映画「グラディエーター」小説編アカデミアにて-4

その9 燃やしてしまえ

「図書館の本を焼くんだって?」
聞きまちがいかと思ったマキシマス総長は、思わず大きな声を上げてしまった。
「はっはっは」理事の一人で、もと第一学部長のアガメムノンが、何やら妙に快さそうに笑った。「まあざっと四万巻ほどにもなりますか」
「どうして焼くんだ?」総長はあまりの驚きに、まだ呆然としている。「なぜ焼かなくてはならんのだ?」
「置く場所がないのでして」もう一人の理事で、もと第二学部長のネストルが、重々しいしめやかな声を出した。「地下室から廊下から階段まで、巻物や冊子でいっぱいで、足の踏み場もないのです。その内、床が抜けましょう」
「なぜ建て増さない?」
「予算がないのです」副学長で、もと第三学部長のオデュセウスがため息をついた。「皇帝がアカデミアに与える交付金を削ってしまいまして」
「だからって、本を焼くのか?」
「近隣の属国でも皆そうしている模様です」もう一人の副学長で、もと第四学部長のトリオパスがやや自信なげに口ごもる。「遠い国の何とかいう皇帝は、本を焼くだけでなく学者を生き埋めにしていますそうで」
「いったいぜんたい、いつの話だ」総長はつぶやいた。「とにかく、本は貴重なものだ。ほしいと思っても買えない者はいくらでもいるだろう。焼くぐらいなら、市民や奴隷に配ってやったらどうなんだ?」
「それは規則で禁じられていまして」アガメムノンは得々として説明した。「どの本もアカデミアの財産として、きちんと帳簿に記録されています。みだりに市民に配ったりすることは許されておりません」
「焼くのがよくて?」
「それは、こちらがもう不要と判断したものを処分するのだから、規則には抵触しないわけでして」
総長はアカデミアに来て以来何もこれが初めてではないが、悪夢の中をさまよっているような気がした。怒りと悲しみで口がきけなくなりそうだった。「四万巻の本が役にたたないと、誰がいつ、どうやって判断したのだ?」
「たとえば同じ本が何冊もあったりしてですな」
「いっこうにかまわんではないか。学生が使うにはかえって好都合だろう」
「とにかく、場所がないのです」アガメムノンは言いはった。「もう燃やすしかありません」

総長はむきになりかけて、つい立ったままつかんでいた椅子の背をこわしそうに握りしめていたが、ふと気がつくと浮かれた顔をしているのはアガメムノンだけで、他の三人は何だか微妙に気の乗らない顔つきをしているので、「君たちもそう思うのか?」と聞いてみた。「そもそも、図書館長はそれでいいと言ってるのか?」
言ってすぐ、しまったと思った。図書館長って誰だったろう?アカデミアの一角にある堂々とした古めかしく美しい白亜の建物に何度か行って、本の中でうっとりしていたことはあるが、そこの管理者が誰で、どういう権限があるのか、総長は例によってほとんど気にしてなかったのだった。

アガメムノンが鼻にしわをよせて何か言おうとしたのを、オデュセウスが制した。四人の中では一番若く、さばけた人柄だが、どこか人が悪く、ずっと年かさのアガメムノンを平気で無視することがある。「総長もご存じのように」と彼はいやみとも気遣いとも区別しにくい、すまし顔で言い出した。「あそこの管理は代々世襲制で、大昔から続いた名家が館長をつとめています。現在はプリアモスという老貴族で」
「ふん、昔はラクダに乗って砂漠を走っていたと言うぞ」アガメムノンは毒づいた。「名家だか何だかわかったものではない」
「実務にあたっているのは息子たちで」オデュセウスはかまわず続けた。「ヘクトルとパリスという兄弟です。兄の方は兵役についていて、ここ数年ローマを離れていますが、弟の方はこのアカデミアの助教授をしています」
「パリスってもしやあの…倫理学の?」
「さよう」ネストルがうなずいた。「そのパリスです」
「ふうん」総長は思わず笑いをかみ殺そうと力を入れたため、目を大きく見張った。「そうか、あの…」
気がつくとオデュセウスも妙に楽しそうに目をきらきらさせている。
「そう、あのクジャク坊やだ」アガメムノンが苦々しげに吐き捨てた。「まったくもう、手を焼かせおって」
「しかたがあるまい」トリオパスが言った。「アカデミアの教師とはいえ、服装は自由なのだから」
「それでも場というものがある」アガメムノンは苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。「あの女剣闘士のゾナ理事でさえ、アカデミアの会議の時には、それらしい衣をきちんと着てくるものを」

コモドゥス新皇帝の、元老院へのいやがらせか、誰かの何かへの腹いせか、それとも単なる気まぐれか誰にもわからない大改革で、マキシマスがいやいや総長になっている、ここアカデミアの組織が根本的に大改革されてから、すでにもう一年が過ぎようとしていた。
さまざまな混乱があり、それはまだとても落ち着いたとは言えなかったが、何とかどうにか毎日は過ぎていっていた。コモドゥスはそれでごきげんで、やればできるではないかとか、自分が毎日こんなに苦労しているのだからとか、ことあるたびにマキシマスに愚痴とも自慢ともつかないことを語っては、それとなく、ほめてもらいたそうにした。そのたびにマキシマスははらわたが煮えくりかえる思いがした。この間のアカデミアの混乱の中、夜中まで仕事が続くため、年老いた親の看病ができずに、とうとうアカデミアから去って行った者、好きでたまらない研究をする暇もないままに仕事に疲れて熱病で倒れてそのまま死んだ者などが何人もいる。そのたびに総長はそれをどうすることもできなかった自分の空しさをかみしめた。
コモドゥスはそんな者たちひとり一人の事情や心情を、いったいどれだけ知っているのだろう。自分の責任をどれだけ自覚しているのだろう。戦場と同じく、指揮官や指導者の判断の誤り、手際の悪さ、能力の低さが多数の人間の運命を決定的に左右してしまう恐怖を彼は、いったい感じたことがあるのか。この一年で余も皇帝としてさまざまな失敗をくりかえしながら成長してきたというようなことを、彼が言った時、マキシマスは思わず帝国は陛下が指導者として成長するための職業訓練所ではありませんと言いかけて、あまりの空しさに断念した。
どんなに大混乱が続き、どんなに多数の犠牲者が出ても、アカデミアや帝国が何とかもちこたえさえすれば、それは自分が死に物狂いでがんばったからだと、結局は誰かが言ってくれるだろうとでもコモドゥスは思っているのだろう。誰も言わなかったら、自分で回想記でも書くつもりなのだろう。滅びていった無数の無名の者たちの名前など、どうせ歴史には残らない。結局、すべての偉業は指導的立場にいてバカの限りをしていた人々の功績になるしかないのだ。何だかだと言って、あれだけのことをやってのけたのは、それなりに立派だとでも後世の同じようなバカどもは口をそろえて言うのだろう。それがコモドゥスの期待していることなのだろう。おまえたちはともかく、後世はきっと自分をわかってくれると、時々うっとりした目でわけのわからないことを言っているのは、きっとそういう意味なのだろう。
総長は心の底からうんざりした。
そして、そう思うそばから、そう言っているおまえも結局は彼とどこがちがうのだ、と、ますますがっくりめいりこむのを、どうすることもできなかった。
せめて自分は忘れられたい。自分がここにこうして生きていたことなど、歴史からも人の記憶からもすべて抹殺してほしい。そう思うことがよくあった。死後の世界で、先祖や神々に、コモドゥスと同じ時代に、それも彼のそばに生きていて、何をしていたのかと言われたら恥ずかしくって死ぬしかない。あ、もう死んでるからいいのか。

この間の総長のせめてものひそかな救いは、アカデミアの若い教師たちが、ちっともコモドゥスに負けていないことだった。パリス助教授もそういう若手研究者の一人で、女に見まがうような美しい顔かたちと、男女を問わず人の心をとろかすような甘い笑顔を見せながら、大胆で意表をついた反抗をあれやこれやとくり返していた。
「戦略室などという名前を学内の組織のあちこちに、おつけになっているのは解せません」彼は大学が去年の四月、新しい組織になってスタートする直前のある日、廊下で行き会った総長をひきとめて、若々しい声でそう抗議した。「何で委員会や企画室ではいけないんです?」
「同感だ」総長は言った。「だが皇帝が作ってよこした組織図には、既にそうなっていたのだよ」
「抗議なさらないんですか?」パリスはいちずな清々しい目で、まっすぐに総長を見て聞いた。
うーんと総長はうなった。基本的に彼はこの若者がきらいではなかった。その時はまだ、そんなすごい名家の出だとは知らなかった。そもそも総長はアカデミアの教授たちの誰がどこの出身で、どういう姻戚関係にあるか何度聞いても覚えられなかった。皇帝と皇女の晩餐に招かれた時など、二人が、あの副学長はどこそこの出身で、母親は何やらの家の出で、誰々教授の何番めの弟子で何々教授の教えも受けて、娘はどこの貴族と結婚していて、と、誰かの名前が出るたびに、立て板に水を流すごとくたなごころをさすごとく、何時間でもぺらぺらとしゃべり続けられるのに、ただただ感服し圧倒され、ついでにそんなことどうだっていいのになあと、あくびを必死でかみ殺していた。自分自身も宴会の席で元老院議員や貴族たちから、ご出身は?と聞かれることがよくあって、そういう時に総長はすっかりうれしくなって飛び立つように得々と「スペインの農夫の子で」と答えては、皆があらーとかしらーとかいう顔になって会話がそれっきりになるのを、心の底から喜んでいた。
旧友で近衛隊長のクイントゥスは総長のそういう心情を見抜いているのか、あるいは彼自身が名家の出らしいので、そういうことが気になるのか、「おまえ、そういうことは少し気をつけていた方がいいぞ」と、いつもの妙に深刻なしかつめらしい顔で何度か忠告したが、だからと言ってどうしろということを言わないのもこれまたクイントゥスの昔からの癖だったから、総長もまた、それが習慣で聞き流してまるっきり気にしていなかった。

しかし、そういう総長ですら、パリス助教授を見ていると、きっとものすごく育ちがいいんだろうなあということはわかった。というより、育ちがいいということは、なるほどこういうことなのかと思わされるのだった。
高貴な家柄という点では、それこそ、今の皇帝のコモドゥスや、その姉の皇女ルッシラと、総長は幼い時から遊び相手としてつきあわされているから、名家も名家、皇帝の一族という最高の血筋の人々と朝夕べったりいっしょにいて、そういうものがどういうものかは知り抜いているはずである。
しかし総長は、この姉弟とつきあっていて、そういう高貴さだの血筋のよさだのといったものを、ははあなるほど、こういうことか、と頭が下がるほどしみじみと感じた体験というものが、もののみごとに一度もなかった。皇女は幼い少女の時から、総長が後に飼っていた狼の子より抜け目がなかったし、皇太子すなわち今の皇帝ときたら、これも後に総長に仕えたどんな奴隷や従僕より、はるかにずっと、いじましかったし、いじけていた。人が自分をどう思うか四六時中気にしていたし、愛されたくてたまらない哀れっぽさが全身にいつもうるうるみなぎっていた。
彼らの父親の老皇帝はマキシマスをそんな子どもたちと同じようにか、どうも時にはそれ以上に愛してくれていたようだったが、ときどきおかしそうに目を笑わせてマキシマスをじっと見て、「おまえの方がよほど王者の器だな」とからかうように言って、マキシマスをきょとんとさせた。どういう意味かわからないままにマキシマスは、王者の器というものは、きっとあまりほめことばではないのだろうと感じていた。実際、そうではないかと思われる人の悪さや皮肉っぽさが老皇帝にはどこかにあり、それもまた、育ちのよさというよりは、優しい優雅な外見に似合わない剛毅さや野卑さにさえつながっていた。老皇帝のそういった、内に秘めた荒々しさもまたマキシマスをひきつけ、幼い頃に亡くなってほとんど記憶のない父親の代わりのように、深く彼を愛したのだった。
そして、その人はもうおらず、誰が彼を殺したかを知っていながら何もできないでいる自分をマキシマスは憎みつづけていた。

ところで、パリスという若者には、皇帝一家が皆それなりに持っていた、あの暗さや屈折や複雑さが、なーんにもないとしか見えなかった。何をもってか、神々にも周囲の人間にも愛されるのが当然と無邪気に信じこんでいるのが、どうやって伝わるのかふしぎなほどに、見ている誰にもはっきり伝わる。ギリシャ彫刻のようにほどよく筋肉のついたすらりと美しい手足に、これまたほどよく彫りの深いくっきりとした目鼻立ちで、いつも夏の青空のように一点の雲もなく、さわやかに笑っている。何でそんなに人生安心しきっていられるのかと不可解で、思わずあきれて見ていると、気づいてこちらに顔を向け、これまた何の警戒もなく輝くようなとろけるような甘い明るい暖かい笑いを返してくるので、相手も思わずわけもわからないまま、つられて微笑まずにはいられない。
思えば不思議な生き物である。どこか、人間離れしている。どこか美しい人形のようである。
本人はバカではないし、悪い人間ではないが、人間の規範がいま一つわかっていなくて、次に何をするのか、どういう考え方で動くのか、まるっきり見当がつかない。
と言って、よく考えると、パリス助教授が何か特にそういうことをしたのを総長は見たことがあるわけではなかった。教授会でも言っていることは、むしろきわめて筋が通って普通である。礼儀も折り目もとても正しい。無意識に動いていても、しぐさや物言いはことごとく作法に自然にかなっていて、ひとりでに品のよさがにじみ出る。それでも、この男は何かが変だ、何かが欠けている、と総長はずっと思っていた。

そもそも、それは総長自身がクイントゥスをはじめとした友人知人同僚部下上司から、よく言われてきたことではあった。「おまえは次に何をするのか何を言うのか、いつもまったく予想がつかない」と何度もさじを投げたような顔で言われた。でも総長としては、いつもきわめてまっとうで普通のことしかしても言ってもいないつもりだったから、そう言われることの意味がちっともわからなかった。
パリスを見ていると、そうか、自分を見ていて皆が感じていたのはこういう気持ちか、というのが、おぼろげながら少しわかった。そしてまた、自分がいつもまっとうで普通のことをしているつもりでいたように、パリスもきっと自分が変だとは少しも思っていないのだろうともわかった。
何だかんだで総長は、パリスを見ていると面白かったし、勉強になった。かわいいとか、保護者意識をかきたてられるというのではまったくない。彼を見ていて総長は保護してやらなければならないという不安なんか、まったくかけらも感じなかった。むしろ、感服し、尊敬し、かすかに恐れていたかもしれない。
もしかしたら、と、心の底の奥底の、死ぬほどしょうもない思いに気づいて総長はげんなりする。私は、どちらかというと、コモドゥスのようないじいじ情けないいじけぶりや、へまさ加減に閉口し、いらいらしている方が落ち着くのかもしれない。そういうのに、手を焼きながらどこかでかわいそうに思ってうけいれてしまう情けなさが、性に合っているのかもしれない。パリスのような、この底抜けの明るさは、少しそういう意味ではものたりないというか、淋しいというか、うわーまさか。
などという総長の複雑な心境には、もちろんパリス助教授はまったく気づいているわけがなかった。

ところが次の教授会も、その次の教授会も、さまざまなことでもめまくった。戦略室という名前のことなんかに話が行き着く間もなかった。当のパリス助教授ですら何度も発言したというのに、戦略室のこと以外で文句を言うことが多すぎて、そのことについては何も触れなかった。まあ言いかえればそれほどに、コモドゥス新皇帝がアカデミアに押しつけてきた規則というのは穴だらけ、たたけばほこりだらけ、いちゃもんのつけどころにはことかかない代物だったわけである。
そんなこんなで、何とか使える規則にして新学期がスタートした時、組織の中のいたるところに戦略室という名はしっかり残っていた。女たちの元老院も同時にスタートし、ルッシラ皇女が老巫女のカルパニアと対立してるとかいじめてるとかいう噂も伝わってきたが、総長はもう、そんなことを気にしている余裕がなかった。それまで四つの部にわかれて、それぞれの学部長が司会していた教授会が、部が廃止されたため一つにまとまって、二百名あまりの教師たちが大講堂に一度に会するようになり、その司会は総長になってしまったのである。

総長はもう半分以上、知ったことかと思っていたし、それにもともと変なところで人間好きな性格なので、壇の上から教師たちの顔を見ていると、それなりに楽しかった。皆がわいわい文句を言って議論しているのを聞いているのも、それほどいやではなく、自分は会議になれてきたのかと少し不思議だった。多分、コモドゥスが押しつけてきた規則に、アカデミアの教師たちが全然めげていないので、どこかでほっとしていたのだろう。
それに、どっちみち、総長の両側には二名の理事と二名の副学長がひかえていて、何か質問があったらすらすら答えてくれた。アガメムノンは本人はそのつもりはないのかもしれなかったが、悪役をひきうけて、すぐ強引な採決をしてしまってくれたし、ネストルは重々しい顔でしめっぽく話すので皆もつい納得したし、オデュセウスはコモドゥスにそのタイミングを教えてやってほしいと言いたくなるような絶妙の呼吸で冗談を飛ばしては激昂した議場を笑いのうずに包んで流れを変えてくれたし、トリオパスは誠実そうに長々とややこしい説明をするので、皆退屈して結局は賛成した。
そうやって四月も五月も六月も過ぎ、まあなるようになるもんだなあと総長が何だか投げやりな感心をしていると、ある教授会の後でアガメムノンがげじげじ眉をぴくぴくさせて、いくら何でもあれを放っておくのはまずいのではないかと言い出した。

「あれって?」総長は首をかしげた。
「パリス助教授のあのかっこうですよ」アガメムノンは憤懣やるかたない顔をしていた。「あらたまった会議の時にはトーガを着てくるのが作法というのに、四月からこのかたずっと、彼は鎧姿で出席している」
それには総長も気づいていた。パリス助教授はいつもきれいな藍色や空色のトーガを着ていたのが、このごろは黒っぽい鎧しか着て来ない。むしろ地味になったなあと総長は感じていたが、とんだ考えちがいだったらしい。
だいたい教授会の服装がトーガなのはまあ我慢するとしても、月桂冠を頭にかぶらなくてはならないのは何とかならないのだろうかと総長はいつも思っていた。時々かぶってない教師もいるので、そう言ったら、ネストルが重々しく「あれは第一部の連中でして」と、それがすべての説明になるかのように一言言った。パリス助教授をはじめとして、旧第一部には自由奔放勝手気まま慣習無視の傾向があると思われているらしいことに総長は何となくもう気づいていた。総長自身はそうは思えなかった。むしろパリス助教授をはじめとして旧第一部の教師たちは、理屈と筋にやたらこだわるが、理屈と筋さえ通っていて、手続きさえきちんと公明正大なら、反対していたことでも決まったらまじめに守る点ではアカデミア一だった。オデュセウスが学部長をしていた旧第三部など、規則?何それとにこにこしているような教師が多くて、それはそれでまた手ごわいのだった。
もちろん、第一部でも第三部でも例外はある。アガメムノンなど元第一部学部長だが、誰よりも立派で大きな月桂冠を複雑に編みこみをした髪の上にいつも得意そうにのせている。まあ壇上にいるのだからしかたがないか、とあきらめて総長はいやいや月桂冠をかぶっていた。そんな風だから、パリス助教授の服装がそんなに問題だとは全然気づいていなかった。
「別にいいんじゃないのか。似合っているし」
「そういう問題ではありません」ネストル理事が恐い目をした。「あのような服装は学問の府にはまことにふさわしくないし、心ある者は皆、苦々しく思っています」

オデュセウス副学長が首をすくめた。「皆が苦々しく思っているのは、注意したくても誰も注意できないからだろう。彼が言い返すのはわかっているからな。僕は戦略室という名前のある職場にふさわしい服装をしてきてるだけですが、何か?と」
ああ、そういうことだったのか、と総長はようやく腑に落ち、ついでまた妙に笑いたくなって困った。「子どものような反抗だな」と彼は丸めた書類で手のひらをたたいてごまかしながらつぶやいた。
「まったく、子どもじみておるよ」トリオパス副学長がうなずいた。「第一、たしか彼はまだ、戦場に出たことも人をあやめたこともなかったのではないか。それでああいう格好をして歩き回るということ自体、戦う兵士に対して非常に失礼というものだ」
「そう誰かに言われるのも、彼はきっと待ってるさ」オデュセウスが天井を見上げた。「それだったら戦略室という名前をつけることは失礼にはあたらないのですかと聞き返してくるつもりでいるのが、みえみえだ」
「皆、甘い。やつは、あの格好が自分に似合うからやっているのだ」アガメムノンは断じた。「あの太腿の美しさを見せびらかせるのを喜んでおる。戦略室という名前などどうでもいいのだ」
「そうですかな?」ネストルが異を唱える。「トーガも似合っておりましたぞ」
「あのくらい美しいと何を着ても似合う」トリオパスがあきらめたように言った。
「何も着ないのが一番似合うだろうが」オデュセウスがつけ加える。
「やつが戦略室のことを考えてないとは言わんが」アガメムノンはやっきになった。「少なくとも絶対に一石二鳥と思っている。あの足と腕を皆に見せて回れるのは、あいつにとって快感でないはずはない」

そこで話は、長い長い回り道から、ようやっと最初の場面に戻る。読者はもう忘れてしまったかもしれないが、図書館の本を焼くと聞いてショックを受けている総長は、アガメムノンたちと向かいあって、説明を聞いているところだった。図書館を管理している館長は名門の老貴族のプリアモスで、その息子の一人がパリス助教授だと聞かされたのをきっかけに、彼の服装の話になったわけである。
「今回のこの件を、彼は知っているのか?」と総長は聞いた。
「知っているも何も」ネストルが吐息をついた。「だいたい、今回のことの原因を作ったのは彼ですよ。図書館増築のための予算は一応計上してあったのです。ところが彼がその金で何とかいう貴重な書籍を買ってしまったので、改築のための費用がなくなってしまったわけでして」
「まったくあの一家ときたら、金銭感覚がなっとらん」アガメムノンが心地よげに嘆じた。
「改革にともなって皇帝が押しつけてきた、最新式の会計システムってやつのせいだよ」オデュセウスが言った。「便利だというふれこみだったが、使ってみると複雑すぎて何が何だか誰にもわからん。それに、パリスに本を売りつけたのは、あんたの弟だって聞いてるぞ。メネラオス商会という古本屋のおやじだそうだな」
「盗んだも同然に安く買いたたいて行ったんだ」アガメムノンはわめいた。「弟がそう言っていた」
「それでも予算がなくなったのか?いったい、どういう本なんだ」総長はあきれた。「ともかくだ。本を焼くことについて、図書館長のプリアモスは了承しているのか?」
「するわけがないですよ」オデュセウスが言下に言った。「本を溺愛している老人です。本を焼くなら私もいっしょに焼け、と言ってるそうで」
「焼けばいいんだ」アガメムノンが言い返した。
ネストルが考えぶかげにつぶやいた。「兄のヘクトルが戻ってきてくれるといいのですがな。あの一家でまともな神経を持っているのは、あの男だけです」
「そうだな」オデュセウスもあいづちを打った。「常識と良識が服を着て歩いているような男だから」
「皇帝にたのんで、戦線から呼び戻してもらおう」総長は言った。「それまでこの件はしばらく私に預からせてくれ」

その10 いろいろな対決

総長は子トラを連れて、アカデミア近くの大通りを歩いていた。
この一年で子トラもずいぶん成長して、今では大きめの犬ぐらいになっていた。金と黒の毛皮が輝くように美しく、腹のあたりの白い毛は雪のようにまっ白である。輿の中にひそんでいて総長を驚かせることはなくなったかわり、後ろをのそのそついてくる。のそのそと歩いているようで、実はものすごく速いので、全速力で走る輿にも絶対遅れないのである。
最初は驚いたり恐がったりした市民たちもこのごろでは慣れて、「大きくなりましたね」「何を食べるんですか」「名前は何というんですか」などと聞いてくるようになった。
「名前はない」総長はいつもそう答えていた。「ただのトラです」
えさについても「まあ、いろいろですね」とかごまかしていた。奴隷のティブルティヌスがかわいがって、宴会の残り物の肉とか山海の珍味を与えているようだったから腹を減らすことはないはずなのだが、ときどきへやの中に、宮殿の池で飼っている白鳥やクジャクのものとしか思えない美しい羽が散らかっていることもあって、総長は心臓が飛び上がる思いがした。深夜、こっそりモザイクの床の上にはいつくばって羽を拾ってまわりながら、ふと見上げると寝台の上で子トラは太い前足をぺろぺろ赤い舌でなめていて、その動きをちょっととめて、何をしてるんだと言いたげに総長を見下ろすのだった。
「皇帝に知られて、殺されてじゅうたんになりたいのか」と聞いてやると、つまらなさそうに前足を出して、総長の頭をはたこうとする。どちらかというと、のほほんとおとなしいトラに見えるのだが、そういうわけで、かげでは何をしているかわかったものではない。
第一、総長を何より深く悩ませているのが、このトラの大きさだった。たしかに前よりずっと大きくなっているのだが、時々平気で狭いすきまにもぐりこんだり、通れるわけもない所をすっと通ってきたりする。もしかしたら、都合のいい時に大きくなったり小さくなったり勝手に大きさを変えているのではないかとさえ思うのだが、さすがにまあ、それはないだろう。

さしあたり、トラのことなんかより総長がゆううつなのは図書館の本のことで、それより更にもっとゆううつなのは、自分でもよくその原因がわからない、何かもやもやした理由だった。
総長はこれまであまり、いやほとんど、嫉妬という感情にかられたことがない。人間関係でも地位でも物でも、手に入らないものは基本的にはすぐあきらめるし、むしろ与えられてすでに手にしている仕事や愛情、期待や信頼に、きちんとこたえて、うけとめつづけるのがせいいっぱいで忙しくて、身に余るものばかりもらってへとへとだという感覚がずっとつきまとっていた。
旧友のクイントゥスがよく、おまえはわがままだ、と言い、それと同じくらい、おまえは怠け者だ、と言った。さすがに長いつきあいで、よく私のことがわかっていると総長は感心していた。たしかに自分が、何かをほしいとか、手に入らなくて残念とかあまり思わないのは、要するに面倒くさがりなのだろう。ぼうっと空を見ていたり畑仕事をしていたりするのが、一番楽しかった。

そういう人間は得てして、強引な人間から好きなように支配されたり利用されたりしてしまいがちなものだが、総長はほしいものには執着しない一方で、ほしくないものを拒絶することにかけては頑固で、まめで、気難しかった。好きでもない女や、つきあいたくない友人や、したくない仕事は徹底的に避けて逃げて、絶対に近づけなかった。そこがきっと、わがままとクイントゥスに言われるゆえんなのだろう。
「おまえはな」とクイントゥスは言った。「そうやって自分を売り惜しみするから、おのずと値がつりあがって高級品になってしまうんだ」
たしかに、ルッシラやコモドゥスが自分にあくまで関わろうとし、ふりはらってもふりはらっても、あの手この手でしつこく迫り、決して望みを捨てないのも、手に入らないものほど手に入れたくなる人の習性というものなのかもしれなかった。

だから総長は、他人を特にうらやましいと思ったことなどないし、あえて言うなら、それほど強い関心を他人に抱いたことがなかった。
それだけに、このところずっと感じつづけ、次第に大きくなりつづけている気持ちをもてあましているのだった。
図書館長の息子のヘクトルのことだ。彼を前線から呼び戻す手続きをする中で、あまりに誰も彼もが彼のことをほめちぎるのを聞かされるものだから、総長はいくら何でもそれって少しおかしくないか?と、どこかうさんくさい印象さえ、彼に対して抱きはじめていた。
それともこれは、嫉妬だろうか?
そこのところが、これまであまりにもそういった感情とは無縁だった総長としては、よくわからないのだった。

「彼はまことに高潔な、曇りない性格の男です」元老院議員のグラックスは、いつもの気難しさに似合わず、そう言明した。
「背が高くて、憂いを帯びた黒い目がきれいで、それはもう素敵な若者よ」皇女は、老巫女のカルパニアが男の裸を見たがるとふだん悪口を言っているくせに、あんたはいったいどうなんだと総長が言いたくなったぐらい、小娘のようなうっとりした目をした。「筋肉のつき方もまたみごとだわ。乙女の優雅さと猛獣の凶暴さをそなえていると言ってもいいわね」
「あのバカな父と弟に苦労させられておって気の毒だよ」とアガメムノン理事が言ったのも、彼としてはほめことばだろう。
他にも誰も彼もが彼のことをほめそやし、そのくらいではまだ総長もそんなに驚かなかったのだが、皇帝のコモドゥスまでが、総長のさしだした書類にサインしながら、「おお、彼が帰ってくるのか」と心からうれしそうに、清々しくさえ見える表情になって声を上げたのには驚いた。「おまえは彼を知っていたっけ?」
「いえ」総長は返してもらった書類をていねいに巻いてひもで結びながら答えた。「まだ会ったことはありません」
「実に清らかな心の持ち主でな」皇帝は、いつものいやな笑みを浮かべず、本当になつかしげな目をしていた。「いっしょにいると、こちらも心が洗われる思いがしてくる」
あの時一番、嫉妬に近い気持ちを味わったのかもしれない。総長は、自分がそばにいるとコモドゥスがどうしてかどんどん邪悪になるような気がしていた。それが、名前を聞いただけで、こんなに明るく落ち着いたまじめな目に皇帝がなってしまうヘクトルとは、いったいどういう男なのだろう?

「おまえと同い年か、少し下かな、彼は」皇帝は続けた。「ほれぼれするようなたくましい身体をしていて、剣の腕もすぐれている。一度、おまえと手合わせさせたいな。いや、それよりも、ああいう男がコロセウムでライオンと戦ったら、面白かろうなあ」
そろそろ普通に戻ってきたなと総長は思った。
「結婚しているのですか」
「ああ。貞淑な妻と、かわいい男の子がいる。帰ってきた時、子どもを抱いて、三人で散歩しているのを見たことがある。絵に描いたように幸せそうな家族だ…うーん」皇帝の目がきらきら輝き出した。「ああいう一家が突然、不幸のどん底に落ちこんだら、見ていてぞくぞくするだろうなあ」
ああ、やっとまともになったと総長は安心した。さっきのあまりに皇帝らしからぬ清々しいまなざしは、何だか気持ちが悪かった。
「ところで、おまえの家族は?」皇帝はいきなり聞いた。「どうしている?まだローマには呼ばんのか?」
「いろいろとあちらが片づかないようで」総長はどきどきしながらごまかした。「このごろは私も忙しいので、なかなか手紙も書けません」
「早く呼び寄せてやれよ」皇帝は親切そうに笑った。
「そういたします」総長は一礼して、さっさとひきあげた。
そうか…総長はため息をついた。妻と、幼い息子にヘクトルは会えるのだ。しばらくいっしょに暮らせるのだ。
それが一番自分はうらやましかったのかもしれない。

思いにふけって歩いていた総長は、はっと足をとめた。
トラの姿がない。
そして通りの向こうから、何か無気味なうなり声が聞こえてくる。人々がそっちに走って行く。
総長も走り出した。まさか人を襲っているのではあるまいな。何だかだ言ったって、トラにはちがいないのだし。
ひもや鎖をつけていたって、ひきとめられるものではないからと、何もつけずに歩かせていた自分の無責任さを激しく後悔しながら総長が走って行くと、人だかりの向こうに金色の毛皮がちらりと見え、大地をゆらがすような太い物騒なうなり声がからみあって聞こえてきた。
え?もしや、他のトラとけんかしているのか?まさか…
大喜びで口々に何か叫んだり笑ったりしてひしめいている人々の垣根を夢中でおしわけて前に出たとき、総長の目にとびこんできたのは、まったくもう信じられない、とんでもない風景だった。
陽射しのあふれる大通り、どよめいて押し合いへし合いする人たちのまん中で、二頭のけものがにらみあっている。身体を斜めにし、頭を低くして、相手のすきをうかがいながら、じりじりと近づきつつあり、ひっきりなしにのどもとから、無気味なうなり声を高く低くもらしている。一頭はむろん総長のトラで、もう一頭は長い金色のたてがみをなびかせた、若い大きなライオンだった。

あまりのことに総長は数秒間、ただ呆然と立ちすくんだ。真っ昼間のローマの市街にトラがいるのだってすでに充分に異様だが、その上ライオンとは何だ、ライオンとは?これもまた、コロセウムから逃げ出してきたのか?
総長のトラも、まだ半分子どものような若さだから、そんなに大きくはない。それと比べて最初巨大に見えたライオンも、よく見るとライオンとしてはそんなにものすごく大きい方ではない。
だが、ひきしまった身体つき、つややかな毛皮、ライオンにしては信じられないほど青みがかって輝いている目、すべてがそれはもう非常に美しいライオンである。これはコロセウムから逃げ出して来たりしたんじゃないな、と総長はすぐわかった。誰かに飼われて、それも充分に手入れをされているにちがいない。よく見ると、金色のふさふさしたたてがみは、よくすいてあるだけでなく、耳のあたりでひと房だけ、きれいな色のひもで編んであるし、長いしっぽの途中には、貝殻模様のしゅすのリボンが蝶々結びでくっついている。そのしっぽをこれみよがしに、ぴしっぴしっと振りながら、ライオンはゆっくりと円を描くようにして総長のトラにせまって行っている。

おまえにも、しっぽにリボンぐらい結んでおいてやればよかったかなあと、総長が見当ちがいの後悔をちらとしながらトラを見ると、これがまた、なかなか負けてはいない。リボンなどなくても少しもひけめを感じている様子はなく、肩をいからし、緑がかった金色の目をぎらぎらと光らせて、不敵にライオンをにらみながら、太い前足をふみしめて、じりじりと前進し、相手のすきをうかがっている。
「やれ!やれ!ライオン!」
「そら、かかれ、トラ!」
見物人たちが興奮して口々に叫んでいる。さてこれを、どうおさめたらいいものか。総長は考えこんだ。下手して間にわって入ったりしていたら、両方のつめでずたずたに引き裂かれてしまいそうだ。
どうしようかと総長が思っていると、いきなり、白い衣の人影が、さっと二頭の間に飛びこんできた。危ない、と見物人の女の何人かが悲鳴を上げたが、人影は動じた様子もなく、恐ろしいことに、ライオンの前に立って、その鼻にしわをよせてうなっている顔に、思いっきり平手打ちをくわせた。
「おまえはっ!もう、あれほど言ってるのに!」女にしてはやや低めの、快いひびきの、若い女の声だった。「すぐそうやって、けんかばっかりしたがって!もうたくさんよ、おまえには実際、殺すしか能がないの!?」

うわあ、と見物人は皆、息をのんだ。総長ももちろんそうだった。誰もが娘はライオンの太い前足でひとなぐりに倒されて、頭からばりばり食べられるだろうと覚悟し、予測し、ちょっとぐらいは期待もした。
ライオンは不機嫌そうな上目づかいで娘を見上げた。
「何、その目は!?」娘は腰に手をあて、前かがみになってライオンに怒った。「何か文句があるって言うのっ!?言いたいことがあるんだったら、とっとと、はっきり、言いなさいよっ!」
それは無理だろう、と総長がライオンに同情していると、ライオンはついと娘から目をそらして、そっぽを向いた。うるさいなあもう、これだからなあ、とため息をついている若い男のようだった。
「おいでっ!」娘はライオンのたてがみを、適当にひとにぎりひっつかむと、ひっぱってぐいと向きを変えさせた。ライオンはうっとうしそうに、のろのろと、されるまま向きを変えた。
トラは拍子抜けしたように、ぽかんとそれを見つめている。来い、と総長が目で合図すると、とことこかけよって来て、総長の脇腹に頭をすりつけた。
歩き出そうとしていた娘が、こちらを見た。「そのトラ、あなたの?とんだ失礼を…あら」娘の黒い大きな目が驚いたように見開かれた。「あなたでしたの?マキシマス総長」
それでようやく総長も、娘が誰だか気がついた。ウェスタの巫女の老女カルパニアにつきそって、よくアカデミアに出入りしている、若い巫女のブリセイスである。

たしか、カルパニアが体調が悪いとかで、役員会を休んだとき、ブリセイスが代理で出席したことがある。その時、若手の教師の一人、パトロクロス講師が、「おかしいでしょ!?」と教授会でかみついたのを総長は覚えている。「役員会に、何でそんな人が出席するんです!?あれって、アテショクじゃないはずですよ!」
アテショクって何?と総長が目をぱちくりさせていると、いつものようにオデュセウスが、「つまり、あの学外理事はカルパニアさん個人が選ばれたのであって、ウェスタ神殿の代表として選ばれたのではないということなら」と、ものすごく親切な枕詞つきの答弁を、多分主として総長のために、してくれた。そうか、じゃ「あて職」なんだ、で、「あて」は「宛」かな「当」かな、と総長が考えていると、オデュセウスは続けて、「たしかに、あなたの指摘は正しいよ」と言った。「しかし、そのことはどこかで確認されていたのかな?」
「確認も何も、そういうのは常識でしょう!?」パトロクロス講師は憤然とした。「だったら、あれですか、もう一人の学外理事のゾナさんはコロセウム代表なんですか。あの方がご都合が悪ければ、コロセウムのトラが代わりに役員会に出て来るんですか?」
「君の言うのはいつも極論だから」かたわらにいた、同じ若手でも、いつも落着いていてひかえめな、へファイスティオン助教授が、おっとりたしなめた。そう言いながら、彼は総長を見て目で笑い、他の何人かもおかしそうな顔をしたのは、明らかに皆、総長がこそこそ総長室に出入りさせている子トラのことを思い出したのにちがいなくて、総長は妙に身のおきどころのない思いをした。

その時の結論がどうなったのだったか、総長は覚えていない。パトロクロス講師はぷんぷん怒っていたが、結局、そのことはうやむやになってしまったのだったような気がする。
総長は一礼し、「立派なライオンですね」と言った。
「これ?」ブリセイスは困ったように笑って、ライオンのたてがみを軽くひっぱった。「ちっともいうことを聞かないから困ってしまうの。それは、あなたのトラなんですか?」
「はあ、ええ、まあ」総長はトラを見下ろした。
「しましまが、何てきれいなんでしょう」ブリセイスはうっとり見とれた。「名前は何というんですか?」
「まだつけていません」総長は、しましまが何ぼのもんじゃいという顔で空をながめているライオンを見た。「そちらは、名前はあるんでしょうね」
「ええ」ブリセイスはちょっともじもじした。
「何ですか?」何だかギリシャ語の読本で会話の勉強でもしてるみたいだ、と思いながら総長はたずねた。
「アキレス」ブリセイスは恥ずかしそうな小声で教えた。ライオンがぴくぴく耳を動かしてふり向いたのを、照れ隠しのようにブリセイスは手をのばしてその金色の頭を荒っぽくなでた。
「ギリシャ神話の英雄の名だ」総長はほほえんだ。
「何となく、似ているような気がしたんです」ブリセイスもつられるように笑った。「気まぐれなところとか」
二人はトラとライオンを両側に従えて、アカデミアの方に歩いて行った。人々は興味しんしんの様子で見守りながらも、二匹の猛獣に用心して、左右に道をあけた。ライオンは、ふんと言いたげに堂々と歩いている。それに比べるとずっと小さいトラまでが、いっぱしに肩をいからせて、負けずにいばって歩いているのがおかしかった。

「アキレスが好きですの」陽射しに照らされた緑が美しい、アカデミアの敷地に入って行きながら、ブリセイスは楽しそうに話した。
「このライオン?」総長は聞いた。
「これもだけど」ブリセイスは、かたわらを歩くライオンの大きな金色の頭を、いとおしそうに軽くたたいた。「本当の、神話の、アキレス。あの図書館長のプリアモスの家も代々、トロイ王家の血を引くというのが自慢で…」いたずらっぽいまなざしで、ブリセイスは総長を見上げた。「本当とお思いになって?…それで息子たちには皆、トロイの英雄の名をつけるのよ」
老皇帝が少年の自分にかつて教えてくれた、ギリシャ神話の話のあれこれをなつかしく思い出しながら、総長はこみあげてくる悲しみを押し隠してほほえんだ。「はあ。そうなんですね」
「もう、有名な話なのよ。ご存じない?」ブリセイスは笑った。「巫女として生きることを選んだ人生に悔いなんかないけど、でも、もし自分に息子がいたら、アキレスって名をつけるのになあって、それだけは残念でならなかったわ。それでせめて、このライオンに」
女の人は皆なぜかアキレスという英雄が好きだなあ、と総長はぼんやり思った。そして、そう言えば自分もときどき、クイントゥスや前線基地の近くの売春宿の女たちに、アキレスみたいだと言われたことがあったっけと思い出した。クイントゥスはともかく、好きだった売春婦にそう言われた時はちょっとうれしかったのだが、彼らはすぐ、「わがままなところが」だの「気に入らないことがあると、すぐぐれてひきこもる」だの「自分を奪うことで相手を最大に罰する」だの、あ、この最後のは皇女だったか、そういう風なことを言っては総長の夢を砕き、そしてちょっぴり反省もさせた。そんなところが自分にあるなら、改めなければいけないと。
だが、と総長は今、気がついた。そういう時にも、自分の心のどこかには、それが何で悪いんだろ、という思いがあって、そして更に今気づけば、そもそも自分がそういうことをよくしたというのも、老皇帝がかつて話してくれた、あの神話のアキレス…軍の指揮官から正統なとり扱いを受けなかったのに怒って、戦線から離脱し、味方が苦戦することで自分の価値を見せつけた、あのギリシャの英雄のことが、ずっと頭にあったからだった。
自分は正しい。アキレスだってやったことなんだから。
そんな思いが確実に、どこかにあった。

ブリセイスは楽しそうに、噴水がきれいねとか何とかかたわらのライオンに話しかけながら歩いている。それで思い出したが、いつか宮殿の中庭で会った不思議な男…マティウスとかジェミナスとか言ったっけ、きれいなトカゲに似た男と、あれから何度か総長は夜明けや深夜の庭で会って、よく噴水や貯水池や給水塔や、要するにローマの水道に関する話を聞かされていた。どんな時間にどこで会ってもマティウスは全然違和感がないらしく、さっき別れたばかりのように熱心に、総長に水道の水圧や浄化装置のことを細かに話して聞かせる。彼の言っていることは半分ぐらいしかわからなかったのだが、それでも今では何となく総長にも、噴水は勝手に気軽に上がっているのではなくて、大変複雑でこみいった水路の設計で保障されているのがわかっていた。そのことをブリセイスに話してやろうかどうしようかと総長は少し迷っていた。
マティウスは動物や植物にも詳しかった。何でも水道を荒らす鳥や獣の撃退法や防御法を考えていると、おのずから彼らの習性にも詳しくなるのだそうで、一度、総長の後ろについてのこのこ現れたトラをじっと見て、「もしやこいつは、夢虎じゃないか?」と聞いた。「この尾の太さといい、爪のとがり具合といい」
「知らない」総長は言った。「何だ、その夢虎というのは。トラの種類なのかい?」
「うん、まあそんなもんだが」
マティウスは何か説明しようとしかけたが、その時、草むらからうねうねすべり出てきた黒く長い蛇に気をとられ、「ちょっと失礼、あんなみごとなカラス蛇がこの庭にいるとは知らなかった」と言って、蛇を追っかけて消えてしまった。

あ、それで思い出した、と総長は思わず声をあげそうになった。アキレス好きな女の人が誰かいたと思っていたら、そうだった、あれはたしかヘファイスティオン助教授のところの、もう何年も留年している何とかいう名の学生の母親だ。
何しろその息子ときたら、あまりに何年も留年していて、指導教官が定年退官してしまい、誰もひきうけ手がなくて、しょうがないから若いへファイスティオン助教授が指導担当をひきうけたのだが、年をくっているからへファイスティオンとほとんどたしか同い年で、どことなくとりとめのない、ぼうっとした顔をしているせいか、むしろヘファイスティオンより老けて見える、金髪の青年だった。優しいヘファイスティオンに言わせると、「ご両親の期待が大きすぎて」本人が疲れてしまっているのだそうで、その母親というのが、たしかアキレスの子孫だと自称している、大変なアキレスファンだった。
「それはしかたがないと思うんですが」へファイスティオン助教授がまっすぐで豊かな黒髪の頭をうつむけて、顔をくもらせて言っていたのを総長は覚えている。「蛇が好きなんですよねえ」
「誰が?その母親が?」
「ええ。休学させるかどうかの相談にみえた時も、『まむしに注意』という回廊のはりがみを見たとたんに目を輝かせて、どこにいるんですのと熱心にお聞きになるものですから」
私は見たことがないのですが総長はごらんになったことがありますかと、ヘファイスティオンは男子学生たちがうっとりすると言われているところのもの思わしげな目で訴えるように総長を見つめ、総長は首をふったが何となく気の毒になって、「アガメムノン理事がたしか廊下でつかまえて、びんにつめてまむし酒を作ってたって話がなかったか」と言ってみた。
「ええ、つるつるすべる大理石の床の上で、まむしが蛇腹のとっかかりがなくて前に進めず、困ってうねうねしていたのを、がははと笑いながらつかまえたというんでしょう?」へファイスティオンは、ため息をついた。「どうもあれは、学生たちが作った伝説のようで、アガメムノン理事は否定されてるようですよ」

そうなのだ。たしかにこのアカデミアには、ときどきとんでもなく根も葉もない伝説がとびかって、そのまま定着する。アガメムノンが講義中にしゃべっている学生に石盤を投げつけたというのは本当のようだが、トリオパスが廊下でおもちゃの戦車を走らせて遊んでいた学生に「そのまま、奥のネストル先生の部屋に突っ込ませろ」と言ったというのは本人もきっぱり否定しているし、だいたい廊下でそんな遊びをする学生がいるというのもおかしいので多分嘘なのだろうが、信じていない者は誰もいないほど有名な伝説だった。総長自身にしてからが、学内に出没するタヌキをつかまえて食ったあげく毛皮をはいで手首に巻くマフにしていると、まことしやかに言って回っている学生たちがいるらしい。
そんなことを考えながら総長が歩いていると、噴水の向こうからアガメムノンが歩いてくるのが見えた。
ライオンは立ちどまって、じっとそちらに目をこらしている。
「だめよ」ブリセイスが小声でたしなめた。
ライオンに肩というものがあるものなら、そのライオンはたしかに肩をすくめたようだった。
そして気がつくと、総長のトラはどこかへまた、かき消すようにいなくなってしまっている。
ライオンはアガメムノンに目をすえたまま、低くうなった。

「彼を知ってるようですね」総長は言った。
「え?」
「このライオン…アキレスは、アガメムノンを」
「そうですわね」ブリセイスは何だかそわそわした。「会議がありますから、私もう行かないと」
「ライオンは?」
「あ、理事室に入れておくから大丈夫です。いつもそうしていますから」
ブリセイスは用心深くライオンのたてがみをつかんだまま、ひっぱって、白い柱の立ち並ぶ回廊の方へと連れて行った。ライオンはけだるそうに歩きながら、時々首をめぐらしてアガメムノンの方を見ていた。

つづく


この小説を書きさしてから、すでにもう十年近くたったと思います。
かなり評判もよかったのですが(笑)、さまざまな状況の変化もあり、果たして続けられるか完成させられるか、私にもわかりません。

長い休憩時間の余興としてでも、お読みいただければと、当時の私が書いた、「注釈集」をここに収録しておきます。これ自体もまた、冒頭のみの、未完ですが。

国政も、大学の状況も、今また「終わりの始まり」か「始まりの終わり」かわかりませんが、ある新しい段階にさしかかっているように見えます。
あらためて、これを読んで、私もこれからの自分の進むべき道に、思いをはせることにします。(2019.2.8.)


小説「アカデミアにて」注釈集  ― 今、大学はどうなっているのか ―

第一回 書き出したきっかけ

第二次大戦の直前に、フランスの劇作家ジロドゥが書いた、「トロイ戦争は起こらない」という戯曲がある。もう多分世界中の誰もが、それが起こったことと、その結果…ギリシャに敗北したトロイの都は焼かれ、男と子どもはすべて虐殺され、女たちは陵辱されて奴隷となったということを、そして勝利したギリシャ方にさえも、幸福な結末は決して待ってはいなかったということを知っている、この紀元前の戦争の、その直前のトロイの町で、起ころうとする戦争を必死でくいとめるために努力する人たちの群像を、機知と笑いと、そして悲しみと苦さをこめて、彼は描いた。

私はこれを高校の頃、テレビの舞台中継で見た。二階にあった暗くて狭い自分の部屋の小さな白黒テレビで、たった一人で、寝そべって。ギリシャ神話が好きだったし、戦争反対は当時も今も私の思想の骨格だったから、この劇に共感し楽しんだ。その後、本もさがして読んだ。ギリシャ喜劇の荒っぽい性的な笑いをとりいれながら、フランス風の小粋な味も前衛的な哲学も加わった、絶妙の味加減を楽しみながら、戦争直前の欧州で、このように洒落のめした反戦劇を書いた作者の心の余裕に感服した。

だが、その当時、日本も世界も第二次世界大戦の傷跡が深く、平和への誓いもまたみずみずしかったから、再びこのような戦争直前の時代と世界の中で、必死に平和を守る戦いをしなければならなくなるかもしれないという実感は、生々しい固い決意であるとともに、それ故にまた、遠くて予想もできないものだった。どのようにして戦争は準備され、どのように否応ないかたちで私たちを屈服させようとしてくるのか、具体的には予想がつかなかった。何かまったく新しいかたちで?それとも皆が忘れた頃に、性懲りもなく芸もなく前と同じかたちで?またはその両者が組み合わさって?そんなことを、その頃でさえ私は時々考えていた。

そんな私に今の日本の状態がどう映るか、どのような感慨を抱くか、そのことについては、今しばらくおくとして、たまたま数年前にはまったハリウッド映画「グラディエーター」のパロディ小説をいくつか書いて遊んでいて、そろそろネタもつきてきた時、ふと主人公が毅然として暗君で暴君の若い皇帝の即位を認めず、剣闘士に身を落とすという映画の筋ではなく、彼が皇帝と妥協して生きていく道を選んだ時、そこにはどのような結末が待ち受けているだろう…という話を書こうとした私の頭のどこかには、たしかにこの「トロイ戦争は起こらない」という戯曲があった。

私はこのパロディ小説で、平和と妥協を選んだ主人公の、映画とはいわばパラレルワールドの運命を、法人化前後の自分の職場の現実と結びつけて、どたばた喜劇で笑いとばした。そうでもしなければやりきれない自分の周囲の、またそれ以上に自分の内部の、やりきれなさがあったからだ。このような設定が原作の映画を冒涜するとは思わなかった。それ以前に書いたパロディ小説のすべてでも、そこには私自身の現実の悩みと迷いがかならず反映されていたからだ。そういう意味ではローマの剣闘士の話でも、すべては現代小説で私小説だった。今回のこれもまた、その一つだった。

まさか、この話を読むのに、ネタばれや結末ばらしをされて怒る人はいないと思うし、また、この結末や展開も今後は変わるかもしれないので、今のところの予定をばらしておくと、たとえのんきなどたばた劇でも、この話はこれまでの中で一番悲惨なものになるはずだった。

主人公は、(原作の映画では残酷に殺された)妻と子どもを守るために暴君の皇帝と妥協するのだが、結局のところ彼はその家族を失う。ある意味、殺されるよりひどいかたちで。そして、彼の愛した人々も彼を愛した人々も、皆残酷に殺されて行き、理想は潰え国は荒れ、彼は何一つ救えないまま、自らも陵辱されつづけ、すべてを失う。暴君の皇帝その人もまた悲惨な最期を遂げて、彼の妥協も、それにつづく、あらゆる努力もすべて失敗に終わり不毛に終わる。

あ、どうしてそうなるか書いてないから、まだネタばれにはなってないのか。しかしとにかく、そうなるのである。

そしてそれは、「トロイ戦争は起こらない」を書いた時のジロドゥがそうであったろうと私が予測したのと同じ、私自身の今後の予感だった。私があらゆる努力をしても、それはすべて失敗に終わり、大学でも日本でも、良心的な人々は孤立し分断され滅ぼされて行くだろう。大学は政府の意向のままになり、自治も自由も失われ、平和憲法は改正され徴兵令がしかれ、日本は再び戦争に突入し、そうやって世界が苦しみ地球が汚されていくのを、なすすべもなく私は見守るのだろう。私の愛するものはすべて滅ぼされて消え、残ったもののすべてを、何よりも自分自身を私は憎みつづけて命の最期を迎えることになるだろう。

私はそれを予感し覚悟し、その予測される世界を「アカデミアにて」で書こうと思った。こうして書いてみるとつくづく思うが、まったくいい趣味ではない。

だが、書いていく中で、いやそもそも書き始めたその時から、私はあるとまどいを感じていた。

そして、あらためてジロドゥは何を考えて「トロイ戦争は起こらない」を書いたのだろうかと思った。

特に詳しく調べたわけでもないから、彼がこの作品を書き始めたのも書き終えたのも、いつの時点か私は知らない。

劇のラストは、敵との平和交渉を成功させ、「戦争は起こらない」と安堵したヘクトール夫妻(彼らは周知のようにトロイ戦争の中で夫は戦死し、赤ん坊は殺され、妻は捕虜として敵の愛人にさせられる悲劇の一家である)が、急転直下の逆転の事態によって「戦争は起こる」と覚悟するところで終わる。観客の誰もが知っているが劇の中の彼らはまだ知らない、その後の彼らの運命を前に抱き合う二人の上に幕は下りる。

ジロドゥは、何を訴えたのだろう。その前にそもそも何に動かされて彼は書いたのか。反戦劇なのは明確だが、ではなぜ最後に「結局戦争は起こってしまう」のだろう。実際にもう起こるとわかっていたから、「起こらない」ラストを書くのは耐え難かったのだろうか。それとも、最悪の場合はこうなるが、それでもできるだけの努力はしようと自分に言い聞かせながら書いたのか。上演されたのはいつだろう。見た人たちは何を思ったろう。

なぜこんなことを考えるかというと、「アカデミアにて」を書いている私自身、自分の覚悟し予測している「最悪の結末」をどの時点で完結させるか考えたりするのと、それ以上に、自分も周囲も思ったよりは絶望的な状況にならないという希望が生まれつづけることだ。

どうせ大学は骨抜きにされ、だめになる。どうせ憲法はあっさり改定され九条は廃止される。

そう思ってこの小説を書き始めた。実際、そうなりそうでもある。

だがその一方で、私の職場の同僚たちは驚くほどに聡明で勇敢で献身的に戦いつづけ、事態を最悪のものにしないできている。

この町にも憲法九条を守ろうという会ができ、細々とだが着実にその活動が続いている。

マスメディアの無責任さ、選挙の結果、アジア諸国の人たちへむけてあおられる敵意。そのすべてにまつわる軽薄さと残酷さ、それを生み出す憎しみや恐れや疲れ。

そういったものの巨大さを見るたびに、「アカデミアにて」の救いのない結末をとっとと急いで書いてしまおうと思っては、私はまだそれを書けない。そうすることは、何かに対する冒涜のように思えることもある。


 

 

Twitter Facebook
カツジ猫