映画「グラディエーター」小説編砂嵐

鎖の解ける朝 ー砂嵐ー

ーマキシマスと女戦士ー

砂漠の中のある町に、奇妙な女領主と女戦士がいた。女戦士と戦って倒せば自由にしてやると言われて、ある若い剣闘士が彼女に挑戦するが…

二人の女の関係は?どこか謎めいた、この町の秘密とは?マキシマスにまつわる、これまでの話の中では一番、異色で、番外編としての性格が強いと思います。しかし、どこかでこの話もまた、マキシマスの世界、彼の心の軌跡につながっているのではないかとも、私には思えるのです。とても短い、あっという間に読める話。読む人によって、不思議だったり無気味だったり、悲しかったり恐かったり、腹立たしかったり淋しくなったり、ひょっとしたら力づけられたりするかもしれません。

──1──

過去は語るまい。私がかつて何者であったか、なぜ今のような身分になったかも。これから語るこの物語に、それは必要ないことだから。
時はユリウス暦二二五年から数年後、場所はローマの属領のある町だ。半月前から私たちはその町に滞在していた。私たちは数十人の集団からなる剣闘士奴隷の一団で、私たちの主人は街道が交差する要所にあって栄えていた、砂漠の中のその町で、私たちの技と命を高く売ろうとしていたのだった。

私は当時「イスパニア」と呼ばれていた。私が本名を教えないことへの反感と、私のことばの訛りへの揶揄からの、一種のあだ名だった。競技場や通りで人々は私のことを、その名で呼んで喝采した。
私たちの主人は、かつて自らも剣闘士だったという、白髪の大男だった。赤ら顔で、驚くほど青い目をしていた。彼が私たちを商品としてではあるが、ある程度まで人間らしく扱っていたということは認めねばなるまい。逃亡の恐れのある時以外には、見せしめや楽しみのために鎖をつけることはしなかったし、食べ物や健康状態にもそれなりに気を配っていた。

この、さほど大きくもない町に足を踏み入れたその時から、私はある異様なはなやぎと、こわばりのようなものを感じとった。
町を支配しているのは、ある名門の一族で、中でも若い女領主の一人が大きな勢力を持っていた。町の中心にある競技場では、日々、彼女が主催する大規模な剣闘試合や、公開処刑が行われていて、殺される男女の悲鳴や、それをかき消す群衆のかっさいが私たちの泊まっている建物にまで、よく聞こえてきたものだ。だが、それはどの町でもよくあることで、私の感じた、いわれのない不吉さは、それが原因ではなかった。

──2──

女領主は自分のそばに、いつも大きな猛獣のような女戦士を一人、連れていた。
その女を女領主の愛人という者もいれば、姉妹という者もいたが、たしかなことはわからなかった。
女領主は小柄で青銅色の肌に漆黒の髪と目をして、小さな唇は血のように赤かったが、女戦士は私たちと同じぐらいに大柄で、乳のような白い肌で目は青く、長くうねった金髪が獅子のようにその半身をつつんでいた。やや大きめの唇は淡い桜色で、いつもかすかに開いており、その間からよくそろったまっ白い歯がのぞいていた。胸も尻も女らしく豊かだったが、肩や腕の筋肉は男のように隆々として、足も太くたくましく、それでいて、その全体が何の不自然さもなく、つりあいがとれて美しかった。しばしば女領主は気に入った動物にふれるように、手をのばして、その髪をまさぐり、太い首筋を抱きよせ、すると女戦士もうっとりと首をそらすようにして、女領主に笑いかけるのだった。
彼女が口をきくのを見たことがある者はいなかった。耳が聞こえるのかどうかもわからなかった。黙って、静かな重々しい表情で、女領主のそばによりそい、その足もとに座っていた。

一夜、町の名士たちが集まる宴会の席に、私たちは軽い組み打ちや力技をして見せる座興のために呼ばれた。宴がたけなわをやや過ぎた、けだるい空気の中で女領主は「おまえたち」と、女戦士のたくましい肩に手をかけながら、私たちに呼びかけた。「この者と戦って勝ったら、自由をあげますよ」
仲間たちはざわめき、一人が笑って言った。「自由より、おれはその女がほしい」
再び皆がどよめき、女領主は細い眉を上げて、足もとの女戦士の方に身体をかがめ、言った男を指さして聞いた。
「おまえ、あの人がほしいかえ?」
女戦士は無邪気な目を上げて見返し、それから女領主を見上げて、子どものように首をふった。
「では、誰がいい?」
女戦士はしばらく私たちを見つめていたが、やがて、罪のない笑顔のまま、片手を上げて私を指した。皆が笑い、数人が「やっぱりな」と言った。
私が首をふると、女領主は「あの人は、だめらしいよ」と言いきかせるように言った。「その次に、いい人は?」
女戦士はためらうように見回してから、若い、ガリアから来た背の高い青年を指した。また皆が笑い、「なるほどな」とうなずき合った。
「おれは、自由の方がいい」青年は冗談めかした中にも真剣な口調で言った。「本当に、その女に勝てば、自由にしてくれるのか?」

「約束するよ。おまえの主人に言って、おまえを買い取り、解放してあげよう」女領主はほほえんでいた。「でも、この子に勝てるかしらね?彼女はとても強いのよ。これまで何人ものすぐれた戦士と戦って、一度も負けたことはない」
「この田舎町でだろ?」青年は自信ありげに言い返した。
「あなどってはいけない」女領主は静かに応じた。さしのべたその小さな手に、女戦士は気持ちよさそうに、なかば目を閉じて、ほおをこすりつけていた。「あなどってはいけない」と女領主はくり返した。「ここは隊商の行き交う道の要衝。すぐれた剣闘士は数多く訪れる。この十年間、そのような手だれの戦士と何十人も戦って、この子はいつも勝ってきた。最初の相手をほふったのは、まだお下げ髪の少女のとき」
「おれが最初の相手を殺したのも」青年は言い返した。「まだ、ひげも生えてない子どもの頃だよ」
「それならば」女領主はほほえんで立って、あたりを見回した。「おまえの主人と話をつけて、競技をする日を決めるとしましょう」

──3──

こうして話は決まり、試合の日が定められた。私たちの主人である例の老人は、最初ややしぶったが、女領主に大金を提示されるとあっさり折れた。「これがおまえなら」と彼は奇妙な恩きせがましさを見せて私に言った。「売ったりはしなかったぞ、イスパニア」
彼の私に対する態度には、混乱したところがあり、時には子どもじみた嘲弄で私を困らせることもした。観客が行き来する通路で着替えるよう、ことさらに私に命じて、とまどうのを面白がったのなども、その一つだ。私がそれに慣れて動揺しなくなると、つまらなくなったと見えて彼はその遊びをやめた。
私は特にそんなつもりもないのだが、私の様子のあれこれが、彼をいらだたせ、侮辱していると感じさせるらしかった。「おまえはもっと、いろんなことに関心を持つべきだ、イスパニア」とまじめな顔で言ったこともある。私は黙って彼を見返した。もうこうなって、何の関心を私が何かに持たねばならないのだろうと思いながら。その一方で、昔から私は何かに関心を持ったことなどあったのだろうかという気もしたのだが、もはやそんな以前のことを私は思い出せなかった。「まだ、その若さで」と主人は言った。「悟りくさった顔をしているから老けてみえるが、おまえまだ、三十にもなっとらんのだろう」そう言われてみて気がついたが、自分の年さえはっきりと私は思い出せないのだった。このような境遇になってから、どれだけの日が過ぎたかさえも。

青年が彼女と試合をする前に、他に二人ほど、自由を求めて彼女との戦いを申し出ている剣闘士奴隷がいるということで、私たちは自分の競技の合間に、その試合を見物した。
一人めは、豹のように精悍な身体の黒い肌の女戦士だった。彼女の目は輝き、息は恐怖ではなく自信ではずんでいた。若々しい、恐れを知らぬ勢いで彼女は金髪の女戦士に突進した。
彼女の武器は鋭いとげが一面に植わった長い棍棒で、それを水車のようにふりまわしていた。肌にふれれば肉片がもぎとられただろう。
だが勝負がつくまで長くはかからなかった。金髪の女戦士は身体をかがめて相手の打撃をかわすがいなや、勢いあまってよろめく相手の肩先に容赦なく幅広の剣をたたきつけた。軽く打ち下ろしたように見えてすさまじい破壊力で、血しぶきとともに若い女の片腕はだらりと肩からぶら下がった。倒れた彼女に女はとどめをさそうとせず、鳥のように高い悲しげな声で激しく何かわめきながら、黒い肌の女戦士は闘技場から運び出されて行った。
客席で見守っていた女領主の謎めいて満足げな笑いと、金髪の女戦士の沈んで暗いまなざしが、ともにそれを見送っていた。

更に十日後、次の試合を見た。
荒々しい、巨大な豚のような顔の男で、男が見ても不快なほど好色なまなざしで、女戦士を見つめていた。だが戦い方は、その汚れきった服装や髪と似つかわしくなく、鋭くて巧妙だった。あるいはそんな外見も、ことさら卑しいまなざしも、相手を、特に女の場合は、怒らせ反発させることで混乱を招かせ、そこにつけこむ巧妙な計算であったかもしれない。
女はまるでそれを見抜いていたかのようだった。わざとすきを作って、胸元に男の手をのばさせた。そして、乳房をつかもうとした男の手を瞬時に腕ではさんでねじ折りながら、顔面にこぶしをたたきつけて昏倒させた。終わってみれば彼女の剣の刃は、血に汚れてさえいなかった。

──4──

女の強さは無類だった。町の人々が彼女の勝利を信じ、自由を求めて彼女に挑戦する他国者を哀れみながら楽しんでいるわけもよくわかった。
「おまえ、勝てるか?」と主人が私に聞いた。「あの女に?」
多分、と私は答えた。女にも弱点はあるにちがいなかった。だが、それを見せる前に勝ってしまうのがこの女の何よりの強みだった。長く戦っていれば、その弱点が見えてくるから、そこをつけばよい。
ただし、この女がそこまで戦いを長びかせてくれればの話だ。
「あの青年は勝てるかな?」主人はそれも気にした。「まあ、もう金は払ってもらっておるから、どちらでもかまいはせぬが」
わからない、と私は答えた。主人と同様私にも、それはどうでもいいことだった。ただ私は依然として、この町に入った時から感じている、どこか奇妙な異様さが気にかかっていた。

奴隷になる前も、よくこんな感じを受けることがあった。何かがちぐはぐだ。どこかがかみあっていない。風景を見ても、地図を見ても、人の集まりにも獣の動きにも、そういう不自然さを感じることがあって、結局はそれが危険の予兆であることが少なくなかった。人の上に立つ者が見逃してはならない信号だ。その漠然とした不可解さの中心、微妙な狂いのもとがどこにあるかを、一刻も早く見定めることが、個人の、集団の運命を分けるのだ。
しかし私はもうそんな立場にはいない。奴隷の身分にある者が誰に責任を負うというのか?そう自分に言い聞かせて、その不可解な落ち着きの悪さを無視しようと私はつとめた。それでも次第に、ひとりでに、いっさいの原因は、あの女領主と女戦士のいずれか、あるいは双方にまつわるものであるように感じはじめていた。
小柄な女領主の回りには、その髪や目の色にも似た、黒い雲のようなものがたゆたっているように見えたし、女戦士のどこか呆けたようにさえ見える、まぶしいほどに明るい笑顔もかえって不吉なものに思えた。
屈託なく見えたガリアの青年も、試合の日が迫るにつれ次第に緊張した表情を見せはじめ、日夜、激しい訓練にあけくれていた。

──5──

そんなある夜だ。ベッドのわきで、すすり泣くように低く私を呼ぶ声がして、目がさめた。
どんなに熟睡していても、人が近づけば必ず私は目をさますのだから、これは異常なことであり、そのことにまず動揺した。同じへやには他の剣闘士たちも寝ていて、私のみならず彼らもおめおめ、この声の主を見逃し近づけてしまったこと、今なお皆が眠りこんでいることも不可解だった。実際もしかしたら私たちは薬を盛られていたのかしれない。
お願いです、と声はくり返した。
あの人を殺してはいけません。
あのガリアの若者に、あなたからそう言って下さい。

「あの人を殺させないで下さい。殺さないよう、あの青年に言って下さい」
闇の中の声は低くくぐもっていた。女の声か男の声か、老人か子どもかもわからない奇妙な声だ。舌を切られているのか、口を裂かれているのかもしれないと、とっさに思ったほど、ことばも聞きとりにくかった。
「あの人はもう戦えない。もう勝てはしない。身体も心もぼろぼろだから」
低く、低く、声は告げた。
「戦って、一人倒すたびに、傷ついてきた。時がたっても癒えない傷がずっと積もってきた。あの人の左の目はもうほとんど見えない。右の手の指の二本は、筋が切れていて動かない。足の骨もゆがんでいて、ふみしめることがかなわない。あの人はもう、誰にも勝てない。あの人の力はつきかけている」
苦しげに声は続ける。
「でも、あの人を殺してはいけない。そんなことをしたら、すべてが終わりです。何の希望ももうなくなる。どうか、あの人を生かしておいてほしい。あの若者に、そう言って下さい」
「そんな女がなぜ戦うのだ?」あおむけになったまま、私は口だけを動かして聞いた。「戦わなければならぬのだ?」
「ああ、そのわけは」声は深いため息にとぎれた。「そのわけは言えません」
「あの女領主のせいなのか?あの女が何か弱みを握っているのか?」
声は答えず、いつか気配も消えていて、闇の中に私は残された。

わなかもしれない。
そう思って私はその声のことを、ガリアの青年に告げるのをためらった。
もしもあの女戦士が本当に左目が見えず、右手や足が思うように使えないなら、それを知った方が確実に戦いは有利になる。
だが、見る限りでは彼女にそういう弱点があるようには思えなかった。
あの声の主が、まちがった情報を故意に伝えようとしている可能性もある。
あの闇の中の声の意図が何なのか、何を望んでいるのか、そもそも何者なのかわからないものを、軽率に彼に話すわけにはいかなかった。
そう考えている間にも時は流れて、試合の日は来た。

──6──

大した敵でもない相手を片づけて私が戻ってくると、闘技場の入口にあのガリアの青年がいた。最初彼だとわからなかったほど、蒼白な顔だった。「おれは自由がほしかった」と私を見るなり訴えるように彼は言った。「自由になりたかった。ただそれだけなんだ、イスパニア」
「なれるさ」私は彼の腕をたたいた。「落着け」
「ゆうべ、おれの寝床に蠍が入っていた」青年はささやいた。「これが初めてではないんだ。あの女との対戦が決まってから奇妙なことが次々、起こる。廊下においていた鎧の中に毒蛇がいたこともある。誰かがおれの命をねらってる。絶対に彼女に勝たせまいとしてる」
「なら、なおのこと勝たなければな」私は言った。
「自信がない。イスパニア、おれは負ける。あの女を見ていると、なぜか身体から力が抜けて行くようだ。おれはもうだめだ。とても勝てると思えない」
「ばかな。何を今さら」
「きっと、何か起こる」彼の声はうわずっていた。「おれを彼女に絶対勝たせないような何かが」
「アリーナに出れば、君と彼女だけだ」私は言い聞かせた。「蛇も蠍もいない。誰も手を出せない。安心しろ」
「わかるものか」青年はかちかちと歯を鳴らしていた。「きっと何か起こる。起こるに決まっている。この町は変だ。どこかおかしい。おれたちには予想のつかない何かがきっと起こるんだ」
ラッパが鳴り、人々が催促の足踏みを始めている。倒した相手の血に汚れた腕で私は彼をひきよせた。「よく聞くんだ。いいか」彼の目をのぞきこんで言った。「彼女の左に回りこめ。足を使ってかく乱しろ。右手の武器をたたき落とせ。あの女の左の目は見えない。右手はしっかり握れず、足は思うように動かせない」
聞こえたのかどうか、青年はうつろな目で私を見返し、夢みるような足どりで、アリーナへ歩み出して行った。

彼を見送っていると、通路の奥から、きらびやかな白金の鎧に身をつつんだ女戦士が歩み出てきた。ちらと私に目をくれたが、何も言わずに、アリーナの入口に向かって女戦士はすっくと立った。長い豊かな金髪が肩に背中になだれ落ちている。長い手足、ひきしまった腰、心地よいまでに張り出した胸と尻。よく手入れされた武器のように、その全身は輝いて見え、露ほどの弱点も見出せなかった。
なぜあんなことを青年に教えてしまったか。私は思わず目を閉じた。
嵐のように喝采が高まって、通路に向かって押し寄せてくる。青年の敗北を予感してうちひしがれながら、目を開けて見つめた私の前で、力強く女は足をふみかえた。はがねのようにまっすぐな背がのびて、頭が高く上げられた。今、刻まれたように硬く端正なその横顔は何の表情もうかべておらず、ただ、その唇がわずかに動いて、つぶやくように言うのが、ざわめきをくぐって私の耳に届いた。
「人の愚かさに、私は疲れた」
そして、風を切るように、さっと歩み出して、まぶしい光にみちた闘技場へと大またに彼女は去った。

──7──

私はそのまま番兵たちに許しを得て、客席のはしの通路から仲間とともにその試合を見た。
最初は女戦士が有利に戦いを進めた。しかし、追いつめられた青年は私の忠告を思い出したと見え、すばしこく動きながら左へ左へと回り込んで行った。そして女の動きがかすかに乱れたのを見逃さず、剣をふるって女の右手の剣の刃を強くたたいた。何の変化もないようだったが、女の動きは次第に鈍くなって、とまった。なおも何度か剣での撃ち合いをくり返した後、女は突然、膝を折って大地に倒れた。
喚声の中、女は再び立ち上がった。だがそれは、意識を失った棒立ちに見えた。かすかにほほえんでいたようだった。そして青年の剣は深々と、女の胸に突き刺さった。

無言のままで女戦士は砂の上に、あおむけに倒れた。
金髪が周囲に広がり、ついで血が身体の下から広がって行った。
見ひらかれた目は空を見ていた。何の表情もうかべずに。

青年は自由になった。
花冠をかぶせられ、かっさいの中を人々にかつがれて、運ばれて行った。
それを見送る女領主の目もまた、死んだ女のそれと同じに、何の感情も宿してはいなかった。

──8──

その夜、他の数人の仲間とともに、私は主人に連れられて女領主の館に行った。
奥まった小さいへやで宴がもよおされた。酒がほどよく回った頃、女領主が私たちに、ここはあの女戦士のへやだったのです、と告げた。こういったかたちで彼女を追悼するのもよいかと思いましてね。皆さんをお呼びしたのです。
仲間たちはそう聞いて、杯を手にしたまま、あらためて飾り気のないへやのあちこちを見回していたが、私はこんなのはいい趣味ではないやり方だと思った。それで、皆からはなれて、へやのすみで壁によりかかって立っていると、女領主がやってきて、私と並んで壁にもたれた。
「あの女をおまえと戦わせたかったのだがね」杯をもてあそびながら、彼女はゆっくりそう言った。「残念だった」
私は黙って一礼した。

「あの女は、もともと私の姉でした」女領主は言った。「父の愛した女の娘でした。私の母は、彼女とその母を憎み、父の死後、母親を殺し、娘を奴隷の身分に落としたのです」
私の方を見ないまま、女領主は静かに酒をすすった。
「母が亡くなった時、私は剣闘士になっていたあの女を哀れみ、自由にしてやろうとした。けれど、あの女は断りました。かわりに、愛し合っていた仲間の剣闘士奴隷の男を自由にしてやってくれと、彼女は私に望んだの」
主人と私の仲間たちは上機嫌で杯をかたむけていた。女領主はそれを見ながら語りつづけた。
「そこで私は二人を闘技場で戦わせることにしたのです。私は二人に告げました。勝った方に自由を与えると。そして女にはひそかに告げた。おまえが勝てば、あの男を自由にしてやると」
「それで?」私は女領主を見た。
彼女の赤い唇がほほえんだ。「男は」と彼女は言った。「愛し合っていたはずの彼女を死に物狂いで殺そうとした。おのれが自由を得るために」
息がはずんできたのに気づいて、私は女領主から目をそらした。杯を握りしめて、足をふみかえた。「彼女の方は?」
「見たでしょう?あの女が生きていたのを」女領主は静かに言った。「彼女は戦ったわ。そして勝った。相手を自由にするために。求めたものを与えるために。彼女との約束どおり、私は男に自由を与えた。このことを誰にも告げず、遠くの町で暮らすように命じて」

「それからもずっと…」私は息を吸った。「それからもずっとあなたは、そうしてきたのか」
「ええ」女領主はうなずいた。「あの女と戦って負けた者は、すべて自由になる。この町を去り、二度と戻らず、その秘密を守る限り。私は、彼らに告げた。この秘密があかされたと私が判断した時に、この遊びはおしまいになる。おまえと同じようにして、これからも誰かを自由にしたかったら、沈黙を守るがよいと」
「あの女は」私は聞いた。「二人めからの対戦相手も、愛していたのか、最初の男と同じように?」
「いいや」女領主は答えた。「見も知らぬ者ばかり」
「その者たちを自由にするために、戦いつづけたと?」
「彼女がそれを望んだのだ」女領主は言った。「私が強いたのではない」
私はふり向いた。
女領主は笑っていた。

その時に生まれて初めて、私は女を殺したいと思った。
へやの向うから、主人が私を呼んで、そろそろおいとまするぞ、と言わなかったら本当にそうしていたのかもしれない。

砂嵐が舞っている。
砂漠の向うに。
私たちをのせた荷馬車は、町をはなれて次の町に向かいつつあった。
私は格子に顔をよせて、遠ざかってゆく町の城壁を見ていた。
四角い、茶色の町の姿は次第に砂煙の中にかすんでゆく。
それは、あの女戦士の墓のように見えた。

(鎖の解ける朝 ー砂嵐ー ・・・・・終   2003.11.6.10:22)

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