映画「グラディエーター」小説編街道風景

街道風景 ー人は皆それぞれの歴史を作るー

父が馬を走らせたこの街道が私は嫌いだ。この道をたどっていると、父の悲しみが伝わってくる気がするから。そして「あの男」と、母へのさまざまな思いも。残酷に殺された愛する者の思い出をどのように人がうけとめるのか、私の今の段階でのせいいっぱいの気持ちの整理です。

父は、私と母が残酷に殺されたものと信じ込んで死んで行った。ふとしたいくつかの行き違い、運命のいたずらから。それともそれは必然だったのか?痛恨の思いをかみしめながら、「私」は父の心を知ろうとする。自分たちの死を父はどのようにうけとめ、そして耐えたのか。殺した相手をどのように思い、どのような復讐を決意していたのか。それとも?これはまた、「山賊物語」で登場した、身代わりに焼かれた死体の一家にまつわるお話でもあります。

目覚め

ー1ー

父の、はばの広い背中を今でも夢に見ることがある。
私の背の高さほどもある緑の麦の穂が茂ってゆれている中を、父の背中がわけて行く。大きな船のように前に進んで行く。
下半身は麦の穂にかくれて見えない。麦にまじって雑草も生えていて、父の横にのばした手が、銀の指輪をはめた太く長い指が、ゆったりといとおしむようにそれをなでて行く。麦の穂を。雑草を。
その手につかまろうとして、父に追いつこうとして、麦の中を私は走って行く。
父の身体の向こう、麦が風にそよぐ向こうには、高い丘があって、濃い緑のポプラに囲まれた低いがっしりとした石づくりの家がある。
私の家だ。父と母と、私の。
父は、そちらを向いて歩いて行く。
追いかけて、その手をつかもうと私は走って行く。

いつもそこで、目がさめる。
悲しい夢だったか、楽しい夢だったか、それさえもわからずに。

目ざめたとき、昔はいつも母がそばにいた。
今は妻がいる。秋の太陽のような金色の髪と白い肌の。
時には子どもたちが。赤ん坊の甘い乳の匂いが、重く熱いむつきの匂いが鼻にまつわってくることもある。

けれど今、私は一人だ。
旅の途中だ。
草の中に片ひじをついて、私は起き上がる。
秋だ。
あたりの草は黄ばみはじめ、空気はさわやかだ。
目をこすりながら半身おこして、私は回りを見回す。
少し離れたところで、おだやかに馬が鼻を鳴らす。
顔をふり向けると、遠く白い山々が見える。
アルプスはもう雪か。

青い蝶が飛んできて、そばの草にとまる。
そっと指をのばすと、さほど驚いた風もなく、ひらひらと飛びあがって私のひざのあたりを舞っている。
草をちぎってかみながら下を見下ろすと、灰茶色の石だたみの道は、茂った草が波のようにゆれる間に見えかくれして、左右にそれとわからないほどにゆるやかに曲がりながらのびてゆく。

この道を通るのが、いつも私は嫌いだ。
父が通った道だから。
その果てに待っているものを予感し、そうでないことを期待しながら、夜に日をついでこの道を父は馬を走らせたはずだから。
スペインの、故郷に向かって。
母と幼い私とが暮らしていた、ティヒロの丘のあの家に向かって。

蝶はいつのまにかどこかへ飛んでいってしまった。
私は草のそよぐ下の灰色の街道を見つめている。
ここからは少し小さく見える、馬に乗った旅人、かごをかかえた女たち、くわをかついだ近くの農夫らが、黙々と、あるいは笑いさざめいて行きかう姿をながめている。
幼い日、家の石垣にもたれて私はよくそうして街道を見ていた。
馬を歩かせて、そこから戦地へ戻って行く父を。
父は時々ふり返り、私がいるかどうかたしかめていたようだった。
私は、私と母をおいて戦地に帰って行く父がいつも少し恨めしくて憎らしくて、腹いせに意地悪をしたくて、父からは見えないように茂みのかげや石垣のくぼみに身体をかくしていた。
父がふり返って私をさがすようにしているのを見ると、いつも甘酸っぱい悲しみが胸にこみ上げ、そんな時自分がとても父のことを好きだと感じた。
父の姿が小さくなって顔も見分けがつかないぐらい遠くにはなれてしまうと、私は石垣によじのぼって、その端に腰かけた。
そして、父の姿が小さな点になって丘の向こうに消えてしまうまで、じっと見守っていた。
父が最後にふり返ったにしても、もうそれはわからなかった。それほどに父の姿は遠くだった。
だが父は、ふり返って私が石垣の上にいるのを見ていたのだと、今では私は確信している。
父はとても目がよかった。いっしょに歩いている時、「ほら、あの鳥」とか「あの木の梢」とか指さして私に言うのがよくよく目をこらさないとわからないぐらいだった。
きっと父は、石垣の上の私が見えていたにちがいない。
一度、帰ってきた夜に母が私のことを「この子ったらいつもあなたが帰る時、お見送りもしないで」と言った時、父は黙って私を見てちょっと目を笑わせた。見送ってるよなあ、と言っている目にそれは見えて、それを母には言わないでそうやって私にだけこっそり笑いかけてくれたのがどきどきするほどうれしく、いつもは遠慮して近づかなかったのに、その時は思わず走って行って父にしがみつき、ひざに顔を埋めたのを覚えている。「まあ、そんなことでごまかして」とか何とか言っている母の声と、黙って私の頭を両手でつかんで軽く動かしてくれた父の指の快い強さもありありと。

私は立ち上がり、大きくのびをする。
出発の時間ですよ、というように馬がまた小さく鼻を鳴らす。

ー2ー

向き直り、額に手をかざして街道のかなたを見る。
こんもりとふくらんだ濃い緑の森が、金色の草原に埋れるように点在する中、とぎれとぎれに見えかくれして、ゆるやかにうねりながら、それでもひとすじに、道は進んでのびていた。

私が今向かっているのは、あの男の家だ。
同じ村に住んでいた、父とほぼ同い年の。
昔の私たちの家の近くに、今も一人で暮らしている彼の農場に、冬の衣服や食べ物を買う金を届けに行く。
それがなくても暮らしては行けるのだろうが、彼はいつも黙ってうけとる。礼も言わない。私たちも求めない。
私にその農場に金や品物を持って行かせるのは母だ。昔は自分で持って行っていたのだが、このごろは母も弱ってあまり遠乗りをしなくなった。
かわりに私に持って行かせる。
昔なじみだし、いろいろ世話になったしね、と母は言う。

男にはゼフィルスという名の一人息子がいた。私の幼なじみだった。
その子はもういない。母親といっしょに殺された。
私と母を殺しに来た、ローマ軍の兵士たちから。

何があったかについては、いろいろな伝説がある。
だが本当にたしかなことは多分永遠にわかるまい。
前線で有能な将軍として部下にも皇帝にも慕われていた父は、その老皇帝の死後即位した若い息子の新皇帝に憎まれた。反逆罪にとわれ前線で処刑されようとして間一髪逃げのびた父は、重罪人の一族として極刑をうける運命にさらされた私たちを救おうと馬を飛ばして故郷に戻った。だが、その前に命令を受けた兵士の一団が私たちの村へ到着した。この地方のとりでの指揮官は私たちの家族と顔見知りだったが、むろん命令に逆らえるわけもなく、やってきた兵士たちに私たちの家を教えた。

兵士たちは私と母が逃げて行かないよう万全を期した。彼らは前もって丘の周辺にあるいくつかの農場を襲ってそこのわずかな住人を殺した。
その一つが、ゼフィルスたちの家だった。

妻と息子を殺されて、あの男だけが生きのびた。
押し入ってきた兵士たちに抵抗して、最初になぐり倒されて気を失ってしまったから、そのまま放っておかれたのだ。

あの男はそのことをどう思っているのだろう?
それをたずねたことはない。
軍人だった父ほどではないが、あの男も腕っぷしが強くたくましく、そして優しい男だった。
ゼフィルスの自慢の種だった。
僕の父さん、僕の父さん、と二言めには言っていた。

気さくで、私たち子どもにもよく話しかけてくれる男だったが、あの事件以後無口になった。
行方不明になってしまった父をさがして母があちこち旅をしていた一年近くの間、幼い私は彼の農場でいっしょに暮らしていたことがある。
ゼフィルスのベッドで寝て、彼の使っていたさじでスープを飲んだ。
あの男と向き合って。
あの男はいつも優しくて私のめんどうをよく見てくれた。
風が強かったり雷が鳴ったりする夜は、私が恐がっていないか見に来てくれた。
平気だよ、と私がベッドの中から言うと、強いんだな、と笑って毛布の上から軽く私をたたいてくれた。ゼフィルスはいつも恐がっていたよ。そして両手で顔をなでおろすようにして、大きなため息をついた。

もう昼が近い。陽射しが少し強くなった。
秋が深いというのに肌が汗ばんでくる。
行く手の遠いかなたをさえぎる青い山なみのふもとには、赤や黄色に染まった森がすそかざりのように見えている。その少し手前をゆっくりと移動している白っぽいかたまりは羊の群だろうか。
父も、あれを見たのか。
陶器を作る村々の屋根の煙突からたちのぼる、細く白い煙も。
さまざまの濃淡を見せて広がる、小麦畑も、果樹園も。
さりげなく、たしかになにごともなく続く人々のいとなみを。
自分の手にはもう永遠に戻ることがないかもしれない、そんな生活のひとこまひとこまを。
残照の中に。朝もやの中に。
私はこの道が嫌いだ。どんなに美しい季節でも。
父がこの道を最後に馬で走った時の苦悩のすべてが今もあたりにただよって、同じ道を進む私ののどをつまらせ、目をかすませる。
父はどんな思いでこの風景の中を走ったのだろう。
必ず間にあってみせる、必ず私たちを救ってみせると心に誓いつづけながら、しかしその望みの糸が刻々に細く弱くはかないものになってゆくのを、軍人として指揮官として事態を判断する能力を人並以上に持っていた父は、否応なしに気づかされていたはずだ。
恐ろしいものを見なければならない行く手に向かって、それでも父は迷うことなく馬をかった。
処刑場を脱走する時、父は負傷していた。
何よりもたのみとする自らの手足からも次第に血が流れ出し、それにともなう力も流れ出してゆくのを感じながらそれでも馬をかるのをやめなかった。
それが、この道。
二頭の馬を連れて父は刑場を去ったという。一頭の馬は私の家の焼け跡の近くで血泡を吹いて死んでいた。あんなに馬をかわいがっていた父が乗りつぶしたのだ。
それは二頭めの馬だったはず。一頭めはどこで倒れたのだろう?
父はどこで野営したのだろう?この街道を旅して夜、道のわきや崖の上で火をたくたびに、それを思う。必ず野営したはずだ。父だって眠らないではいられなかったはずだから。もどかしい思いに耐えながらそだを集めてたき火をし、何とかして手に入れた食料を焼く。その炎の向こうに何を見たろう?何を思い、何を祈ったろう?どこで水を飲んだろう?どこで馬をとめ、目を上げて行く手を見つめたのだろう?
そんなことの一つ一つを、この道とこの風景は知っている。
そう思うと、たまらない。

それでも数えきれないぐらい何度も、この道を往復した。
母と二人で。
今のように一人で。
夕暮れのうす青い空に、桃色の水鳥の群がいっせいに羽を広げて飛び立つのを、まだ少年だった私は呆然と口を開いて見守り、母がその私の耳もとにほほをよせて、きれいでしょうとささやいたのを覚えている。
初めて一人で旅をした時、蜂に追われて馬が暴走したのをなだめなだめて自分も泣きそうになりながら、やっと見つけた、菩提樹の下にこんこんとあふれていた清らかな泉と、頭上の紫がかった藍色の空にまぶしいほど強く光りはじめた金色の星のことも。
そんな昔の自分をふと、いとおしむように苦笑しながら、身体を前にかがめて私は、鞍にしばりつけてある荷物がゆるんでないか点検する。
多分数日後になるだろう、あの男の家に着いてこれを届け、夕食をともにして一晩泊まる。それから翌日、少し離れた大きな村にある私の家に向かう。昔、私の乳母だった、妻の母がきりもりしていた小さな宿屋を今は妻がとりしきっている。妻の母もまだ健在で私の子どもたちの世話をしている。私の母もそこでいっしょに暮らしている。
一人では淋しいだろうから私たちのところに来ていっしょに住まないか、と母は何度かあの男を誘ったが、あの男はいつも笑って首をふった。おれも年だしな。住み慣れたこの土地がいい。
おまえからも勧めなさいよ、と言うように母が私の方を見るたび、私は黙って目をそらした。
あの男もそんな時、決して私の方を見てはいなかった。

ー3ー

あの男、としか私は彼のことを呼ばない。
その理由は、私とあの男以外誰も知らない。
そのことで母はしばしば私を叱った。
呼び方のことだけではない。なぜもっと、あの男にやさしくしないの。なつけとか、親しくなれとかは言わないけど、せめて礼儀正しい応対だけはしたらどうなの。お父さまがいなくなって、お母さまがさがしに行ってる間中おまえのめんどうをみてくれたのは、あの男なのよ。
知ってる。そんなこと。私がむっつり答えると母は心配というよりは面白そうに、生き生きと黒い大きな目を光らせた。おまえ、あの男と何かあったの。あたしが留守してる間に。
そして私が黙っていると、母は頭を後ろに投げるようにそらしてじっと私を見、本気なのか冗談なのかわからない独特の人を食った口調で言った。あの男におまえ、言い寄られたの?手ごめにされたんじゃないわよね。
そして私が軽蔑をこめた目で力いっぱいにらみ返すと、母はまあ許してというように両手を上げて「ただの冗談よ」と言った。「でもおまえ、かわいいから。特に小さい時なんてそりゃもう、食べてしまいたいぐらいで」
そして私が黙っていると、話をそらすつもりなのか「お父さまもそうだったのよ」と言った。「それはもう、もてたって。女からはもちろん男からもしょっちゅう言い寄られてたって」
「おやじの小さい頃のことなんて知らないんじゃないのか、母さんは」
「聞いたのよ」
「おやじに?」
母は吹き出す。「その上目づかいの疑わしげな顔ったら、お父さまそっくりね。おまえの方が目つきがいじけているけれど」
私は目をそらす。そうした後で結局そうして母をにらむことをやめさせられたと気づいて、またやられたと、ほぞをかむ。母はかまわず話しつづける。
「お父さまはまだ小さい子どものころから、軍にいたのよ。しょっちゅう、おなかがすいていて、年上の兵士が食べものをくれるから喜んでたら、いきなりキスされたり押し倒されそうになったり、そんなことしょっちゅうだったって」
一応はっきりさせておかなくてはならないと思って、私は母に向き直る。「あいつはそんなことしなかった」
「ふうん」母は腕組みをする。「じゃ何したの?何があったの?」
「何もない」私は歯をくいしばる。「何もないよ!」

しいて言うなら、あいつが生きてることそのものが腹が立つんだ、と一度私は母に言った。父さんは死んでしまった。なのになぜあいつが生きてんだ?
母はじっと私を見た。何ていうことを、と厳しい声でたしなめた。それは私は予測していた。それに続いた母のことばも。
あの人の奥さんと子どもは死んだのよ。母は言った。なのになぜ、私とおまえは生きてるんだって、あの人こそ言いたいでしょうよ。

それなのに、あの人は、と母は続けた。私とおまえの身がわりに役だてて下さいと言って、自分から二人の死体をさし出してくれたのよ。
そうだっけ、と意地悪く私は言う。あいつもなぐられて気絶してて、母さんが勝手に死体をかっぱらってきたんだって思ってたけど。
誰に聞いたの、そんな嘘、と母はあきれた顔をする。

母はかつて山賊だった。その本拠地を攻撃して壊滅させたのが父で、捕虜になった母とやがて愛し合って結婚した。だから家を襲った兵士たちに母は剣をふるって立ち向かった。私を守って戦った。それでもついにとらえられ、殺されそうになった時、村にいた昔の仲間が事態に気づいてかけつけて来て母と私を救った。生き残りの兵士たちを母は脅かし、とりでの上官に偽りの報告をするよう彼らに教え込んだ。私と自分を十字架にかけ、生きながら焼き殺したと言うように。そのためには身代わりの死体が必要だった。ゼフィルスとその母の。

母は仲間たちと、その二つの死体を私たちに見えるよう「改造」した。指輪や腕輪をはずして、代わりに父が私にみやげにくれた腕輪や、自分の結婚指輪をはめ、家の表の門柱に並べて釘付けにし、人相も身体の特徴もよくわからなくなるまで黒焦げに焼いた。

「あれって、悲しくなかったの?」私は聞いてみたことがある。
「何が?」母は髪をなでながら、こともなげに問い返した。
「指輪だよ。父さんとおそろいの。はずす時悲しくなかった?それを人の…ちがう女の指にはめる時」
「そんなこと言ってる場合じゃなかったわ」母はあっさり首をふる。
「そもそも、そんな必要があったわけ?指輪まで代える必要が」
「もちろんだわ」何を言っているのかしらこの子はという顔で、母は私を見る。「死体の検分に来る上官は、お父さまとも私とも顔みしりだった。どんな危険もおかせなかったわ。ほんのささいな感傷が命とりになった例を山ほど私は見てきたもの」

とりでから来た上官はゼフィルス母子の死体を調べて、私と母のそれと信じた。父とも母とも知り合いだった彼は、ろくに死体を見る気にもなれなかったのだろう。あるいはかすかに疑っても、それを口には出さなかったのかもしれない。
だが本当の悲劇はその後で起こった。
おどかした兵士たちが本当に最後まで嘘をつきとおすか、上官がたしかに私たちを処刑したという報告をローマに送るか確かめようとして、母は仲間たちと馬で彼らのあとをつけて行った。そしてとりでに忍び込み、すべてがうまく行ったことを確認して引きあげてきたが、それに一日二日かかった。
その間に父が戻って来たのだ。
母が火を放って焼いた屋敷の焼け跡に放置されていた二つの死体を、父もまた私たちのそれと信じた。父は一人で死体を下ろし墓穴を掘って葬った…その跡が残っていた。
そして父の姿は消えていた。

近くの村々に必死で聞いて回って、どうやらこのあたりで脱走兵狩りをしていた奴隷商人につかまって連れて行かれたらしいことを母とその仲間たちがつきとめたのは、更に三日が過ぎた後だった。

母は狂ったように馬をかって父の連れて行かれた後を追った。風の便りの噂を手がかりにそれから一年、私を村のあの男のもとに預けて母は父をさがしまわった。
だがすべては無駄に終わった。父は帰って来なかった。
剣闘士奴隷として売られ、各地を転々として多くの敵を倒した後、最後はローマで死んだという。
それを確かめて村に戻ってきた時、母の髪はなかば白くなり、口もとには前はなかった深いしわが刻まれていた。

母と子

ー4ー

光の中を横切って、鳥の群が飛んで行く。
私の馬が進んで行く街道の両側のぶどう園では収穫がはじまっていて、人々の笑う声がする。
鞍に売りもののさまざまな荷物をつけた男たちが、一人で、あるいは数人で、ひっきりなしに私と行き交い、追い越して行く。彼らが積んだ箱からは、野菜がのぞき、陶器の椀や水差しや皿がかたこと音をたて、まだみがいてない鉱石ががらつき、生きたまま運ばれて行く鳥たちの羽音や鳴き声が聞こえてくる。
男たちは、時々彼ら自身で歌う。そのずんぐりと野卑な姿と荒々しい顔に似合わない、すきとおるように高い美しい声で、ひなびた土地の歌を。そうかと思うと、何か激しく言い争い、すぐにまた大声で笑いあうのだ。
昼食の知らせだろうか、畑の中でがらんがらんと誰かが鐘を鳴らしている。
あの日も窓の外、畑の方からはこんな歌声や笑い声が聞こえていて、そして突然とだえた。
何かを聞きつけたように母がゆっくり顔を上げた。何かの物音というよりはその沈黙に母は耳をかたむけたようだった。
私たちは居間にいた。母は長いすの上、私は床の上に。もう冬に近い秋でさわやかに晴れた日だったと、あの日のことを後で皆は言う。だが私には暑い真夏の午後だったような印象が今でも抜けない。空気はけだるく息づまるようによどんでいた。いつかおぼれかけた池の底のように。ゆらゆらゆれる黒ずんだ藻が天井のあたりにただよっていたような気さえする。
その中で母が何かしていた手をとめ、顔を上げる。そこで私の時間はとまる。

母はゆっくりと両手を私の肩にかけ「行きなさい」と言った。「走って行きなさい、見つからないように。ゼフィルスのおうちへ行くの」
その時に私と母はもう家の裏口にいる。私の目の前には開かれたとびらの向こうに、すりへって白っぽくなめらかになった木のテラスと光を浴びて金色に光る麦畑がある。坂を下りて、上る、もう一つ丘の向こうにゼフィルスの父さんの農場がある。僕は母を見上げる。これは何のゲームだろう?テラスのはしにつながれていた僕のポニーが草をはむのをやめて、つぶらな目でこちらを見る。
「ポニーには、乗れるわね?」母が静かに、きっぱりと言う。
僕はうなずく。乗れると思う。多分…父さんが今度帰ってきた時に見てもらおうと思ってずいぶん練習したし。
「かかとをしっかり馬のわきにつけて」と父さんがいつも言ってたようにして。

母はポニーに歩み寄り手綱をほどいて、抱いて僕を乗せる。
「走って行きなさい」母は言う。これまで聞いたことのない声で。「戻ってきてはだめ。何があっても絶対に」
そして手綱を持たせながら僕の手をにぎりしめ、僕の身体をひきよせてキスする。
「おまえを愛しているわ」そしてじっと僕を見て笑う。「お父さまの次に」
そして、さっと身体をひるがえすと「すぐに行くのよ!」と言いながら家に入ってばたんと扉を閉める。

なぜだろう。あの瞬間ほど自分が母に誰よりも愛されていると思ったことはなかった。
閉ざされた扉の外で金色の陽射しにつつまれてポニーの背の上にいたあの時ほど、限りなく強く母の愛を感じたことはない。
重い木の、厚い扉。四つのすみに金属の蔦の葉模様の板がうちこまれ、その板も、もとは濃い緑色に塗られていた周囲の木の面も太陽と雨にさらされて白っぽくなめらかになっている。ありありと、その木目をささくれを、金属のかすかなゆがみを思い出す。
閉ざされて沈黙し私を拒否していながら、その扉はあたたかく優しかった。
おそらく、家に入ったとたん母は走り出したにちがいない。そして父の部屋に行き、予備の剣の一本を抜き、鞘をはらって身構えたのだろう。
私はそれを知らなかった。ただ走った。麦畑の中を、ポニーの背に乗って。

ゼフィルス…あの少年の本当の名は何だったのだろう?
ゼフィルス…それは風の神の名だ。私たち友だちも家族さえも、彼のことをその名で呼んでいた。ほっぺたをふくらませ、唇をとがらせるその表情、日焼けした小麦色の顔の赤いほおがいかにもその神のようだからと言って。
村の子どもたちの中では彼と一番よく遊んだのに、ともすれば彼の顔や姿を思い出せない。
あの日見た、彼のはだしの足。
ポニーを家の裏にとめて、人けのないひんやりとした台所にそっと入って行った時、石だたみの床の上にこちらを向いてそろえるように投げ出されていた彼のはだしの足。
それははっきり目に浮かぶのに。
黒ずんだ血だまりの中にひたるようにあおむけに彼は倒れていた。
その向こうのうす暗がりの中に、金色と白のかたまりがあった。うずまいて盛り上がっている金色の髪、奇妙な風にねじれていた白い腕と白い足。
ゼフィルスの母さん。
家の中から低いうめき声がして、そちらに行こうとふみ出した時、背後でポニーの悲鳴が聞こえた。
思わず飛び出し、つないでいたところにかけ戻ると、ポニーは血に染まって倒れていた。
首からふき出す血があたりの草をみるみる真っ赤にぬらしていく。
ポニーは目を開けていた。両足をかすかにまだあがかせていた。
そして荒々しい男たちの腕が僕の肩をつかんだ。父さんと同じワイン色のチュニカ、銀色のよろい。
僕をつかんで馬に乗せて、男たちは風のように丘の上の僕たちの家へとかけ戻って行った。
流れる雲を覚えている。
刻々大きく近づいてくる高いポプラの木の梢も。それはやがて訪れる運命を予感しているように、激しく風にゆれていた。

表の小道に召使の誰かが倒れていた。もう死んでいるようだった。花が植え込まれてあふれていた大きな僕の背ほどもある素焼きの鉢がころがって割れて土をこぼしていた。玄関のとびらはたたきこわされて、中からもののこわれる音、男たちの怒って叫ぶ声が聞こえた。「女ひとりに何を手こずってるんだ!?」とからかうように入って行った一人が叫んだ。「子どもを連れてきたぞ、これでもうおしまいだ!」そして一人が私を片手でかかえてさし上げ、剣を私ののどもとに突きつけた。「奥さん、おとなしくしなければ、息子をここで串刺しにするぞ!」
そこは二階にあがる階段の下だった。人があふれ、鏡や小さいテーブルが壊されているため、別の家の知らない場所のように見えた。うす暗がりにまだよく目がなれない私に、階段の半ばに剣をかまえて髪をふり乱して立つ母の姿はぼんやりとした影にしか見えず、ただ激しいあえぐような息づかいに混じってはっきりと母の笑う声が聞こえた。「はっ!いくらでも殺しなさい、そんな子どもぐらい」と母が陽気なほど荒々しく叫んだのを私は聞いた。「いくらでも、誰とでも、また産めるわよ!」

あっけにとられた兵士たちが一瞬立ちすくんだ時、母の両手でつかんだ剣が大きく回って空をなぎ、兵士の一人が肩先を斬られてどっと階段の下に落ちた。ようやく私にも母の姿が見分けられた。大きく見開かれた目が輝き、服の胸ははだけられて汗にぬれて光っている。手すりづたいに二三段後ろ向きに上がって有利な足場を確保した母は、鋭いまなざしを兵士たちの上に投げて、つけいるすきをうかがっていた。

父は、何という女をわがものにしていたのだろう。
何という女に愛されていたのだろう。
あの時も思った。今も思う。
暗い階段の上の壁を背に母のくっきりとした目鼻立ちの顔がうかびあがっていた。沈着冷静、それでいて生きる喜びに陶酔していた。長い年月愛する夫のかたわらでどこかひっそりともどかしく不安げな目をしながら、パンを焼きシーツを洗いぬいものをしていた女がまるで水を得た魚のように戦う姿を私は見た。
父のために母が捨てていたもの、忘れてきたこと。それがどういうものだったか初めてあの時知った気がした。血に酔い、半ば狂っているように見えながら、その時の母は奇妙に幸せそうだった。

「あれは本気じゃなかったのよ」と母は私が成長してからも何度も私にそう言った。まじめに熱心に心配そうに。「ああ言わないとあの時はしかたがなかったのよね。それはわかるわよね?」
「わかっているよ」私は言う。「あの時だって、そう思ったよ」
だが実のところ私はあれは母の本心だったと思っている。
父や私をどれだけどんなに愛していても、それでも、父や私がどれだけ残酷に殺されたとしても母は絶対に立ち直る。私たちのことは忘れて、また新しい生を生きる。新しい男を愛し、新しい子を産むだろう。産めなければどこかで拾ってくるだろう。
それが母の愛だ。
私以上におそらくは、父もそのことを知っていた。

母への脅しに使えなかった私ははっきり言って兵士たちにはもてあましものになっていた。私はへやのすみに放り投げられ、兵士たちは階段の下から横から母にせまってとらえようとしていた。母がそれ以上階段を上らないのは私とそれ以上離れたくないからだということに兵士たちは気づいてなかった。
私がそこにいる限り、母は囲みを切りひらいて逃げるわけには行かないし自殺もできない。何度か母の目が私を見、視線がとびらの方をさした。すきを見てそこから逃げろと私に教えているのがわかった。だが兵士たちの間をぬって逃げ出すのは到底無理で、そのすきを私がとらえられないでいる間に、母の息づかいは荒くなり、剣の動きは鈍ってきた。
突然まっすぐに母が私を見て、何かを決意したのが私はわかった。次の瞬間母は兵士たちの上を躍りこえて、私の上に飛びかかった。私を床に押さえつけ、ためらいもなく剣をふりかざし全力で私の胸に突き下ろした。私を見下ろす母の目のすさまじい光を見上げ、見つめたまま私は動かなかった。恐くはなかった。母が私にすることは皆正しいと信じていた。剣は兵士たちが母にとりすがってじゃましたため、私の肩に突き刺さった。今でも私の肩にはその傷痕が鮮やかに残る。
痛みは不思議に感じなかった。血がほとばしり冷たさが身体に広がって行くのを感じながら私は目を閉じ、闇の中に沈んで行った。

目がさめた時、私は廊下に寝かされていてあたりにはむっとむせかえるような臭いがたちこめていた。人を焼く臭いだった。声高に母が仲間たちに指揮をしている声がした。私が気を失っている間に母は兵士たちにとらえられ、犯された。母はそれをわざとひきのばすようにした。そんな手段はいろいろある、と後で母は私や妻に笑いながら細かく語って聞かせ、ものに動じることのない私の妻が顔を赤くしたものだ。
母の計略は成功した。兵士たちが処刑の準備をしている時に武装した母の昔の仲間たちがかけつけたのだ。兵士たちのおおかたが殺され、残りは降服し命令に従うことを誓わせられた。私の意識が戻ったと聞いてかけ戻ってきた母の服はずたずたに破れて、むきだしになった白い足は犯された時に流れ出た血に染まったままだった。それでも母は笑って私を抱きしめた。晴れ晴れと輝くまなざしで私に話しかけ、やさしい心をこめたキスをしてくれた。

ー5ー

夕やけの空に山々の影が黒く浮かび上がる時刻がまた訪れてきた。その夕やけのかけらが舞い下りてきたように、同じ色の赤い灯がぽつりぽつりと街道沿いの家々にともりはじめた。私は宿屋を物色し、赤みがかった石の瓦も新しい、できたばかりの宿に泊まった。食物も寝床もなかなかよかったが、うちの宿屋ほどではないと思った。しかし、壁にかけてある明るい色の素焼きの土器にいっぱいにささったミモザの花や、安物なりに配慮して並べてあるワインのつぼやチーズの皿など、うちでもとりいれたらよさそうなところがいろいろあって、帰ったら妻に教えてやろうと思った。
乾し草の香りが心地よいベッドに横になるとあの男のことを思い出した。顔をあわせた時に話すことを考えておかないと落ち着かない気がした。それはまだあの男が特に嫌いではなくて、それなりに二人で楽しく暮らしていた頃から何となくそうで、当然かもしれないが父に対してのようにはあの男にはふるまえなかった。
おそらく、あの男にしてみれば、ゼフィルスの死んだあとの心の空白を埋めるには私はあまりよい子どもではなかったのではないか。
もともと私は人見知りする、あまり甘えることをしない子だった。父の幼い頃を知っているわけではないが、そういう点も父とちがっていただろう。父はもっと無邪気で大胆で、ものおじしない子どもだったはずだ。なぜかそう思う。
たくましいようで父の手足はどこか優美でしなやかで、大人びて重々しい顔は時に少年のようなあけっぱなしのあどけない表情を見せた。そしていったん信じてしまった人には徹底的に無防備だった。時々それで母にからかわれていじめられていた。父はよく、他愛もない仕事に夢中になったり、ぼうっと何か考え込んでいたりして母にちゃんと返事をしなくなることがあり、それに腹を立てた母がそしらぬ顔でまだ熱いスープをさし出したり、こっそり椅子をずらしておいたりすると、ひとたまりもなく舌をやけどして飛び上がったり床にしりもちをついたりした。そんな時父は傷ついた顔さえしておらず、何が起こったのかわからないように本当にきょとんと母を見ていて、恥ずかしそうに苦笑するのはいつも母の方だった。
神々が、運命が、父に与えた苛酷な運命。父はどんな表情でそれをうけとめ、それを自分に与えたものを見返したのだろう。あんなに素直に呆然と見つめ返す人に対して最後まで苛酷でありつづけることのできる存在があることを私は決して信じない。どんな神々も運命もこの世にあることを私は信じない。

私は父とちがっていた。用心深く空想好きでおとなしい子どもだった。淋しがって泣くこともなかった私をあの男はものたりなく思ったかもしれないが、心をこめて世話してくれたし、私もまだその頃は彼のことが好きだった。
ただ、彼のその優しさ、まるで私にどこか後ろめたいことでもあるかのようにがまん強くまじめにつくして大事にしてくれるその誠実さが、逆に彼のありがたさを私に感じさせなかった。
結局は何を言おうとしても父の話になってしまい父と比べてしまうのだが、父を慕って追っかけ回していた私の気持ちはこれとはまったくちがっていた。
それは決して父がたまにしか帰ってこなかったから珍しくて大切だったというようなものではない。父はあの男のように私のことを気にかけてはくれなかったし、私を大切にしてもくれなかった。
そのことを私は知っていた。それでも父に夢中だった。

思えば父はわがままな人だった。
義務をはたして欲がなく、満ち足りていて求めることが少なかった。
ささやかなもので満足し、いつもどこか楽しそうだった。手に入らないものは入らない、かなわない望みはかなわないとあきらめてのんびりしているようなところがあった。
あるいは父は、ずっと遠い昔に何かをもう失ってしまっていたのだろうか?
私にも母にもあんなにやさしくて何でもしてくれたのに、父は私たちのことなど何とも思っていないのではないかと心のどこかでいつも私は感じていた。
幼い子どもが母親のことなど気にかけないように、あどけない妻がしっかり者の夫が何を考えているか悩んだりしないように、甘えきって信じてまかせて好きに生きている、そんな感じさえした。どこかおさなごのようだったし、どこか小娘のようだった。
いつも何かのはずみにひょいとどこかへ行ってしまいそうだったし、誰かにひどい目にあわされそうで子ども心に父のことが私は心配でならなかった。
そうなのだ。
父はただ生きている。のんきにまっすぐに人にどう思われるか気にもしないで。
そんな父を私たちが勝手に愛してやきもきしている。
そんな気がしてならなかった。

大人になって何人もの女とつきあった時、娼婦であれ貴婦人であれ多くの男が自分につくすのがあたりまえと無邪気に超然としている、そして実際にあらゆる男をかしづかせてしまう女の中に時々父と似たものを感じて、あっけにとられたことがあった。
父は天性の娼婦の才能を持っていたのかもしれない、とまで思った。
傲慢などとはまるで無縁の誇り高さと気高いまでの無垢な無邪気さと、風のようにとらえどころがない高貴な奔放さ。
それが時に人を狂わせ、父を憎んだという若い皇帝もあるいはそんな父の魅力の犠牲者だったのかもしれない。
そんな父のあとを追った日々のときめきが、あの男との生活の中にはなかった。
父に愛されていなくてもそんなことは気にもならずに、父がただのびのびと好き勝手に楽しげに生きているのを見ているのがうれしくて幸せでたまらなかった、あの時間の輝きがそこにはなかった。
かしづかれつくされることなどが何の喜びかと思う。わがままで気まぐれで決して自分のものになどならないことがわかっている偉大な美しいものに見とれつづけることに比べたら。

父は誰かを本当に愛し求めたことなどあったのだろうかと今でも思うことがある。愛も憎しみもそれにつながる醜いものも汚いものも、すべてよく知らないままで父は死んで行ったのではなかったか。
そう思いたいのだろう、私自身が多分。どこかで私は父が時々自分の子どものような気がする。そしていつまでも子どものように清らかで幼いままにしておきたいと願っているのに気がつくのだ。

視線

ー6ー

天気のいい日々が続いた。ぶどう畑に入りまじってオリーブ畑もふえてきた。粉を吹いたような白っぽい紫色の熟れた実が、葉の間からのぞいていた。
犬が走ってきて馬にほえつくと、村が近づいてくるのがわかる。小さい川にかかった石づくりの橋がよく手入れされているかいないかで、その村の大きさや栄えているかどうかも見当がつく。
小さい闘技場のある町もあった。何か催しが行われているのか、人々のあげる歓声やどよめきが風にのってくる。連れられてきている野獣の匂いでもするのか、馬が鼻孔を広げて興奮したり、それは私にもわかる食べものの香りがしてくることもあったが、人声が遠ざかるとともに、それもまた消えて行った。
空気は澄んで甘かった。馬が勢いよく踏みとどろかす脚の下からはねて飛んだ小石が、やわらかい緑の藻がたなびいて流れる、黒ずんで澄んだ川の水の中に落ちて、はずんだ音をくりかえしたてた。
だがやはりその中で、私の心は暗く閉ざされはじめていた。
もう平気だ、と時々思うことがある。もう忘れたと。もう慣れたと。それでもしばらく馬を走らせているとそれがまちがいだったとわかる。父の汗と恐怖とが石だたみの道の上から頭上の空から私を包み込んできて、いつか胸は鉛を流し込まれたようにずっしり重くなっている。ひとりでにのどがしめつけられて来るようで口を開いて息をしている。
天候とは関係ない。多分、季節ともだ。あんずや梨の花が咲き乱れる明るい春の日でも、嵐模様の青みがかった黒い雲が低くたれこめ、枯れはてて裸になった木々の枝を木枯らしが鋭く鳴らす寒い日でも、訪れる気分に関係はなかった。霧が一気に遠い景色を銀色にかすませるように、どしゃぶりの雨が幕を引くようにやんで行って大きな虹がかかるように、私の気分の変化にはとりとめがなく、何の予測もできないほど一気におそいかかってくるのだ。
私にはわかっている。この苦しみは父のになった悲しみを思いやるからだけではない。
母に対してわきおこる怒りと憎しみを抑えようとして、たわめた弓の弦がおののくように心と身体がわななくのだ。
母がもし…もし母が。
もう少しことばに気をつけていたら。
いや、ことばは心をあらわしただけ。
母の、弱いもの、劣ったものへの冷酷さ、無関心さを示しただけだ。

何度、言いたかっただろう。
母に向かって言いたかったか。のどまで何度もこみあげた。
父を殺したのはあなただ…と。
この街道を走るたび父の味わっただろう痛みが胸を刺し、それが高まり強まるにつれてかつては何よりも強くゆらぐことなど考えられなかった母への愛と信頼が私の中から色あせてゆく。あとかたもなく消えてゆく。
人の心はこうも変わるか。人の愛はこうも失われるか。
何度そう思って呆然としたろう。

あれは私が十二歳の夏だった。
父の死を確認して帰ってきてから母はしばらく魂がぬけたようにぼんやりと、あの男の家で私もいっしょに暮らしていた。
その内に山賊だった頃の仲間たちと馬で遠くに出かけては金や品物を持って帰ってくるようになった。
怪しい仕事に手を出していたのかもしれない。時には血の匂いをさせて帰ってきて台所で一人酒を飲みながら自分の傷に包帯を巻いたりしていた。
しかし私が成長するにつれて次第に仲間たちと離れて母は一人で行動するようになり、隊商を護衛したり貴重な品物を自分自身が頼まれて遠くに届けて運んだり、ならず者たちから村を守ったりするような、法にふれない仕事をするようになっていったようだった。 そして次第に私にも馬を与えて自分に同行させ、仕事を手伝わせるようになった。
時には自分が警護していたえげつない金持ちの屋敷にあとで盗みに入って金品を奪うなどというとんでもないことをすることもあったが、おおむねまともなかせぎ方をしており、そんな仕事を私は今でもつづけている。
しかしあの夏はまだ母は私を仕事に連れ出す前で、私は母がいない間一人であの男の農場においておかれていた。

あの男はその夜、酒を飲んでいた。
一人で飲んでしたたか酔っていた。
父は家ではほとんど飲まなかったから私は酔っぱらいを見たことがなく、恐いというより不愉快で家の外に出てテラスに一人で座っていた。
すると男がやってきて何やら話しかけはじめた。
すまなかった、すまなかった、としきりに彼がくりかえしているのに私は間もなく気がついた。
でも、あんたの母さんが悪いんだ、と彼は言った。あの子とあいつの死体を使ったのはしかたがない。それはおれもしかたがなかったと思う。でも何もあんなことを言わなくても。あそこまでしなくても。そうくり返すのだった。

私は聞きたくなかった。そこにいたくなかった。でも逃げたと思われるのがいやだった。だから男は私をつかまえていたのではないから、行ってしまおうと思えば行ってしまえたのだが、身体に根が生えたようになってそこに、テラスに座っていた。

「おれは、それだけはやめてくれと言った。あの子の身体の手に釘を打つのは。何を言ってるの、とあんたの母さんは言った。この子はもう死んでるわ。何も感じやしないわよ。そして自分の手で釘をつかみ、あの子の身体を十字架の横木の上にひきずり上げて足でふまえた。ほら、どんどん固くなっていってるわ。そう言って、あの子の腕をばりばり音をたててひきのばした。ぐずぐずしてたら役にたたなくなっちゃうわ。そしてあの子の手を広げ、力いっぱい釘を打ちつけた」

「時間がなかったんだ。一刻を争うんで、あんたの母さんはあせってたんだ。それはわかる。だが、身代わりにする女と子どもの身体だろう。もっといたわってほしかった。仲間の男たちの見ている目の前であんたの母さんは、おれの家内の服をべりべり破ってはぎとった。あらわになった乳房をねばっこい目で見ている仲間たちの前で大声で笑って言った。あら、この人、案外立派な胸してんじゃない。そして、はさみを持ってこさせて家内の髪の毛をざくざく刈り取り、髪の束を投げ捨てながら一筋も残さず始末してと言った。毛の色がちがうとわかっちゃおしまいだわ。家内の裸の身体をさして言った。毛のあるところは念入りに思いきり焼くのよ。あとかたも残らないよう黒焦げにしてしまってね」

「わかってる。わかってるんだ。細かい心づかいをしていたら、心がひるむ。だからあんたの母さんは思いきり残酷になろうとしてた。荒々しい仕事をするために。捕虜にして言うことを聞かせるローマ兵たちにも自分の情け容赦のなさを見せつけておく必要があった。だからあんな風にふるまっていた、それもわかっている。だが、あれを焼く火の音に、身体を打ちつける釘の音におれの胸はひきさかれた。おれは涙も出なかった。一滴もな」

「何より苦しかったのは、倒れてたあんたが目をさました時だ。その子をこちらに来させちゃだめと叫びながらあんたの母さんは、鳥のようにすばやくあんたの寝てるとこまでかけ戻った。何でもないのよ大丈夫よと言いながらあんたを抱きしめほおずりしてた。その声のやわらかさ、手つきの細やかさ。指先までやさしさがあふれていた。あんたの母さんはあんたに死体を焼くとこを見せたくなかったんだ。あんたの目に見せられないほど残酷なことを、おれの家内と息子とはこともなげにされている。わかってる。何もかもあんたの母さんにしてみりゃ当然のことだ。決して怒るようなことじゃない。だがその時におれにはわかった。骨のずいまでつくづくと感じた。おれたちは道具にすぎないんだと。丘の上の将軍さまの奥さまとお坊ちゃまを助けるために使われる道具以外の何ものでもない。そのことが骨身にしみた」

母は、成長した私に向かって二言めにはローマを呪った。その傲慢な残酷さ、一人よがりを。金持ちを呪い貴族を呪った。自分は貧しい家に生まれ、どん底の世の中を見てきた、しいたげられた者たちの苦しみを知っている。口ぐせのようにそう言った。弱い者、貧しい者の悲しみを自分ほどわかっている者はない。いつもそう言う。けれど私は知っている。そんなことは皆、嘘だ。母はそういう人間ではない。母は強い人間だ。そして弱い人間の気持ちなど決してわかろうとしない人間なのだ。

私はあの男に何と言っていいかわからなかった。わびることばも説明することばも持たなかった。それは私が幼かったからではない。今も持てないしこの先だって持てないだろう。それなのに気がつくと男はまたわびつづけているのだった。許してくれと。すまなかったと。そして男のとぎれとぎれのことばの中に私はようやく聞きとった。おれは見たんだ。あんたの父さんが坂を上ってくるのを見たんだ。男はそう言っていた。

ー7ー

「あんたの母さんが仲間といっしょに馬に乗って上官の一行を追ってとりでに行っちまった後、おれは自分の家で寝せられていた。頭の傷はまだ痛んでまっすぐ歩けないぐらいだったからだ。だが、看病してくれてた女たちもそれぞれ家に帰っちまって一人になるとおれは淋しくてたまらなくなり、どうしてももう一度家内と息子に会いたくなった。たとえあんな姿でももう一目だけでも見たくてふらふら家を抜け出して丘をあがって、あんたの家の焼け跡に行った」

「ポプラの木も石垣もいちじくもすももも梨も皆焼けて黒焦げになってた。おれはこげくさい臭いに息をつまらせながら、そこだけ焼け残ってる表門のとこまで何とかたどりついた。二人の死体はまだそこにそのまま黒焦げでつるされていた。下ろして葬ってやらなければと思ったが、一目見るなりおれは吐き気がして、そこに四つんばいになって吐いて、それっきり立ち上がれなくなった。いざそうやって目にするともうそれ以上近づいて二人を見るのが恐ろしかった。動けないまま半分眠ったようになって台所のかまどの焼け残ったかげによりかかって、うずくまって目を閉じていた。すると、馬のひずめの音が聞こえたんだ。誰か戻ってきたのかとおれはぎょっとした。だがひずめの音はどうやらたった一頭で、それも馬が倒れるどさっという音とともにぱったりやんだ。そして誰かの足音がした。息をきらしてあえぎながら坂道をかけあがってくる、乱れて重い足音が」

光の中に…と男は言った。
光の中に、逆光の中に、赤いぼろぼろのチュニカを着た人影が幻のように見えた。髪がのびて、やつれていたが、それでもつりあいのとれたきれいな手足と身体の影で、疲れて力つきそうになっていても無駄がなく美しい足どりと身体の動きで、すぐにそれが誰かわかった。

その人影はようやっと動かしていた足を門の少し前でとめた。あの二人の黒焦げの死体を見たんだ。おれは彼が倒れるか立ちすくむかすると思った。実際一度その場にひざをついた。だがすぐに立ち上がった。ひきよせられるように死体の方に手をのばしながら。そしてこちらに近づいてきた。
声をかけようとして、かけられなかった。もう少し、とおれは思った。もう少しだけ…そう思ってじっとしていた。
あいつの近づく足音がした。低くあえぐようなすすり泣きが聞こえたようだった。あいつの顔がもう見えた。何とやさしい顔だろうと思うぐらい悲しみとなつかしさにあふれた顔で家内の死体を見上げていた。驚きも怒りも憎しみも恐怖もなく、いとしさだけをいっぱいにあふれさせた表情で手をさしのべて、家内の黒く焼けただれた足の先にそっとふれ、涙にぬれた顔をすりよせるのが見えた。

「もうちょっとだけだ、もうちょっとだけおれの代わりに苦しませてやろう。そう思っておれは見てた」男は言った。「あんたのおやじが肩をふるわせて声もほとんどたてずに泣いているのを魅入られたようにほとんど見とれていた。あいつはまもなくゆっくりと手をすべらせて指の最後の一本がはなれるまでそっとふれながら、家内から離れて足をひきずるようにして息子の死体の方に行ったが、もうその時は目を伏せていて顔を上げようとしなかった。目を閉じたまま口を開いて息をはずませるようにしてあの子の足にほおずりした。何度も何度も」
私は父のその顔が見えるようだった。ひげののびたほおを伝って流れ落ちる涙が静かにゼフィルスの足にしみてゆくのを。男は舌で唇をなめた。
「やつの涙がからからに乾いてひびわれていたおれの心にしみいって、ぬらして、あたためてくれるようだった。もう少しだけ、とおれは思った。もう少しだけ、見ていたい。だってそうだろう。おれが出て行って一言言えば、それであいつのこの苦しみはもう終わる。そして喜びに変わるんだ。おれは一人で取り残される。ずっと、ずっと、永遠に続く悲しみの中に。それを迎える用意はある。覚悟もあった。ただもうちょっと…もうちょっとぐらい悲しませたっていいじゃないかと思った」
長い長い旅の果てに父を待っていた悲しみ。大きな喜びのすぐ手前の、すぐ終わるはずだった悲しみ。私は歯をくいしばって男を見つめた。
「あまり話をしたことはなかったが、あんたのおやじをおれは好きだった」男は言った。「おふくろさんにはいつも世話になってたが、それでもいつも、おやじさんの方にずっと親しみを感じていたし心から尊敬もしてた。その人がそうやっておれの家内と息子のために泣いてくれてるような気がして、おれは慰められた。救われた。おれ自身はずっと泣けなかった。二人が死んでからただの一度も涙一滴流せなかった。だから、そこでそうやって泣いているのはおれ自身のような気がした。あの人がおれの代わりにそうやって泣いてくれている。そう思うと幸せだった。おれはこの人のこの悲しみを救う方法を知っている。そう思うともっと幸せだった。安心していられた」
「そんならなぜそうしなかった?」私は低い声で聞いた。「そのまま見ていたんだろ?父が死体を下ろして…墓を掘って埋めるまで」突然身体がふるえはじめた。「父がどんな気持ちでいたか、あんたには…」
「わかっていたとも」男は答えた。「おれほどに、それがわかっていた者はない」
「わかってなんかいるもんか」私は言い返した。「あんたの奥さんもゼフィルスも生きながら焼き殺されたりはしなかった」
「あんたたちだってそうだ」男はつぶやくように言った。「それはただの幻だ。おれが一言言いさえすれば消えてしまう。おれの家族がこの先ずっといつまでも死んだままなのとちがってな」
「父にとっては幻じゃなかった」私の声は抑えようとしても抑えられずにうわずった。「父にはそれが死ぬまでの、たった一つの真実だった」

「すぐに終わらせるつもりだった。本当だ」男は弱々しくくり返した。「声をかけよう、今かけよう、そう思いながらどうしても…おれはそれができずにいた。そうこうする内、あんたのおやじさんが死体を下ろして墓を作っている間に気を失うようにひとりでに、おれは眠ってしまったんだ」
嘘をつけと思ったが私は黙ってしゃべらせていた。
「人声で目をさましたら、見たことのない服装をした連中がおれにはわからない国のことばで話しながらおやじさんを取り囲んでいた。おやじさんはうつぶせに地面に倒れていてつつかれても、かつがれてもぐったりしていて、まるで死んでるようだった。おれはぼうっとしていて何が起こってるのかよくわからなかった。やつらがおやじさんをかつぎあげて連れて行くのを夢を見ているようにただ見ていた」
それだって信じられるものか。私はかすかに唇をゆがめたが男は気がつかなかった。
「誰もいなくなってからはい出して行ってみたら二人の死体はもうなくて、新しい土まんじゅうが地面に二つ盛り上がってた。それぞれの上にあの男がつんできたらしい青紫の花が供えてあった。おれはそれを見た瞬間、泣けて泣けてしかたがなかった。いつまでもそこに座ってあいつが作ったその墓の前で泣いた。おれが気を失ってた間に雨がふったらしく地面がぐっしょりぬれていて、だが、あいつが倒れてた墓の上の土は乾いていて、それを見ているとたまらない気がした。その内に雨がまたふり始めて、おれはぐしょぬれになって家に帰り、その夜から熱を出して数日意識を失ってた」
「だから母や皆にそのことを話せなかったって言うんだな?」
男はうなずいた。「話していれば、すぐに追っかけていればおやじさんを救えたかもしれないが」彼は口ごもった。「だがたとえ意識があっても何も話さなかったかもしれない。本当のことを言う勇気はきっとなかったろう。言ったらあんたの母さんはきっとおれのことを殺した」

その通りだ。その時もそう思ったし今も思う。聞けば確実に母はあの男を殺した。気を失って眠り込んだも、熱にうかされて言えなかったも、この私さえ信じられなかったことを母がどうして信じるだろう。
だが、あの男がなぜそんなことをしたかが母にはわかるだろうか?
それをわからせたいから、男は私に話したのだろうか?
だがいずれにせよこのことを母に告げる勇気は私にはなかった。
誰にも言えないまま、男に聞いた話を一人で何度も思い起こしてみるだけだった。

失ったもの

ー8ー

父は疲れはて力のぬけてふるえる手で、それでも必死の愛情をこめて母と私だと信じた女と子どもの焼けこげた死体を釘づけにされた横木から下ろす。その重みによろめきながら、その重さをうけとめるのもこれが最後になるのだと感じながら。父は剣や石ころや木切れや手で穴を掘る。次第に息をはずませながら狂ったように荒々しく父はその仕事に没頭する。雨が落ちてくる。父は空をながめる。ぬれて行く死体を見る。おおってやるものはない。父は再び穴に目を戻し、犬のように掘りはじめる。熱心に夢中に土をはねとばしながら。
幸い土はやわらかい。充分に深くなった穴に父は自分で入ってみる。回りの壁を手でならして居心地のいいようにととのえる。そして二人の死体をひとつずつ並べて穴におろして横たえる。雨は強くなりあたりは暗い。父は首をかしげるようにして最後に穴をのぞきこみ、土をかける前に私たちの顔をもう一度見ようとするが薄暗い中それはほとんど見わけられない。あきらめて父は目を閉じる。最後にあてもなく手をのばして、私たちと信じた死体の肩や腕にふれる。そして土をかける。もうこれでする仕事がなくなることに失望し安心しながら。ここまでの体力が残っていたことにほっとしながら、あらためてこみあげてきた涙を泥だらけの手でぬぐいながら。

そんなことのひとつひとつを思うたびに私の胸はかきむしられる。父への哀れみといとしさが胸にあふれ、まるで女を抱きしめるように父を守っていたわって、その苦しみをとりのぞいてやりたくなる。
「夢だったんだよ、父さん」
ゆすり起こしてそう言ってやりたい。
「ねえ、何もかも悪い夢だったんだ」
僕はここにいるんだよ。母さんも元気で傷ついてもいない。
「嘘だったんだ。皆、ほんとにあったことじゃない」
そう言ってやれさえしたら。
「ほら、さわってごらん。僕だよ。これが僕の手。腕だよ。ほら」
そう聞いた時の、そう知った時の、私にふれて本当に生きているとたしかめた時の父の顔。それだけは私は想像できなかった。
想像するのが恐ろしい。
失ったもの、手にすることのできたはずのもののあまりの貴重さ、大きさを思い知るのが恐ろしいのだ。

まぶたが熱くなる。が、私は泣かない。
お父さまにそっくり、と父を知る人は皆私に言った。変な気持ちになりませんかとまじめな顔で母に聞いていた者もいる。
母はそういう時いつも、こともなげに笑い、何の話かしらというように私の方をふり返る。
とぼけているのでも照れているのでもない。母にはわかっているのだと思う。父と私のいろんなちがいが。たとえ外見はうり二つでも母にしてみれば見まちがえようもないくらい父と私はちがうのだろう。
泣かないこともその一つだ。あの人の泣き顔を見て愛したの、と母が時々笑って言う父に比べて、ものごころついた頃から私はあまり泣かない子だった。そして、あの男の話を聞いたあの夜から私は二度ともう、涙を流したことはない。人前でも、一人の時でも。

「お父さまだって別にそんなにしょっちゅう泣いてたわけじゃないわよ」
母は私にそう教えた。
「そりゃそうだろうよ」私は言った。「ローマの軍人で、将軍だったんだろ」
「そういうこととは関係なくて」母は長い髪を後ろにはねのけて言う。「むしろどんなに苦しい時でも困った時でも、生き生きと楽しそうないたずらっぽい目をしてらしたわ。さあ、どうやってこの難問を片づけようか、困難をのりきろうかと工夫するのがわくわくすると言わんばかりの」
「でも母さんの前では泣いた」私は言ってやる。「どんなひどいことしたんだい?」
母は笑って首をふる。「あの人はね」と言いながら、思い出すようにほほえみを消さない。「絶望したときはそれこそもう力つきて子どものように手放しで泣くの。それを見ていると、もう負けた、って思ってしまう。何でも好きなことをしてあげたくなってしまう。この人を信じないでいったい何を信じるの、という気持ちになってしまうのよ、とても自然に」
「ふつう、手放しで泣いている男を見て、そうは思わないんじゃないか?」
母はふっと笑う。「あの人ほど、心から、この人を幸せにしてあげたい、と人に思わせる人はいなかったわ」ひとり言のように母は言う。「ほとんど、まるで暴力のように、その考えがおそいかかってくる。何かをしてあげたい、何でもしてあげたい、って。そんな人だったわ」
「僕はちがうんだね?」
母は私をじっと見る。「おまえは私に似ているの」そして小さく唇をゆがめて笑う。「だからそんなかわいげはありません」

そんな母の冷たさも意地悪さも乱暴さも、実は私は好きだった。父とはちがったいちずさと子どもっぽさが母にはあって、時にはそれにかんしゃくを起こしたりあきれて舌をまいたりしながら、それでもそのしたたかさやずる賢さ、こうと思ったら絶対曲げないかたくなさを尊敬したし、誰より信じて頼りにもしていた。
だが、あの夏の夜以来、特にこの道を通って父の悲しみや苦しみにふれる気がするたびにそんな母の強さそのものが、父を死に追いやったものとして圧倒的にうとましく、おぞましくさえなってくる。
母の方は私があの男を避けはじめ冷ややかな態度をとるようになったのをふしぎがった。しばしばそのことで私を叱った。
私はむろん、あの男が憎かった。自分でもふしぎなことに男が母を憎んで故意に父を見殺しにしたと思うより、本当に疲れて気を失い熱で意識がなかったということもひょっとしたらあり得ると思うと、その方が許せない気がして殺してもあきたりないとさえ思った。父を殺した新皇帝は暴君、愚帝として有名で、父は死の直前に彼を倒したことでローマを救った英雄とうたわれ、母はそれをののしってローマが父を殺したと言う。だが、悪意をもって父を殺そうとした若い皇帝より、あるいは母の言うように父をだまして忠誠をつくさせて命まで奪ったローマより、愚かさと体力のなさとから父を死に追いやってしまったあの男の方がなぜか私は憎かった。そんな間の抜けた理由で父を死なせたことが耐えがたく、彼が母への憎しみからそうしたと考える方がまだ救われた。だがまたそれは、あの男にそうさせるきっかけを作った母の無神経さ、がさつさ、軽率さに向かい合うことでもあったのだ。
そんな私に母が得々として父との愛を語る時、何度声をあげて笑いたくなったことか。すんでのことにあなたが父を殺したのだと口走りたくなったことが、それもまた何度あったかわからない。
結局言えなかったのは母がどうするかどうなるか予測がつかなくて恐かったからだ。そしてある程度自分が成長して体力でも精神力でもその他あらゆる点で母をしのぐようになったと感じはじめてからは逆にまた話せなくなった。まだまだ元気なように見えても昔に比べれば確実に老いて弱ってきている母に、こんな残酷な事実をさしつけることは子どもとしてより以前に人間として許せないことではないか。妻の母などがよくいう言い方で言うならそれこそ「大人気ない」と思った。私が耐えていればいい、私が一人で黙って抱え込んでおくしかない、時が流れてこの事実の持つ無惨さがひとりでに色あせ薄れて消えるまでひたすら黙って待つ他はない、どう思いをめぐらしてもいつも結局結論はそんなところに落ち着いた。
実際、何とか耐えていられた。ふだんはどうにか忘れてもいられた。ただ、この街道を父と同じようにして馬をかる時だけはどうしても私は冷静ではいられなかった。母と二人で歩く時はいっそまだそれほどでもない。こうして今のように一人で旅する時が一番心が重く沈み、目にする風景の一つ一つが拷問用のしめ木のように胸をしめ上げ、まるで雲の中を歩いているように思えることさえしばしばだった。

ー9ー

結婚してまもない頃、少しだけ妻にそのことを話した。もし父が奴隷商人に連れて行かれず、私と母が倒れている父を見つけて再会を喜び、ともに幸せに暮らしていたらと思うと耐えられない。あの男を見るたびになぜ父が死んでこの男が生きているのかと、しゃくにさわってしかたがない。そんな風に話した。
「何というひどいやつだと思うだろうけど、しかたがない」私は言った。「これもまた何と愚かと思うだろうが、いっそ実際に私と母が焼き殺されていたらとさえ思うことがある」私は片手で顔をこすった。「父がどれだけ愛をこめてその死体を抱き下ろし、土をかけたかと思うと、その友だちに嫉妬さえ感じる。そしてあの世で父が私と母をさがして見つけられなくて、かわりに彼を見つけて抱き上げるのかと思ったら…私がこの世であの男と暮らしたように父と彼がいっしょにいるのかと思ったら…来世なんて絶対あってほしくない。理屈抜きでそう思うよ」
私が肩をすくめて笑ったので妻もちょっと笑った。そして「でももしかしたらお父さまは」と言った。「その子どもと妻を殺された父親に、あなたとお母さまを憎ませたくなくて、ご自分があなたのそのお友だちの世話をしにあの世に行かれたのかもしれない。その男の人に少しでも安心してほしくて」
私はまばたきした。「君は私と同じで来世なんて絶対信じないって日ごろから言ってるくせに」
「それはそうよ」妻は言った。「でも、ちょっと考えてみて。もしあなたとお母さまとお父さまが三人で幸せになったら、その人はどう思うの…どんな思いであなた方三人を見るのかしら。どんなにつらい思いで家族のことを思い出すのかしら。そしてあなたたちを憎むかも…憎むまいとして苦しむかも」妻は首をふった。「お父さまはそんなことに耐えられる方とは思えない」
「おれは耐えられる」私は眉をひそめた。「どんなに憎まれても恨まれても、そんなのは平気で幸せでいてみせる!父が生きていてくれたなら、誰からどんなにねたまれようと、そんなことを恐れなどするものか。そんなことで幸せを傷つかせたりするものか!」
妻はじっと私を見てほほえんだ。吐息をついてやさしく彼女は言った。「本当に?」そして私が黙っていると、自分で自分に問いかけるように小さな声でくり返した。「本当にそうかしら?」

二度めに妻とその話をしたのは、たしか三人めの子どもが生まれた後で、母たちが子どもたちを連れて買い物に行っている時、色とりどりの野菜や食器がにぎやかに散らばる台所で、二人で食事のしたくをしていた時だった。二人きりになることがそのころはもうあまりなく、だからかえってそんな話になったのかもしれない。
「父がどんな風にして私と母の死んだことを自分に納得させていったか、どうやってそれに耐えて生きることを決めたのか、このごろとても気になるんだ」私は言った。「父の死んだ年に自分が近くなったせいかな。そのことで父がどんなに苦しんだかと思ったら考えるのは恐いけど、でも一方で知りたくてしかたがない。友だちの死体じゃなくて私の思い出を父がどんな風にして抱きしめて、とむらってくれたかを知りたくてたまらないんだ」

一度それがわかったような気がしたことがあるんだが、と私は妻に話した。
ある時旅先の酒場で一人の老人が父のことについて話しているのを、私は聞いた。
暴君と言われた新皇帝に憎まれて、最後はコロセウムで重傷を負わされながら彼と戦い、彼を倒した後に元老院へローマの統治をゆだねて死んだ父は、すっかり民衆の人気者になり、さまざまな物語がそうやって父について語られるようになっていた。巧みな語り口で人々を酔わせ、金や酒、食物などをもらう者が多い中、その老人の話しぶりはつぶやくような小声だったし聞いている者は少なかった。
だが酒場のすみで杯をかたむけながら聞くともなしに聞いている内、私はふとどきどきと激しく胸が波打ちはじめるのを感じたのだ。
老人は語った。うつむいたままぼそぼそと低い声で。あの剣闘士は妻や子がどんな風にして殺されたのか、彼らがどんな思いをしたのか、細かいところまで何度も何度も、くりかえし考えるのだと言っていた。手のひらに釘がくいこんだ時、どんなに恐ろしかったか、炎がつま先を、ひざをなめた時、どんなに苦しかったか、足元に積み上げられるたきぎをどんな思いで見守ったか、全身が焼けこげて行く時、黒煙の向こうに見慣れた丘の緑を白い道を見て、そこに馬を走らせてくる自分の姿が見えないかと目をこらしはしなかったか、最後に耳にしたのは兵士たちのあざけりの声か炎の音か、隣で焼かれる相手の悲鳴か、そんなことのすべてを。とらえられ、服をはがれて犯される時、どんな屈辱と怒りを感じ、これから何をされるかを予感しておびえ、あるいは何もわからないまま、物音に怒号に魂をちぢみあがらせ、呆然と信じられない思いのままにされるままになったか。いつ、あきらめて苦痛が早く終わるように祈り、いつ、自分のことを思って無事を願い、いつ、せめて毅然と誇り高く死のうと思い、いつ、その心が苦痛にくじけて叫び、何度、おたがいの悲鳴をかたわらに聞いて心がひきさかれたのか、そういうことのひとつひとつを、一瞬一瞬を、考えて、考えて、考えぬくと。

私は最初、これはしばしば、父にまつわる話の中でことさらにエロティックな、またはグロテスクな部分を強調して人気とりをねらう語り手の一人だろうと思った。だがそれにしては少しちがう感じもして、黙って酒をすすりながらその場を離れず聞いていた。数少ない聞き手も静かに聞き入っていた。
「わしはたずねた」老人は言った。「なぜあんたはそうやって、わざわざ自分を苦しめるようなことをするんだ。奥さんだって子どもだって、そんなことをあんたに望んではいなかろう。もっと楽しかったころのこと、自分たちが美しかった日々のことを覚えていてほしいと思ってなさるんじゃないのかね。そんなおぞましい刻々の姿のことは忘れてしまってほしいと思ってなさるんじゃないのかね。すると、彼は首をふった。やさしそうに、悲しそうに、だがきっぱりと少し意固地な風に言った。そうじゃない。そんな瞬間のことも、どんな瞬間のことも、あの二人のものだったら、自分は覚えていてやらなければいけないんだ、ってな」

その時に初めて私は耳をすませたような気がする。老人は話し続けていた。
「おれにとっては、どの瞬間の二人も、あの二人なんだよ。彼はそう言った。こうして死んでしまった以上、あの二人の生きた時間のそれぞれの姿をしたあの二人が何万人も何十万人もおれの前にいる気がするんだよ。美しかった時、幸せだった時のあいつたちもむろん、よく覚えている。でも、だからって、兵士たちにのしかかられて顔をゆがめてわめいている妻、焼けただれて黒こげになって見るかげもなくなっている息子、恐怖におののいて十字架の上で絶望している二人、そういう二人を私が忘れてしまったら、考えないでいようとしたら、その瞬間の二人がきっと淋しがる。おれにも見たくないと思われるなんて、自分たちはどんなにみにくい姿になってるんだろうと思ってきっと悲しがる。そんな思いをさせたくない。そんな瞬間の二人をこそ、決して孤独にしたくない。だから、そういう、一番恐ろしい時を味わっている一瞬一瞬の二人の姿が、おれにはとても大切なんだ。いつまでも覚えてて、生きているかぎり見つめてて、抱きしめてやりたいんだ。言ってやりたいんだ。大切だって。どんなに幸福な時の輝いていたおまえと比べたって、ちっとも変わらずそんな一瞬一瞬のおまえだってなくしたくない、いてほしい、愛している、そう言ってやりたい」

話が終わっていくばくかの金を人々からうけとって男が酒場を出て行ったとき、私はそのあとを追っかけて行った。古びて腕や顔が欠け、すりへって衣装のかたちも見わけがたい石像がひっそりといくつも闇にたたずんでいる、暗い広場のはしで彼をつかまえた。怪しい者ではないことを告げて「さっきの話だが、あんたは彼を知ってたのか?」と念を押した。「あれは本当に直接、彼から聞いたことなのか?」
彼は不安そうに私を見ていて、私は両手を前にあげて落ち着かせるように動かした。
「いいか、聞いてくれ。おれは彼の息子なんだ」私は言った。「本当は死んでない。母といっしょに助かった。父は、それを知らなかった。他人の死体を私たちのとまちがえて、そう信じたまま、死んだんだ」
通りの向うの酒場や浴場の方から、人々の笑い声や叫び声が遠く伝わって来る。老人は黙っていた。
「信じてはくれまいが…」私は言いかけた。
「いや」老人はゆっくり言った。「そういう話もときどき聞くことはある」彼はじっと私を見た。「息子さんか」と彼はたしかめるようにゆっくりと言った。「助かってよかったな。生きていて…何よりだ」
「父について語られる話を、おれは聞かないことにしている」私は言った。「たまに聞いても信じない。だが本当は、おれはずっと知りたいと思っている。父は…父はどう考えていたのか、おれたちのことを。どんな風に思い出して耐えていたのか。おれたちの思い出は生きる支えだったか、それとも死への誘惑だったか。再生のさまたげだったか。毎日のなぐさめ、それとも苦痛?おれは知りたい、そういうことを。本当のことを」
「無理もない」老人はうなずいた。「よくわかる」
「さっき、あんたの話を聞いた」私は言った。「聞くともなしに聞いてしまった。あれは…父の話に思えた。こんなことは初めてだ。父が言いそうなことに思えた。きっとそう言いそうなことに。だが…本当なのか?あなたは父を知っているのか?誰かから聞いたのか?それとも他のたくさんの語り手たちと同じように、あれもあんたの作り話か?」

「言ってくれ」私は懇願した。「もしもあなたが本当に父からそう聞いたのだったら、そうだとおれに言ってくれ、頼む」
老人はゆっくり首をふった。そして思いがけないほど急に私に歩みより、私の腕に手をかけた。それで初めて私は自分の身体が激しくふるえていたのを知り、老人の骨ばった指がいとおしむように私の肩を、腕をさするのを感じた。
「そう言ってやれたらな」つぶやくように彼は言った。「だが、ちがうのだ、お若いの。私は彼と話したことはない。会ったことも…見たことさえもない」
彼は静かに息を吐いた。
「あの話は、私のことだ」彼は言った。「私の家族は殺された。商売敵のさしむけた殺し屋どもに、なぶり殺しに殺された。私は彼らに復讐した。財産も、身分も、すべてなげうって。それでも心はやすまらない。子どもたちの、妻の無惨な死体を見た時、彼らの恐怖と苦痛で形相の変った死に顔を見た時のことが今も忘れられない。彼らの味わった絶望を思う。屈辱を、強い疑問の一瞬一瞬を。なぜ、こんな目にあっているの?何が起こっているの?本当にこのまま死ぬの?何のために生きてきたの?そんなことを思いつづけたろう」
老人は息を殺したようだった。
「…淋しかったろう」彼は言った。「そして、恥ずかしかったろう。残酷な者たちの手によって刻々に変わりはてて行く姿をわしに見せたくなかったろう。だがその一方、誰よりもその時、わしにいてほしかったろう。救ってもらえないとしても、わしがそこにいてくれたらと思ったろう。いなくてよかった、だがいてほしい、そんな思いにひきさかれつづけていたろう」
老人は私を見つめた。
「それでわしは、ああいうことを思うようになった。さっき話した、ああいうことを」
「父も…」私は口ごもった。「父もそういうことを思ったろうか?」
うなずいてやりたいが、という表情で私を見て、老人は重く首をふった。
「そう言ってやれたらな」彼はくり返した。「だが、わしにはわからない。こういうことは人さまざまだ。それぞれが、それぞれのやり方で救いを見出してゆくのだ」
彼はつぶやくようにつづけた。
「どんな一人のやり方も、他の一人にはあてはまらない。そういうものだ。こういうことは」

ー10ー

私が話し終わった時、妻はテーブルの上に木皿とフォークを並べていた手をとめて、私の手をそっととった。「では、あなたならどうするの?」彼女は聞いた。「もし、私と子どもたちが殺されて…」
私はその手をふりはなした。「私は父じゃない」
「わかっているわ」彼女はうなずいた。「それでも、あなたが本当にお父さまの心を知ろうと思うのだったら、結局はそう考えてみるより他に方法はないのじゃないの?」
「第一、私は父がそうだったって世間で言われているように、君や子どもがあの世で待ってるなんて思わない」私は首をふった。「死んだらそれっきり、何もかもおわりだ」
「わかってる」彼女はくり返した。「私だってそう思う」
「父だってそんなこと、ほんとはわかってたと思う」小さい声で私は言った。「もう二度と会えないって。もうおしまいだって」
私は大きく息をした。
「だから、生きていられたんだと思う。もし、そうでも思ってなきゃ、生きられるもんか。死んでも会えないとわかってたからこそ、父は生きていられたんだ」
彼女は黙ってほほえみ、首をふる。しばらくして聞く。「でもそうだったら、何を支えに生きるの?」
「生きていれば、君たちのことを思い出せるから」私はつぶやく。「君たちのことを私が覚えている限り、君たちはまだ少しはこの世に残っていて、消えてしまわないと感じるから。私は君たちの一部分だ。君を抱いた私の腕が、君を見た私の目が、子どもたちの声を聞いた私の耳が、まだ動いて、働いているかぎり、君たちもまだ残っている。だから死ねない。君たちを消せない」
彼女はじっと私を見る。「復讐はしない?私たちを殺した者たちへ」
私は首をふる。「きっと私は」と私は言う。「その者たちのことを忘れる。君たちのことを覚えておくのと同じぐらいか、それ以上の力をこめて、彼らのことを記憶しない。そうすることが何よりも、彼らを否定することだ。殺す以上に、苦しめる以上に。そいつらのことを忘れて、考えもしないで、君たちだけのことを何もかも覚えたままで、私が生きつづけることが。そして私は」私は深く息を吸う。「そいつらよりも長生きする。一分でも。一秒でも。君らの記憶を抱いたまま。君たちとともに、そいつらより絶対に、一瞬でも長く、この世に存在してみせる」
彼女が私をじっと見る目に不安がよぎったような気がする。「もしも私があなたの敵なら…あなたを苦しめようとして、私たちを殺した者なら」彼女はためらいながら言う。「そんなあなたを、とても憎むわ。そんなあなたを決して許せず…あなたに絶対そうさせないようにする」
私はほほえむ。「だろうな」
「きっと、それで」彼女の声はつぶやくように低くなる。「かけてもいいわ。その人は、もっと、もっと、あなたを苦しめようとする」
私はまたほほえむ。「それでもきっと、その相手よりは」と私は言う。「私の方が傷つかない」

「でしょうね」彼女は吐息をつき、じっと私を見る。「あなたはとても…とてもよく知っているわ。自分の価値を。それを使って人を傷つけるやり方を」
「そうじゃない。そうじゃないよ」思わず訴えるような目になって、今度は私が彼女の手をとる。「それ以外のやり方で人を傷つけたくないんだ。だから…だから、そういう価値のある自分でいたいって思うんだ。このやり方なら、私を好きな人以外は私に傷つけられることはない。私の価値を認めない人間なら、私を失っても何も失ったことにはならないんだから」
彼女は笑って首をふり、いたわるように両手で私の手をつつみかえしてにぎりしめる。
「あなたには、わかってないのね」彼女は眉をひそめている。「世の中にはね、皆があなたを認めるから、あなたを好きになる人だっているのよ。あなたなどどうでもよくて、あなたの力を、才能を、人に愛されていることを愛する人が。あなたの価値などどうでもよくて、ただ他の人があなたの価値を認めていることがその人にとってのあなたの価値なの。そういう人は、あなたが自分に無関心でいることは、あなたの自分への攻撃と思う。あなたが自分に思い知らせてると思うのよ」
「だってそれは」私は口ごもる。「それはそうかもしれないもの」
彼女はちょっと驚いたようにじっと私を見る。
「それって、しちゃいけないのかな」私は言う。
彼女は私の髪をなでる。「いいえ、いけなくはないわ」と、言い聞かせる口調で言う。「いけなくはないわ。ただ、憎まれるだけよ。危険なだけ」
「そんなの平気だ」私はちょっと安心して笑う。「いけないことじゃないのなら」
「私がそうじゃないって思うだけよ」彼女は目をくるくるさせる。
「君がそうじゃないって思うなら」私は言い直す。「それでいい。私は平気だ」
彼女が突然私に口づけするので、私はびっくりして目を白黒させる。「…何?これ…」
「ごほうび」彼女はふざけた口調で言う。「…かな?お礼、かな」
彼女がうっすら涙ぐんでいるのに私は気づく。だがその理由はよくわからない。それでも何となく彼女にうけいれられているのを感じて、心が大きく広がってゆるやかにほどけていくようで、私は彼女を見つめて笑う。
「さ、さ、お皿を並べておかなくちゃ」そう言って彼女は、抱き寄せようとした私を軽く押し返して立ち上がる。「だめ、もう、今ここでそんなことしちゃ。ほれ、放して。母さんたちが帰ってくるでしょ」

彼女にあの時、あんな風に答えたのは、多分私自身がそうやって父のことを思い出し、心に強くあざやかにとどめつづけておくことで父を死なせずこの世から消せずにおけるとずっと思っていたからだろう。
だから、あの老人の言ったことではないが、どんな醜い父の姿でも、どんなに苦しい思い出でも、父のことなら知りたかった。父のすべてを、本当の姿を、この手につかんで手ばなさないでいたかったのだ。
けれど私がそうやって近づこう、とらえようとするたびに、父の姿はするすると私の手の中からすべり落ちて行った。
もう死んでしまった人だなんて思えない、と私は時々虚空をにらんでため息をついた。まるで生きている人みたいにあなたは私からそうやって、かくれて、逃げるんだね。
幼い日、前線から帰って、母や私にサービスして疲れていたのか、よく逃げてこっそりかくれて一人で仕事をしようとしていた父の姿がそれに重なってくる。そんな父を家中さがして見つけるのが、面白いゲームのように私は好きだった。
ものおき小屋のかげや屋根裏べやのすみで、こちらに向けている父の広い背中や真剣な横顔を見た時どんなに楽しかったろう。そして思わず叫び声をあげてかけよって行く時、目を上げてこちらを見る父の、あれ、ここなら見つからないと思っていたのになあ、どうしてわかったんだろうなあ、というような、がっかりした情けなさそうな、間のぬけたような、時にはちょっとべそをかいているようにさえ見えた顔が、どんなに私は好きだったろう。
一二度父は走りよってくる私を両手でつかむようにしてうけとめ、そのままつかまえて抱き上げほおをすりよせた後で、吸いこまれそうに深い青い目でじっと私を見つめて真剣な、ちょっと怒っているような、それでいておどけてはにかんでもいるような、甘えた目つきでささやいた。「なあ、お願いだ。私を一人にしておいてくれないか?」
いつまで?と聞きたかった。戻ってきてくれる?ずうっと行ってしまって、いなくなったりしない?
でもそれは聞けなかったような気がする。そのかわり何とかかんとか口実を作って、いつも父のそばにいて父を見張っていた。つかまえた美しい鳥が、また飛んで行ってしまわないように。猫や蛇に襲われないように。
私は父を見張って、何かから守っているつもりだった。そんなに幼く無力だったのに父の保護者になろうとしていた。
何かを予感していたのだろうか?
結局は守りきれずに父は永遠に私たちの前から消えてしまった。

父の姿がつかめないのは情報や資料が少ないからではない。
むしろ父に関する伝説が多すぎて、本当のことが見きわめられない。
あらゆる人たちが父について何かを語った。ローマ帝国を倒して奴隷たちを解放して自由な世界を作ろうとしていた。キリスト教を信じていた。先の老皇帝の遺志をついで古きよき時代のローマを再興するはずだった。暴君だった新皇帝を倒して元老院を守ろうとし、それに成功した。そんなように父が果たした大きな役割を語るものもあれば、個人的な物語…愛した女や家族の話も多かった。そのほとんどの話の中で私と母は残酷に殺されたことになっており、父は私と母に死後の世界で再会できることをいつも夢見て生きたことになっていた。やはり家族と来世で会うことを楽しみにしていた仲間の男と、よくそのことを話し合っていたという。
だが私はそれを信じなかった。
うまく言えないのだが、父は素朴で無邪気そうでいて、人の気持ちをよく読んで合わせてしまう調子のいいところも持っていた。肝心なところでは頑固なくらいゆずらなかったし無器用なぐらい強情だった。母もそれを察していて、たとえばローマを崇拝しきっていた父にローマの悪口は決して言わなかった。「こうと思ったらラバみたく意地っ張りなんだから。ふれてはいけないとこにふれたら溶岩みたいに火傷させられるわ」と母は言っていたものだ。しかし、そういう部分を私はほとんど見たことがなく、それでも何となくそういうところがあるだろうなと感じさせるところはあったが、それよりむしろ父はいいかげんと言いたくなるぐらい相手の言うなりになって、しかもちっとも自分の考えは変えていないという印象を持つことの方が多かった。
それは父のやさしさだったということもできよう。だから来世を信じてそこで家族と会うことを心から信じている仲間の男がいたら、素直に話を合わせもしたろう。いや、実際にその時にはそんな気持ちになりもしたろう。母が時々いろんなまじない師や占い女からもらってくるお守りの首かざりや腕輪を、ほほえみながらも神妙な顔をして母の言うままていねいに身につけていたように。
けれども心の底では父は決して、そんなものに救いを求めてはいなかったはずだ。
それでも相手が、そう父に信じさせることで父を救おうと願っていると感じたら、そう信じて救われているふりもしたろう。相手を満足させ幸福にするために。相手の心を救うために。生きて行く力を相手から与えられたと相手に信じさせることで、相手に生きて行く力を与えるために。父はそういう男だった。
だが、それもしょせんは私の幻想にすぎない。たしかな証拠があるわけではない。

夜風

ー11ー

街道沿いではあいかわらずいい天気がつづいていたが、山の方では雨が降ったらしい。霧がときどき木の間を流れて、ひんやりとした雨が石だたみの道をぬらしたが、すぐにまたそれは上がって、秋にしては強い陽射しがまっ青な空から照りつけた。
激しく吹く風に赤茶けた崖の途中に生えたわずかな草がちぎれるようになびいている細い山道を抜けた。野うさぎが座り立ちしてこちらをじっと見つめている、人っ子ひとりいない草原を一日進んだ。しんと静かに眠ったような白い石壁に囲まれた町を通りすぎた。そうやって私の旅は、次第に終わりに近づいていた。
川の水かさが増して、いつもはあっさり渡れる場所が越えられず、橋のある場所までさかのぼったりしたものだから遠回りになって、いつもは行かない小さな村で最後の一夜をすごすことになった。
宿屋とは名ばかりの小さな酒場で夕食をとり、くつろいでいると、こんな村でも父の話を人々にして聞かせている語り手がいた。まだ若い娘だった。
父の話の語り手として、これは有利なようで実は不利な条件だ。年齢からいって、自分が見てきた、父と知り合いだった、と言えない分、真剣に話を聞いてもらいにくくなるからだ。女の語り手の多くは、父の母だった、恋人だった、対戦した女戦士だった、皇帝の侍女だった、などと自分のことを言いたがる。嘘だと思っていても聞き手はやはりそういう嘘をついてほしがる。彼女もせいぜい老けた服装や地味な髪型でそういう雰囲気を出そうと工夫していたが、とてもそう見える年齢ではなかった。
正直、彼女を見た時にとっさに思ったのは、もうこんな若い女が父の話をするようになったのか、というため息にも似た感慨だった。私自身がもう父の死んだ年を越えようとしているという奇妙な淋しさにもそれはつながった。こうしてまたひとつ、自分が父と別れを告げて行くようなやりきれなさがあった。父の知らない、体験したことのない年齢にこれから自分は踏み込んで行くのだ。

しかしまた考えてみれば、父の話がこの先ずっと語りつがれていくのであるのなら、早晩語り手たちは皆この娘のように父の生きた時代を知らない者たちになってゆくのだろう。「私は見ていた」「知っていた」という語り手たちは次第にいなくなるはずだ。さしずめ、この娘などはそうした新しい世代の語り手の最初の一人となるのかもしれない。そう思って見守っていた。
娘は無理をしないでといおうか用心深くといおうか、自分と父の関係にはふれないで、誰が見たとか誰から聞いたとかいうのではない、ひとつの物語として話していた。それがまた、父が実は死んでいなくて、生きていたという物語だった。
そういう物語もこれまたいろいろあって、私が聞いただけでも十やそこらではきかない種類があった。コロセウムで死んだと思われていたが実は生き返って仲間の一人とともにアフリカに渡ってそこの王になっただの、地中海のどこかの島で昔の恋人の皇女と今も幸せに暮らしているだの、トラの背に乗ってコロセウムを逃げ出しゲルマニアの森の奥に消えただのと。

この娘の話はそのどれともちがっていた。コロセウムにひき出される前に地下牢で父と新皇帝が和解し、二人はともに国づくりに力をあわせるということになっていて、つまり、父と皇帝が戦ってともに倒れたコロセウムでの最後の戦いは実はなかったということになり、いくら何でもこれは少々大胆だと思って私は聞いていた。その場にいた他の皆もそうで、ただ若く美しい娘だったから、にやにやしながら耳をかたむけて聞いてやっているという感じだった。

ところが娘の話はそれなりに真にせまって迫力があり、途中からでたらめなりにこれは、と私は聞きとれはじめた。
許さないだろう、おまえは決して私のことを許せないだろう、と皇帝は嘆く。あんなことをしたのだから、あんなひどいことをしてしまったのだから。
いったい許されたいのですか、と、冷やかに父は言う。許されないでいてほしいのですか。
娘が水を飲もうと一息ついたとき、あろうことか私は思わず声をかけてしまった。
そんなことを言った時点で、皇帝の勝ちだな。それだけ恥知らずになれた時点で。
娘が私を見、皆もいっせいに私を見た。あたりは暗く、マントのかげで自分の顔がよく見えないのに気を許して私は更に続けて言った。絶対にそれでもう何人か、皇帝に同情するやつは出てくる。剣闘士が許さないと冷たいというやつがな。許せば許したで情けないと怒るやつもいる。どちらにしても剣闘士は圧倒的に不利だ。その皇帝は、けんかのしかたってやつを知ってるぜ。

話し手に対して聞き手がそんな半畳を入れることはよくある。それに的確に対応して即座に気のきいた返事で切り返すのも話し手の腕の内だった。もちろん私はこれまでにそんなことをしたことはないし、なぜその時にそうしたのかもわからない。
だが、娘のさっきからの話の展開に、いつものような話を聞けるものと期待していたのを裏切られて不満や動揺を感じていた者は多かったらしく、何人かが私のことばに勢いよくうなずき、そのとおりだとつぶやいた。
娘はひるんだようだった。明らかにあまり場数をふんでいない話し手だった。それでも赤みがかった髪をふりたて、はりつめた澄んだ声で、そうじゃないわ、と言い返した。彼は、剣闘士は、皇帝の気持ちがわかっているの。彼は怒ってなんかいない。ただ悲しんでいるだけよ。
まさか、と聞いていた女の一人が言った。それじゃ復讐はどうなるんだい。復讐のために生きのびたんじゃないのかい。
復讐なんて、皇帝への復讐なんて、と娘は力をこめて言った。剣闘士は一度も考えたことなんかなかったの。
失笑が人々の間に起こった。それじゃなぜローマに行ったんだ。男の一人が大声で言った。何をしに行ったっていうんだ。
皇帝に会いに行ったの。娘は答えた。ただそれだけなの。望んだのは。
殺そうとしたんじゃないのかい。そう宣言したんじゃないのかい。
殺すと言ったこともある、そうしようとしたこともある。でもそれは、皇帝があまりにも不幸そうだったからなの。だから殺してやりたいと思ったの。
いったい何だって剣闘士は皇帝のことがそんなに気になるんだ。一人が叫んだ。ほれてるのか。そして大きな笑い声が起こった。
皇帝が自分にひどいことをしたからよ。娘は言った。そんなひどいことを皇帝にさせてしまったからよ。だから責任を感じているの。そうさせてしまった自分が許せないの。
バカじゃないのか。数人がうなった。
でも、あの剣闘士はそんな人なの。娘は目を閉じ首をふり、力をこめてそう言った。そんな人なんだから、しかたがない。

皇帝と剣闘士は昔から知り合いだったのかい。少しとりなすように女の一人が言った。幼なじみだって話も聞いたことがあるけど。
それは知らない。そうかもしれない。娘は言った。でも、どちらにしろその剣闘士は、妻や子どもが殺された時、誰を責めるより先に、まっ先に自分を責めたの。そうさせてしまった自分のうかつさを。正しいと信じたことのためでも皇帝に反抗し、それで勝利できなかった自分の判断の誤り、力の限界を。それが妻子をあんな風に死なせることにつながったことを。彼は何よりも自分を責め、だから苦しんだの。彼はせめて、生きのこったものを救おうとしたの。妻子への罪のつぐないとして。ローマを。私たちを。皇帝を。
皇帝をだって?何人かが怒りにみちた声で叫んだ。冗談をお言いでないよ。
なぜあんなやつを救うんだい?誰かが叫んだ。
皇帝は生きているから。娘は叫び返した。まだ生きているから。まだ救う可能性があるから。生きているなら。生きている限りは。

そんなことを考えるなんて剣闘士は本当にバカだ。私は思わずまた口をはさんだ。それじゃ殺された妻子はどうなるんだ。彼らが生きてたら、きっと怒るぞ。
生きてたら、怒ることないでしょ。娘は言い返してきた。死んでたら、怒るわけない。死んじゃってるんだもの。
笑い声と拍手がわいた。こんなやりとりを皆は何より喜ぶのだ。一本とられた、と私も大きく両手を広げて笑ってやった。
だが娘は真剣だった。死んでしまった者には、もう何もできない。どんなに愛していたって、もう何もしてあげられない。だから、生きている者に注ぐべきだわ。愛情は、怒りは、力は。彼女は必死の表情でそう言い返した。死ぬ人をふやしてはだめ。生きながら死ぬ人を、ふやしてはだめ。死んだ人をなつかしみ、生きている者を憎むのは、それは自分が生きながら死ぬこと。死んでいった人もきっと喜ばない。

自分たちを残酷に殺した皇帝と和解して幸せになっている夫や父親を見て、剣闘士の妻や子どもが幸せになるなんて、本気であんたは思うのか?私は思わず鋭く聞いた。
娘は黙った。泣きそうな顔で。それはわからない、とつぶやき、そして低く言った。私の話の残りを聞いてくれるの?くれないの?
話せよ、と私は言った。最後まで、もうじゃまはしない。
皆もてんでにうなずいた。何だかだ言っても、どんな話でも誰も一応最後までは聞きたいのだった。

ー12ー

そこで娘は話したのだ。
私が予想していたとおり、それはたどたどしい話しぶりだった。私も含めて人々が黙って耳をかたむけていたのが、今考えるとふしぎなくらいの。

許してくれ、とくり返す皇帝に父は黙って答えない。そんなものまでがほしいのですか、と間もなく父は笑って言った。私の家族の命、私の命、それだけでは不満なのですか。私の許しまでがあなたはほしいのですか。
すると皇帝は激怒した。泣きそうな顔で彼はわめいた。そんなものまでだと?と彼は言うのだった。おまえの家族もおまえ自身も私の手になど入っていない。私は何も得てなどいない。こんなに努力したのに。こんなに耐えてきているのに。

そして皇帝は、つかれたようにいろんなことを並べあげたのだが、それが彼の努力したことなのか得たものなのか、彼自身にもだんだんわからなくなっていくようだった。彼は自分が高い地位にあると言った。美しい愛妾が何人もいると言った。家柄を長々と数代前から数え上げて自分の血筋のよさを強調した。
父はそんな皇帝を笑っていいのか泣いていいのかわからないような目で黙ってじっと見つめていた。

皇帝はしどろもどろになりながら、更に言いつのった。人々が自分を賞賛したこと。大きな建物を建てたこと。すぐれた法律を作ったこと。自分がどれだけそのことのために時間をつぶしたか。悩んで迷って眠れぬ夜をすごしたか。自分にどんなに才能があるか。自分がどんなに美しいか。剣の腕がすぐれているか。学業の成績が優秀だったか。父や姉にほめられたか。
父のまなざしは何かに耐えてふるえているようだった。だがその何かを表情にあらわすことはしなかった。むしろ明るく冷やかにさえ見える顔で父は静かに言い返した。私はいやしい百姓の子です。平凡な人間です。剣の腕など、手の一本も切り落とされるか目をつぶされたらそれでもう終わり。たくさんの人を死なせ、たくさんの村をほろぼし、たくさんの幸福な家族を不幸にした。自分の妻子も、あなたのお父上も姉上も、私を利用し楽しんでいるだけで愛してくれてなどいはしないし、だから私も彼らを愛したことなどない。義務をはたしているだけで、求められるものにこたえているだけです。外見も才能も、すべてふつう以下の、わがままな、怠け者。何とか一生やりすごして早く死を迎え、永遠に眠って休みたい。望みといえば、それだけでした。こんな私がこの世で得たもののすべては、私にしてはすぎたもの、奪いとられたのは私のような人間には当然のむくい。だから、あなたのことも誰のことも私は恨んでなどいませんよ。

皇帝は黙りこむ。からかわれているのかどうか確かめようとするように何度も父の顔を見直す。それから少し用心しながらだが憤然と彼は言う。そんなこと、おまえを夢中で愛していた皆に聞かせてやりたい。父にも姉にも兵士たちにも。
父は黙って笑っている。かすかに肩をすくめたようだがはっきりしない。
何が楽しくて生きているんだおまえは?皇帝は突然聞きただす。
あなたこそ、と父は聞き返す。何を恐れて生きているのです?そしてやさしく、とてもやさしく、はげますように父は言う。失うものなど何もないのに。生きているということはただそれだけで、楽しいことなど何もないのです。皇帝だって、奴隷だって。

そんなことはない。皇帝は言い返す。楽しいことはいっぱいあった。もうなくなってしまったけれど、楽しいことはたしかにあった。余は覚えている。幸福な瞬間はたしかにあった。そして父の手をとりひきよせるが、父は無造作に落ち着いてそれを押し返す。いけません。
楽しいことはあった。何かを思い出すようにつなぎとめるように宙を見て皇帝はくりかえす。絶対にあった。幻ではない。父上とも。姉上とも。なぜそれがなくなったのだ?皇帝は顔をゆがめて父を見る。私のせいか?私がおまえでなかったからか?おまえでなかったからいけないのか?ほとんど泣きそうになって皇帝は言う。私がおまえであったなら、それを失わないですんだと思うか?
父は首をふる。お父上や姉上があなたに求めたのは私になることではありません。ほとんど投げやりにめんどうくさそうにさえ聞こえる口調で、それだけわかりきったことを言う口調で父は告げる。人々があなたに求めたのも私になることではない。
なぜわかる?皇帝は問いつめる。
私だってあなたが私のようになることなど望んではいませんから。父はやはりどこかものうげに、あたりまえのことを言うように言う。私はあなたが、私とはちがったあなたが好きですから。

皇帝はまるでそのことばにとびつくように目を輝かせ、そしてすぐ警戒するように曇らせる。
おまえは私をどんな人間だと思うのだ?甘えた声で皇帝は言う。
父は首をふる。そんなこと知りません。あなたの方がご存じでしょう。
わからないから聞いている。皇帝はじれた口調になる。信じられないほど彼は緊張し、もどかしがっている。私はどんな人間なのだ?どんな魅力と欠点がある?
知るものですか。父はていねいに言い返す。あたたかいとも冷たいともつかないふしぎな声とまなざしで。いらだっているのか面白がっているのか、その顔からはまったく読みとることができない。あなたがわかっていないものを、わかろうともしていないものを、他人の私が何で。

皇帝は子どものように途方にくれた目になって、じっと父を見つめている。
あなたのことなんか、誰にもわかるわけがない。父はくり返す。皆、それほどひまじゃありません。
姉も父もそうは言わなかった。皇帝はつぶやく。皆が私に期待しているしいつも注目していると。
それは自分に何をあなたがしてくれるか、自分にとってあなたが役にたつかどうか気になるだけです。誰だってそうです。父は言う。だからあなたに何かを望んだり攻撃して葬ろうとしたりする。お父上も姉上も結局はそうです。あなたを愛してはおられるでしょう。けれどあなたを誰よりも愛することのできるのは、あなたしかいない。誰よりもきびしく自分を見て、理解して、それでも見捨てないでいることのできるのは、あなた以外の誰もいないのです。

皇帝は父を見つめたまま、突然顔をくしゃくしゃにする。
でも私は、と彼は言う。こんな自分を愛せない。
父はわずかに目を伏せるがすぐまた上げて皇帝を見つめる。そして黙ったままである。
こんな自分のどこがいいのかわからない。皇帝は言う。おまえにこんなことをした自分を私は許せない。こんな自分を好きになどなれない。
父はかすかに口を開いて息を吐く。けれどやっぱり何も言わない。
皇帝はこぶしで自分の頭をたたく。わかっている、と彼は言う。おまえが答えてくれないのはわかっている。私が答えを出すことだ。それはわかっている。ほとんど決死の表情で彼は顔を上げる。でも、規則を破ってくれ。ただひとつだけ聞かせてくれ。
父がわずかにうなずいたように見えないこともない。皇帝はそれを見逃さない。あるいは父はうなずかなかったかもしれないのだが、皇帝は必死でそう解釈する。彼は口走るように言う。私は生きていていいのか?それだけどうか教えてほしい。
父は目を伏せる。そしてわずかに唇を開き、かすかに、しかしはっきりという。
もちろんです。

こんな私でもか?皇帝は念を押す。
父はうなずき、目を上げて皇帝を見る。
生きていてかまわないのか?皇帝はくり返す。それだけ言ってくれたら、あとは自分で何とかするから。こんな人間でも、生きていていいか?
どんな人間でも、生まれたからには、と父は言う。生きていていいのです。
でも私でも?と皇帝は言う。私は皆とちがうのではないか?
いいえ。父は首をふる。あなたも皆と同じです。
生きていていいのだな?皇帝は聞く。おまえに許してもらえなくても、誰にも愛してもらえなくても、私はこのまま生きていていいのだな?
父はうなずく。小さく、何度も。私はあなたを許さないかもしれない。誰もあなたを愛さないかもしれない。それでもあなたはいつだって、生きていていいんですよ。

娘の話の最後がどうだったか、私はよく覚えていない。
何となくわりきれない表情のまま、人々は娘に金を与えて、散った。
娘も何となくそそくさとそれをかき集めて誰にともなくおじぎをすると、テーブルを離れた。
人々はまたざわめいて新しく酒を注文しはじめている。
一人の若者がちょっとぐずぐずしていて、小さい声で娘に聞いた。
皇帝が自分のことを自慢して家柄やいろんなことを言ってた時、剣闘士は何かに耐えるようにして黙っていたね。怒っていたの、それとも哀れんでいたの?
すると娘はまるで父の顔を見ているように宙を見つめて首をふった。
「前はあたし、あそこのところ、今とはちがうように話していたの」彼女は言った。「皇帝のことばの途中で剣闘士は彼を抱きしめて、もうやめて下さい、と言うの。そんなこと言わないでいいんです、そんなことを何もしていなくてもあなたは生きていていいんだ、私はあなたが好きなんです、と言って」
「その方がいいのに」若者は言った。「どうして変えたの?」
「でも、同じことだもの」娘は言った。「冷たく言い返すのも抱きしめるのも、剣闘士には同じことなの。あの人、そういう人なのよ」
「そうかもしれないけど」若者はひかえめに言った。「おれは抱きしめる方がいい。そっちの話も聞きたかった」
「話しましょうか?」娘は言った。「お金はいらない。どちらがいいか、私もまだ考えているところなの」
二人は肩を並べるようにして、人々の間に消えて行った。

私は黙って立ち上がり、外に出た。
わずかな夜風に木々の枝がゆれ、折からの満月がその枝の向こうにきらきらと光を見え隠れさせていた。
売れ残った花を売ろうとして、それでももうどこかあきらめてしまったような、投げやりなのんきな声で、女たちが呼びかけている声がしている。その声も次第に間遠になって行って、かわりに遠くの方から聞こえる蛙たちの合唱があたたかくたちのぼってきていた。
広場のまん中にこんな村には大きすぎるような立派な噴水がある。誰かが海から持ってきたのか、白い花のようなかたちの貝殻がいくつも並べて水の落ちるあたりにおいてあって、それが月の光にうす青い影をぬれた石の上ににじませていた。
私は貝殻をとりあげ、手にのせて、しばらくそこで蛙の声を聞いていた。
娘の話を信じたのではない。それは嘘だ、と何かが私に告げていた。
だがその一方でありありと、その話の中に私は父を感じていた。
私のよく知っている父のまなざし、父の笑いを、あの娘の話ほどまざまざと思い出させたものはなかった。自分はその細かい手ざわりのようなものをほとんど忘れてしまっていたのだと初めて気がついたほどあざやかに、父の姿のすべてが心によみがえってきた。
たとえ一度も会ったことも見たこともなくても、たとえあの話がすべて嘘でも、それでもあの娘は父を知っていると思った。
私以上に知っているのかもしれないと。

野薔薇

ー13ー

私の馬が近づいて行くのを、男は柵にもたれて見ていた。肩にかかってゆるく波打つ褐色の髪はなかば白くなり、たくましかった肩のあたりがやや丸っこくなっていたが、三つ又のくわをつかんでこちらをながめている様子は、まだしっかりと元気そうに見えた。私がそばまで行くと笑って柵を押して開き、乗り入れた私を見上げて「いい馬だな」と言った。
「ああ」私は馬を下りながら言った。
二人は向かい合ってちょっと黙った。一年ぶりだったが特にあいさつもしなかった。
「鶏をつぶしたところだった」男がやがて言った。「今夜はそれを食うぞ」
「いいね」と私は言った。

食事のあとで金を男に渡した。男は黙ってうけとって、私の目の前でへやのすみにあった箱の中にしまってから戻ってきて椅子に座った。
「皿を洗おうか?」私は言った。
男はちょっと笑った。「かまわん。あとで片づける」
私はあたりを見回した。家の中は一年前と何も変わってないようだった。素焼きのつぼがていねいに棚の上に並べられ、葡萄の蔓で編んだかごには野菜が投げ込まれてあった。
「犬はどうしたんだ?」私は聞いた。
「死んだ」男は言い、私を見てかすかに笑った。「去年も同じことをおまえ、聞いたぞ」
私は目を伏せ、ひげののびたほおをかきながら苦笑した。
「皆は元気か」男が言った。
「ああ、皆…」私は口ごもった。「変わりない」
「赤ん坊も?」
私はうなずいた。「無事、育ってる」
男が立ち上がり、ろうそくに火をつけた。それで外がすっかり暗くなっているのがわかった。灯りの中に男のまばらに短い白いひげの生えたほおと、力強いがもの哀しげな黒っぽい目が浮かびあがった。そうしていると男は少しも昔と変わっていないようだった。一瞬テーブルの向こうからのり出して、まだ小さかった私によくそうしていたように、髪をかき上げ、こう言うかと思った。「そろそろ髪を刈らなくっちゃ。前髪が目をつつきそうだ」無意識に私は片手を上げて前髪をかきあげていた。
「何か飲むか?」男が言った。
「酒があるのか?」私は聞いた。
「あるさ」男はテーブルに手をついて立ち上がりながら言った。「酒ぐらい」
彼の背が闇の中に溶け、酒の入った口の細いつぼと赤い素焼きの杯を持ってまた光の輪の中に現れた。彼は杯を押してよこし、私はつぼをとり上げて二つの杯に注いだ。ワインは黒ずんで赤く、重い甘い味がした。

「いい酒だろ」男が言った。
「うん」私はうなずいた。「よく飲むのか?」
「おれか?そんなでもない」男は言った。「気に入ったら持って行け。明日は家に帰るんだろ?」
私はうなずいた。それから自分でも気づかない内に「なあ」と言っていた。「あんたも来ないか。いっしょに…うちに」
ろうそくの向こうで男が目を上げた。けもののようなすばやさで。そしてじっと私を見た。
「一人で…ここで一人で、死ぬまでいるのかい?」私は口ごもった。「もうすぐ冬だし、寒くなる」
男はゆっくりほほえんだ。
「冬なら、何度も一人で越したさ」彼は言った。「それに、一人ってわけでもない」
「誰かいるのか?」
男は黙って目をそらした。
つきあっている女でもいるのか、それともゼフィルスたちがいるってことなのか。私は聞こうとして、ためらっていた。
「もう少し飲まないか」男がつぼを軽く動かすようにした。
「いや、もうそろそろ…」私は首をふった。「寝ないと。明日が早いから」
「そうだな」男は言った。「ベッドは作ってある」
「あの二階のへや?」
「いや、あそこはこの春とりこわした。雨漏りがひどかったし」男は手を奥の方に振った。「そのかわりそっちの南側のもとテラスがあったところに、新しくへやを作った。そこに寝るといい」
「あんたは?」
「おれはいつものへやさ。昔のままだ」男はあくびをした。「おまえの寝床はちゃんとあたためておいてある」
私はうなずいて、酒をすすった。
「用心深く飲むんだな」男がおだやかな、からかうような声で言った。「毒でも入ってると思ってるのか」
私は笑った。「正直言って、心のどこかで」と私は言った。「いつもそう思っていた。ここで何か飲んだり食べたりするたびに…眠るたびに…毒が入ってるかもしれない、寝てる間に殺されるかもしれないって、ずっと心のどこかで…ずっと」
男は動じた風ではなかった。落ち着いて目を笑わせ、「嘘つけ」とおだやかに言った。「小さい時からいつもおまえは、感心するほどがつがつ食べて、夜、見に行くといつもぐうぐう眠ってた」
「知ってる」私は男をまっすぐ見た。「殺されてもいいって思ってたから。そうされたって、ちっとも驚かないし、気にもしないって思ってた。だから平気で眠れた」
「それはおれもだ」男はふっと肩をすくめた。「いつだって安心して、おまえに背を向けてた。殺すならいつでも殺せって思ってな。無理もないって思いながら死んでやるぜって、いつも思ってた」
私たちはどちらからともなく声を上げて笑った。
「やっぱりもう少し飲もう」男が言った。
そのあとは、もう犬は飼わないのかとかどうでもいいような話しかしなかった。あとでベッドに入ってみたら、昔と同じ熱く焼いた石を布でくるんだのが足元に入れてあってふとんは気持ちよくあたたまっていた。

ー14ー

夜中過ぎに酔って寝たから翌日の出発は遅くなり、母や妻の待つ家に着いたのは夕方だった。妻の母親の手料理でごちそうぜめになってその夜は眠り、次の日私たちは近くの湖畔に皆で遊びに行った。
年上の子どもたちが妻といっしょに魚をとりに行っている間、私は幼い子どもたちと母といっしょに草の上で休んでいた。母はいつものように男の着るようなチュニカを着て革帯を締め、腰には剣をつるしていた。髪は半分以上白くなり顔にもしわが増えていたが、それでもそのかっこうがよく似合って若々しく力にあふれて見え、私はふと、ずっと母にしないで来た話、言えなかったことばの数々を今だったら言えそうな気がした。
あの男を傷つけたことを母さんは知ってるのか?
それが父さんを死なせることになったって、母さんにはわかってるのか?
「あの男は元気そうだったよ」と私は草をちぎってもてあそびながら言った。「ゆうべ二人で酒を飲んで、いろいろな話をした」
母は落ち着いて「ふうん、それで?」と言った。

湖のほとりの草地におだやかに風がわたる。私たちの後ろの林で寝ぼけたフクロウが低く鳴いた。オリーブの木が私たちの上に枝を広げ、向こうの方で妻と子どもたちが叫びかわしている声が湖面にこだましている。赤ん坊はゆりかごの中で笑い、幼い娘は草の上でいいきげんでいた。私と母がそのそばに並んで座っているところは、はた目には幸せな家族の仲のいい親子と見えたろう。
「ときどき思うんだが」と私は言った。「妻と子の死んだことをあの男はどう思っているのかな」
「彼は誇らしく思っているのよ」こともなげに母は言った。
「誇らしく?」
「自分の妻と子の死体が役にたって、私たちが生きのびられたことを」
「そうは言ってなかったようだ」私はワインをつぎながら言った。
「もちろん」母は蒸した鶏肉をかじりながら答えた。「罪の意識があるからね」
「罪の意識?」私は当惑して眉をひそめた。「何それ?」

母は手にしたかじりかけの骨をふった。
「複雑よ」と彼女は言った。「人の心はね。あの男は、もしもお父さまが生きていて、私たち三人が幸せだったら、心おきなく、幸せで、満足し、そのことを誇りに思えたのよね」
「そのことってどのこと?」
「妻と子が死んで、私とおまえの身がわりになって」母は骨の先でかわるがわるに私と自分とをさした。「お父さまと私たちが幸せに暮らしている…それだったら完璧だったの」
「完璧って何が?」
「あの男の物語というか…図式がよ」母は言った。「そういうものでしょ、人は皆、それぞれの歴史を作るものだから。でも、不幸な行き違いがあって、お父さまは亡くなった。そのことで私がどんなに嘆いたかも、おまえが悲しんだかもあの男は知っている。それで責任を感じて…それで不愉快になっているの」
私は母を見つめて、まばたきした。
「そうしていると」母は眉を上げて、じっと私をながめた。「本当にお父さまにそっくりね。そうやって、長いまつ毛をばさばささせて困ったようにこちらを見るのなんて」
「責任って何だ?不愉快ってどういうこと?」
「わからない?自分の妻と子の死がまったくの無駄死にだって思うのはつらいことでしょう?そこまではないにしても…何か意味のあることだったとしても…完全に身代わりになれなくて、完全な幸福の情景を作れなかったのは、それは、腹だたしいことではなくて?」
「わからない」私は首をふって、ひざにつかまって立ち上がった娘の口についているミルクをふいてやった。
「不愉快というのはそれ。責任というのはね、そういうことだから、私やおまえが嘆いたり悲しんだり、淋しがったりするたびに、あの男は自分が責められているような気がするのよ。まだ犠牲がたりなかったと言われているような気になって」
「まさか」私は口の中で言った。
「よくあることだけれど」母は骨を草の中に放って指をなめた。「人は、望んだ結果が出ないと、それを認めることが恐さに、望んだのはちがう結果だったと思いこもうとしたがる。この、今の結果こそ、もともと自分の望みだったと」
今度は私の方が思わず母を見つめる番だった。
「何だって?あの男が何か…そんなことを言ったのか?」
「何も言やしないわよ」母は涼しい顔で笑った。「ただ、酔うと彼、よくお父さまの悪口を言うわ。おれはあんたがほしかった、あんたをくどきたくて、あいつが死ねばいいとよく思った、その願いが届いたのかもしれん、なんて」
「てことは、あいつ、母さんを好きなのか?」
「本気にしちゃだめ」母は笑った。「私も本気にしちゃいない。あの男が本当に好きで尊敬しているのはお父さまで私じゃないわ。でも男なんて皆そんなもの。守れなかったものは、大事じゃなかったって言う。手に入れられなかったものは、ほしくなかったって言う。死なせてしまったものは、殺したかったんだって言う。おまえはそういう泣き言を言う男にはならないでよ。お父さまも、そうじゃなかった。守り抜けなかったからって、私たちのこと、そんなに愛してなかったかもしれないって卑怯なことは、死ぬまで一度も、ちらとでも考えたりはなさらなかったはず。あの男はお父さまと似ているけれど、そこがちがうの」父のことを話すときにいつもなる、少女のような目に母はなっていた。髪を白いものがおおい、口のはしには深いしわができて、それでも母がいともかんたんにしてみせる、その、あどけないほどにいちずなまなざしに、いつも私は圧倒される。「でも、そこがまたあの男のいいところでもあるのだろうけど」母は落ち着いてつけ加えた。
私は黙って目を伏せていた。
「おまえは軍隊にいたことがないからわからないでしょ」母は教えるように言った。「お父さまはよくおっしゃっていた。どんなに大きい犠牲を払っても、それが何かの役にたったと思えるなら人はつらくはないものだ。それが、まったくの無駄、犬死にだったと思ったとき、人は傷つく。愛するものが二度殺されたような気になるんだよ、って。だから兵士たちは戦うことに理由をつけたがる。戦う意味を知りたがる。それがなくなった時、軍隊はすさんで、指揮官でさえおさえきれない」
「父さんは…」私は息をのみこんだ。「どうやって理由をつけたんだ?おれたちの死を?」
母は私の手にしていたワインをとって飲んで、笑った。
「つけなかったのじゃない?どんな理由も」そして言った。「私だってつけないもの。お父さまの戦いも、死も、何の役にもたたなかった。無駄な、犬死にだった。そう思っている」
私は思わず目を上げた。母は片ひざたてた上にひじをかけ、湖とは反対側の、岩山と松林が光にくっきり浮かび上がる広野の方をながめていた。
「それが何なの」母は言った。「それでお父さまという人間の価値が何か変わるとでもいうの?」

母は知っているのかもしれない、と私はその時思った。
私がずっと母に言えないでいた、あの男の、あの話を。
そして、それに対抗したたきかえすために母はまた母なりのあの男の心の図式を、歴史を作って私に見せてくれたのかもしれない。
それが自分の少しでも救いになったか、より暗い闇に沈ませたか、今もまだ私はわからない。
父のたどったと同じ故郷への道を今でも私はしばしば通る。
黄色いエニシダが咲き乱れ、麦畑とぶどう畑が左右にどこまでも広がるゆるやかな坂道を。
父は、ここで馬を急がせたか、ここで屋敷を焼く煙を見たのか、そんなこともまだ思う。
屋敷のあとは今は廃墟になっていて、白い野ばらが一面に咲く。
何度くり返し、そこを訪れても、私にはまだ父が見えない。

ー終ー

(街道風景 ー人は皆それぞれの歴史を作るー  2003.9.25.0:00)

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