びそうな関係だよ。

だからもう、君ら遊ぶな。そんなゲームに青春ならぬ中年を燃やすな。つっくづくもう、つきあえん。
男ってなあもう、などと私は言わない。男だって、こんなアホな無駄な生の充実はごめんこうむる、見るのもいや、って人間は、いっぱいいるに決まってらい。

それを彼らが、あからさまに「こんな太平の世は苦労がなくて危険がなくてつまらない。興奮と緊張がほしい」と正直に言えばまだよろしい。殿はまさにそう言ってるし、日々それを実践してもいるわけで、その点じゃ島田も鬼頭も殿も皆、きっとどこかで理解し合って愛し合ってる。
やりきれないのは、許せないのは、島田がそんな自分たちの充実感のために、他人の苦しみを利用し、「正義のための戦い」という旗印に利用することだ。ちゃっかり、と言ってやる。ほんとにもう、許せない。

ひゃー、まさかまさか、まだつづくのかよー。…つづけます。

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カツジ猫