映画「十三人の刺客」感想集映画「十三人の刺客」感想-4
この映画で、百姓一揆を起こした人たちに対する酸鼻をきわめる処遇は、グロと紙一重だが、それでもそこには、他の犠牲になった人たちと同様、ある尊敬と敬意と愛情が感じられたと私は思う。
昔、レイプを描いた映画の被害者が、なんかもうまるで観客に感情移入できないポルノそのもののどころかポルノほどにも魅力的じゃない、ゴミのような描かれ方をしていたのに私はつくづく、うんざりしていた。
あれと似た感じで、いじめやその他の残虐行為の被害者は、見る方が全然ひとごとの、ただイヤーなものにしか見えない、多分描く方が恐がって距離をおいてる(そんなら描くな、腰ぬけが)としか思えない描かれ方は、今でも多い。
この映画では、まあ監督こんなのが好きなんだろうなーという感じはしたが、徹底的な残酷な描写に(よく見るときちんと節度を持った映像で)否応いわせぬパワーがあって、見る方に軽蔑や拒絶をさせなかった。犠牲者たちに妙にあたたかい親しみをこめた反応の感想が多いのは、このことと無関係ではないだろう。
だから、わー、百姓一揆なんてするもんじゃない、死を賭した直訴なんかするもんじゃない、強者や権力者への抵抗なんてするもんじゃない、という恐怖や拒絶はさほど生まれないように思う。そのことは救いだ。彼らの苦しみが島田たちの戦う底力と拠り所になるという点では、彼らの犠牲は報われてもいる。
だが、そこにインチキがあるように思えてならない。
野暮は死ぬほど承知で言うと、百姓一揆をした人や直接訴えに及んだ人や従順に仕えてて虐待された人は、皆他にしようはなく、できることをした結果ああなった。
島田や上司は、そうではない。
そもそも、さまざまな犠牲者が生まれたのは、殿のせいでもあるが、それを放置していた藩のせいである。テロなんぞに走る前にまだいくらでもすることはある。その結果失うものも彼らには、まだいくらでもあるはずだ。
犠牲者の姿にほんとにショックを受けたのなら、島田は上司に上司はさらにその上司に、とどのつまりは公儀にまで、知恵と力をふりしぼって、必死の説得をするべきだ。正々堂々と訴える道が彼らにはまだいくらでも残されている。せめてそのすべてを試してから、それこそ鬼頭半兵衛を抱きこむこともやってみてから、テロなどという弱者だけに許される最後の抵抗手段をとっても遅くなかろう。
百姓一揆の犠牲者の姿を見て、彼らは殿への義憤に燃えているかのようだが、冗談じゃない。あんたらいったい百姓か。武士だろ。一揆の対象にはあんたらも含まれていたはずじゃないのか。殿と自分は他人と思ってるかもしれないが、農民に比べて明らかにあんたたちは、殿をどうにかできる立場にある。なのにそれをしなかった点で、上に立つ者の責任放棄という点じゃ、これはあんたたちが生んだ犠牲者でもある。それを、自分たちも農民の仲間か代表のような顔で、殿に対抗するなよ。卑怯者。
現代でも現実にもこういう発想はある。企業や政府の被害者が訴えて抗議すると、自分も抗議されてる組織の一員であることは忘れたように、自分の責任は感じないで、直接被害を生んだ一部を切り捨てて、被害者にこたえたつもりになっているとか。
少しでも現状を改善する手段があるなら、強い者にしかできないことから、まずはやってみるべきだ。
そして、それがどうしてもすべてだめで、非公式な汚い手段を取らざるをえなくなったら、もうなりふりかまったりカッコつけたりするもんじゃない。鬼頭を殺すことから始めて、自分のすべてが壊れるような、汚いやり方のすべてを決然として実行すべきだ。
この映画の島田たちの行動にむしゃくしゃするのは、その中途半端さだ。テロリストになるのなら「ミュンヘン」のアブナーたちのように自分を汚しつくしても、きれいな死に場所なんか二の次三の次で、目的達成に邁進しろ。それがいやなら、もう少しは強者や支配者に与えられてる力を駆使して正々堂々の努力をバカ正直にやってみろ。
ほんとに甘えている。弱者でもないのに弱者の代弁者気どりで、弱者のするような戦いをして、しかも汚いことや醜いことは願い下げで、自分の夢見ていた冒険をこの機会にやって充実した生を生きようとするなんて、おまえいったい何さまだ。ああ、武士か。
山猿(伊勢谷が演じてた自然児)よ、もうちょっと、そのへんのことも言うてやらんかい。
まあね、こういう考え方もあるんじゃないかと思うわけです。あ、ちょっとオリジナルも見てみたくなってきた(笑)。