映画「グラディエーター」小説編大切な友だち

大切な友だち ーマキシマスとザックー

少年は戦線からめったに帰ってこない父親が大好きだった。同じ村の、おぼれそうになった友だちが父親に助けてもらった自慢話をするのが、うらやましくてたまらずに、彼はある日、ふらふらと一人で近くの池に出かけ、そこでふしぎな少年に出会う。

ローマ時代のある村の親子の話、と思って下さればそれでいいのですが、「グラディエーター」と「逃走遊戯」の映画が微妙に合体しています。もしかしたら「ハマー・アウト」も。でも、ただの空想好きな少年の幼年時代の話として楽しんで下さればそれでも充分です。とても短い、すぐに読めるお話です。

1 めったにいなくても

ゼフィルスなんか大っきらいだ。
いっつも父親の自慢ばっかしている。
父さんにこさえてもらったと言って、ちっぽけなつまんない木の剣や、ぼろっちいおもちゃの舟を見せびらかす。
僕の父さんはすごくカッコいい、と二言めにはきっと言う。村祭りのとき皆を困らせてた、よそものの酔っぱらいを一ぺんに二人も、ぼこぼこにのした、なんて。
うんと小さい時にゼフィルスは一度ならず者にさらわれた。ゼフィルスの父さんにインチキを見破られた占い師が怒って、しかえしに仲間とゼフィルスをさらって逃げた。そして、ゼフィルスの父さんに追いつめられてゼフィルスを川に投げこんだ。おぼれかけてたゼフィルスを、彼の父さんがとびこんで助けた。そのときの話を僕らはもう何百ぺんもゼフィルスから聞かされた。
たしかにゼフィルスの父さんは立派だ。大きくて、堂々として、やさしい目で僕たちに笑いかける。長くのばした茶色の髪を片手でかきあげながら、「どうだい、調子は?」と大人に聞くみたいに僕たちに聞く。いい人だって誰にでもわかる。

僕にだって父さんがちゃんといる。ゼフィルスの父さんよりずっと立派な。だけどめったに、うちにいない。遠い国で、戦ってるんだ。
僕が父さん、と呼ぶのは一人でいる時、自分の頭の中でだけだ。会った時にはいつもお父さま、と呼ぶ。そう呼びなさいと母さんがいう。そして、自分のことも、父さんの前ではお母さまと呼ばせる。そんなのとっても変だと思う。でも父さんと向きあうと僕もやっぱり、お父さまとしか呼べない。
僕の父さんは、ゼフィルスの父さんのようじゃない。黒い髪をみじかく刈って、ひげを生やしてる。年上に見せたいのよと母さんは僕にささやいて笑った。ときどき、父さんが寝ているとき、母さんはかみそりを持って行って父さんのひげをそってしまう。父さんはむにゃむにゃ言いながら、されるままになっている。ひげのなくなった父さんは本当に、子どもみたいに若い。僕が見て笑うと、困ったようにちょっとまぶしそうに目をそらして首をかしげて、それがますます子どもみたいだ。
でも、そんなときでも父さんは、ゼフィルスの父さんみたいな感じじゃない。あまりしゃべらないし、重々しい。父さんはとてもえらくて、強いんだ。すごくひきしまった身体をしている。ゼフィルスの父さんよりずっと、すらっとしているけど、力は多分ずっと強い。すごく立派な大きな馬にのって帰ってくる。すごくきらきら銀色に光って、狼の顔やいろんなうきぼりがしてあるよろいを着て帰ってくる。腰には長い重そうな剣を下げている。柄が紫で金色の房のひもがついた、とてもきれいな、本物の剣だ。「さわってもいいですか」と一度お聞きすると、黙って笑って僕をひざにのせ、剣を持たせて手をそえて抜かせてくれた。ものすごく重くって、びっくりした。「こんなのをふり回して人を斬るのですか」とおたずねすると、父さんはちょっと恥ずかしそうに黙ってうなずいた。

僕は父さんが好きで好きでたまらない。かりに父さんが僕の父さんでなくっても、よその人でも、それでもきっとやっぱり今とおんなじように好きだった。そう母さんに言ってみたら、母さんはあきれたように「変な子ね」と言って笑った。
ゼフィルスが自分の父さんのことを、いっしょに遊んだこととか叱られたこととかいろいろ話すとき、僕はそれを僕の父さんにおきかえて聞いている。それか、僕の父さんだったらどうするだろうと考える。
ゼフィルスの母さんは早く死んだ。今の母さんは二番目の人だ。彼の父さんが旅先で出あって好きになってつれて帰ってきたんだって。「それもどうかと思うわよねえ」と母さんは話していた。「いい人だったからよかったようなものの」
そうかなあ?
ゼフィルスの母さんて、いい人だけど、そうとう変な人って気もする。髪は金色で、棒みたく、やせてて、目が丸くて大きく、おしゃべりだ。前は何をしていたの、と村の女たちが聞くと、鳥にのって空とんでましたと答えたって。皆あきれてそれ以上聞かなかった。そのことも母さんを喜ばせたみたいだった。知りたがりやの女たちを撃退するのは、そのくらい言ってやるのがちょうどいいのよと、仕事着の袖を腕まくりして笑ってた。
そういう母さんも、この村じゃよそものだった。昔はどこで何してたのと聞かれたら、山賊でしたってすまして答えてる。ほんとかどうか聞いたことはないけど、ひょっとしたらほんとかもしれない。ときどき台所で料理女にかくれて僕にだけ、ナイフをくるくるっと手の中で回してみせたりするんだもの。
それと、ゼフィルスの母さんが鳥にのって空とんでたって言ったのを喜んだのは、母さんが鳥のこと好きだったからかもしれない。母さんは家の外にいるときはよく空を見て、鳥を見てる。ああやって、どこまでもとんで行きたいわと、僕を抱きしめながらつぶやく。
お父さまのところまで?と聞くと母さんはじっと僕を見て顔を赤くし、いやな子ねと言って笑った。
僕が鳥なら絶対に、父さんのいるところまで飛んでいくのにな。

2 おうちにいるときは

父さんはたまにしか帰ってこないけど、帰ってくるといつも忙しそうにしてる。
作男や召使たちが気づかないような家の壁のいたみや、石垣のくずれたところを、すぐに見つけて修理する。母さんの台所道具とか、家具やなんかも新しく作ったり、直したりする。「ここの柄がもっと長くてね、こういうように曲がってる、そんなのが欲しいの」と絵にかいたりして母さんが説明するのを、身体を横に曲げてのぞきこみながら、黙ってせっせとその通りのものを作ってあげる。
父さんの仕事はそんなに早くないけど、ていねいだ。楽しんでるように、ゆっくり作る。村の男たちが手伝いにきて、ふだん作ってくれるのとはまるっきりちがう。壁も石垣も、いろんな道具も、父さんがさわったり作ったりしたものは、皆とてもきれいで、きちんとして丈夫だ。父さんが行ってしまっていなくなったあとでも、そっとさわると父さんにさわってるようだ。
そんな仕事をしている父さんのそばにいるのが僕は好きだ。肌着ひとつになって何も言わないで楽しそうにほほえんで、木を削ったり石を重ねたりしてる父さんの、腕や背中が汗ばんで光ってるのを見るのが好きだ。疲れて草の中にあおむけに寝ころがって空を見て口を開けて笑ってる父さんのとこに、お水を持っていってあげるのも好きだ。父さんは僕の手にした木の器を見て、時々、もう起きて飲む元気もないと言うように、「かけて」と言うから、手ですくって少しづつ、頭や顔にばしゃばしゃ水をかけてあげる。父さんは目をつぶって笑ってる。

父さんはすごく強くて、いっぱい戦ってきたはずなんだけど、身体にはほとんど傷がない。背中も腕もすべすべしていて、なめらかだ。とっても強いから、けがなんかしないの、と母さんが一度僕に言った。傷あと見せびらかしていばる人がよくいるけどね、あんなの、ほんとはちっとも強くないのよ。
傷あとはないけど、左の肩にSPQRって字のいれずみがある。僕がそれを小さい声で読んでみてると父さんは聞こえたらしくて笑ってた。ローマ軍のしるしなんだって母さんがあとで僕に教えた。僕も大きくなったらしてもいい?と聞くと、母さんは怒ったように、やめなさい、すごく痛いわよと言って僕をおどかした。
ほんとかどうか、父さんに聞いてみようと思ったけど、笑われそうでやめた。

母さんも本気で言ったんじゃないと思う。でも、ローマの話や軍隊の話を父さんがすると母さんはにこにこ笑って楽しそうに聞いてるけど、あとで一人になったとき、悲しそうな怒った顔になって、ふだんは言わないのに急に、マルクス、指を口に入れるのはやめなさいって何べん言ったらわかるの?と顔をしかめて僕を怒ったりする。
母さんは僕にローマに行ってほしくもないし、軍隊に入ってほしくもないんだって思う。父さんにだってきっとほんとは、そうしてほしくないんだ。
父さんはそのこと、気づいてるのかしら?僕と二人きりのとき、父さんはローマの話も軍隊の話もしない。僕は聞かせてほしいのに。父さんといっしょに戦いたいのに。
ゼフィルスは僕より二つも年上なのに、僕とおんなじぐらいの背たけしかないちびなのに、父さんから毎日、けんかのしかたを習ってる。僕も父さんに剣の使い方とか弓の射方とか教えてほしいのに、父さんは僕に、柵の横木のしばりつけ方とか、芽のよく出る種のまき方とか、そんなのばっかしか教えてくれない。それだっておもしろいし、父さんはとても楽しそうに教えてくれるから、全然いやじゃないんだけど。
「馬ののり方を教えて下さい」とお願いしてみたら、それは教えてくれた。でも父さんの馬じゃ大きすぎて、ただのせてもらっただけで勉強になってないと思う。父さんはおまえが一人でのれるような小さいポニーがいるねと言ってくれた。

3 おいてきぼり

朝から小鳥の巣をさがしにゼフィルスと森に行く約束をしてた。母さんが子どもだけじゃ危ないからといって行かせてくれそうにないのを、糸まきや水はこびや、いろんなお手伝いして、やっと行ってもいいって許してもらったのでうれしくて、前の夜は眠れなかった。お天気でなくちゃ行ったらだめって母さんが言ってたので、夜あけに何度もこっそりおきて、種麦みたいな黄色い星がいっぱい、空にちかちか光ってるのをたしかめた。朝日がのぼって、よく晴れて、朝ごはんもそこそこに、汚れてもいい古いチュニカを着せてもらって、ゼフィルスの家に走って行ったのに、ゼフィルスは僕との約束を忘れて父さんととなりの村の市に出かけるとこだった。きれいなよそいきを着て、髪もきちんととかしてもらって。
明日はきっといっしょに行く、と彼は言いわけしたし、ゼフィルスの母さんも父さんも僕にうちで休んで昼ごはんを食べていくようにすすめた。でも僕は用があるからいいんですと言って、父さんとゼフィルスが並んで乗ってる馬車に背を向けて、一人で家の方に戻っていった。こんなことぐらい何だと思っても、のどに何かがつかえたようで大きく息をしてないと涙が出てきそうだった。道の草の上に朝つゆがまだ消えないでキラキラしてる。あひるが一羽、よたよたその草の中を歩いてて、僕はうちに帰る気がしなくて、そのあとについて行ったら、畑の向こうの池に出た。このあたりには家がなくって、畑ではたらいてる人がなかったら、池に落ちても誰も助けてくれないんだから、一人できちゃだめと母さんにいつも言われてる。でも、池に近よらなきゃいいんだと思って僕は草の中にしゃがみこんだ。あひるは落っこちるみたいにぼちゃんと水にとびこんで、土の上を歩いてる時とはまるでちがって、すいすい水の上を泳いでいった。他のあひるもたくさんいて、のんきそうに鳴きあっていた。

僕はあひるをよく見ようと思って、池のそばまで行ってみた。腹ばいになって両手を水につけてみた。
水は澄んで、波の光がゆらゆらゆれて、底の小石が見えていた。
腹ばいになったままサンダルを足でけってぬぎ、身体をぐるっと回転させて、岸の草につかまりながら僕はゆっくり水に入った。
何をしてるのか自分でもよくわからなかった。水は冷たくて気持ちがよかった。おぼれて死にそうになったら、きっとどこかから父さんが来てくれると思った。ゼフィルスの父さんが助けにきてくれたように。
水はどんどん深くなり、そろそろひっかえさないと、と思ったときはもう、足の先が冷たかった。あわてて向きをかえようとしたら足がすべって底に届かなくなった。恐くて声も上げられないまま、どんどん冷たくなる水の底にまっすぐ僕は沈んで行った。鼻の奥に水が流れ込んできてすごく痛くて、あたりがどんどん真っ暗になる。
何かが身体にぶつかった。誰かが叫んでる声がした。父さんじゃない。大人じゃない。僕と同じ子どもの声だ。ゼフィルス、帰ってきたのかな?

僕の手と指は、かきむしるように動いて夢中で身体にぶつかる何かをつかんだ。それがぴんとはりつめて、僕をどこかにまっしぐらにひっぱって行った。水をわけて、光の方へ、水面へ。空気の中にひっぱり出されて、僕はもがいて、せきこんだ。頭が痛くてわれそうで、日の光がまぶしかった。「つかんでるんだよ!」と誰かが岸から叫んでた。「はなすな!がんばれ!」
やっぱり子どもの声だけど、ゼフィルスじゃない。水しぶきをたてて誰かが水にとびこんで僕のとこまで走ってきたとき、僕はその声の主を見た。僕と同じぐらい小さい、見たことのない男の子だった。
「大丈夫かい?」男の子は叫び、僕に手をさし出して岸にひっぱり上げながら、また叫んだ。「大丈夫かい?」

僕はとってもみじめで悲しかった。大きな声で泣きたかった。今ここに父さんがいたら。でも父さんはいない。ずっと遠くにいる。僕に何があったって来てくれやしない。そんなの、いないのとちっとも変わらない。
「ねえ、大丈夫かい?」男の子がまた言っていた。
この子の前では泣きたくなかった。僕に投げてくれたつるくさを丸めて草の上に放り出して、男の子は一生けんめい、僕の髪にはりついた水草を指ではがして取ろうとしてくれてた。とても小さい。僕よか小さいぐらい。やせっぽちで、みすぼらしい服着て、はだしだ。だけど、明るい、元気そうな顔して、とても心配そうに僕のこと見てる。そして僕が寒くて歯をがちがちさせてるのを見ると、ためらわずそのぼろぼろの服をぱっとぬいで、僕の髪をふき、身体をこすってくれはじめた。
「君、おぼれやしなかったよね?」彼はすごく大まじめに聞いた。
僕はまだきげんが悪かったけど、思わず笑った。「だからここにいるんだろ?」
「うん、だけどね」男の子はびしょびしょの僕の服を自分のぬいだ服でおおって、水気をとろうとしながら言った。「死んだ人みたいにまっ青だもん。これ、ぬいだ方がよくない?」
僕はむっつり服をぬぎ、彼が押しつけてきた彼の服をとって身体をふいた。彼は僕の服をぎゅうぎゅうしぼって水をいっぱいたらしてた。僕たちは二人とも腰帯だけの裸になってた。僕の身体が色が白くてふっくらしてるのにくらべて、彼は針金みたいにやせて、小麦のパンみたいに日やけしてた。腰帯も僕のはまっ白なのに、彼のは洗いざらして灰色で、あっちこっち破れてる。

「羊の匂いがしたらごめんよ」彼は僕が手にしてる服を見て言った。「ずっと羊の番してたから。火をたけたらいいんだけど、勝手にたいたら怒られるし」
彼は僕の服を広げてぱんぱんと音をたてて振り、渡してくれた。僕は彼の服を返した。
「死んだ人、見たことあるの?」
「え?ああ、前いた村でね」
「君んち、この近く?」
「村はずれだよ。こないだひっこしてきたばっかりなんだ」
それで見たことなかったんだと思った。
「君んちは?」
「あの丘の上」僕は指さした。
男の子はふりむき、何か思い出しているように長いことそちらを見ていたが、やがてふり返って、「いいうちだな」と、ちょっと淋しそうに言った。
そう言われてうれしかったけど、すぐにまた心が沈んでしまった。「ちっともいいもんか」と僕は言った。「父さん遠くに行ってるし、僕いっつも一人なんだ」
「母さんは?」
「いるけどいつも忙しいから、僕のことなんかかまってくれない」
ぺらっと嘘をついてしまった。母さんはいつも僕のこと世話ばっかりやいて、うるさいぐらいなんだのに。こんな嘘なんかついたことなかったから自分でも僕はびっくりしてしまった。あわてながら男の子を見ると、彼はまじめにうなずいて「どこの母さんも同じだね」と言った。「子どもをかまってるひまなんかないんだ」
「でも父さんがいるんだろ?」
「父さんは恐いんだ」彼はくしゃっと顔をくずして、大人のようにおどけた笑顔をしてみせた。「めったにしゃべらないしさ。怒るとぶつし」
「君を?」
「あ、僕はめったに…まだ小さいから。兄さんたちはよくぶたれてる」
「兄弟、いるの?」
彼はちょっとはにかんで、片っぽの手をひろげ、もう片っぽの指を立ててみせた。
「六つ…六人も?」僕は大きな声を出した。「ほんとに?いいな、すごいなあ。それじゃ何して遊んでも困らないじゃないか」
男の子は声をたてて笑った。「遊ぶ?そんなひまないよ!今だって羊の世話…」彼はぴょんと飛び上がった。「行かなくちゃ!羊が逃げちゃう」
岸の斜面をかけ上がりかけて、彼はふと何かを思い出したように立ちどまってふりむき、僕に向かって叫んだ。「もう池に入っちゃだめだよ」
僕はうなずき、叫び返した。「君、名前、何?」
彼はもう草の向こうに姿が見えなくなってる。声だけが明るくとどいてきた。
「アエリウス!」

何だかうきうきして、家に帰った。男の子のことは母さんにもゼフィルスにも言わなかった。僕だけの宝物みたいに、こっそり思い出してた。
それから何日も雨がふった。母さんは僕を外に出してくれなかった。ようやく雨が上がったので、僕は母さんにゼフィルスのとこに遊びに行くと言って、お弁当にしなさいと大きなパンとチーズをもらってうちを出て、途中で向きをかえてまっすぐ池に行った。
アエリウスはいない。でも、きっと来ると思って待ってると、向こうの岸に彼が現れ、手をふって、とびはねて、子馬のように池を回ってかけてきた。
「雨がふってつまんなかったね」と言うと、彼は首をふって「僕は雨の日はひまでいいんだ」とうれしそうに笑った。「うちでたっぷり寝てられる。ひもじいのはいやだけど」
「パンとチーズがあるけど食べる?」
彼は首をふった。「心配すんな」
彼はとっても堂々と落ちついてて、やせっぽちでぼろぼろの服着てるのに、ちっとも貧しい家の子みたいじゃなかった。顔つきとか態度は何だかとても、上品だった。「君の分もあるんだよ」といって僕が袋からパンを出して渡すと、笑ってうけとって「すまないな」と大人みたいな礼を言った。
「いいから食えよ」と僕も荒っぽく言った。何だかすごく、わくわくしながら。

「兄さんたちも皆、うちにいたの?」僕は聞いてみた。「何して遊ぶの?」
彼はちょっと首をかしげて考えた。「僕を戸棚にとじこめたり、梁の上にあげたり」
「ええっ」僕は考えこんだ。「それって、いじめてるんじゃないの、君のこと」
「しかたないんだ。小さいからね」
アエリウスはあっさり言った。でも彼は何だかこの数日で背がのびたような気がした。もう僕よりも少し高い。そしてあんなにやせてた手足もたくましくなってきてる。
「ここのくらし、もう慣れた?」
「うん」彼はとまどったように僕を見た。
「父さんはどうしてる?」
彼はため息をついて池の方に目をそらした。「死んじゃったんだよ、ちょっと前に」
「そうなんだ」僕はびっくりしてつぶやいた。「じゃ…じゃ…」
「うん、ほっとしたよ」彼は僕を見ていたずらっぽく笑った。「だけども、ちょっと淋しいな。時間がたつほど、何だか…」

それからまた十日ほどして、もう少し暑くなった夏の朝、いつものように僕が池に行ってみると、誰かが池の中で泳いでた。よく見るとアエリウスだった。僕を見ると水の中から手をふって、すぐにこっちに泳いできた。
岸の草の上に両手をかけて、カエルのように元気よく足をはねてとびあがって来たのを見ると、水の中にいるのを見た時感じたことがまちがいじゃなかったってわかった。彼はすっかり大きくなってた。少年というよりも、一人前の若者みたいだった。
「大きくなったんだね」僕は彼を見上げた。
「そう?」彼は気づいてないらしく、自分の身体をちょっと見回して、それから僕の隣に座った。
「兄さんたちまだ、君をいじめるの?」
「あの家はもう出たんだ」アエリウスは言った。「兄たち二人に連れられて。今は僕ら三人だけで暮らしてる。軍隊に入ったんだ」
このへんの軍隊っていったら、どこの軍団になるのかなと、父さんが話してくれたローマ軍の配置を思い出そうとしていると、彼がひかえめに「君んちの父さんはどう?」とたずねた。「あれから帰ってきたかい?」
僕は首をふった。「手紙が来たっきりだ」
彼は何と言ってなぐさめようかというように僕を見てたがすぐ、「それは元気で無事だってことだね」と言った。「その内、きっと帰ってくるよ」
「うん」僕はうなずいた。「君は仕事してるの?」
彼はつまらなさそうにため息をついた。「僕はまだ子どもだから何もさせてもらえない。毎日、兄たちのごはん作ったり、服のつくろいしたり、女の子のするようなことばっかりしてる」
「馬の世話とかも?」
「うん、それはとってもおもしろいんだ。羊の世話よりずっとおもしろい。けどね、なかなかやらせてもらえないんだよ」
話してると僕は彼が大きくなってるのを忘れた。初めと同じ小さい子どもどうしのように彼は僕にしゃべってたし、僕もそうした。

4 きっとそうなるさ

その次来た時アエリウスは、またちょっと背がのびていた。それだけじゃなく、簡単な革のよろいを着て剣を下げ、足には革のサンダルをはいて、ちゃんと兵士のかっこうになってた。でも中身は全然変わってなくって、「訓練って腹がすくんだよなあ」と言って僕の持っていったハムやパンをうれしそうに食べた。おなかがいっぱいになると僕と並んで草の中にころがって、年上の兵士から教えてもらったお化けの話や、こっけいな笑い話、女の人のいやらしい話をたてつづけにして聞かせた。おもしろすぎて、僕は草の中を転がりまわって笑い、あきれてぴしゃぴしゃ彼の身体をたたいた。僕の手をよけながら彼も笑ってた。でも、いやらしい話の方は時々、彼もよくわかってなかったようで、「ねえ、どこがいやらしいの?」と僕が聞くと、うーんと言って考えこんでいたりした。
そうやって何度か会う内に、彼は何だかちょっと元気がなくなってきたみたいだった。前より無口になって、ときどき上の空の返事をした。そしてある時とうとう小さいため息をついて、「なあ、マルクス、女の子ってややこしいなあ」とつぶやいた。

「女の子?」僕はアエリウスを見上げた。
「うん。考えてると一日中頭がもやもやしてしまう。どうしたらいいんだかわからないよ。自分が自分じゃないみたいだ」
僕はそんな彼を初めて見た。いつも落ちついて明るい強い彼が、そんなにくよくよして困ってるのは、とても彼らしくなくて裏切られたような淋しい気がした。僕はアエリウスが好きだった。女の子のことなんかで悩んでほしくなかった。
彼は笑っていつものやさしい目で僕を見た。そしてちょっとおどけて肩をすくめ「彼女といっしょになるなんて、それこそとんでもないことだ」と、僕が聞いてもないことをしょんぼりした口調で言った。「そんなこと、おれが思ってるって知ったら彼女はきっと笑い死にに死んじゃうだろうな」
「なぜ?その人、君のこと好きなんじゃないの?」
アエリウスは小石をつかみ、腰をひねって池の上に投げた。「でも、おれのこと、しっかりバカにしてるからな」自分に言い聞かせるように彼は言った。「田舎もんだし、ただの下っぱ兵士だし」そして両手を首の後ろに回して身体をそらした。「彼女すっごくゴージャスなんだ。何から何まで本ものの」
僕はアエリウスに見とれてた。すらりとひきしまった腕や肩のしなやかな筋肉、輝いている金色の肌。まっすぐに伸びた首は白鳥みたいだ。丸い小さいきれいな頭、長いまつ毛にふちどられた澄んだ目の色、すっきり通った鼻すじと、女の子みたいにふっくらした唇。悲しそうで清らかで、そして力にあふれていた。
「君こそ、すっごくゴージャスだよ、アエリウス」僕は力をこめて言った。
彼はびっくりしたように僕を見た。「誰…おれ?」
僕はうなずいた。「絶対だ。ずっとそう思ってた」
彼ははにかんで目をぱちぱちさせた。落ちつきなさそうに足をふみかえて「そうかなあ」と口ごもった。全然信じられないといったように。
「自信持てよ」僕はまた強く言った。「君は誰にも負けてないって」
彼は照れて笑い、目を池の方にそらした。「そうかなあ?」と、やっぱり自信なさそうに、小声で彼はくりかえした。

その後しばらくアエリウスは、その女の子のことを話さなかった。何でもなかったみたいに前と同じに、僕とふざけて草の中を転がったり、草笛を作って吹いたりしてた。「彼女やっぱり、おれなんかより、もっと身分の高い貴族の男たちがいいんだよ」と、ある時さばさばした口調で言った。
「そう言ったの?」
「見てたらわかるさ」彼は首をすくめた。「おれのこと避けまくって、そんなやつらとばっかりべたべたしてるからな」
「君の気をひこうとしてんだ」
「おいおい」アエリウスはあきれたように僕を見た。「どこでそんなこと教わるんだ?」
「彼女に言いなよ」僕は怒った。「ちゃんと言いなよ、好きだって」
アエリウスは顔をくもらせて首をふった。「そんなこと言えるもんか…これでいいんだ。身分もちがうし、彼女におれを選ぶ勇気なんかないよ。これでいいんだ…その内に二人とも忘れる」
そうなんだろうか。僕はアエリウスを見つめながら、彼のことがとても心配だった。

雨がふりそうで、空が暗い日だった。何だか、でも今日はアエリウスが来てそうな気がした。行ってなきゃいけないような気がした。僕はこっそり家をぬけ出し、あひるの池へ走って行った。
灰色の空が地面にくっつきそうで、岸べの草はざわざわ風にゆれて白い裏を見せている。あひるは元気に泳ぎ回ってたけど人影はない。
風に髪や服をあおられながら、飛ばされないよう必死に足をふんばって、あてもなくそのへんを歩き回った。何かにつまづきそうになって、こんなとこに石はなかったのにと思って見下ろしたらアエリウスがいたので、びっくりした。
彼は草の中に両足を前に立てて座りこんでた。両腕でひざを抱き、その上に顔を埋めるように伏せている。肩も背中も波うってひくひくふるえ、風の音にまじってはっきり、すすり泣いてる声が聞こえた。
「アエリウス」僕は草の中にひざをつき、彼の腕に手をかけてゆさぶった。「何してるんだよ?こんなとこで。どうしたの?」
「おれは最低だ」すすり泣きの合間にその声がやっと聞こえた。
「どうして?何でだよ?」僕は彼をゆさぶり続けた。「何があったの?アエリウス?」
「おれは最低の人間だ」彼はくり返した。
「だからどうして?ちゃんと話せよ」
「彼女を傷つけた…ほんとにひどいことを言った」彼はすすり泣いた。「どうしてあんなことになってしまったのかわからない」
彼は身体をよじるように泣きつづけていた。激しく、弱々しく。初めて会った時のように、いや、それ以上に幼く見えた。あんまり手放しで、あけっぱなしに泣いてるので、見ていて恐いぐらいだった。こんなんで生きていけるのかって思った。小さい子どもの僕が見てさえ、彼はあんまりおさな過ぎた。こわれものでも扱うように僕はそっと彼のそばに座った。彼を黙ってただ見つめた。

「彼女はおれのほんとの気持ちを知りたがってた」彼は涙をぬぐったが、次から次へとまたあふれた。「でも、言うのが恐かった。彼女にバカにされそうで。笑われそうで。おれはね、マルクス、彼女が好きで好きで…何から何まで、笑顔も、髪も、匂いも、声も、指も、背中も、身体のどこも、しゃべり方も、意地悪なとこも。こんなに好きだってこと、知られてしまったら…もう…もう…どうなるか恐くて。あの人に傷つけられたら生きていけない。だから…知られまいと思って。ひどいことを」
彼は短い髪の中に指をさしこみ、かきむしった。
「おれをこんなに夢中にさせる、あの人が恐かった。こんなに好きで好きでたまらなくて頭を変にさせちまう、あの人が憎かった。おれの心も身体もあの人にのっとられちまった。だから、しかえししたかった。何をしたって許されるって思った。ひどいことをされたような気がして、何をしてもいいような気がして」
とぎれとぎれのことばが続いた。
「夜、あの人は訪ねてきた。本当に不意におれの前にあらわれた。灯の光に照らされたあの人は何と美しかったろう。あんなに美しい人だって忘れてた。ずっと毎晩考えて、思い描いていたっていうのに、実物はその何倍も、何倍も、輝いて、まぶしくて…まともに見ていられなかった。あの人の香りがした。身体のあたたかさを感じた。すぐ前にあの人はいた。手をのばせばとどく所に。おれは、気が狂いそうだった。あの人は、何度も、何度も、おれに自分を好きかどうか言えと言って…言えるわけない。彼女の気持ちがわからないのに。まるっきり、言ってくれないのに。おれだって、思いたい。おれのこと好きなんだって。おれと同じで、恐くて言えずにいるんだって。でも、そんなのって…虫がよすぎる…思いこみかも…彼女はただ、おれをバカにして、ふみにじるために…そのためだけに…おれの気持ちをたしかめようとしてるのかも」どっとまた彼の目に涙があふれ、彼は激しくしゃくり上げた。「それは充分あり得ることなんだ。情けない…くやしい…ひどすぎる…でも、そうなんだ…あり得るんだよ…」
彼は頭をかかえたまま、身をよじった。
「おれはわからなかった…決められなかった。それで、気がついたら、彼女にとてもひどいことを…あんなに人を傷つけたことなんか、おれは生まれて一ぺんもない。それなのに、よりによって自分の一番だいじな人を…そんな風にするなんて…おれっていったい何なんだ」

「泣くなよ」僕はおずおず声をかけた。「アエリウス…お願いだからさ…」
彼はひくひく泣きじゃくりながら、それでも何とか泣き声はとめた。でもまだ涙はあふれて流れて、それをぬぐいもしないまま、ぼうっと池の方を見ていた。
「おれはもう、自分が立ち直れるなんて思えない」悲痛な声で彼は言った。「こんな悲しみが消えることがあるって思えない。おれの人生はもう終わってしまった。きっと死ぬまでめちゃくちゃで、楽しいことなんか生きてる間中、もう二度と何もないだろう」
アエリウスのチュニカの袖がまくれ上がって、肩がむきだしになってる。強い風が雲を吹きとばしたのか少し空が晴れてきて、陽射しが落ちてきた。それに照らされた肩の、ひきしまってきれいな肌の上にいれずみがあるのに気づいた。前にはなかった。いつ入れたんだろう?首をかしげて僕はその文字を読んだ。SPQR…ローマ軍のしるし。父さんと同じの。
僕は世界が終わったような悲しげな顔で、僕のことなんか忘れてしまったように黙って池を見つめてるアエリウスの横顔を見上げた。少しひげがのびてる、少年のようなあごのかたち。最初会った時から、どこかで見たような気がしてた耳のかたち、眉のかたち。

その時突然、僕はアエリウスが誰なのかわかった。「大丈夫だよ」と、僕はまだ時々こくんとのどを動かして涙をのみこんでいる彼の肩に手を回してなぐさめた。「心配しなくてもいいよ、アエリウス。もっといい女の子に会えるよ。その人と結婚して、子どもが生まれるんだ。君はとっても幸せになれる」
アエリウスは手で荒っぽく涙をぬぐって、ふしぎそうに僕に顔を向けた。「なぜそんなことがわかるんだい?」
「なぜでも」今度は僕が笑って池の方へと顔を向けた。「僕にはわかってる」
長いこと黙っていてからアエリウスは、少し落ちついてきたようにそっとため息をついた。「君ってふしぎな子どもだなあ…前にどこかで会ったかい?ここじゃない、どこか、よそで」
僕は首をふった。「いいや」
「まっ、いいか」アエリウスは首をふった。少し立ち直ってきてるみたいだった。「君がそう言うんなら、何だかそうなりそうな気がしてきた」
「きっとそうなる」僕は約束した。「大丈夫だよ。きっとそうなる」
ほんとかなあ、というような情けなさそうな顔で、それでもようやくアエリウスはちょっと笑って首をふり、またたしかめるように僕を見た。「子どもが生まれるんだって?」と彼は念を押した。
「うん」僕は力をこめて保障した。「ものすごく、いい子だよ」

「お父さまが明日、お帰りになるわよ」母さんが卵を焼きながらうれしそうに言った。「今日、使いが手紙を持ってきたわ」
僕もうれしかった。父さんに会ったら聞いてみよう。
「小さいころ、おうちの人たちに何と呼ばれていましたか?」って。
でも、お返事はもうわかっている。
「アエリウスだよ、何で?」って言って父さんはけげんそうに首をかしげて、僕を見るだろう。
「母さんの前に、すごく好きだった人がいるんでしょう?」って聞くのは…。
やっぱり、やめよう。
ゼフィルスが垣根の向こうにやってきて、手をふってるのが見える。鳥の巣を見に森へ行くって約束してたんだっけ。僕は大急ぎでパンを飲み込み、母さんにゼフィルスの分もオレンジをもらって、外にかけ出してった。

明日は父さんが帰ってくる。
僕は父さんが大好きだ。

大切な友だち・・・・・終(2003.5.18.5:10)

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