映画「グラディエーター」小説編雨の歌

雨の歌 -マキシマスと売春婦ー

舞台は紀元170年頃のローマ軍駐屯地付近。登場人物は一人の少年兵と売春婦たち。時刻は日ぐれから夜までで、ずっと雨が降り続いています。

のんびりおっとりして素直なこの少年兵は、女を買いに来た上官たちの馬の番をするために連れて来られて表で待っているのですが、まだ女の人と寝た経験はないようです。さて、彼はどうなるのでしょう?

──(1)──

雨のふる中に、その子は立ってた。
八頭の馬が、柵につながれてる間を行ったり来たりして。
馬の首すじを、小枝をたばねた即席の櫛でこすってやったり、少しでも雨のかからない軒下や木のかげに移動させてやろうと工夫してるようだった。
赤茶色の短い衣に革の鎧と長靴、腰に剣。若い兵士の軍装だったし、身体はもう大人と言ってもいいほど大きく、しなやかなたくましい手足をしていた。それでも、首すじや手首にどことなく幼い初々しさがあって、どうしても「その子」と呼びたかった。
彼の背後の、粗末な細長い建物の中からは、女たちとたわむれている、年かさの兵士たちの笑い声が聞こえていた。
私は、その日は風邪をひいて熱があったので、もう客はとらないことにして、その建物とはすかいに建っている、女たちが休憩に使っている納屋兼用の棟にある、まん中のへやの窓によりかかって、外を見ていたのだ。
ひとしきり、馬たちの世話をしてしまうと、その子は納屋の入口の階段に座り、雨のふりしきる灰色の空を見上げながら、外套の頭巾を頭からかぶった。
足の先を寒そうにちょっと動かしている。
でも、特にみじめそうではなかった…年上の兵士たちが女を買う間、馬の世話をするためのお供にひっぱって連れて来られて待たされている、下っぱの少年兵としては。
それどころか、変に堂々としてさえ見えた。そんなに幼く見えるのに、彼にはどこか風格のようなものがあった。
気がつくと、私は彼に見とれていた。

◇◆◇

少年兵は、見られていることにはまったく気づいていない風だ。
寒そうに時々、肩をすくめたが、どこかのんびりした様子で、ふりしきる雨をながめていた。
故郷に残してきた弟を、私は思い出していた。
あの子ももう、このくらい大きくなったのだろうか。
頬杖をついて、しばらくながめていると、視線を感じたのだろうか、彼がこちらを何となく見上げた。
素朴な、きれいな目鼻だちだった。年のわりには落ち着いた表情をしているのが、けなげで寂しそうと思う人もいるかもしれないが、私には、その顔は明るく思えた。雨のふっている空の色が、晴れた空の目に痛い青さではなく、真珠色のほのぼのとした明るさをたたえているように。
私が指で招くと、彼はあたりを見回し、誰もいないのを確かめても、まだ自分が呼ばれているのかどうかわからなかったようで、私に目を戻してかすかに首をかしげた。
私がうなずくと、彼はためらわず素直に立って、窓の下まで来た。
「馬の番?」私は聞いた。
彼は笑ってうなずいた。
「そこはぬれるから、こっちに入りなさい」私は言った。「馬は、ここの窓からの方がよく見えるから」
彼は笑い声の聞こえている建物の方をちらと見、そして私を遠慮がちに見た。
「私は今日は、客をとらないの。昨日から風邪ぎみだから」私は言った。「入ってきても、うつるから、だめよ、私に近づいては」
すると彼は笑って、さっさと入口をくぐって入って来た。私が目で示した窓のそばの椅子に座って、外套をひっぱって居心地よく座り直しながら、馬たちがちゃんと見えるかどうか確かめている。
「大丈夫でしょう?」私は、炉の火をかきたてながら言った。
「ええ」彼は振り向いて、ていねいに答えた。「ありがとうございます」
まだ、売春婦への口のきき方を知らないのねと思うと、何だかおかしくて、少し悲しかった。年上の兵士たちと酒の席に出れば、すぐにのみこんで身につくことではあるのだろうけど、そう思うと余計に。

◇◆◇

私は火をかきたてながら、少年兵の様子を盗み見た。彼は楽々とその場所になじんでいるようだった。窓辺に頬杖をついて、馬たちと、ふりしきる雨を見つめている。きれいな形の唇が時々小さく開いて、かすかにのびあがるようにして雨の向こうに目をこらすのは、向こうの木々や石垣のあたりに、鳥か、犬か、何かが動くのを見つけて注意しているのらしい。
…この子、見張りをしているのね。
あたりまえのことを、ふと思った。
…今は馬をまかされて、それが仕事だから。でも多分、戦場でもこうなのね。こうやって敵を見張っていたんだわ。
…背後の私には、気を配っているのかな。
腕組みをして、私は彼を見つめていた。
…いくつぐらいなんだろう?
兵士たちは、私たちを抱く時、戦場のことは話さない。
少なくとも、私は聞いたことがない。
そして、考えたこともない。
以前に、仲間の娼婦の一人が、そのことで私をののしった。その女は、客のいろんな身の上話を聞き出すのが上手で、それをよく自慢もした。他の女たちもつられて、競争するようにそんな話をした。あんたはどうなの、と聞かれて私は首を振った。そんな話はないわねえ。
お客と話はしないのかい?ただ、やりまくるだけ?
そうさ。私は半身横たわった姿勢のまま、酒をあおって笑った。忘れたくって来てるんだよ。思い出させて、どうするんだね。
皆が急にしんとなり、そして、その女は私につっかかって来た。あんたにゃ誰も話さないやね。あんたは、そんな話をさせないようなところがある。誰だって話したくなんかなくなる、あんたには。
そうだろうね。私はうなずいて、また酒をついだ。そうだろうよ。
それきりまた沈黙が続いた。私はまた何杯か、手酌で飲んだ。でも私がそうしてそこにいる限り、その場の雰囲気はもとに戻りそうになかったので、どれ、と言って私は立ち上がった。洗濯でもして来よう。
私がいなくなっても、白けたままなのはわかっていたのだが。
あれは大人げなかったよ。今でもそう思う。あの女には、あれが誇りで、生きていく支えだった。だから、そうさせておけばよかった。他愛ない作り話の一つもして調子をあわせてやっておけば、それですむことだったのに。
客たちがあの女にする打ち明け話だって、どこまで本当か。あの女だって、うすうす、そのことは知っている。それでも、それをためこんで、人に話して、あの女は生きていく力にしていた。
私の小さい弟が、山で拾った色とりどりの小石や、鳥の卵や羽を箱に入れて大切にしていたのと同じことだ。すてきだね、とあいづちをうってやったら、すむことだった。
あれがもとで何となく気まずくなって、あの女郎屋を私は出た。客の質もまあまあ、実入りも悪くない店だったのに、自業自得というやつだ。
気がつくと私の指は、左の耳たぶに触れている。耳飾りをひきちぎられた痕の古い傷あとは、まだはっきりと指に触れてわかった。

──(2)──

雨の音が静かに続いている。
少年兵はやはり窓辺に座ったまま、ひっそりと外を見ている。
薄暗いへやの中に暖炉の炎の色が赤い。その光が彼の、外套の間からこぼれるむきだしの腕の、若々しい肌を照らしている。
「ねえ、年はいくつなの?」私は聞いてみた。
彼は振り向いて、とまどったように目を見張ったが、すぐ素直に答えた。「十五…もうすぐ」
「今はまだ、十四?」
背伸びした自分に照れたように小さく彼は笑った。「うん。そうです」
私は立って、入口の方に行き、肩掛けをかきあわせながら外を見た。
「やみそうにないわねえ」
少年兵は何も言わず、ただ私の視線を追って、空を見上げた。なまじ返事をされるよりうれしい気がした。
小娘みたいだね。
自分を笑いながら、火のそばに戻った。やっぱり少し背中がぞくぞくしている。火を見たまま、聞いてみた。
「何か食べる?餅でも焼こうか?」
「食べ物は、もらってるんです」彼は外套をかきのけて小さな包みを出して見せた。「水をもらえたら…」
「今、お湯をわかしてあげる。それから、それはとっておいで。ひょっとして皆、夜までいるかもしれない」
彼はうなずいて大切そうに包みをしまった。
小娘みたいと思ったが、考えてみれば私は、この年頃の男の子と遊んだり、話をしたりしたことはないのである。
村を出る時、弟はまだ小さく、それからはずっと年かさの客の相手しかして来なかったから。
餅の焼ける匂いがただよい出すと、少年兵は敏感に振り向いた。ちょっと目を輝かすようにして、炎の前に並べてある餅を見た目が、まだ子どもだった。
「もうちょっと待ってね」私は言った。
彼はうなずき、私に聞いた。「弟、いるの?」
私は笑った。この言い方では、わかられてもしかたがないだろう。「いたけれど?」
彼がちょっと悪いことを聞いたのかというように、目をとまどわせたので、気にしてないしるしに聞き返した。「あなたは?」
「弟じゃないけど、基地に遊びに来る小さな子がいる」
「おとなしい子?」
「ううん、どうかな?この頃ちょっとなれてきて図々しくなったかな?」彼は外套をかきあわせた。「もう、困るんだ。高いところに登りたがって」
「子どもは、皆そうね」私は肩掛けのはしに焼けた餅をくるんで、少年兵のところに持って行ってやった。 「弟もよく、屋根や木に登りたがった」
「僕はちがうよ」彼は餅をうけとって、手の中でころがしてさましながら言った。「そりゃ、登れと言われたらどこにだって登るけど、自分からは行こうなんて思わないよ。小さい頃、兄たちからいたずらされて、よく棚の上や屋根の上において行かれたから、あれでいやになって」彼は餅をひとくちかじって、うれしそうに深いため息をついた。「これ、あったかくって、おいしいな」
「もっと食べなさい」私は壁によりかかりながら言った。「私の弟は、登るのも好きだったけど、飛び下りるのも好きだったから、けがするんじゃないかって恐かったわ」
まっ青な空。雪をいただいた峰。それが突然、ぱっと目にうかんで、すぐ消えた。弟の笑顔の後ろに、いつも見えていた空と、山々。
「ああ、その子も飛び下りるのが好きで…っていうか、飛び下りて、僕に抱きとめてもらいたがって、わざと高いところに登るんだ」彼は、窓の外に目をやりながらため息をついた。「一度、呼ぶのを無視したら、勝手に飛び下りて、死んだまねをした」
「あなたがあわてたのを見て、喜んだんでしょうね?」
「ひと月近く、思い出してはうれしがってた。僕は思い出すたび、怒ってるから、その話になると返事もしなくなるのに、それがまた、うれしいらしくて」
「子どもって、人が自分のことを死ぬほど心配してるのを、たしかめるのが好きなのよ。弟もよく寝床で、私にかじりついて聞いた。僕が死んだらどうする?いなくなったらどうする?って。バカな子。私がいなくなったらどうするか、自分は考えもしないで」
「ずっといっしょに寝ていたの?」
「十一の年までね」
まだ暗い、寒い夜明け。眠っている弟を私はていねいにかけぶとんでくるんだ。小さな荷物を腕にかかえて、迎えにきた男とともに馬車に乗った。父は出て来なかった。母は泣いていた。
「僕のところに来る、その子も」彼は私を見上げて笑った。「姉さんが、そのくらいの年なんだよ。いっしょに寝てくれなくなったって言って、とても寂しがってた」
「しかたがないわね。女はもう、その頃大人になるんだし」
「そう言ったら、その子怒って、自分は大人にならないって」
「へえ…それも子どもは、よく言うのよ。大人扱いしてもらいたがるくせに」
「ほんとに。あげくのはてには僕に甘えて、抱いて口づけしてくれってせがんだ」
「してあげたんでしょ?」
「うん、でも、思いきり抱きしめたから、息がつまったらしくって、その後、さんざんせきこみながら怒ってた。おまえ、女の子を抱くときはいくら何でも、もっと力を抜けよな、嫌われるぞ、とか言って」
私は吹き出した。「いくつ、その子?」
「七つ」彼も笑った。「言うことはいちいち、憎たらしいんだ」
「いいとこの子みたいね。上官のお子さん?」
「うん」彼はうなずいた。「うん…かなり、いいとこの子」
「それじゃ、お相手、大変だ」
「もっと、わかるといいんだけどな、あの子のことが。僕は弟いないし、近所にも、あんな子はいなかったし」
「おうちは南の方なの?あなた」
「うん」彼は私を見た。「行ったことある?」
私は首を振った。「お兄さんといっしょに来たの?そこから?」
「うん。兄たちが軍隊に入りたがって、僕にもいっしょに来いと言って」
「じゃ、今もいっしょ?」
彼は首を振った。「去年の夏の戦いで、二人とも行方不明なんだ。戦死ってことになってるけど、脱走したのかもしれない」
「おやおや」私はつぶやいた。
私と目が合うと、彼も笑い出した。
「そういうところ、あったんだ。昔から、二人とも」
「いなくなりそうだった?」
「うん。しょっちゅう僕をおどかしてた。おれたちがいなくなったら、どうする?って。兵営や野原でもよくからかわれて、おいてきぼりにされたけど、でも本当にいなくなることはなくて、その内必ず、どこかから出てきたんだよ」
「じゃ今も、どこかに隠れて、あなたをこっそり見てる気がするわよね?」
「うん。そんな気がしてしまう。だから、寂しいっていうより何だか、今でもだまされてるみたいで…」
そう言いながらも彼は窓の外の馬たちの方を気にして、ちらちら見ていたが、ふと、別の物音を聞きつけたように、食べかけていた餅を口に押し込み、剣に手をかけて立ち上がった。
誰かが、向こうのへやからこちらに来る足音と私も気づいて振り返りながら、でも、そのすばやい身のこなしに、ああ、こんなに幼く見えても、この子、前線の戦闘から帰って来たばかりだったんだわ、とあらためて思った。
いてもいいのよ、と言おうとして振り向いた時、窓際の椅子にもう彼の姿はなかった。

──(3)──

入ってきたのは、ここで一番若い、売れっ子の娼婦だった。あどけない顔で、胸も腰もまだ細いが、床上手との評判がある。あああ、と火のそばに足をはたげて座りながら、彼女は舌打ちした。
「いつも思うんだけどさ、姐さん。いいやつから順に死ぬんだね、戦争って。くだらないやつばっかり生き残って、帰ってくるよ」
「生き残って帰って来るから、くだらないやつになるんだろう」私は笑った。
「あいつらは皆、女が嫌いなんだよ。女が憎くてたまらないのさ」子どもっぽい、高い声で娼婦は言った。「女は戦争に行かないから。女は死ななくてすむからね。だから、戦いで死んだ仲間の仕返しに帰ってきて、あたしたちを自分らの剣でぐっさり突き刺したがるのさ」
「そう言ったのかい、あの人たちが?」
「顔に書いてあらあね」娼婦はくすくす笑った。「オマエガニクイ。ダカラコンヤハヤッテヤル。へん、戦ってくれなんて、誰が頼んだよ。恩に着せてほしかないね。吐き気がすらあ。餅があるじゃないか。食べてもいいかな?」
「いいけど。腹へってんの?」
娼婦は答えず、安物の腕輪をいくつもはめた丸っこい手で、餅をわしづかみにして、かぶりついた。「これから一晩、へなちょこ野郎をしゃぶって、こすって、ごきげんとるんだ。腹がすいてちゃ、つとまんねえや」
「じゃ、そろそろ酒盛りは終わりかね?」私は聞いた。
「いいや、もうしばらく続くだろうよ。お相手の品定めにまだ手間取ってるし」
「誰かがお茶をひきそうなのかい?」
「でぶと死に神は、危ないよ」娼婦は勢いよく立ち上がり、餅をもぐもぐほおばりながら、小走りに走って戻って行った。
静かになったへやの中を、また雨の音が満たした。暖炉の炎がはぜる、かすかな音とまじりあって。
へやのまん中に立ったまま、私はそっとあたりを見回した。
少年兵はどこにもいない。
窓に近寄って、外をのぞいて見た。雨が静かにふっているだけで、木陰の馬たちも動かない。

◇◆◇

どこに行ったのかしら?
また、へやの中を見渡した。
もし、いるとすれば、まだ見ていないところと言えば…
古い衣装やがらくたをつっこんである、すみっこに行って、たらしてある布の前に私は立った。彼が中にいるのなら、背後の明かりをうけて私の影は、たれ布に浮かび上がるだろう。私が近づいてきたのはわかるはずだから、びっくりして切りつけるようなことはしないはずだ。でも、そもそも、ここにいるのかしら?
たれ布をかきのけて見ると、そこの箱や樽の間にはまりこむようにして、彼がこちらを見上げて座っていたので、私は笑い出した。「窮屈じゃない?」
「勝手に入って、悪かった」彼は立ち上がろうと身体をよじりながら言った。「急いでたもんだから」
「かくれなくてもよかったのよ」手をつかんでひっぱり出してやりながら、私は言った。「友だちが一人、息抜きに来ただけ」
彼が、ちょっと私を見つめた気がした。さっきの話を聞いていたのにちがいない。どう思ったのだろう?
その時、彼の足元で何かが小さい音をたて、彼が気にして見下ろした。そしてすぐ、楽しそうな目になって、身体をかがめて箱のかげにあった何かをひっぱり出した。
「これ、たて琴?そうだよね」
「ええ。去年までいた子が、おいて行ったのよ」
その若い娘が妊娠して客をとれなくなり、せっぱつまって裏の川に身を投げて死んだことを言おうかどうしようか迷っている間に、彼はうれしそうに、飴色に光る木製のたて琴を抱えて、弦をはじいて見ていた。
「僕の村で皆がひいていたのとは、少しかたちがちがうなあ」
「ひけるの?」
「ううん」彼ははにかんだように笑って、たて琴を私に差し出した。「兄の一人が持っていたけど、さわらせてくれなかった。大事にしていて」
「これはそんなに、いい品じゃないわ」
私がうけとって、つまびきながら暖炉の前に戻って行くと、彼は私について来て、私の椅子の足元に座った。
「何かひいてみてくれる?」
暖炉の炎が、彼の黒っぽい髪の毛を金色に輝かせている。指をさしいれて、かきみだしてやりたかった。でも、客に自分がいつもされていることを、彼にするのはいやだった。私はたて琴をかかえ直した。そして、他愛ない恋の歌をひいた。
彼はうっとりと、小さく口を開けて聞き入っていた。本当に音楽が好きなのだ。一曲終わると、また?というように首をかしげて目を上げるので、つい二、三曲歌ってしまい、喉が痛くなったのでやめた。もうおしまい?という顔をしている彼の手に、私はたて琴を持たせてやり、椅子をすべりおりて、彼のそばに座った。
「教えてあげるわ。簡単だから」
彼はびっくりしたように私を見たが、素直にたて琴をかかえ直した。私になかば後ろから抱かれるようなかたちになっても気がつかないらしく、指や腕にさわられて、つかまれて位置を直されても、ちょっと気にして目をやっただけですぐ平気になり、「こう?」「こっち?」と夢中で聞き返して、思うとおりの音を出すのに熱中しているようなので、私は少しだけ腹が立った。私のあごの前すれすれにある彼の、日に焼けてはいるが全然血が上っても赤くもなっていない、きれいな耳か、ほおに、軽くかみついてやろうかと思った。ふっと、この子、女の身体が近くにあるのに慣れているのねという考えが頭をかすめた。くっつかれたり、さわられたりして、それで何事もおこらないというようなのに。
彼はぐんぐん上達した。自分では覚えていなくてももともと故郷で、他人の楽器をひかせてもらっていたことがあったのかもしれない。手先も器用だし、耳もいいようだった。「あっ、そうか」「じゃ、こうなんだ」などとつぶやきながら、次々、私の説明をのみこんでいく様子は、打てば響くような反応のよさで、恐くなるほどだった。のんびりと素朴に見える外見で、得をしてるのか損をしてるのか。この子は見た目よりずっと、鋭く、頭が切れる子だ。油断ができないと、ふと思った。
でも、私がさっき歌った歌を、どうにかひけるようになって、ひきおわった後、いとおしそうにたて琴をなででいる彼はやはり無邪気な子どものようで、私は「それ、誰も使ってないのよ」と言った。「持って帰ったら?」
「いいよ」彼は首を振って立ち上がり、自分で思い切るように、もとあった箱のかげに大切そうにたて琴をおいた。「兵舎においてたら、こわすかもしれないもの。ここにおいといて、また来て習う」
…また来て習う?
それがどういうことを意味するのか、どんなつもりで言ってるのかわかってるのかしらと思って、彼の横顔を見た。でも、全然気づかないようにしゃがみこんで、幸福そうにたて琴にふれている彼を見ると、私に会いにくることが、売春婦を買いにくることだということに、まるでまだ、思いいたってないのがわかった。
頭がよくて鋭い分、夢中になるとひとりよがりで、てきぱきしてしまうこともあるのね。
そんな男にはよくお目にかかる。優秀でカンがよくて、何でも自分でとりしきりたがるが、肝心なことには気づかない。今までそんな客のことをかわいいと思ったことは一度もなかった。でも、彼のその様子を見ていると、初めてそういう、利口な男の間抜けぶりが、おかしくて、いとおしかった。
たれ布を下ろして立ち上がった彼は、外が薄暗くなりかけているのにびっくりしたようだ。もう一度、馬を見てくると言って、外套を頭からかぶり、雨の中に飛び出して行った。

──(4)──

私は火のそばに戻って、炎に手をかざした。
帰ってくるのが当然のように、あの子は飛び出して行った。
帰ってくるのが当然のように出て行った人を待つのは、こういう気持ちなのだろうか。私がこうして待っているのを、何の疑いも持たずに信じきって、帰ってくる人を待つという気持ちは、こんなものなのだろうか。
私は黙って、火を見ていた。寒けはだいぶ、おさまってきたようだ。
外で人声がしたようだったので、立って行ってのぞいた。向こうの建物の戸が開いて、流れ出す光を背に、兵士の一人らしい影が立っているのが見えた。その前に立っている彼に向かって、何か言って笑っている。
見ていると兵士は引っ込み、戸が閉まって外は暗くなった。白く細かく糸のように落ちる雨の中を、彼がこちらに走って来た。
私は火の前に戻って、入ってきた彼に「馬は大丈夫だった?」と、背を向けたまま聞いた。
「うん、軒下につなぎ直した」彼の声がした。「あそこなら濡れない」
「盗まれないといいけど」
「利口なのが一頭いて、何かあったら多分あいつが大騒ぎする」彼は私のそばに来て、濡れた外套を脱いで火のそばに広げた。「皆、泊まっていくから、僕にも納屋かどこかで寝ろって」
「それなら、ここで休みなさい。その寝台を使っていいわ」私は言った。「もう少ししたら私も寝に行くわ。鎧を脱いだら?」
何か言いかけて彼がまたちょっと耳をすますような顔になった。足音が近づいてきた。今度は彼はじっとしていた。戸があいて、もうかなり酔っているらしい二人の娼婦が入ってきた。
「あんた、いいところにいた」一人が私に言った。「水を飲ませてよ」
「風邪の具合、どう?」もう一人が椅子に座りながら言った。
私は二人に水をついで渡した。「まあまあだ。そっちは?」
「まあまあさ、こっちも。あら、この子、何?」女はけたたましく笑い出した。「おじぎなんかしちゃって、かわいいの!」
「馬の世話につれて来られた子だろ」もう一人が言った。「さっき、誰かが言ってたじゃないか。きっといい兵士になるって」
「ああ、あの子…あんた、目がいいんだって?敵を早く発見したから、皆が助かったんだって?」
「それだけじゃないよ。初陣にしては戦い方もみごとだったって、あっちの大将がほめてたよ。へえ…あたし、こんな子だとは思ってなかった、何となく。まだ、まるっきり子どもじゃないのよ。泊まって行くんでしょ?鎧、脱ぎなさいよ」
「着たままでも眠れるんだよ」彼は火のそばに立ったまま言った。
「そんなことしてると、恐くて永遠に脱げなくなるわよ」女は脅かした。「そうなったやつを知ってるからね。誰かに襲われそうで心配で、女とやってる時も鉄の鎧をつけたまま、がしゃがしゃ音たててたの」
「あれ、この子、笑ったりして、嘘と思ってるんだろ」もう一人が言った。「ほんとだよ。娼婦は嘘は言わないよ。どっちみち、半分裸で戦わなくちゃならない時もあるかもしれないんだから、鎧のないのに慣れてた方がいいんだって。脱ぐの、手伝ってあげようか?」
彼は首を振った。「大丈夫です」
困っているより、ちょっと面白がっている感じだった。また私は、この子、女が身近にいて、遠慮のないやりとりをするのに慣れていると、さっと感じた。その一方で、女を抱いたことはない感じもした。年のせいだけではない、まだ何も知らないから平気でいるというような、遠慮がちでのんきな感じがどこかにあった。
「雨の中でぬれてたから、雨宿りさせてやったのさ」私は二人に説明した。「だいたい、そんな立派な子を何で、馬の番なんかに連れて来たりするのかねえ、今夜の兵隊さんたちは」
「別の子を指名したら、その子が風邪ひいたとかで、あいつが勝手について来たんだ、って言ってたけどね」一人が言った。
「ほんと?友だち思いだねえ」もう一人が、冷やかした。ちょうど鎧を脱いだ彼が、くしゃみをしたので、女たちは大笑いした。
「そら、ごらん。あんたも風邪ひきかけてるんじゃないの?」
「あたしのが、うつったかな」私は毛布を探して、持って行って、椅子に座っている彼の肩にかけて、上から軽くたたいてやった。「ぞくぞくしない?」
「うん、大丈夫です。僕、昨日ちょっと…川に入ったから、多分それでです」彼は私を見上げて、安心させるように首をふった。「あなたのが、うつったんじゃないよ」
「泳いだの?」
「泳いだ帰りに、いっしょに行った女の子の髪飾りがなくなって、何べんも川にもぐってさがしたから」
「へえ!」二人の娼婦は笑って、火のそばに来て、私たちの近くに座った。「まあ、お安くないね。何、その女の子?あんたの何?」
彼は全然、動揺した風がなかった。まるで人というより品物のことを話すような、ちょっと冷たい口調でさえあった。「上官の…娘さん」
「そりゃあ、出世の糸口だ」女の一人が彼のふくらはぎを平手でたたいた。「さっさと押し倒して、ものにしちまいな。それとも、もうやっちまったのかい?」
彼は笑った。「そんなんじゃないんだよ」
「はあん…お仕えして、お守りしてるってわけかい?」女の一人が大げさにため息をついた。「いいねえ、いいとこのお姫さまは!男が守って、戦ってくれる、川にももぐってくれる。あたしたちを守ろうとして戦ってくれる男なんて、いないからね」
「また、どうやって守るのさ?」もう一人が言い返した。「誰から守るのさ?あたしたちには、家族も、国もないんだよ。人の夫とでも、息子とでも、父親とでも、敵とでも、味方とでも、おかまいなしに寝るんだよ。守りようがないだろう?だいたい、あんたね、それを言うなら、妻だって、王妃さまだって、男が守れたためしがあるかい?首尾よく守れたっていうことは、負けた方の男たちは守れなかったってことなんだ。守られたと同じ数の女たちが、敵の男にくみしかれて、ひいひい泣かされたあげくに殺される。死に神だって、あれはあんた、もともと、どっかの姫さんなんだろ?」
「ああ…本人はそう言ってるね。でも、いくら昔はお城か宮殿で、人にかしづかれてたか知らないが、一族が皆殺しになったか知らないが、だからって、あの不景気な面はないやね。いいかげんに気持ち、きりかえてくんないと、客も仲間もまいっちまう」
「でも、あんた、あの陰気臭い様子がいいって、抱きたがるお客もいるんだから、世の中わからないやね」
「そりゃ、ひねくれた詩人や学者はね。死に神は美人だし。でも、兵隊さんたちにゃ向かないよ」
「死に神には、今夜はお客がつきそうかい?」私は聞いた。
「やりたくて来てる男ばっかりだから、今夜はあいつもまあまあ、お茶はひかずにすみそうだよ」女の一人が笑った。「でも、あたしのカンじゃ、あいつきっとその内に、客に殺されるね。殺してと毎晩泣きながら頼んでるらしいから。本気にするやつがきっとその内に出て来るよ」
「バカだからね、男ってやつは。死に神みたいに頼むやつは、ほんとは死にたかないんだ。もっと死にたい思いして笑ってるやつが、いくらでもいるってのにさ。あたしたちだって、いろんなことを思い出したらやってけない。恋人が目の前で死んだの、息子が腕の中で飢え死にしたの、母親がならず者にさらわれたの。それを皆、冗談にして笑って生きて行ってんじゃないか」
「…そういうことが皆、いつかは終わると思わないか?」少年兵がおずおず言った。「もし、もっと…」私たちが思わず息を殺して見つめたので、彼は口ごもった。「世界が豊かになって、飢える人がなくなって…僕らの国の文化が人々の中に、秩序をきちんともたらして…」
沈黙が落ちた。炎の音と雨の音以外、聞こえるものは何もなかった。
まもなく、女の一人がせきばらいして静かに言った。「そうなるといいね」
もう一人がかすかに笑った。「そう思って、戦ったんだね?」
どちらからともなく、二人は立ち上がった。「長居をしたよ。もう行かなくちゃ」
かわるがわるに二人はそっと、少年兵に近づき、こわれものでも抱くように軽く腕を回して髪とほおに口づけした。そして、黙って出て行った。
まもなく、向こうのへやの方で、戻った二人を迎えてか、また賑やかな嬌声が上がった。

──(5)──

少年兵は何だか目に見えてしょんぼりしている。
「お酒でも飲む?」私は言ってみた。
彼は黙って首をふり、それからぽつんとつけ加えた。「ありがとう」
「雨宿りなんかさせたばっかりに、おかしな話を聞かせたね」私は言った。「娼婦の話を真に受けちゃだめだよ」
彼は素直にこくりとうなずいた。私は聞いた。「あんたを川にもぐらせた女の子って、ひょっとして、さっき話してた子の姉さん?」
「うん」彼はうなずいた。「そう」
「手も出せないほど、いいとこのお嬢さん」
彼はちょっと笑った。「そう」それから、何か決心したように言いかけた。「あの…」
「何?」
「女の人って、皆、そうなのかな…」
「何が?」
「今の人たち…あの子に似てた」
「え?」
娼婦と、いいとこのお嬢さんが?と、私が笑いかけると、彼は言った。
「何だか、すごく怒ってたよね。あの子も、いつもそうなんだ」
私はことばを飲み込んだ。何を言いかけていたかも忘れた。
「でも、優しくて…とても優しい子だっていうのもわかるんだ」
雨の音が続いていた。
「何に怒ってるのか、わからないんだ。僕に怒っているのかもしれない。でも、僕…何をしてほしいのか、どうしたらいいのか、よくわからないんだ。わからないのがバカなんだって言われてるような気になることもある」
泣くまい、と私は思った。「そう?」
「わからせてはいけないって、必死でかくされているような気がすることもある…ひょっとしたら…僕のことをとても嫌いで、それを知られちゃいけないと思っているんじゃないかって」
「…」
「さっきの人たちも、そうだった」
「…」
「僕に、すごくひどいことを、言いたかったんだと思う、ほんとは。でも、言ったら、僕が耐えられないと思って、それで…抱いてくれたんだよね?」
風邪とはちがう寒けが私の背筋をはいおりた。
何て頭のいい子だろう。
「信じてもらえなかったんだよね?」
こんな悲しい声を聞いたことがなかった。私は吐息のように笑った。
「あなたに言っても、しかたのないことだったからでしょう」
「僕を、憎んでいると言っても?」
「世界を救ってくれと言っても」私は首を振った。「それって、でも同じことかしらね…」そして、言い直して見た。「世界を救ってくれないから、あなたを憎んでいると言っても」
「でも、言ってくれなきゃわからない」彼はつぶやいた。「一人で考えろたって、それは無理だ。何をしてほしいのか、言ってくれないとわからない」
「わかっても、どうしようもないことがあるわ」
「そんなの、言ってくれないとわからない」片意地に彼はくり返した。「どうして、言ってくれないのかなあ?」
「その子は、うすうすわかっているのよ」私は窓の外を見ながら言った。「言えば、あなたが何でもしてくれるってことを。だから、恐いの。自分の苦しみや悲しみを皆、あなたが理解するのが。同情して、味方になってくれるのが。その子を苦しめているいろんなものと、あなたが戦おうとしてくれるのが。そのためにあなたが苦しんで、傷ついて、滅びるのを見るのが」
彼がそっと私の方を見たのがわかったが、私は彼を見なかった。
「その子が、あなたを愛すると同じくらい、あなたを信じたら、いつかきっとあなたに言うわ。死ぬほど、あなたが憎いって。自分を苦しめている世界の一部分であるあなたがとても憎いって。その子が強い、賢い子で、自分と同じぐらいあなたのことを、強くて賢いと思ったらね」
どさどさと大きな重い足音が近づいてきて、私たちは二人ともそちらを振り向いた。

──(6)──

入ってきたのは、皆にでぶとあだ名されている、太った、みにくい娼婦だった。髪はふさふさと豊かなので、せめてきちんと編めばいいのに、いつももしゃもしゃ乱していて、服の着方もだらしないので、ひどく汚い感じがする。
「ああ、酒盛りもやっと終わった。今から寝床のお勤めだァ」
けだるい声で言いながら、女はどさりと火の前に身体を投げ出す。そっと窓辺の椅子に戻った少年兵にも気がつかないらしい。離れていても、酒の匂いが鼻をついた。
「だいたいさあ」ぶよぶよと太い腕を床について、女はろれつの回らぬ口調で言った。「人をバカにしてるよ。何で男が戦って、女はそれを慰めるって決まったのさ?あたしに男を慰められるわけないだろ。きれいじゃないんだから。自分だって知ってるよ。それなのに、女っていうだけで、こんなことしてなくちゃならない。おかしかないかい?得意なことをやらせてほしいよ。人を殺すとか、戦うとかさ」
「殺したことがあるみたいだね」私は笑った。
「まだないよ。でも、あたしには殺せる。ああ、どんなやつでも」女は前のめりになって、ふらふらと首をゆすった。「死んだって平気だ。こんな毎日よりずっとましだ。男にも、女にも、相手にされず、バカにされ、いつも一番だめっちい男が、しぶしぶあたしを買って、ため息まじりで抱くんだよ。殺された方が、ずっといい。ねえ…何でだよ?何でなのさァ?男が女より強いとか、女を守るとか女のために死ぬとか、えらそうなこと言うんなら、どんなみにくい女だって、どんないやしい娼婦だって、愛して守ったらどうなんだよォ?自分の気に入ったものだけを守るなんて、強い者やすぐれた者のすることじゃないよなァ?」
「ああ、この世にはさ」私は言った。「強い者も、すぐれた者も、いやしないんだ。人は、自分のほしいものを守ったり、奪ったりして、自分のものにしようとする。ただ、それだけのことなんだよ。そう思ったら、すむことだろ」
「へええ」女は、どんよりした目を私に向けた。「あんたはそんな風に思っているのかい」
「それが、ほんとのことなんだもの」私は言った。「だから、あんたが男のように戦って、何かを守りたいと言っても、男たちは承知しやしないよ。自分たちの取り分が少なくなるだけだもの。競争相手はふやしたくない。それは女たちだって同じさ。あんたが、ただの、みにくい、守りたくない、ほしくもない女のままでいてくれた方が、ありがたいんだよ、男たちにも、女たちにも」
「わかったよ。あんたの言いたいことは、よく」女はじっと考えこんだ。「それじゃこうだよ。あたしが手を組まなきゃならないのは、あたしと同じように、だめっちくて、皆に毎日、バカにされてる男たちさ。戦うのがいやな男、死にたくない男。たとえ愛する女のためでも、戦ったって勝ち目はないし、死ぬのは絶対いやだってやつ。そんなやつは、あたしと同じ気持ちで毎日生きているはずさ。だから、そいつらが皆、弱音を吐けばいいんだ。もういやだ、って。耐えられない、って」
「弱音を吐くには勇気がいる」私は笑った。「戦う勇気もない男に、そんな勇気があるものかね」
「ちがいない。ははは。どうしようもないしくみだね。ははは。どうしようもない」女は陽気な、はしゃいだ口調になり、浮かれて自分のひざをたたいた。そして、その口調のまま、「ねえ、四年ほど前にさ」と続けた。「明日は決戦という戦場で、男に買われたことがあるんだ。そいつが言ってた。ずっと昔、子どものような若い娼婦を買って、あんまりその子が幼かったんで、聞いたって。初めて客をとった時、どんな気持ちだった?痛かったか、恥ずかしかったか、泣いたのかって。そうしたら、その娼婦が聞き返したそうだ。初めて人を殺した時、あなたはどんな気持ちがしたの。私はとっても、それが知りたい、って」
私は笑った。「いやな娼婦だね」
「男は、自分があの時どうして、あんなに怒ったのか、今でもわからないと言ってたよ。その娘をなぐりつけて、耳飾りをひきちぎった。折れた鼻と耳から流れる血で娘は血まみれになった」
「あんた、もう行った方がいい」私は言った。「客を待たせちゃ、まずいよ」
「あんたの鼻はよく見ると曲がっているし、左の耳には傷痕があるよね」
「その男、死んだの?」私は聞いた。
「ああ」女はうなずいた。「次の日の戦いで、その部隊、全滅したからね」
「面白い話をありがとうよ」私は言った。
女はのろのろ立ちあがった。「バカな話さ」彼女は言った。「忘れとくれ…きっと、あんたの言うとおりだろ。あたしが自分のみにくい姿を、鏡で見るのが耐えられないように、誰も考えたくないやね、自分がどんなにみじめかなんて。今、やらされていることが、いやでたまらない、がまんできないなんて気づいたら、生きている力までなくなってしまう。うまく、できてらあね。何もかも。ははは。ようく、できてらあね。どうしようもないしくみだね。どうしようもない。いいんだよ、どうせ、何だって同じさ。その男は死んだし、あんたもあたしも、その内に死ぬ。そう思ったら何だって耐えられるさね。いつかは皆、死んで、腐って、土になって、あとかたもなく消え去るんだと思えば。そうやって、生きていくしかないんだ。誰も、かれもがね」
私は、返事をしなかった。
女は、灰色のぼろ雑巾のように、足をひきずりながら、よろよろと出て行った。
少年兵のいることを忘れていたのかどうなのか、私は自分でわからなかった。
彼がいることをずっと意識してしゃべっていたような気もする。
けれど、時々、完全に忘れていた瞬間もあったようでもある。
彼のいるはずの方を振り向かないまま、ひっそりと私は火の側に戻った。
酒盛りも終わった建物全体が、今は静かな雨の音に包まれていた。
夜の深さが、闇の重さが、一段と増していくようだった。

──(7)──

どのくらい火のそばに座ったまま、炎を見つめていたのだろう。
首をねじってふりむくと、少年兵も静かに窓辺に座ったまま、黙って外の闇を見ていた。
「ごめんなさい。眠いよね」
私が声をかけると、彼はこちらを向いて笑って首を振った。
「窓を閉めてくれる?」私は立ち上がった。「私ももう、寝に行くから、ここでゆっくりおやすみなさい」
彼は窓を閉めて、火の側に来た。片膝折って暖炉の前に座り、軽く片手を炎にかざしている。
「寒いの?」
「ううん、大丈夫。僕、ただ…」彼は口ごもった。「ちょっとびっくりして」
「あの女?さっきの?」
「うん。あの人が最後に言ったことね」
何と言ったのだったかしらと思いながら聞いた。「どうかした?」
「僕がすごく尊敬して、いろんなことを教わっている…学者みたいな人がいるんだけど」彼は、その人のえらさをうまく説明できているのかどうか心配で、たしかめるかのように、ちらと私の顔を見た。「本を書いたりしてるんだ。きっと何千年もあとまで、残るにちがいないような立派な本」
無邪気でいちずな、恋人のことを語るかのようなうっとりした口調だった。私は微笑んだ。「そうなの?」
「うん。僕、ときどき、その下書きとか見せてもらうんだけど、この前見せてもらった下書きに、あの女の人がさっき言ったのと同じことが書いてあったんだよ」
不思議そうにまばたきしている灰青色の目に、私は笑いかけた。ふとからかってみたくなった。「そのえらい人、誰か娼婦に聞いたんじゃないの?」
彼は首を振った。「こんなところに来るはずない人なんだ」
「哲学者も貴族も、おしのびでよく来るのよ、こんなところには。ふだん上品ぶってる分、やらせることはえげつなくて金には汚いし、最低の客だって言う娼婦もいる。あたしは知らないけど、相手したことないから」
「あの…ちがうんだ」彼はもどかしそうにさえぎった。「そんな意味じゃないよ。来るはずがないって言ったの。その人、そんなに…自由に出歩けない人なんだ」
「身体でも悪いの?」私は首をすくめた。「もし、その人が娼婦に会ったこともなくて、娼婦の言うのと同じことが書けるのなら、あんたの言う通り、えらい人なのかもしれないね」
彼は、けげんそうに私を見た。
「だって、私たちのような人間は数かぎりなくいるけれど、そんな人間の思いや言葉は、いつだって、水に流れて、風に飛ばされて、消えてしまうもの。誰も聞きとめないし、書きとめない…木や、草や、炎と同じよ。あとかたもなく、忘れられて…何ひとつ、残らない」
ゆっくりと彼が、息をはずませはじめているのに気がついた。自分では気がついてないのだろう。でも、ひとりでに、まるで長いこと走ったあとのように、鎧を脱いでむき出しになった、みずみずしく炎に輝く肌の肩が、胸が、上下しはじめていた。
「墓も残さず、思い出も残さず、何を考えていたのか誰にも知られないままで、この世から消えていけたらと、私はいつも思っているの」彼に近づき、指先でその大きく息づいている肩を静かになでながら、私は言った。「望むまでもないこと、きっとそうなる。数えきれない人間がそうやって、ただ消えていくんだもの」
彼はわずかに首を動かし、自分の肩の肌の上を静かになぞる私の指を黙ってじっと見つめていた。何か、つらいものを飲み込むように、そのしなやかな喉が動いた。ささやくよりもまだ低い、やっと聞き取れるようなかすかな声で彼は聞いた。「あの人が話していたのは、あれは、あなたのこと?」
「どの話?」私はゆっくり聞き返した。「たくさんあったから、忘れたわ」
私からそらした彼のまなざしが、悲しみにあふれた。こんな悲しげな表情がどうしたらできるのだろうと思うほど悲しげなかげろいが、頬のあたりにただよった。そして、彼は、黙っていた。
静かに私は聞き返した。
「初めて客をとった時のことを聞かれた女の話?」
彼は答えなかった。まるで泣くのをおさえようとしているかのように、肩の筋肉がこわばり、身体が固くなったのがわかった。私は指をとめ、ゆっくりと続けた。
「初めて人を殺した時の気持ちはと聞き返して、殺されかけた女の話?」
「もう、いいです」彼はつぶやくように言って、首を振った。「すみません」
「何がなの?」
「…」
「聞いたのが?」
「…」
「あなたが、あやまることではないわ。それを言うなら誰だって、誰かにあやまらなければならない」
私は手のひらを広げて、彼の首筋にあてた。熱くほてって脈打つ血の流れが、いっぱいに伝わって来た。かみしめて、こわばっている彼のあごの下に指をさしいれてくすぐると、彼はようやく笑って首をそらし、身体がゆるんだ。首筋からすべり落ちた私の指が胸にふれても、うつむいた私の髪が顔をなかばおおっても、彼はじっとしていたが、私の指先が肌着の肩にさし入れられた時、私が何をしようとしているか、確信が持てたらしい。もの問いたげな、静かな目を私に向けて、素直なまじめな口調の低い声で言った。「僕はお金を持っていないよ」
私はほほえんで、首をふった。「いいのよ」
雨の音が、私たちを包んでいた。彼の唇が頬をすべって私の唇に近づいて来て、彼が最初にこの建物に入ってきた時からずっと、目でたしかめていたそのかたちを、私は自分の口と歯と舌でゆっくりとなぞった。たがいの身体のぬくもりを残したままで床に落ちた腰帯や衣が、はだしの足にひざに、あたたかく触れてもつれた。抱き合う私たちを、地の果てまでふりしきる雨の音がとりまいていた。長いため息も、かすかな叫びも、永遠につづくような静かな雨の音といりまじった。髪の間を指がすべり、肌という肌がふれあい、身体がひとつにとけあって行く中、雨が屋根をうち、木々をぬらし、馬たちの背に、大地の上に、やわらかに、やすらかに、ふりそそぎつづけて行く音は、とぎれることなくいつまでも、ひそやかにひびきつづけていた。

(「雨の歌」終・・・・・2001.2.8.)

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