映画「グラディエーター」小説編騒がしい朝食

騒がしい朝食(はじめに)

この小説を読んで下さる皆さんへ。

映画「グラディエーター」を下敷きにした私の小説は、映画を見ていなくても、よくわかりますし、楽しめます。
しかし、もちろん、映画を見ていたら別の楽しみもあると思います。
そのような、映画を見ていて、これを読まれる方々に、特にお願いします。

この小説は、私のこれまでの「グラディエーター」小説に比べて、かなりショッキングな描写があると思います。
私自身は、この小説は、これまでの作品と何も変わったところはなく、真剣に、登場人物と人間への強い愛情をこめて書きました。そのことは、最後まで読んでいただければきっとわかってもらえるという自信がありますし、良心にとがめるところもありません。
けれど、それでも、ショックを受ける方はいらっしゃるかもしれません。途中でやめてしまわれた方、あるいは最後まで読まれた方の中にも、もしかしたら強い不快の念を持たれる方がいないとは限りません。そういう方々には、せめて、次の二つをお願いしておきます。

ぜひ、「山賊物語」を先に読んで下さい。短いから、すぐに読めます。そのお話にもとづいて、このお話は書かれていると理解しておいて下さい。
それでもまだ許せない方は、どうか、このお話は映画「グラディエーター」とは何の関係もなく、登場人物はどこか別の世界の人たちだと考えて忘れてしまって下さい。

たとえ空想でも、自分の愛した世界を汚され、傷つけられる苦しみを私はよく知っているつもりです。その危険をおかしてでも、これを書いたのは、もちろん、読んでいただきたいからです。皆さんの心を傷つけることを恐れながら、それでも読んでいただきたいと私はやはり願っています。

騒がしい朝食 -マキシマスの妻ー

紀元190年頃のスペイン。街道沿いで小さい宿屋を営む平凡な中年女は、客の男の一人から聞いた話で、彼を殺そうと決意する。

(男はもとローマ軍の兵士。丘の上の家で昔、殺した女と子どものことを嬉々として語るのです。かつて、その家に乳母としてつかえ、奥さまと坊やとを深く愛していた、この中年女に、それと知らずに。

奥さまが語ってくれた、すてきなだんなさまとの出会い。結婚した今、そのだんなさまにも語れない奥さまのひそかな、さまざまな悩み。それらの話を思い出しながら、乳母は、奥さまと坊やを苦しめて殺したこの男への復讐を誓ってナイフを固く握りしめます。
このお話、できれば「山賊物語」を読んでからにされた方がよいですよ。)

第一章 丘の上のあの家で

走らないようにするのが、やっとのことでした。調理場にはうように入り込んだ私は、うしろ手にしめた扉に手をかけたまま、あえぎました。
心臓の音が聞こえそう。もう何年も前から私は心臓をわずらっています。太りすぎだと娘からは言われています。けれど、今死んではならない。
大きく息を吸って私は壁の方を見つめます。あけ方にともしたままのろうそくの、短くなってゆらゆらとのびちぢみする光の中、ひびが入って、ゆがんで、よく映らなくなっているほこりだらけの古い大きな鏡の中に私の姿が映っています。白髪まじりの赤ら顔の、太った中年女。胸をおさえて私はあえぎます。たった今、聞いたことばの数々が、あざやかにまた、耳によみがえってくる。

女は、もがいたよ。
子どもは、火のつくように泣いた。

私は、よろめきながら、鏡のおいてあるのと反対側の調理台に近づきます。ふるえる指が、まるで私の心とは何の関係もないかのように、ひき出しの取っ手にかかってひき出して、重ねたふきんをはねのけます。ずらりと並んであらわれたナイフや焼き串や包丁の中から、何かを選ぼうとして、私の指はとりとめもなくその一つから一つへと走り、せわしなく一つをつかんでは、またすぐにはなします。
私は、人を殺したことはありません。羊や、ニワトリでさえも。だから、わかりません。男を一人殺すには、どんな武器が一番いいのか。このナイフ?もっと長い方が?とりあえず、一本のナイフの柄をつかんで、私はにぎりしめます。
それで、どこを刺せばいいのでしょう?どこを刺したら、人はすぐに死ぬのでしょう?
不意はうてると思います。私は宿屋もかねている、この小さい酒場の女あるじの田舎女。警戒する男などいるはずはありません。背後に回ってやります。そして、首のつけ根か耳の下を力いっぱい突き刺せば、きっとすぐに死ぬはずです。
でも、すぐに死なせたくない気もします。
それではものたりません。許せない。

花のような、あの子の笑顔。
男の子とは思えないほど、やさしくて、いじらしいほほえみを向けて、あの子は私の首にすがり、甘い匂いのするすべすべとやわらかいほおをよせてきた。
「ばあや。僕、ばあやが大好き」
こっそりと小さく、ささやいた声。

小さい手を生意気にこぶしににぎって、おれたちをにらみつけてる。その指を広げて、横木の上に押しつけて、釘を押しあて、力いっぱい打ち込むと、魚のようにとびはねて、ものすごい声で悲鳴を上げた。母親は裸にむかれて床の上で男にのしかかられてたが、それを聞いて、もっと大きな声でわめいた。

私は、あの男を殺してやります。
何があろうとも、殺します。
そのあと、どうなってもかまわない。

つやつやと赤いトマトのサラダと、ふわふわの金色のオムレツ。ぱりっと焼きあがったこんがりとキツネ色のパンと、あわだつまっ白い牛乳。
丘の上のあの家の朝食は、いつもそれでした。
まだ朝が早く、霧のうずまく道を、私は、しぼったばかりの牛乳をたっぷりと入れたつぼを、ろばに引かせた車に積んで、生れて間もない娘を抱いて、ゆっくりと坂を登って行くのでした。
私はまだ若く、髪もゆたかで黒く、村でかじ屋をしていた夫も、とても元気な頃でした。
時は流れて、あの時、赤ん坊だった娘も十八歳になりました。

丘の上のあの家の向こうには、いつも青い空が広がり、白い雲が流れていました。
ポプラの木が兵士のように家をとりまき、門までつづく小道の両わきには、ニワトリやアヒルがえさをついばんでいました。
働き者だった奥さまは、腕まくりし、髪を白い布で包んで、よく、その道に出てきては、前かけの中からえさをつかんで、鳥たちにばらまいてやっておいででした。

おれたちは、馬を並べて、小道をかけ上がって行った。そしてまず、子どもをとらえた。腕をつかむと、子どもはもがいた。驚いて、怒って、目を見はってこちらを見た。海のような青い目をしていた。

それは、だんなさまの目の色と同じです。
娘が生れてしばらくして、私があの家に働きに行くようになった頃、ローマの若い軍人だっただんなさまは、ずっと家にはおいでではなく、長いこと私は、お目にかかったことがありませんでした。
ある朝のこと、牛乳のつぼをかかえて私が家に入って行くと、見たことのない男が窓のそばに立っていて、おどろいた私が声をあげて、つぼを落としかけると、まだ眠そうにぼんやりと立っていたその男の人が、ひっかけるように着ていた白い寝間着のすそをひるがえすようにして、まるで山猫のようなすばやい動きで、すべるように一気に私のそばに来て、つぼを支えて、とり上げました。そして笑って言ったことです。「驚かせて悪かったな」
「ご主人さまで?」私はようやくそれに気づいて、まだあえぎながら申しました。
男の人はうなずきました。「よろしくな。妻と息子がいつも、たいそう、世話になっている」
そんなあらたまったあいさつが、まだどこか、かわいそうなほど、若々しい、少年のようなだんなさまでした。私の間近にあって、私をのぞきこんでいる目の色は、深い青い海の色でした。

「ばあや、見て、ほら、この子の目を」
奥さまは、時々はしゃいでそう言って笑って、赤ん坊だった、あの坊やを、私の腕に抱かせては念を押しました。
「同じでしょ?あの人とそっくりよね?」
「奥さまの目に似て、黒く見えることもありますよ」
「そう?そうかしら?」
ゆたかな髪をかきあげながら奥さまは、心配そうな、うれしそうな顔になって、私の腕の中でにこにこと笑っている坊やの顔をのぞきこむのです。
開けはなしの窓から吹き込む夏の風が、花の香りを運んでいました。

女を追いかけて、廊下を走った。扉の前で追いついて、足をつかむと女は倒れたが、向き直って、めすトラのようにつかみかかってきた。二人がかりで腕をつかみ、一人が服をひきさいて、とび出たでかい乳房をつかんだ。女が怒って叫んで足でけりつける上からスカートの布をつかんでひきちぎると、女の両足はあらわになって、まっ白いふとももがむきだしになった。

大勢かかって、あいつらは奥さまをそのような目にあわせたけれど、今、となりのへやにあいつは一人です。朝から酒をのんでいます。だから、私でもきっと殺せます。
もっと酒をのませた方がいいのかもしれません。いっそ、毒でも入れてやれたら。のたうち回って、血を吐いて苦しむその顔を、力いっぱい床の上で足でふみにじってやれたら。
ああ、でも何と言ってやれば私の気はすむのでしょう。
「十五年前におまえたちが、お二人を殺して焼き払ったそのお屋敷に、二十年前に私はつとめていたのだよ」
それで、伝わるものでしょうか?
私の、この今の気持ちが。

私の指はさっきより落ち着いて、ひき出しの中をさぐります。やはり、このナイフでしょう。長さもほどよく、魚をさばくのにいつも使っていますから、手になじんでいます。前かけの下にかくせるでしょう。
私はナイフをつかみます。私の指はふるえていません。
たとえ死刑になろうとも、決して後悔はしません。
首をしめられようと、火で焼かれようと、それが何だというのでしょうか。
あの奥さまも、そんな目におあいになったというのに。
あの坊やも、そんな苦しみの中で死んでいったのに。

星のふるような夜でした。
遠くの沼から蛙の声が、のどかにひびいて来ています。
奥さまは私の娘を、私は坊やを抱いて、二人で露台に座っていました。
「ようく、眠っておいでです」
「あなたの子どももよ、ばあや」
それぞれ、自分の腕の中をのぞきこんでは、私たちは笑いあいました。
「暑そうだから、あんよを出してやろうかと思うのだけど、それだと虫に刺されそうだし」
「坊やもなんでございます」
私たちがあれほどに大切に、夜風からも、陽射しからも、虫からも守ろうとし、傷つけまいとしていた坊やの身体。白いふっくらとした手足のどこかに、虫に刺されたうす紅色のあとが、かわいらしく、ぷくんと一つふくれあがっただけで、いたたまれない思いをして、優しく声をかけながら、そっと指先で薬を塗りこんでやっていた坊やの肌。
その身体に釘が打ちこまれ、その肌を炎が焦がしたのです。
同じようにして、釘づけにされて焼かれる奥さまのとなりで。

度を失ってはなりません。
何かのまちがいということはないのでしょうか?
けれど、となりのへやで朝食を食べているあの男は、はっきりとあの村の名を言いました。丘の上の、ばら色がかった色の石垣に囲まれた、高いポプラの木のある家と言いました。
だんなさまの名前もはっきり言いました。若いが、有名な、北方軍団の将軍。その方が反逆罪にとわれて、前線で即刻死刑となり、反逆者の家族も極刑にしろという命令が下って、この地方を統轄していた軍の司令部から自分たちが派遣された。あの男は、朝からのんだ酒でろれつの回らない舌で、それでもはっきり、そう言ったのです。

まず、村を襲ったよ。あの付近の連中が、あの屋敷を大切にしているのはわかっていたから、女が逃げて行かないように、周囲の農場と家を皆焼いて、住人を殺した。それに、朝いっぱいかかったな。それから、あの丘の家に向かった。皆、興奮していた。
丘に登る道の途中で、召使らしい男に会って、馬の上からいきなり斬り倒した。そして死体をひずめでふみにじって、おれたちは、一気に坂をかけ上がって行った。

時刻は昼過ぎだったことになります。
奥さまは、何をしておられたのでしょう?坊やのお昼寝の支度だったでしょうか?
子どもべやは、ぶどう畑を見はるかす、大きな窓のある、涼しいへやでした。
だんなさまが、ご自分でお作りになった小さな寝台があったはずです。
私と奥さまがいつも磨いていた厚い木の床の上に、奥さまの織った赤と緑の模様の入った敷物が広げておいてあったはずです。
お昼寝前に、坊やはいつも、まだ眠くないとむずかった。
寝台の上にかがみこんで奥さまは、そんな坊やを、あやしておられたのかもしれません。
もうすやすやと眠ってしまった坊やをそばにおいて、洗って干して乾かしたシーツをたたんでおられたでしょうか。
遠くから近づいてくる、たくさんのひずめの音に、奥さまはシーツをおいて、窓べにかけよられたでしょうか。
坊やははね起き、寝台の上で耳をすませたのでしょうか?
「父さんだ!帰ってきた!」
はずんだ声を上げたのかもしれません。

午後の陽射しに包まれて、屋敷はしんとしていたよ。
まるで、人がいないみたいだった。
門の柱にまきついた緑のつるくさが風にそよいでいてな。
馬から飛び下りた隊長が、玄関の柱をこぶしで軽くたたいて言った。
「よし、この上の横木に釘づけにする。そして下から火をたけばいい」
皆、どよめき、そして笑った。枯れ草や木を集めろと誰かが叫ぶ。それは後でもいいと誰かが言った。燃やすものがないと困ると一人が言い返し、また誰かが集めながら焼いていけばちょうどいいと言った。
「じわじわ焼こうぜ」一人が叫んだ。「のたうちまわっても落ちないように、しっかりと釘を打ってな」

私の息はつまります。
ひとりでに指がのどをつかんで、かきむしる。
そんなことがあっていいのでしょうか。そんなことが、本当に。
この息苦しさ。ひとりでに身体がふるえる。
ああ、たった一人の身寄りだった、年老いた母が死んだ時もこうでした。
暴れ馬のひく馬車をよけきれないで、はねとばされて、あっという間に死んだと聞いて、声も出ず、涙も出ずに、ふるえつづけていた私を、奥さまはしっかりと強く強く、ただ抱きしめて下さった。
「ばあや、かわいそうなばあや」
耳元で何度もそうくりかえして下さった。
あのお手の暖かさ。あのお声の優しさ。
「奥さま、どうしておわかりになるのですか?」
そんな時なのに、思わず私は聞きました。
「そんなに幸せでいらして、私どものように不幸なものの悲しみが?」
そうしたら奥さまはおっしゃいました。
「何を言うの、ばあや。私は決して、もともとそんなに恵まれた、幸福な女などではなかったわ」
私より少し年下でいらっしゃるのに、まるで姉のようにしっかりと力強く、深い悲しみに満ちていた、あのお声も今はない。

女の両足をつかんで広げ、もう一人が残った服のきれはしをひきちぎる。女が、けもののようにわめく。奥のへやでは、逃げ回っていた男の子がとうとうつかまえられて、宙につるされて、なぐりつけられながら、金切り声で母親を呼んでいる。
子どもは助けてと女が叫ぶ。子どもには手を出さないで。そう叫ぶ女の口の中に兵士の一人が、つばを吐きこむ。腰布をはずしながら一人が笑う。安心しろ、奥さん。二人並べて、釘づけにして、下からあぶって殺してやるから。だがその前に、この世で最後のおつとめをしな。おれたちをたっぷり楽しませるんだよ。

小鳥たちが私と奥さまの頭の上で鳴きかわし、そよ風が二人の髪をなでて行きます。泣いて乱れた私の髪をそっと長いきれいな指の先でなでつけて下さりながら、木漏れ日の中で奥さまは静かな声でおっしゃいました。
「私は、それは貧しい家に生れたわ。荒れ果てた土地で、働いても働いても作物は実らず、家畜は育たなかった。十二の年に父が死に、間もなく母も死んで、生きるために私は盗みもしたし、人も殺した。もちろん身体も売った。今思えば夢のような日々。けれど時々私は、この今の暮らしの方が夢かと思うことがあるの。目がさめたら、この家も、坊やも、夫も、あなたたちも皆消えていて、私は吹きさらしのどこかの建物のかげにうずくまって、寒さにふるえているのではないかと」

これは夢だ、と奥さまはお思いになったのでしょうか。
さめれば、あたたかい寝台の中で、だんなさまに抱かれて、そばには坊やが眠っていると。

かわるがわるに、おれたちにのしかかられて、ぐったりとなった女は、もう立つこともできない。その髪をつかんで、廊下をずるずるひきずって行った。さんざんなぐりつけられて泣き叫ぶ子どもの声も、もう、とぎれとぎれにかすれはじめている。それでも女はささやいていた。あの子だけは助けて。あの子だけは。おれたちは、ひきずられる女のあとをついて行きながら、声をそろえて、その口まねをして笑ったよ。

落ちつかなければいけません。
殺しそこねてはいけません。
だって、奥さまがそうやって殺されなさってから、もう十年以上たっていることになるのです。
私は、何も知りませんでした。
あの村をはなれて、この街道のそばに住むようになって、娘を育てて夢中で働いている間、時々、鏡で自分を見、年ごとに背ののびて行く娘を見ては、いつも思っておりました。
奥さまの髪も白くなられただろうか。お顔にはしわができただろうか。
坊やの背もとっくに奥さまや私を追い越したことだろう。
お幸せで暮らしておいでだといつも思っていましたのに、その間ずっと、奥さまは死んでおられたのです。
坊やもとっくに、この世から消えていた。
あの、つやつやした巻毛も。小さな桜貝のようなつめも。
何ひとつ、あとかたもなく、土の中にとけてしまっていた。
それを知らずに私はずっと暮らしてきたのです。

それなら、今さら何をあわてることがありましょうか。
度を失う理由などないのです。
ひき出しから白い厚い布を出して、ゆっくりと私はナイフの刃に巻きます。
人を刺したら、どのくらい血が流れるものでしょうか。
昨日、床を磨いたばかりなのに、と途方もないつまらないことを私は考えたりしています。

となりのへやからは何の物音も聞こえては来ません。
さっき、この調理場にかけこんでから、いったい、どのくらい、時間が流れているのでしょう?

おれたちは、あの家を焼いた。
炎の中に、ポプラの木が、生きもののようにねじれていた。

第二章 流れゆく雲のように

青い小さな花が、私たちの足もとに咲いていました。
大きな肩かけですっぽりと肩をくるんで、奥さまは楽しげに笑っておいででした。
「悪い暮らしではなかったのよ、山賊の暮らしは」
流し目に私を見て、奥さまは笑われました。
「私をこき使っていた金持ちの一家が襲われて、皆殺しにされたの。納屋にかくれていた私は、夜ごと私を抱いていた、その家の太った主人がかくれようとこちらに走ってきた時に、思わず大声で山賊たちに『こっちよ!』と叫んで教えたわ。私の目の前で主人は首をはねられ、私はその首をつかみ上げて、狂ったようにいつまでも笑った。馬にまたがっていた女の一人が私に聞いた。『いっしょにくる?』私は大きくうなずいたの。それが十五の冬だった」

窓の向こうでは枯葉が舞っています。
私と奥さまは、坊やと娘が床の上で遊んでいるのを見ながら、敷物の上に座って熱いお茶をすすっていました。
炉の火が赤く、あたたかく、とろとろと燃えている、静かな、とても静かな夜。
かすかに何かの音がします。
「ポプラが風に鳴っている」
奥さまがふと、おっしゃいます。
「だんなさまとはいつ、お会いになられたのですか?」
私はお聞きしてみます。
奥さまの手の指が、考えるように肩かけの房をまさぐります。
「あの人をどう思う、ばあや?」
「どう思うって…」
私は口ごもります。
そんなに何度もお会いしたわけではありません。
無口なだんなさまでしたから、あまりお話もしていません。
けれど、そのくせ、何かとてもたくさんおしゃべりしたような気がしてしまいます。
食卓の向こうから面白そうに私の方をじっと見つめておられる目や、奥さまの話を聞いては何か言いたそうに軽く唇をとがらせておられたり、坊やの上にかがみこんで小さい手に顔をさわらせておいでになったりする時の、ひとつひとつの表情が、まるでものを言っておられるように豊かなだんなさまでした。

気がつくと奥さまが笑っています。
「そんなに真剣に考えなくても」と言われて、私は赤くなりました。

「山賊の村で何年も暮らしたわ」
奥さまは熱いお茶をすすって、ほっとため息をつかれました。
「むずかしいことは私にはわからないけれど、本当に、そんなに悪い暮らしではなかった」
「その村を、だんなさまが滅ぼされたのでしょう?」
奥さまはうなずいて、つけ加えられます。「ローマの軍をひきいて、攻撃をかけて」
しばらく黙っていてから、奥さまはふっと笑われます。
「それまでにも何度か、そんなことはあったの。ローマ軍が攻めてきたことは。でも、私たちの村はいつもそれを撃退した。女も、子どもも、戦って」
炉の火がぱちぱち音をたてます。坊やと娘は遊び疲れて、重なり合って眠っています。二人とも、いつもそうして、たった今まで遊んでいたと思ったら、いきなり眠ってしまうのです。
「辺鄙な地方の小さなとりでだったから、ローマ軍も本気で攻めては来なかったのかもしれない。それでも、ともかく私たちには自信があった。今度もまた、村を守りぬけるという」
私は奥さまが黙っている間に立って行って、坊やと娘に、奥さまが編んだ、ふわりとやわらかい大きな肩かけをかけてやります。二人は頭をくっつけあって眠っていて、娘の金色の髪と、坊やの黒っぽい髪とが入りまじっています。
「けれど、間もなく私たちは気がついた。軍勢は特に多くはないけれど、今度の敵は、これまでの敵とは全然ちがうことに。しぶとくて、とらえどころがなくて、情け容赦なかった」

「私が初めてあの人を見たのは夜明けの光の中だった」
空になったカップを見つめて奥さまはゆっくりと言い、かすかにほほえまれました。
「あの人はまだそのことを知らないの」
いたずらっぽく奥さまは私を見つめて笑われました。
「私は寝ずの番をして、とりでの石垣の上で、壁によりかかっていたわ。そうしたら、ずっと向こうの敵の陣地の前方で、何か動いているのが見えた。目をこらすと、隊長らしい立派なよろいかぶとを着た男が一人で立って、こちらを見ていた。まるで、とりでの弱点をさぐろうとしているようで、私は思わず身ぶるいした」
思い出しているように奥さまは顔を上げ、じっと宙を見つめられました。
「光は私の背後にあった。石垣の影にのまれて、私の姿は向こうには見えないとわかっていた。そっと身体を動かして、私は弓に矢をつがえた。そして、ねらいを定めたの」
奥さまはそっと空のコップを床におかれて、長いスカートのひざを両手でかかえこまれます。
「けど、射なかった」
私は奥さまの顔を見ます。奥さまは私を見返し、ほほえまれます。
「なぜかしら」
「射たら、あたったのでしょうか?」私はおそるおそる聞いてみます。
「おそらくは」奥さまはうなずかれます。「私は弓がうまかった。あの人、かぶとをかぶってなかった。顔でも首でも、射通せた」
「でも…」
「そう、射なかった。朝の光の中で、あの人はこちらを見ていた。とても無防備に見えた。とても自然で、安らかで、のびのびとつりあいのとれた姿だったわ。生きて、息づいているものが、こんなにも美しいのかと思えるほどにね。傷つけたくなかった。走らせて、叫ばせて、自由に動き回らせておきたかった。敵なのに。でも、そう思った。あの人の表情はわからなかった。遠すぎてね。でも、そうしてこちらを見ている様子は、何となく、何だかなつかしいものを、ぼんやりながめているようだった」
奥さまは笑います。
「あの人、今でも時々そんな顔をするでしょう、ばあや?」

お二人は私の見ている前でも平気で、時々、けんかをなさいました。
それがまた、つまらないことばかりで。
だんなさまは畑仕事や大工仕事が楽しいらしく、帰ってきても、すぐ次の日から、それはうれしそうに、こわれた柵を作り直したり、しぶとい雑草をひきぬいたりしておられました。
奥さまも最初は喜んでおられますが、そのうちにだんだん、口をとがらせ、目の色がけわしくなるのがわかります。
それは、私にも、奥さまの気持ちがわかりました。
だんなさまは、そういう仕事に熱中してしまわれるのです。何かを作り出したり、片づけてきれいにするのが、うれしくてたまらないようで、いつまでもおやめになりません。奥さまがお茶を運んで来られて、二人でお話をはじめても、どうかするとお返事が上の空になって、そうです、そうです、奥さまのおっしゃる通り、なつかしいものを見るようなぼんやりした目で、石を積んで作りかけた階段の方をごらんになったりします。早く仕事に戻りたくておいでになるのが、ひと目でわかりました。
「あなた、石段と結婚したら?」
奥さまがそういやみを言い、ぼんやりしていただんなさまが「そうだな」とあいづちをうたれたので、奥さまがそれはもう、お怒りになってしまわれたことがございます。

だって、急いでやらないとな、とだんなさまは弁解されていました。
「帰るまでに、しあげておかないと、あの子がけがをするじゃないか」
「そんなもの、私がやります」
「あなたにはやれないよ。あんな石、どうやって持ち上げる?」
「召使いにやらせるわ。村の男にでも。いったい、あなた、何をしに帰ってきたの?石段を作るため?」
「作ってくれって、昨日あなたが言ったんだぞ」
「こんなに本格的に時間をかけてやるなんて思ってなかったわよ」
「いったいどんな石段を作らせるつもりだったんだ?ニワトリ用かい?」
「あなたは?ローマの軍団用なの?」
お二人とも、むきになっておられるのですが、見ている私はおかしくてたまりませんでした。ふだんは、私の夫と同じ、いえ、それ以上に無口で静かなだんなさまが、子どものように意地になって、思いがけないぐらい口達者に次々言い返されているのも、それは楽しい見物でした。
奥さまがスカートをけたてるようにして家に入ってしまわれると、だんなさまは私に気づいて、急に恥ずかしそうに畑の方に目をそらされます。

そう、私があのだんなさまを、村の他の大きな家の男たち、身分のある方々と何だか少しちがったように思い、もったいないことではありますけれど、どう思うのと奥さまに聞かれて、つい赤くなったりしてしまいますのは、だんなさまのあんなところでございました。

軍人や金持ちなど身分の高い方々は、私どものような下働きの村の女など、ふつう、いても気にはかけられません。私どもの目の前で平気で裸になられたり、用をたされたりもなさいます。
だんなさまは、そうではありませんでした。特に目だつわけでもなくて、ふだんは気がつかないのですが、どうかしたはずみにはっきりと私に気をつかっておいでなのがわかりました。
だんなさまが仕事に熱中するとお怒りになるくせに、奥さまもまた、お料理やぬいものなどのご自分のお仕事のことでは我を忘れるところがおありで、よく、帰りかけた私をひきとめて、明日持ってきてほしい料理に入れる調味料や、ぬいとりをする糸の色のことなどで、長く話をなさいました。そんな時、だんなさまは坊やを抱いて遊んでおられたりなさるのですが、時々、とげとげしくはちっともないのですけれど、まだ帰らないのかなあ?と待ちくたびれて、じれた目をちらっと私に向けられることがありました。きっと、私が家を出るとすぐ、いそいそと奥さまのそばにおいでになって抱きしめられるのだろうと思ったりして、いじらしいような、申しわけないような気持ちがしたことがございます。

暑い夏の日、台所で奥さまと二人、半分裸のようになって、粉をこねている時に、そんな話をいたしました。だんなさまが、私のような者にも気をつかわれるので、時々、びっくりすることがあるという話です。
奥さまは笑いもせずに「あの人はそうなの」とおっしゃいました。「ちょっと変な人なのよ」

「どう言ったらいいのでしょ」と奥さまは粉をこねていた手をおとめになって、手首で額をぬぐいながら、ちょっと唇をゆがめるようにして笑われました。
「私たちの村を滅ぼして、生き残った私たちをとらえて牢に押し込めた時も、あの人、そんな風だった。特に親切な風でもないの。でも、私たちを閉じ込めた、とりでの中の牢獄で、あの人まじめに、私たちに聞いたの。全部の監房は埋まらないと思うので、なるべく居心地のいい方に閉じ込めようと思うが、どっちの建物の方が風通しとかはいいんだ?って」
奥さまは苦笑なさいました。
「変よねえ?でも、あの人は、変なことを聞いているつもりはないようだったわ。とても、あたりまえのことをたずねているような。私たちの仲間の、生き残った指導者たちは、誰もそれに答えられなかった。誰も、そのことを知らなかった。盗みをした罪人や、とらえた人を入れておく牢屋の住みごこちなんて。私たちの仲間は皆、あきれたり、笑ったりした。閉じ込められたあとでもまだ、皆、そのことで、あの人をあざ笑ってた。ばかじゃねえのか。とらえた敵をとじこめるのに、居心地のいい牢を聞くなんて。そう言いあってね。でも、ばあや。私は笑えなかった。私は下っぱだったけれど若手の指導者の一人で、牢の係もしたことがあったの。私はなぜか、その時とても恥ずかしかった。あの人が聞いたことの意味もわからず笑っている仲間たちの中で、私はとても孤独だった」

「なぜなんでございますか?」おそるおそる私は聞きました。
「なぜだか、私にもわからない。でも、その時に初めて思った。私たちの村は、何かが足りなかった。何かがまちがっていたかもしれないって」
奥さまは唇をかんで、こねた粉のかたまりを持ち上げると、力をこめて台の上にたたきつけました。
「ローマに対して、戦っているつもりでいたのよ。私たちは自由で正しい、誇り高い人間たちで、そういう村を作っているつもりだった。でも、どう言ったらいいのだろう…村に逆らい、村を滅ぼそうとした者、その疑いをかけられた者が、どんな牢に入って、どんな苦しい思いをしようが知ったこっちゃないと思ってた。そんなの、考えちゃいけないんだってさえ。だから、そこに放りこまれた者たちが、ぼろぼろになって、へとへとになって、みじめな姿になって処刑にひき出されるのを見て、そら見ろ、悪いことをしたからだって思って、あざ笑ってた。私も、ほんの小娘で」
奥さまは悲しそうに首をふられました。
「悪いことをしたから、そんな姿になったんじゃない。悪いことをしたと言って、ひどい扱いをされたから、そんな姿になったってことが、わかってなかったのよね」
「その二つは、ちがうのでございますか?」
「ちがうと思っていたわ。ローマが貧しい人たちをしいたげ、牢に入れた時には。私たちは皆、ちがうとわかっていたわ。自分たちがローマにそんな目にあわされた時には。それなのに、自分たちの村では、気づかずにいた。あの人に、あの時、あんなことを聞かれるまでは…」
奥さまはふと、息を殺すような激しく強い目をなさいました。

「あの人の顔を近くで見たのは、その時が初めてだった。あの容赦ない果敢で狡猾な攻撃をかけつづけてきたとはとても思えないほど、無邪気で若々しい繊細な表情で、まだ少年のような細い身体に大きなよろいが重そうで。戦いで疲れて、泥と血で汚れて、それでも明るい落ちついた顔で、そういうことを私たちに聞いたのよ。あのね、ばあや。私が何より打ちのめされたのはね。あの人は本当に、あたりまえのことを聞くような顔をしていたの。私たちが答えられるだろう、知っているはずだということに、あの人はかけらほどの疑いも抱いてなかった。それに答えられなかったの、私たちは。誰もそのことを知らず、それが恥ずかしいということさえも感じていなかった」
奥さまは、丸めた大きな粉のかたまりを、身体をのしかからせるようにして力をこめて、台の上に押しつけました。
「あの人の目にあざけりはうかばなかった。ちょっとけげんそうに、ふしぎそうに、あれ、誰も知らないのかな?言いたくないのかな?屈辱なのかな?という感じで、そのまま戻って行った。でも、あの人のそのことば、その表情と態度とが、私の胸の中に、いわば、くさびを打ちこんだ。村が、あの人の軍勢に攻め込まれて負けても、とらえられて牢にひかれても、私の誇りは傷ついていなかった。私たちの村は正しくて、悪の力に滅ぼされただけ。そう思っていたの。でも、あの人が、あまりにもあたりまえのように聞いて、私たちの誰もが答えられなかったそのことが、長いこと、村で暮らしている間に、私の中に積もっていた不信を一気にときはなった」

「ばあや、牢屋のすみで私は、声を殺して一人で泣いたわ。仲間はまだ若い私が、村の滅びたこと、これから殺されることを悲しんで泣いていると思ったようで、口々になぐさめてくれた。でも、ちがう。私が泣いたのは、村もまたローマと同じで決して正しくも美しくもなかったことに私が気がついてしまったからなの。何よりも村を愛して、信じて、その思い出を守らなくては生きていけない、死ぬ勇気も持てない、本当に他には何もない時に、その愛も信頼も美しい思い出も、すべてを私が失ったからなの。仲間を一番愛さなくてはならない時に、彼らが他人でうとましく思えたからなの。自分に誇りを持たなくてはならない時に、自分を恥じなければならなかったからなの。ばあや。私が負けたと感じたのは、とりでが破られて、銀色のよろいかぶとの兵士たちが村に乱れ入って来た時じゃない。兵士たちにくみふせられて、武器をとり上げられた時でもない。あの人のことばを思い出しながら牢屋のすみで泣いた時、初めて私は、村は滅びたと思ったわ。自分が完全に、負けたことを知った」

奥さまはまた手を上げて、手首で涙をぬぐいました。
「私に残っていた、できることは、あの人を憎むことだけだった。だから、憎んだわ」
「だんなさまをですか?あんないい方を?」
奥さまは鼻をすすって笑いました。
「あの人はそうなの。いつも、のほほんといい人で生きていて、それで他人に、自分のみにくさを、自分のまちがった生き方を、いやというほど思い知らせる。そのことに、あの人自身は気もつかずにいるのですもの。思い知らされた方としちゃ、憎みたくもなるわよ。責任とれと言いたくもなる」
「だんなさまのせいなんかではございませんでしょうに」
私はそう言わずにはいられませんでした。
「そうよ。そんなの、ばあやに言われなくたって、わかっているわよ。誰にだってわかるわよ」
すねたように奥さまはおっしゃいました。
「けれどとにかく、そうだったんだからしかたないでしょう。そうするしかなかったの」

「そんなに憎んでおられた方とどうして…」と私は口ごもりました。
「その話はまた今度」と奥さまは、てきぱきとした口調に戻って、おっしゃいました。「早いとこ、ほら、ばあや、これをかまどに入れなくちゃ」

布に包んだナイフを握りしめたまま、私は壁を見つめています。
あの丘の上の家ではいつも、時間は静かにおだやかに流れ、パンを焼く甘い匂いがただよい、はしゃいで笑う坊やの声と、ぱたぱたと走る小さな足音が、お屋敷のあちこちで聞こえ、床をふいたり、ぬいものをしたり、季節の花を部屋々々の素焼きの花瓶にさす奥さまの手が、一日中楽しげに動きつづけておりました。

第三章 緑の中を旅して

(一)近くて遠い都

それにしても、あんなに平和で幸福そうな毎日の中で、奥さまはなぜ、ともすると、あんなにうつろで淋しげな目をなさっていたのでしょうか?
幸せなはずなのに、お幸せそうには見えないことがありました。

何が奥さまを苦しめていたのでしょう?迷わせていたのでしょう?
だんなさまがお留守の間、家のきりもりや畑仕事のさいはいをすませてしまって、おひまな時、奥さまは坊やを抱いてよく一人、丘や野原をいつまでも歩き回っておいででした。
どこか、野生の鳥のような、はるかな遠いまなざしで、じっと遠くを見つめておいででした。
「もっと時々、帰っておいでになるとよろしいのですのにね」私は一度、言ってみました。
「どんどん出世しているらしいから、そういうわけにもいかないのでしょう」
奥さまは何だか上の空のように、そんな返事をなさいました。
「ローマが、あの人を必要としているのよ。それに、あの人も、とてもローマを愛しているから」
「すばらしい都だそうでございますね」
「そうだと言うけれど、私は行ったことがない」
「だんなさまは、ご存じなのでしょう?」
奥さまは黙って首を振られました。

「あら…そうなんでございますか?」
私はちょっとびっくりいたしました。
だんなさまは時々、坊やを抱き上げて、その内おまえにもあの都を見せてやるよ、すごいんだぞ、などと楽しそうにおっしゃったりなさいます。奥さまが村の人たちの貧しさや苦しみのことを話されると、真剣に相談にのられた後で、ローマがもっと強くなればなあ、あの都のような豊かで便利な暮らしがもっと世界に広がって行くとずいぶんよくなるんだろうけどなあ、とおっしゃいます。私は、きっとだんなさまは、もう何べんもローマの都に行っていて、そこの人々のすばらしい暮らしを、よくご存じなのだろうとばかり思っていたのです。

私がそう申し上げると、奥さまは、苦々しげなかすかな笑いをうかべられました。
「行ったことがなくても、見たことがなくても、あの人にはローマがすべてなの」
「そんなことがございますものでしょうか?」私は思わず言いました。「それではまるで、見たこともない女に恋をするようなものでございますわ」
「本当ね」奥さまは大きな声で笑われました。「実際にきっと、そんな人がいるのかもしれない」
「どんな人がですか?」
「ローマの都のような人。誇り高くて、美しく、かしこく、世界のことや未来のことを夢みさせてくれる人」
「それは女の方ですか?」
奥さまはちょっと黙っておられてから、「あの人はね」と、少しあらたまった口調でおっしゃいました。「この地方の農家の出なの。少年兵だった頃、皇帝のお目にとまって、かわいがられて、いろんなことを教えてもらったのだって。いつもそうやって皇帝と未来のローマを語りあっていたらしいのよ。皇帝には美しい皇女がいて、少年兵だった一時期、あの人はその人と愛しあっていたのだとか」
足もとがゆらぐような気がして、私はかすかに口を開けました。それは、まるで雲の上の世界のような話でした。そんな、神々とひとしいような方々と、そんな深いおつきあいをされていたにしては、何と素朴で飾らない方なのでしょう。だんなさまは、ふしぎな方です。
「そうですか。それでは無理もございませんわね」思わず申し上げました。「ローマに夢中になられるのも」

すると奥さまは思いつめた、つらそうな顔をなさって、男の人のように大きな指の長い手で、きつく額を押さえられたのです。
「ばあや。でも、もしかしたらあの人は、だまされているのかもしれない」
「何にでございます?」
「ローマによ。皇帝陛下や皇女によ。私が、あの、私たちの村にだまされていたように」
そして、少しせきこむような口調で奥さまはおっしゃいました。
「もちろん、だまそうとして、だますのじゃないわ。全部が嘘や幻とも思わない。それでもね、ばあや。あの人が信じきっているようには、この私はとても、ローマを信じられないし、愛せないわ」
「昔、戦っておられた敵ですものね」
私は奥さまの、かきあわせるようにしておいでの腕に、そっと手をかけました。
「お仲間の方々が、そのために殺された国…」
奥さまはまた小さく首をふられました。
「それとはまた少しちがうわ。そうじゃない。ねえ、ばあや。今となってはわかるのだけど、あの村にいる間も私は決して、仲間たちと同じではなかった気がする。彼らの語る未来を、夢を、心の底では私は信じていなかった。彼らの弱さも汚さも私はどこかでちゃんと見ていた。飢え死にしたくなかったから、いっしょにいただけ。私はいつも、いつだって、こんな女だと思う。自分しか信じないし、愛せないの」
奥さまは苦しそうにつぶやかれました。
「こんな私の本当の姿を知ったら、あの人はきっと、私を愛してくれないわ。今よりももっと愛してくれないわ」

奥さまは何をそんなに不安がられていたのでしょう?
あんなにだんなさまに優しくされていて、愛されていて。
それでもなぜか私にはその時、奥さまのお気持ちがとてもよくわかった気がいたしました。
「あんなに何でもおっしゃりたいことをおっしゃって、けんかもしていらっしゃるのだから、ローマのこともおっしゃってみてはいかがですか?」私は、そっと言ってみました。
「言えないわ。それだけは言えない」
奥さまは悲しげに、でもきっぱりと首をふられました。
「あの人にとって、ローマがどんなに大切か、仲間がどんなに大切か、見ていてばあやにはわからない?それを傷つける人間を、あの人は決して、許してはくれない」
「私に見ていてわかるのは、だんなさまが奥さまを、とても愛していらっしゃることだけですよ」
「それはあの人が、まだよく私を知らないからだわ。あの人は私のひどいところをいろいろ見たから、それでも私を愛せるのに安心してしまっているの。もっとひどいところがあることに、あの人、気がついていないのよ」
「ローマを好きになれない、信じられないということが、そんなにひどいことなのでございましょうか?」私は信じられない思いで聞き返しました。
「あの人にとってはね」奥さまは、はっとするほど淋しい顔で笑いました。「ばあや、あの人にとっては、ローマはすべてよ。幼い時からそれを信じ、それを愛して戦ってきたのよ。あの人の気高さ、あの人のやさしさ、あの人の強さ、そのどれだけが残ると思う?あの人からローマへの愛を奪った時に。それを、ひきはがした時に」
「だんなさまは…」私は口ごもりました。

私は、ただの田舎女です。
ローマのことも、他のことも、くわしいことは何もわかりません。
しかも、その頃はまだ二十代も半ばの、いわばほんの小娘でございました。
肌をあわせた男といえば夫のかじ屋ばかり、生まれた村から出たことも一度もございませんでした。
人を見る目も、世の中を見る目もなく、それなのに、なぜあの時に、あんなに確信のようなものが持てたのか、本当にびっくりするばかりでございます。
だんなさまその人にも、ほとんどお会いしたこともなければ、長くお話をしたこともなかったのに。
なぜ、そんな風に思えたのでしょう?
私はだんなさまの、本当にあたたかくて優しそうなのに、時々ちょっと冷たくなったり、ずるそうになったりする目を思い出しておりました。
のんびりと片足を曲げて畑のはしの石垣に座り、じりじりと太陽に照らされている乾ききった土を、今から全部たがやしてやると言っているような、負けずぎらいな、ねばり強い顔で見わたしているご様子や、坊やをあやしている時の楽しそうな笑顔、奥さまの豊かな胸や腰を無邪気に見とれて抱きしめたがっておいでの、うきうきした表情などを。
「たとえ、ローマへの愛と信頼を失われても、だんなさまは決して、お変わりにはなりません」私は自分でも恐いほど、はっきりとそう申しました。「気高さもやさしさも強さも、何ひとつ、失ったりはなさいませんわ。奥さまが今、愛しておられるところは、あの方がどんなになっても、きっと皆、そのままですわ」

「まあ、ばあや、私もおまえのように、それが信じられたらねえ」と、奥さまは私の意気込みを少しおかしく思われたように笑われて、冗談めかしてしまわれました。
「私は、いつもわからないのよ。ローマはきらい。信じてもいない。それなのに、そのローマを愛するあの人の目はとても好き。ローマのことをうっとり語る、あの人の声も好きで好きでたまらない。私にローマは愛せない。そもそも、国や、ことばや、目に見えない未来なんて私には何の興味もないの。そんなものを愛するなんて、その方法もわからない。でも、あの人のことは好きなの、ローマを愛するあの人は。私を愛するよりずっと、ローマを愛しているあの人を、私は何より愛している。自分自身より、どんなものより愛している」
「坊やよりもですか?」
「坊やは私の一部だもの。切りはなしては考えられない」奥さまは深い吐息をつきました。「きっとねえ、あの人だってそうなのよ、ばあや。それどころか、あの人にはもしかしたら、この家や、畑や、ポプラの木や、麦や、ぶどうや、そういうものと私との区別があまりついていないのじゃないかしら。ここでの暮らし。ここでの日々。そういうものすべてへのなつかしさ、そういうものの快さの一部にきっと私がいるだけ。きっとあの人の頭の中では、ここの土や、木や、風や、空気の匂い、花の香りと私とは、ひとつになっているのだわ」
「すばらしいことではありませんの?」私は何だかうっとりいたしました。
「嘘よ。そうは思えない」
奥さまは怒ったようにおっしゃいました。
「時々、ここのすべてが憎くなるのよ、ばあや。私を、あの人につなぎとめ、私にからみついてひきとめて、この土地に根づかせてしまう、ここにあるもののすべてが」

(二)水の上の明かり

そんなにも迷って、苦しみながら、それでも奥さまがだんなさまを愛するようになってしまわれた、そのきっかけは何だったのでしょう?
「仲間と牢に入れられたあと、私は他の何人かと、あの人といろんなことを話し合い、交渉する役目をかって出たわ」
そんな話を奥さまが私にして下さったのは、たしか村祭りの夜でした。沼の上に、花とかがり火で飾られたたくさんの舟がこぎ出して、水面に光がゆれていました。
「呆然として、力をなくして、何もかも投げ出している仲間も多かった。皆が助からないのなら、いっしょに、いさぎよく殺されるべきだという者もいた。でも私は、それはどこかちがうと思った。絶望していたけれど、あの人を憎んでいたけれど、それでも、それはちがうと思った。だから、同じ考えの仲間たちといっしょに、あの人と交渉を重ね、一人でも命を助けてくれるよう、取引をしようとした。村は破壊して、荒野に戻す。二度とここには誰も帰らないと約束する。だから、見せしめのための処刑は、主だった者たちだけの最低の人数にしてほしい。そんなことをね」
「だんなさまは、そういうことを、ご自分でお決めになる力がおありだったのでしょうか」
「なかったのかもしれないわね。でも、努力してくれた。私たちをののしる仲間も多かった。敵と妥協しているとか、殺される人間を自分たちで選ぶのかとか、生き残れるかもしれないという変な希望を与えて仲間割れを起こさせて、最期をみじめにしようとしているとか言って」
「ひどいことを」私は腹がたちました。
沼の面にゆれる火を見ながら、奥さまは首をふりました。
「いいえ、彼らの言う通りだったかもしれない。でも私は、みじめでない最期なんて、ほしくなかったの。すでにもう私は充分、みじめだったのだから。美しい最期を迎えるために、仲間と手をとりあったまま、何もしないで待つのなんて耐えられなかった。もう信じてもいない仲間たちなのに、美しい最期なんて迎えられるはずがない。だから、何かをしていたかった。一人でも助かるのなら、どんな醜い悪あがきをしても、その方がましだと思った。年取った指導者の中にも、私といっしょに努力してくれた人たちがいた。その中の一人の女は、自分は絶対処刑されるとわかっていて、それでも、しぶとく、ねばりづよく、少しでも多くの仲間が助かるように、あの人と話し合いを続けていたわ。彼女を見てると、この人の中に村はまだ生きている、この人がいる限り、村はまだ滅びてはいないって思えた」
「その方は?」
「広場で、首をつられたわ。自分で覚悟していた通りに。けれど、私は助かったし、たくさんの仲間が死なずにすんだ。奴隷に売られた者もあったし、釈放されて自由になった者もいる。ここの村にも何人か、その時の仲間がいるのよ、ばあや。あの人は知らないけれどね」

沼の岸にとめた馬車の中から私たちは、光にあふれた舟をながめ、人々の楽しげな声を聞いていました。
「ねえ、ばあや。私にはわからない。私があの時に、黙って死を待つ気になれなかった、何かしないではいられなかったというのはたしかよ。でも、もしかしたら、そうやって、会って、見て、話をして、あの人のことをもっと知りたかったのかもしれない」
「ずいぶん、お若くていらしたのでしょう、まだその時に、だんなさまは?」
「そうね。年のわりには落ちついていたし、戦いと同じように、ことばのやりとりでも、したたかで、ぬけめがなくて、油断できない相手だったけど、どうかした時には、こちらが拍子抜けするほど、子どもっぽくて、危なっかしくて、間が抜けているところもあった」
今、思い出しても、というように奥さまは眉をひそめられました。
「一度、死刑にする人数をまちがえて、とても少なく報告した手紙を司令部に送ったら、司令部の方でそれをそのまま見逃して、返事をよこしたの。あの人は面白がってそのままにしようとするから、私たちの方で訂正させたわ。もしも、それが司令部にばれたら、あなたが処罰されるばかりか、私たちまでもっときびしい処分をうけるだろう、面白半分のいたずらはやめてくれ、と言って。ばれやしないと思うんだがなあ、と、あの人何だか未練がましい顔してた。司令部に反抗とか、私たちの命を少しでも助けたいとか、そういうことより、とにかく、やってみたいといった感じで、まるで、いたずら好きな子どもに見えたわ」

たしかに今でもだんなさまには、そういうところがおありです。
坊やをとてもかわいがっていて、長いこと、ゆりかごのそばにいて、坊やの顔をつっついたり、手足をくすぐったりしておられるのですが、そのご様子はどことなく珍しい生き物に見とれて、あきずにおもちゃにしておられるようで、大きくて強そうなお身体のだんなさまご自身が、どこか小さな子どものようでした。
時々、これはまだ食べないのかな、といろんなものを坊やの口に入れてみようとなさっては、奥さまから叱られておいででした。坊やがまた、けっこう喜んで、ごきげんよくそれを食べたりするものですから、ほら、食べてるよ、とだんなさまは喜び、食べたからいいってもんではないの、と奥さまは怒って坊やの口からそれをとり上げられるのです。坊やも怒って泣き出し、奥さまは、あなたがつまらないことするから、とだんなさまをまた叱ります。
そんな時、だんなさまは神妙な顔で叱られていらっしゃいましたが、ちっともこりてはいらっしゃらないようでした。一度こっそりワインを坊やに飲ませようとしておいでなのを私が見つけたことがあって、その時にはあわてた様子で、まだ飲ませてはいない、と言いわけなさいました。

「そうこうする内」と、私が思い出し笑いをしているのには暗くて気づかれなかったのでしょう、奥さまはお話を続けられました。「あの人の前に私たちの村を攻めて、負けて生け捕りにされ、代々自分の家に伝わる碧玉の首かざりを命とひきかえにさし出して助かった年よりの将軍が、その首かざりを返してくれたら、元老院に働きかけて助命に尽力してやろうと、こっそりと伝えてきた。そうなればきっと何人も何十人もが助かるとわかっていた。でも、首かざりはもう村にはなかった。薬や食料とひきかえに、ある商人に売ったの。商人はそれを遠くの町の貴族に売りつけていた。とても買い戻せるような値段ではなかったわ。あの人が何を考えたかわかる、ばあや?」
「まあ、わかるわけがございません」と言いながら、私の胸はどきどきしておりました。

「あの人はね」
楽しそうに奥さまはおっしゃいます。
「盗み返そうとしたの。その首かざりをこっそりと」
「その貴族からですか?」
「貴族とは名ばかりの、どうせ半分盗賊のようなやつだったしね」
奥さまは笑われました。
「あの人は信頼できる部下の数人に、あとのことをまかせて、ひそかにとりでを抜け出して、一人でその町に向かったの。連れて行ったのは私だけ。私は地理にもくわしかったし、その貴族の顔も知っていたし、何よりも仲間を一人でも助けようと必死になっているのを、あの人はよく知っていた」
奥さまは深い吐息をつかれました。
「春が終わって、夏になろうとしていたわ。森も畑もいっせいに、若葉が、草が伸び始め、いたるところの小道や空き地に、色とりどりのしたたる緑がじゅうたんのようにふくらんで、風にゆれていた。むせかえるような草の香りが、太陽の匂いとまじって、空気の中にただよっていたわ。その中を私たちは二人で旅をし、首かざりをとり戻し…そして、その旅の間に、私たちは結ばれたの」

奥さまはその時、うっとりとしていると言うよりは、むしろ、どこか沈痛でいちずな、少女のような目をしていらっしゃいました。
「お幸せになれて、よかったですね」私はそっと言いました。
すると奥さまは首をふりました。
「こうなったことを何もかも、後悔などはしていないわ。でも、ばあや。あの人と結婚して、坊やが生まれて、ここにこうしていて私は、本当に幸せなのかしら?」
「ちがいますのですか?」
奥さまはぼんやりと首をふり、光にいろどられた沼の方を見つめられました。
「そんなこと、きっと誰にもわからないわね」
奥さまはそうおっしゃいました。
淋しげな、そしてきびしいお顔でした。

それから二年後、夫の仕事の都合で私は娘を連れて、あの村をはなれました。
別れる時に奥さまが下さった髪かざりと腕輪とは、今でも大切に寝室の戸棚のひきだしにしまってあります。
娘が結婚する時に持たせてやろうと思っていました。
時々、とり出してながめては、奥さまがお幸せでありますようにと、ずっと願っておりました。

私の頭の中では今、何もかもが夢のようです。
裸のまま、血にまみれて、廊下をひきずられて行く奥さまの姿も。
ふり乱した髪も、大きく開いて叫び声をあげつづけている口も。
兵士たちにとりまかれて、にわか作りの十字架の上に、もがいて抵抗しながら次第に大きく引きのばされて、広げられて行く手足も。

私の身体はじわじわと熱くなり、足先や指先は逆に、氷のように冷たくなっていきます。
何を自分が感じているのか、もう私にはわかりません。

奥さまの手に打ちこまれる釘の音。奥さまの叫び声。兵士たちのあざけり笑い。とぎれとぎれの坊やの泣き声。お二人の血をしたたらせながら、ゆっくりと垂直に立てられてゆく十字架が、横木にぶつかってとまる鈍い音。それを固定するように指示している上官の冷静な声。

身体の重みが手のひらにかかり、お二人の皮膚が裂けて新しい血がほとばしる。泣き叫ぶ坊やの足をふざけて男たちが肩車する。だんなさまが、よくしてあげていたように。それで何かを思い出したのか、坊やが涙にのどをつまらせながら父親を呼び、兵士たちがふざけてそれに返事をしながら、お二人の血のしたたり落ちる玄関の石だたみの上に、枯れ草とたき木を投げ出しては積み上げて行く。
白い煙が、お二人を包む。炎は先に奥さまの足先に届き、激しい叫び声をあげて奥さまは足をちぢめて身体をよじり、その動きでまた、手のひらがひきさける。ほとんど出なくなった声で奥さまとだんなさまを呼びつづける坊やの、かすれて、しゃがれた、とぎれとぎれのかぼそい悲鳴は、荒々しく高まってきた炎の音にかき消されて、もうほとんど聞こえない。

私はしっかりとナイフをにぎりしめます。
その命令を下した男。
その命令を伝えた男。
その誰ひとり殺せないとしても。
となりのへやで今、朝食を食べているあの男。
私に、この話のすべてを得意げに語って聞かせた、あの男。
あの男だけは必ず、私は殺します。
この手で、これから、たった今。

第四章 夢のまた夢

ちょうどその時、となりのへやから男が私を呼びました。何をしてるんだ、ばばあ、とか、どこに消えちまったんだ、もっとワインを持って来い、とか、そういうことを言っています。
「はい、ただいま」と、せいいっぱいに落ちついた声で言って、私は調理場の戸を開け、食堂に戻ってゆきました。

この季節、夏の終わり、このあたりの街道を通る旅人は少なくなります。今朝も、他に客はいなくて、食堂はがらんとしていました。
窓からさしこむ光の中、食卓についた男は私に背を向けて、ワインをグラスについでいます。
その首の根もとをじっと見つめながら、私は男の背後に近づいて行きました。

後ろから見た方が男は老けて見えました。前こごみに丸めた肩はずんぐりと小さく見えます。白髪のまじりはじめた髪は頭のてっぺんがやや薄くなり、左右につき出した耳の向こうに、たるんだほおがのぞいています。首は骨ばって汚れていて、思ったより細く見えました。ねらいははずれないかと心配になりました。

気がつくと、もう調理場の戸口と食卓の、ちょうど中間のあたりまで私は歩いて来ていました。ナイフを忘れてきたような気がしてあわてましたが、右手にきちんと握っていました。きつく握りしめすぎていて、指の感覚がほとんどなくなっていたのです。
おおっていた布を左手でとって、私は握りしめました。刃をどちらに向けるのか迷いましたが、上向きにして下からえぐるようにして刺してみようと決めました。
足がどこを踏んでいるのか、どうやって歩いているのか、よくわかりませんでした。私はさらに食卓に近づきました。もう、男の背が目の前でした。それ以上進んだら、気づかれそうでした。
私は両手でナイフを握りしめ、もう一度、刃の向きを目でたしかめてから、男の首すじをめがけて、まっすぐに、力いっぱい突き出しました。

ちょうどその時、馬のひずめの音がして、表に誰かがとまったようです。
私の耳にはその音がほとんど入りませんでした。けれど男は気にして、急に顔を上げたので、私のナイフはねらいをはずして、男の耳のはしをかすめて、ほおのあたりに突き刺さりました。
男は飛び上がって、ふりむきました。そして、あわてた私がナイフを横にふりまわすと、わめきながら私を突き飛ばして床に倒し、起きようともがいた私のナイフをにぎりしめた手を長靴でふみつけようとしながら、大声でどなりちらしました。
「血迷ったか、このくそばばあが!いったい何をしやがるんだ!?」

その時、表の戸が開く音がして、女の声がひびきました。
「とりこみ中かい?めしは食わせてくれるんだろうね?」
「出て行きな」男は身体をかがめて私をひきずり起こしながら、うわずった声でそう言いました。彼は私をどうするか決心がつかないようで、おびえたうつろな目をして、手もふるえているのでした。ワインを飲みすぎたのかもしれません。
「女をいじめて何してんのさ、おっさん」入ってきた女は、また言いました。
私にも今はその姿が見えました。声は女なのですが、服装は灰色のチュニックに黒っぽいマントをつけ、大きな長靴に剣を下げ、まるで男のようでした。手足の長い大柄な身体つき、大胆で自信にあふれた身ごなしも、男のように堂々として見えます。声も女にしては低くて太く、こころもち、かすれていました。
「やかましいやい!」
男が私の腕をつかんだまま、そちらに顔を向けた時、女の声がふと緊張しました。
「…おまえだね?」
男は、はっとしたように私をふりはなして向き直り、そして、ひっと息を吸い込みました。
「てめえか、また!いつまでおれに、つきまとう!?」
「気になるからさ。これはまた何のまねだい?だんだん、おまえのすることは目に余ってくる」女は舌打ちしました。
「おれは何もしていねえ!」男はあせって、ふるえていました。「この女がいきなり、おれに切りつけやがったんだ!」
「そうするだけの理由が何かあったんだろうさ」女は大またに食卓を回って歩みよって来て、そこに投げ出してあった木さじをスープ皿の中に放り込みました。
女の後からもう一人、誰かが入って来て、入口の壁に黙ってよりかかったのが見えました。背の高い、たくましい若い男で、その身のこなしにはどこか見覚えがある気がしました。

男はわななく手を上げて、したたり落ちるほおの血をぬぐいました。
「危うく殺されるところだった。本当におれは何もしちゃいねえ!」
「どうだか」女は食卓のはしに腰をかけ、あざけるように鼻を鳴らしました。
「おれと、見ず知らずのこの女と、どっちを信用するんだよ!?」
「見ず知らずの人間だよ」女は手にとってもみくしゃにしていたナプキンを男に放りつけました。「血をふきな。見苦しい。そして、とっとと出て行きな。金を払うのを忘れるんじゃないよ」
「金だと!?こんな目にあわされて…」
「どうせまた、くだらない与太話を山ほどして聞かせたんだろうが。聞いてもらったお代と思えば安いもんだ」
「くそう…」
「それとも、有り金全部おいてくかい?こっちはそれでもいいんだよ、別に」
男はびくっとちぢみ上がったようでした。ふところから財布を出し、金を食卓にたたきつけると、よろめきながら外に走って出て行きました。入口の若い男は黙って身体を軽く開いて、男を通してやりました。まもなく馬のひずめの音が聞こえてきて、男が去って行く気配がしました。
女は身軽に腰かけていた食卓からとび下り、床に座り込んだままの私の、腕を支えて抱き起こしました。
「大丈夫?けがはない?」
ありません、と言いかけた私の声は、のどにはりつき、凍りつきました。私は女の手にすがりつき、黒くゆたかな長い髪を後ろでたばねた、その陽にやけた、くっきりとした目鼻立ちの顔を、くいいるようにまじまじと見つめました。
「…奥さま!」私はとうとう、あえぐようにそう言うことができました。

「ばあやなの?」
奥さまも目を見はりました。
さっきより少し口調がやさしくなって、昔に戻ったようでした。
私は胸を押さえました。心臓がとまらないのがふしぎです。
「奥さま、奥さま…あなた、あの、殺されなさったのではなかったのですか?今の、あの男たちに…坊やもいっしょに?」
「…あの男?」
奥さまは、さっきの男がかけ去って行った戸口の方をちらと見やって苦笑しました。
「あの男に人が殺せるものですか。臆病者の、腰抜けよ」
「ローマの兵士だったと言っていましたわ」私は奥さまに助け起こされるままに、よろよろと椅子に座って両手で顔をおおいました。身体がこまかくふるえはじめて、どっと涙があふれてきました。「お屋敷を襲って、お二人を殺したと言ったのです」
「屋敷を襲ったのは本当よ」奥さまは私のそばの椅子に座り、身体をかがめるようにして、やさしく私の手をご自分の手でつつみました。「私たちを殺そうとしたのも。でも、ばあやには話したことがあったわね?あの村には、私の昔の仲間がいたの。回りの農場が燃えているのを見て、彼らはかけつけてきた。そして、人が殺されているのを見て、すぐに私たちも襲われていると知り、屋敷にかけつけ、私たちを助けたの」
頭がまだぼうっとしたまま、涙にかすむ目で私は、入口のそばの壁にさっきから静かに動かずよりかかっている若い男の方を見ました。私と目が合うと、彼は少し身体を動かし、人なつっこく目で笑いました。ああ、見覚えがあるはずです。少しも変わっていらっしゃらない。「だんなさまにも、お会いできたのですね、それでは?」と私は夢中で申しました。

奥さまは私を見たまま、静かに首をふりました。「あの人は殺された。ローマでね」
ローマにね、とおっしゃったような気もします。よく聞きとれませんでした。私は他のことに気をとられていました。
「え?ですけれど、でも、それじゃ、あの方…」
戸口に立っている若者をまた私は見ました。奥さまは私の視線の先を追い、そしてまた苦笑なさいました。
「もう、いやだわ、ばあや。ちゃんと見てよね。私とおまえの年のことを忘れてしまっているのじゃない?」
私はまた、男を見ました。そしてようやく奥さまがおっしゃっていることに気づいた時、思わずまたふらふらと目まいがして、奥さまの腕にもたれかかって、よりかかってしまいました。「ああ、奥さま」とつぶやきながら、目がまた涙でかすんできました。「そんなこと、信じられません。それではあれが私の…私たちの…」
「そうですとも」奥さまは私の肩に力強く腕を回し、私の顔にほおをよせて、あたたかい声で笑いながらささやきました。「坊やよ。おまえがいつも、この腕に抱っこしてくれていた、ちっちゃな、ちっちゃな、私たちの坊やよ」

「大きくなってまあ…」としか、私は言えませんでした。これもまた夢で、すべてが消えてしまうのではないか、そう思うと恐ろしくて、身体も動かせない気がしたのです。それで、奥さまに肩を抱かれて食卓についたまま、こちらからただじっと、その若い男をながめていることしかできませんでした。
「おまえは、ここで宿屋をしてるの?」奥さまは顔を上げて、あたりを見回されました。「住みよさそうな、いい家ね」
「そうなんでございます。娘といっしょに…」
「ばあやの手料理なら、客は幸せよね」奥さまは、なつかしそうな目をなさっていました。「娘さんも大きくなられた?」
「はい、おかげさまで。昨日から町に買い物に行っております。おっつけ帰ってまいりますでしょう」もしも私があの男を殺すか、殺されでもしていたら、娘が帰ってきた時に何を見たのだろうか、初めてそれに思いあたって、私は思わず、ぞっと身ぶるいいたしました。
「かじ屋をなさっていた、ご主人は?」
「四年前に、病気で亡くなったんでございますよ」
「まあ」奥さまは軽い吐息をつかれて、顔を曇らせました。「とても、お元気そうだったのに」
「丈夫がとりえの人だっただけに、いったん病気にかかると、かえって滅入りこんでしまって」私は笑って立ち上がり、涙をぬぐって食卓の上を片づけはじめました。「奥さま、お二人とも朝ごはんはまだでいらっしゃるのでしょう?少しだけ待って下さい。すぐに支度をいたしますから」
「本当に?まあ!うれしいわ!」奥さまは少女のように両手を打って、はしゃいだ声を上げられました。「ばあやのお料理を食べられるなんて、信じられない!夜通し、馬を走らせて来て、息子も私も、とてもお腹がすいてるの」

「ベッドの用意をしているへやもございますよ。食事がすんだら、ひと眠りなさって下さい」私の頭はまだぼんやりしていましたけれど、手なれた仕事のありがたさで、指はひとりでにてきぱき動いて、食卓に皿やフォークを並べていました。「あなたも、どうぞ、こっちに来て座って」と私はようやく若い男の方を向いて呼びました。
彼は軽く一礼して、近づいてきて、奥さまの向かいに座りました。流れるようにしなやかで、しかも力強い身のこなしです。がっしりと厚い胸と肩、なだらかで美しい首すじ。これがいったい、本当に、あの、つるつるで、すべすべで、ぷくぷく丸っこい手足の、甘い匂いをさせていた小さな坊やなのでしょうか?おそるおそる見守っていましたが、ふと、もうどうしても耐えられなくなって、私はいきなり、彼が食卓のはしにおいていた、その手をつかんでひっくり返し、手のひらに何の傷もないかとたしかめたものですから、彼はちょっとびっくりしたように私を見上げて、ほほえみました。黒みがかった、濃い青い目の色でした。

「あの男を追っていらしたのですか?」私はスープのおかわりをつぎながら、奥さまに向かって、そう聞きました。
「まあ、そんなような、そうでもないような」奥さまはさじをおき、眠そうに目をこすってあくびをしながら、おっしゃいました。「あの男、もう何年も前に軍を追われて、あちこちで人足や野良仕事をして、食いぶちをもらっては生きのびているの。酔うと決まって、自分の犯した女や、殺した子どもの話をするのよ。特に、おまえの聞いた話をするのが好きらしいわ。私たちを殺した話が」
私はまた身ぶるいしました。
「どうしてまた…本当のことでもないのに?」
「最初にあの話を作ったのは、私と仲間たちだったのよ」奥さまは笑い出しました。「仲間は私を助けたけれど、このままでは追っ手がかかると、私たちは細工をした。そんなのは山賊ぐらしで、なれっこだった。近くの農場で殺された女と子どもの死体に釘を打ってつるし、火で焼きこがして、顔も身体もろくにわからないようにした。そのあと、屋敷にも火をかけて焼いた。生き残りの兵士たちをおどして口どめをし、司令部にする、にせの報告をくり返し教えこんだ。間もなく司令官がやってきて、死体を検分して帰り、私たちはその後をつけて行って、たしかに私たちが殺されたという報告がローマに出されたとわかるまで、司令部を見はり、兵士たちが裏切らないよう、おどしをかけつづけていたわ」

「あの男の話は、何から何まで、真に迫りすぎていました」私は、若い男がパンをちぎる時の、親指を曲げるようにする独特のしぐさが、だんなさまそっくりなのを、ふしぎな思いで見つめながら、つぶやきました。「もしかしたら、どこかよそで、本当に女の人を襲ったり、子どもを殺したりしたことがあるのではありませんか?」
奥さまはかすかに眉を寄せられて、静かにきっぱり首を振られました。
「それはないわ。とことん、臆病な男なの。若い女には恐くて近寄れないほど気が小さくてね。兵士でいた間も戦場で人を殺したことがなくて、皆に笑われていたようよ。だからこそ、くり返し、あんな話をするのでしょうね。私たちを殺し、はずかしめる話を、頭の中で作り上げ、くり返しては、みがきをかける。自分には、現実には、決してできないことだから」
「でも、あんな話をくり返している内に、本当に人を殺すようになることはないのでしょうか?」私は身ぶるいしました。
「そうなったらすぐ殺すわ、私たちが、あの男を」落ちついた声で奥さまは言いました。「だから時々、あの男の行方をさがし、何をしているかされているのか、たしかめるようにしているのよ」

私が、あの男のおびえたようなうつろな目を思い出して、奥さまのおっしゃったことを考えていますと、奥さまは気分を変えるようにゆったりと椅子にもたれて目を細め、「ばあやのオムレツはいつだって最高ね」とおっしゃいました。「昔と同じ味だわ」
「そうでございますか?」
「あの人はこれがとても好きだった」
「だんなさま…亡くなられたのですね?」
奥さまはうなずき、「残念だったけれど」と、ことさらのように固い、きっぱりとした口調でおっしゃいました。
「ローマでですか?戦線で処刑されたと、あの男は言っていました」
「それはあの人、脱走したのよ。そして故郷に帰ってきた。でも、私たちと行き違ってしまってね。にせの死体を私たちと思い込んだ。そして力つきているところを奴隷商人にとらえられ、剣闘士として売られたの」
「だんなさまがですか?」
悲しみと驚きで私は息がつまりました。
村の祭りなどで、牛や犬が戦わされる遊びを、だんなさまはとても嫌っていらっしゃったのです。あの人たちの数少ない楽しみで息抜きなんだからいいじゃないの、と笑われる奥さまに首をふって、「生き物どうしの命のやりとりを面白がって見るなんて、ひどいことするよなあ」と、つぶやかれていました。「あれがあるから、祭りに行きたくないんだよ」とため息をついて、音楽の音に誘われて、村に行きたがる坊やの耳をふざけたような本気なようなしぐさで、両手でふさいでおられたりしていました。
それなのに。
奥さまはうなずきました。「そこで、剣闘好きの皇帝と試合をさせられ、相手を倒したけれど、自分も死んだとか。暴君を倒してローマを救った英雄と、人々は熱狂して、あの人をあがめたそうよ」
「その皇帝が、暴君だったのでございますか?」
「元老院とは対立していたようね。自分が皇帝になった時、あの人が忠誠を誓わなかったからと怒って、処刑命令を出した男よ。私たちを殺す命令も」
「では、だんなさまは、奥さまたちの仇をとったと思って亡くなられたのですね」
せめてもの救いのような気がいたしました。
「それにローマも救ったと」奥さまは少し投げやりな、冷たい口調でおっしゃいました。

若い男は、そっと椅子をひいて立ち上がり、黙って外に出て行きました。
馬の世話をしに行ったのでしょう。そのなめらかで無駄のない身ごなしも、たくましい後ろ姿も、あっと思わず声をあげたくなるほどに、だんなさまにうり二つでした。
「奥さま、変な気持ちになられませんか?」見送って思わず私は小声になって言いました。
「なあに?」奥さまは身体をよじってふり向いて、若い男の出て行った方を見ました。「あの子がどうかした?」
「まるで、だんなさまと生き写しですわ。どうしたらまあ、あんなにそっくりになれるのでしょう?」
「あの子は、あの人とちがうわよ」奥さまはふざけて指を折られました。「その一、ローマを愛していない」
私は思わず笑いました。
「奥さま、よくよく、そのことがお気に召さなかったのですね」
「だって、最後まであの人は、私よりローマを選んだのよ」奥さまは悲しそうに、怒ったようにおっしゃいました。「ローマなんて暴君にくれてやって、したいようにさせておいて、生きのびて、逃げ出せばよかったのに、あの人ったら!」
「あなたも坊やも、死んだと思っておられたからです。一日も早く、ご自分も死にたいと思っておいでだったのですよ」私は申しました。
奥さまは私をにらんで、笑いました。
「ばあやって本当に昔から、あの人がごひいきね」
「いい方ですもの」
まだ亡くなっておられる気がどうしてもしなくて、何となく私はそんな言い方をいたしました。

奥さまは一気にワインをあおって、杯を空にしました。
「もしも私と坊やとが殺されたと思っていたのなら、それもあの男が話したようなやり方で」あらたまった、どこか暗く重苦しい口調で奥さまはおっしゃいました。「なおのこと、どうしてローマのために生きたの?私たちをなぶって、はずかしめて、苦しめて殺したと、あの人が聞かされていたのは、ローマの兵士ではなかったの?その命令を出したのは、ローマの皇帝ではなかったの?」
食卓の上を見つめたまま、奥さまは小さく首を振られました。
「なのになぜ、あの人は、ローマを見限らなかったの?どうにでもなれと思わなかったの?皇帝を倒したあと、あの人は、元老院に後を託し、これでローマはよい国になるとつぶやいて、皇女の腕に抱かれて死んだとか。皇女は人々の前であの人をローマの兵士とたたえ、盛大な葬儀をおこなったそうよ。ひと月も、それ以上の間も、あの人はローマを救った英雄として、人々に語り伝えられていた」
しぼり出すような声で奥さまは、つぶやかれました。
「ひどい人」
私が何も言えずに黙っていますと、奥さまはかすかに笑われました。
「私たちがどんな目にあって殺されたかを聞いていて、それでなお、どうやってあの人、ローマに希望をつなげたの?ローマの未来を考えてやる気持ちになんてなれたのかしら?」
「あなた方を殺した皇帝に復讐したくていらっしゃったのです。ローマのことをお考えになっていたのじゃありません」
「信じられないわ。そう信じられたらいいのだけれど」奥さまは首を振りました。「あの人は本当に、人を憎む力が弱いもの。どんなひどいことをされても結局のところ、自分にそんなことをする相手の苦しみを思いやって、あわれんで、愛してしまう。今度だって、きっとそう」奥さまはふっと、私をごらんになりました。「あの人と私が初めて愛しあった時のこと、私はばあやに話したかしら?」
「首かざりをとり戻しに、お二人だけで旅をされた間のことだったのでしょう?」
「それだけ?」
「それ以上の詳しい話は、奥さま、して下さいませんでした」
「そう?」奥さまはまたワインをついで笑いました。

それきり何もおっしゃらないので、私の方から申しました。
「お二人で、首かざりを持っていた貴族の屋敷にしのびこみ、首かざりを盗み返して村に戻り、たくさんの仲間を死刑からお救いになったのでしょう?」
奥さまはじっと私を見返して、「ばあやは、そんな風に聞いたのね」とつぶやかれました。「私はそんな風に言ったつもりはなかったけれど」
「ちがうんでございますか?」
「私は一人で貴族の館にしのびこみ、戦って首かざりを奪って逃げたの。この腕の傷はその時のものよ」奥さまは服の上からそっと、左のひじのあたりを押さえられました。「水浴のあとで身体をふいてくれる時、ばあやはこの傷あとを気にして、いつもそっと布でおさえてくれたわね。でも、理由は聞こうとしなかった」
ええ、私は覚えています。白く大きくひきつれて、肉の盛り上がった、長い刀傷でした。幼い頃、つらい暮らしをしておられた頃のものかもしれないと思って私は、わけをお聞きしなかったのです。
奥さまがまた黙ってしまわれたので、私はたずねました。
「その時、だんなさまは?どうしていらっしゃいましたのですか?」
「貴族の館からずっとはなれた森の奥の、誰も来ない洞穴の中」
「おけがをなさっていたのですか?」
奥さまは首を振られました。「私はあの人を憎んでいたと言ったでしょう、ばあや」と奥さまはおっしゃいました。「ずっと、ずっと、憎みつづけていたのよ」

第五章 風の音を聞きながら

(一)森の奥で

私は、奥さまを見つめました。
この方が私には、よくわからなくなることがございます。
あれだけ毎日いつもいっしょに暮らしていても、どこか得体のしれないところがおありでした。
めったにお目にかからないだんなさまの方が、よくわかるような気がいつもしておりました。
私が勝手にそう思いこんでいるだけなのかもしれませんけれど。
「それはだんなさまが、奥さまの心から村を奪ってしまわれたからですか?」私はおたずねしました。「仲間の方々への信頼や、めざしておられた夢を?」
奥さまは私から目をそらしたまま、ひっそりとお笑いになりました。
「それか、そんなものは初めから私にはなかったことを気づかせてしまったからなのか」
奥さまはまた少し黙っておられてから、「森の洞穴で野営した時、あの人の飲み物に薬をまぜたの」とおっしゃいました。「眠りこんだあの人の武器をとり上げ、身動きできないよう岩につないだ」
私はあっけにとられました。「何のためにそんなことをなさったのですか?」
「目がさめた時、あの人もそう聞いたわ」奥さまはおっしゃいました。「私を殺すつもりかもしれないが、二人が帰らなかったら、おまえの仲間は皆殺しになるんだぞ、と。それが何なの、と私が笑って言い返した時、初めてあの人は顔色を変えた。気づかなかったの、隊長さん。私は自分の仲間などどうでもいいの。一人残らず殺されても何とも思っていない。仲間も、あの村も、私は憎んでいる。そうさせたのはあなただから、あなたを誰より憎んでいる。そう私が言いつづけるのを聞いている内、あの人の目には少しづつ、はっきりと、恐怖の色が浮かんできたわ。当然よね。私が仲間の一人ひとりを愛していて、彼らを助けるためなら何でもするし、決して自分に何かすることなどあり得ないと信じきっていたからこそ、あの人は何の疑いもなく安心して私に気を許し、油断しきっていたのだから」

私は信じられないまま、奥さまを見つづけていました。奥さまは黙ってまた、ワインを杯につぎました。
「その旅の間、それまでにだんなさまは奥さまに…」私は口ごもりました。「お二人はあの…」
奥さまは首をふりました。「あの人は私にとても気をつかい、親切にいたわってくれていたけれど、指一本ふれようとはしなかったわ。夜もはなれて寝ていたの。手を出したのは私よ、ばあや。その日から三日間、抵抗できないあの人を、私はしたいようにした。もてあそびつづけ、愛しつづけた」
私は、口がきけなくなりそうでした。
「本当ですか?」ようやくのことで、それだけ言いました。
奥さまは皮肉に笑いました。「あの人に聞けなくて残念」
「だんなさまは、どうなさっていたのです?」
「されるままになっていたわ。他にしかたがないでしょう?何度目かに愛しあったあと、ところかまわず口づけしながら、あなたなど知らなければよかった、見なければよかった、会わなければよかったと私が言ったら、ため息まじりに、それはこっちの言うことだ、とつぶやいたのは聞こえたけれど」

奥さまは荒々しく杯をおいて、「三日目の夜に、私はあの人を、そのままにして放っておいて、一人で貴族の屋敷に行ったの」とおっしゃいました。「何日かして戻った時、あの人は私を見て、ほっとしたような顔をしたわ」
「ほっとしたって…」
「あきれた人でしょ。何だか私はかっとした。私にそんな目にあわされて、いいかげん、まいっているのはわかっていた。これからもっと、どんな目にあわされるかわからなくて、たまらないほど不安な思いをしてたのも。それでもあの人、私を見て、帰ってきてくれてよかったみたいな顔をしたのよ」
「だって奥さまが万一戻ってみえなければ、飢え死にするか狼のえじきでしょうに。お顔を見たら安心もなさいますでしょう」
「そういうものかしら」奥さまはむきになりました。「何かちがうと思うわよ。あの人には本当に、真剣さというものがないわ。あの時つくづく、そう思ったわ」
「もしかしたら、ご自分のことよりも、奥さまのことがご心配だったのではありませんか。ご無事で帰られたから、安心されて…」
「なおバカにしているじゃないの」奥さまは本気で怒っておられるようでした。「私は本当にかっとして、また、いやがってじたばたするあの人を抱いたあと、いつまでこんなこと続ける気なんだとくってかかったあの人の耳もとで、しつこく言い聞かせてやったの。いつまでと思う?私たちがここにいることは誰も知らない。この森の奥には誰もさがしには来ない。あなたは永遠に、こうして、このまま、ここにいるの。私はあなたを、今していると同じように、食べさせ飲ませ、身体を洗い、抱いて愛して、おもちゃにして、年とって死ぬまで、私のしたいようにする、って」

奥さまは吐息をつきました。
「あの人はきっと私が、狂ってしまったと思ったのでしょうね。じっとして、おとなしく聞いていた。本気じゃないから聞き流そうと自分に言い聞かせているように。でも、だんだん、私が本当にそうするつもりで、自分はそうなるのかもしれないと感じはじめて恐くなってきたようで、すっかりしおれかえってしまい、屈辱と嫌悪で涙を流していた。私はとうとう、笑いながら首かざりを出して、あの人の顔の上で振って見せ、あの人がびっくりして目をぱちぱちさせている間に、あの人の縄を切り、首かざりも私も、好きなようになさい、と言った。私を殺してもいいし、自分にされたことを何倍にして返してもいいわ、と。あの人は黙って私を見ていてから、自由になった腕をそっと私の首に回して、私の顔を自分の上に引き下ろし、やさしく、本当にやさしく口づけした」
「それで…」私の声はかすれました。「だんなさまは何もなさらなかったのですか?」
「いえ」奥さまはほほえみました。「何かしましたとも。私たちは愛しあったわ。その時も、そのあと、首かざりを持って帰る途中でも何度も。時々、私は、洞穴の中であの人にしたように荒々しい愛し方をしようとして、あの人が緊張するので『いやなんでしょ?』と言ってやめようとすると、あの人は『したいんだろ?』と笑って、私のしたいようにさせてくれたっけ」

「何ていい方なんでしょう」私は奥さまを見つめたまま、呆然として、つぶやきました。
奥さまは私を見て、あきれたように首を振られました。
「ばあや、あの人のことを何か言う時、それ以外にあなた、言うことはないの?」

(二)金色の髪

気がつくと、若い男が戻ってきていて、私たちの話がとぎれるのを待っていたようで、静かに近寄ってきて、椅子に腰を下ろしました。奥さまは立ち上がり、男の手をつかんで身体をかがめ、髪に軽く口づけしました。
「ひと眠りしてくるわ」奥さまは言いました。「夕方には出発するから、おまえもひと休みしておいで」
男は、奥さまを見上げて、笑ってうなずきました。
奥さまは階段を上って行かれ、私は男の前に新しいパンとワインをおきました。

「今の話を聞いていたの?」私はたずねました。
彼はうなずき、「時々、母が話します」と低いやわらかい声で言いました。
「本当の話と思う?」
「母の作り話?」彼は明るい、利口そうな目で私を見返し、首をかしげました。「あの男と同じに?」
「ちょっとそんな気がして」私はつぶやきました。「あの男のあんな話を聞いていたら、奥さまだってと、ふっと思って」
「おれは、あんなやつ、とっとと殺せと何度も言ったんです」彼は眉をひそめて吐きすてるように言いました。「でも母は、おまえのお父さまだったら、このくらいのことで、あんな虫けらのような男を殺したりはなさらないわ、と言って」
「そうなの」
彼はちょっとためらってから言いました。「おれは母のあの話が本当でも、別にかまわないと思っています」
私はほほえんで彼を見ました。
「声まで、お父さまにそっくりね」
「そうなんですか?」彼は照れたように、まつ毛を伏せて、また上げました。「おれは親父のこと、あまりよく覚えてないから、わからないんです」

私たちは二人とも、しばらく黙って座っていました。
奥さまが寝る支度をしておいでなのか、二階でかすかな物音がしています。
「お母さまとあなたは、今、何をなさっているの?」私は聞いてみました。
「隊商の護衛や農場の警備」彼は私をからかうように、ちらと目を笑わせました。「時にはもっと危ない仕事も」
私が苦笑して黙っていると、彼は遠慮がちに私を見ながら、そっと言い出しました。
「初めて会った人に、こんなこと頼むのは変だけど…母がもし年をとって弱ってきたら、ここに連れて来てもかまわないですか?金は払いますから…」
「お金なんて、とんでもない!」私は強く言いました。「お母さまも、あなたも、ここにはいつでも来て下さい。いつまでもいて下さっていいんですよ」
彼は安心したように深く息を吸い込みました。
「第一、私とあなたとは、初めて会ったのじゃありません」私は両腕をさしのべて、食卓の上におきました。「あなたが、ぷよぷよやわらかい赤ちゃんの時、数えきれないほど何度も、この腕で抱っこしたのよ」
彼は私のさしのべた、ごつごつと細い腕を、ふしぎなものを見るようにちょっとながめていましたが、やがて、そっとたしかめるように、その上に自分の腕をかけました。私の指では手首にも回らないほど太いひきしまった腕から、ずっしりとあたたかい重さが伝わって来ました。

二階はもう、しんと静まりかえっています。奥さまは眠ってしまわれたのでしょうか。私はワインを片づけて、熱いカミツレのお茶をいれました。
坊やは…私はもう、そのたくましい若い男の顔だちや声のどこかに、昔のあのかわいい小さい男の子を何となく感じとることができました…おいしそうにお茶をすすって、くつろいでいました。
「お母さまは、あなたはお父さまとちがう、その一、ローマを愛していない、とおっしゃっていたわ」私は言いました。
「だって、小さい時からおれ、母から、ローマの悪口ばっかり聞かされたから」坊やはのんびり言いました。「そんなにひどい国なのかなあって、ちょっと半信半疑だったけど、だんだんわかってきた気がする。母はきっと、こういうこと全部、本当は父に言いたかったんだろうなって」
「なぜおっしゃらないのかと私はいつも不思議だったわ」私は首を振りました。「何度もお話するように言ったけれど、決して聞いては下さらなかった」
「嫌われるのが恐かったんだと思う」坊やはすぐにそう答えました。「母は、父にひどいことした時は、何も恐くなかったんだろうけど、父がそんな自分を愛してくれた時から、父を失うことが耐えられなくなったんだと思います。それに母は、自分が仲間たちといっしょに村にいた頃、皆の語っている理想や未来を信じていたから、そういうものを悪く言われた時に、人がどんなに傷ついて苦しむかっていうことも、きっとわかっていたんです」
「でもだんなさまは…あなたのお父さまは、それで、お母さまのことを、きらいになったと思う?ローマの悪口を言われたぐらいで」
私はじっと坊やを見つめました。
そうしていると、あまり口をきいたこともなかっただんなさまと、あの丘の上の家の明るい台所で、向き合って話しているような、不思議な気持ちにふっととらわれてしまいます。

「おれ…」坊やは口ごもり、考えをまとめようとするように目を伏せました。きっとよく奥さまと、こんな話をするのでしょう。とまどっている様子はありませんでした。
「親父のことは覚えてないけど、母の話を聞いてると、父はすごく母に心を許していて、母のことは何でも知ってると安心しきって、自信満々だった気がする。父は、人に愛されるより、人を愛することで自信を持つ人じゃなかったかなって。だから、母の言ってた森の洞窟でのことでも、ふつうの人と反対に父は、すごく自信を持ったのじゃないでしょうか。母の一番ひどいところを見て、それでも母を愛せたから、もう何があったって、母への愛はゆらがないと思って、母も自分には遠慮とか気がねとかは、もう全然してるはずないって、だって、あんなことまでして、それでも自分が愛したんだから、もう何も心配することなんか母にはないはずだと思ってしまって」
坊やは目を伏せて、お茶をすすりました。
「でも本当は父は母のことなんて、何にもわかってなかったんじゃないのかなあ」

そんなことを言っている坊やは、娘が私に身体のことや仕事のことで、あれこれ忠告する時と、少し似ていました。若者らしく、ちょっと生意気で、いかにも恐れを知らないように見えました。
「多分、皇女さまって人に対しては、その逆で、父は」坊やはつづけました。「ローマを愛してるってこと以外、ほとんど何も知らなくて、わからなくて、それを自分でも気づいてたんじゃないのかな。それでまた、すごく心をひかれてたんだと思う。相手のことが何ひとつわからないから、なおのこと」
「その方のことが、お好きだったのかしらね?」
私は急に心が騒ぎ、そして奥さまがあの丘の上の家で、あんなに不安で淋しげな表情を時々なさっていた理由が少しわかった気がしました。
「母はそう思っていたみたいだ。今もそう思っているようです」坊やはまた、だんなさまそっくりの考え深い表情になって、じっと私を見ました。「そう思ってたから母は、ローマの悪口を父に言えなかったんだと思う。父の心をその人に一気に傾かせるかもしれない危険を母はおかせなかった。だからずうっと苦しんで…最後は父を失った」
「失った?」
「ローマにひきわたすしかなかった」
「本当にそう思うの?」
「母がそう言うんです」坊やは涼しい、やさしい目で笑いました。「あの人は、力づくで奪っても、何をささげてつくしても、ひきとめられない人だったんだって、よく言います。あの人が愛するのは、同じ理想をめざして、同じ夢を見て、戦うことのできる人で、自分はそうじゃなかったって。結局、あの人を誰よりも理解し愛していたのは皇女さまだろうし、二人はきっと死後はいっしょになるだろうと」
「だってそれでは、奥さまは?」
私の胸はつまりました。
丘の家をとりまいて吹く風の音が聞こえたような気がします。
「私は一人で生きて一人で死ぬ。あの人とも、おまえとも、誰ともいっしょにはならない。荒野のはてまで一人で馬を走らせる。母は酔うといつも、そう言って笑います。生まれた時からそうだった。私はずっと一人だった。仲間もいらない、家族もいらない。はてしなく、かけめぐることのできる広い空と大地さえあれば、それで私は幸福だ、と…」

丘の上に立って、地平線のかなたを見ている奥さまの姿が見えました。
まっすぐに起こした全身に陽射しと風を浴びながら、空に舞い上がって行く鳥を見つめていた奥さまの、孤独で強く、荒々しいまなざしが。

坊やも眠くなったのか、小さいあくびをしています。
けれど私は、聞かずにはいられませんでした。
「あなたもそう思うの、お母さまのことを?」
「死んだあとのことですか?」
「そう。お一人で馬をかって…」
すると彼は笑って「その二」と言いました。
「え?」
「父とちがうところです」彼は言いました。「おれは、ローマの未来とかもあまり考えないけれど、死んだあとの世界のことも考えません。そんなものないんじゃないかと、いつも思っています。母には悪いけど、人間なんて死んだらそれでおしまいで、あとには何も残らないって。そう思いませんか?」
私は思わず笑いました。
「娘もいつも、そう言うわよ」

「娘さん?」坊やは首をかしげました。
「小さい時によくいっしょに遊んでいたのを、覚えていない?ふつうだったら、あんな子どもが二人いたら、けんかの一つもするものなのに、あなたたちはいつも、とても仲がよくて、いつまでもきげんよくいっしょに遊んでいて、奥さまと私は不思議がっていたっけ」
「ふうん」
覚えてはいないのでしょうが何となく、坊やはなつかしそうな顔をしました。

そう、娘はよく、父親ゆずりの金髪をふりたて、濃いきつい眉をひそめて、きっぱりとした口調で申します。
「だから、母さん、それはただのお話なんだったら」
娘は、占いや、予言や、死後の世界の話がきらいなのです。
「そんなの、ただのお話よ。何の役にもたちゃしないわよ」
ああ、でも娘は知りません。
そんな、ただのお話で私が今朝、危うく人を殺そうとしたことを。
それを言うなら、だんなさまを奥さまから奪ったのも、ローマの未来という、ただのお話だったのかもしれません。

あの男は、これからも行く先々であんな話を、くり返し語りつづけていくのでしょうか。
そのたびに、それを聞く人々の心の中で、あの家は燃え、奥さまと坊やとは苦しみながら殺されつづけるのでしょうか。
許せない気がしてなりません。
坊やの言う通り、奥さまはあんな男はさっさと殺してしまわれるがいいのです。
けれど、奥さまがおっしゃったことも私の心によみがえります。
「おまえのお父さまなら殺さないわ」
「どんなひどい目にあわされてもあの人は、自分にそんなことをする相手の苦しみと悲しさを思いやってしまう」

もし、だんなさまが生きていらしたなら。
あの男のことも理解され、哀れに思われたのでしょうか?
あの男がここに入って来た時の顔を思い出します。
とても普通の男でした。
どこにでもいそうな、ただの疲れた男でした。

あの男の頭の中では、いつも傷つけられて泣き叫ぶ坊やの、つんざくような悲鳴がひびきつづけているのでしょうか。
死ぬまでずっとあの男は、暗い廊下を奥さまを追って走りつづけ、押さえつけては犯すのでしょうか。
そうしなければ耐えられない、あの男のつらさとは何なのでしょう。

夜、あたたかく燃える火のそばで坊やを抱きながら、奥さまがどうしたらいいかしらと相談される、村の人々をめぐるさまざまな事件に耳をかたむけている、だんなさまのお顔を私は思い出します。
奥さまは大まじめに話しておられても、時々、どこかこっけいな話もあって、そんな時、だんなさまは、ちらと私と目が合って、私も吹き出しそうになっているのに気がつくと、笑いをこらえて抱いている坊やの髪に顔をくっつけたりしてごまかしておいでになったものでした。
けれど、時には本当に悲惨な救いのない話もありました。そんな時、話す奥さまの顔をじっと見つめながら、だんなさまの目にあふれてくる、涙以上に切なく深い、強い悲しみの色を私は、忘れることができません。
だんなさまなら、あの男を、あんな目でごらんになるのでしょうか。
たとえ、どうしようもなくなって、わが手にかけて殺してしまわなければならなくなったとしても。

表で荷車のとまる音がして、私は我に返りました。
娘が帰って来たのでしょう。窓の外、緑の木々が枝をさしかわす向こうで、見覚えのある金色の髪がちらちらするのが見えています。
私が長いこと黙っていたので、坊やはまた眠くなったのか、ぼんやり外をながめながら、金色がかった長いまつ毛を動かして、そうやっているとますますもう、だんなさまにそっくりの表情で、まぶたをぱちぱちさせています。
二階はひっそりと静かで、何の物音もしません。

昨日は一日、とてもいいお天気でしたから、私と娘は、家中のふとんも毛布も風にあて、シーツや枕には、あの丘の上のお屋敷でしていたと同じようにして、バラの花の香りをたっぷりとしみこませたのです。
昔と同じ香りに包まれて奥さまは、きっと心地よくぐっすりと眠っていらっしゃるのでしょう。

だんなさまとごいっしょの楽しい夢でも見ていらっしゃるといい、とやっぱり私は思ってしまうのでした。

騒がしい朝食・・・・・終(2001.12.27.)

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