中途半端のアドリブ8-俊寛いろいろ(終)
江戸時代になって新しく登場した日本の演劇のかたちには、浄瑠璃と歌舞伎がある。(それまでは、能と狂言。)
どこがちがうかというと、歌舞伎は人間が演じる。浄瑠璃は操り人形が演じる。なお、文楽というのは、もともとは浄瑠璃の竹本座とか豊竹座とかいうのと同じ、一つの座の名前だが、今はこれしか残ってないから、文楽と浄瑠璃は今では同じ意味で使われている。
江戸時代は、前半の真ん中ごろの元禄時代と、後半の真ん中ごろの文化・文政時代に、ひときわ文化が栄える。(この間にもう一つ、そういう時期があると、このごろでは言われているが、それは、ここでは省く。)
近松門左衛門は、この前半の元禄時代の浄瑠璃作家である。(馬琴は後半の文化・文政時代の読本作家。)
私なんぞがわざわざ言わなくてもいいことだが、彼は天才である。「平家女護島」を読んでも、それは強烈にわかる。五段(だったよな、ちがうかもしれない)の、つまり、五幕というか五章というかの中に、あの長い平家物語の名場面をびっしりちりばめ、登場人物のイメージを崩さないまま生き生きと描き、しかもまったく独自の大胆な解釈をほどこして、え~っと驚かせるが不自然ではない。
こういうのを読んでるとすぐわかるが、ファンフィクションや、やおい文学なんて、まったく異端でも仇花でもなく、逆にいうなら新しいところなんか何もない。あれは、文学の正統であり王道である。古今東西の文学はすべてそうして、先行文学を下敷きにし、食い物にして成立してきている。源氏物語と長恨歌しかり、八犬伝と水滸伝しかり、「れくいえむ」と「チボー家の人々」しかり、和歌の本歌取りしかり、俳諧の俤付けしかり、エトセトラ、エトセトラ。で、「平家女護島」は、そういうファンフィクションとしては(そういうものとしてでなくってもだが)、最高の出来である。そういうものは、こう書けという、お手本のような作品である。
それなら、どれひとつ読んでみようかと思う方が当然いるだろう。ところが困ったことがある。浄瑠璃の脚本というのは、すごく読みにくい。慣れればそうでもないのだが、そして、実際に人形芝居で見ていればまあだいたいわかるのだが、文字で書いてあると、どこからが説明の文章か、どこからが人の発言か、誰が何を言ってるのか、何がどうしてどうなったのか、さっぱりわからないのが普通である。
幸い、浄瑠璃のヒット作は、今のテレビドラマが映画になったり、またその逆もあるような感じで、しょっちゅう歌舞伎でもパクられて上演された。特に、この「平家女護島」の中の俊寛の登場する鬼界が島の場面は人気があって、今でもよく、この場面だけが上演される。題も「俊寛」となっている。ちょっと気をつけていれば、どこかでごらんになる機会があるだろう。ぜひ、見ていただきたい。
だが、「平家女護島」の他の場面は、今では歌舞伎でも浄瑠璃でも、ほとんどまったく上演されない。これがもったいない。もちろん「俊寛」の場面もいいが、これ全体がすごくよくできているのに。
そんな愚痴を言っていてもしかたがないから、「俊寛」の部分だけを説明しておく。
これがもう、近代文学以上に(感心して)笑える。菊池寛以上である。何がって、この劇では、島ははじめから天国のような理想郷なのだ。
むろん、暮らしは貧しい、俊寛たちはぼろぼろの衣装を着て、髪も結わず、干し魚などぶらさげて浜べを歩いている。都を恋しがってもいる。
だが、ここでの三人は、とても、それは、仲がいい。対立などはまったくない。いたわりあって、はげましあって、暖かく心を通わせ合って暮らしている。
しかも、若い成経には恋人まで出来ている。島の娘、千鳥である。(安易なネーミングに、こけないで下さい。)そう、菊池寛や芥川が描いた「島の娘」は、もう江戸時代にちゃんと登場しているのだ。
それどころか、この千鳥は、近代文学に登場する島の娘たちよりも、はるかに魅力的で、人間としてのくっきりとした輪郭をそなえている。
歌舞伎では、彼女は赤と緑の着物を着て登場する。これは、「田舎娘」を示す約束ごとのような衣装で、もちろんリアルな島の娘のかっこうではない。だが、近松の文章は、もっと明確に千鳥の姿を描き出し、目ではその「田舎娘ですよ」というしるしの衣装を見ながら、耳で聞くことばの数々から、観客は千鳥の姿をそれぞれに鮮やかに重ね合わせて空想したろう。
千鳥は、海女(あま)なのである。海にもぐって貝や魚を採る、働く女だ。しかも、江戸文学、中でもむちむちと健康的な色気が売り物の元禄文学は、男女の肉体や性的魅力から、決して目をそらさない文学だった。「どんな娘なんだ、え?え?話せよ、おい」と二人の年上の仲間からせっつかれて、若い成経が顔を赤らめながら話し出す千鳥の姿は健康なエロティシズムにあふれて、輝くばかりに美しい。愛しあう二人の無邪気でいちずなけなげさが、それとあいまって、効果を高める。これが竹本義太夫の豊かな声で朗々と謳いあげられる時、大坂(昔は大阪は、こう書きます)は道頓堀の竹本座の薄暗い芝居小屋の中にひしめく観客たちの心には、電気が走ったにちがいない。薄暗がりの中に彼らは、陽光に輝く島と海、その波の中に見え隠れするはちきれそうに美しい女の裸体が見えたろう。
私は、この「アドリブ」は、何も見ないで書くことにしているのだが、もう我慢できないから、歌舞伎の脚本から、今言った場面を抜書きしておこう。
語りたまえとせめられて、顔を赤むる丹波の少将。
成経「三人互いの身の上を、包むにはあらねども、数ならぬ海士(あま)の葉舟の押し出して、恋と申すも恥ずかしながら、かかる辺国波涛まで誰(た)が踏み分けし恋の道、あの桐島の漁夫が娘、千鳥という女、世のいとなみの汐衣、汲むも焼くも、それはまだ浜辺のわざ。」
そりゃ時ぞと夕浪にかわいや女の丸裸、腰にうけ桶、手には鎌、千尋の底の波間をわけて、みるめ刈る。わかめ、あらめ、あられもない裸身(はだかみ)に。
「鱧(はも)がぬらつく、鯔(ぼら)がこそぐる、がざみがつめる。餌(え)かと思うて小鯛が乳にくいつくやら。」
腰のひとえが浪に乱れて、肌(はだえ)も見え透く、
「壺かと思うて、蛸(たこ)めが臍(へそ)をうかがう。」
康頼「浮きぬ沈みぬ浮き世わたり、人魚の泳ぐもさこそあらん。」
潮干になれば洲崎の砂の腰だけ、踵(きびす)には蛤ふみ、太股には赤貝はさみ、指であわびおこせば、爪は蠣貝(かきがい)ばいの蓋、あまの逆手を打ちやすみ、黄楊(つげ)の小櫛も取る間なく、
成経「さざえの尻のぐるぐる髷(まげ)も、縁ある目からは玉かづら。かかる島へもいつの間に、結ぶの神の影向(ようごう)か、馴れそめなじみ、今は埴生の夫婦住み、夫を思う真実の情深く、あわれ知り、木の葉を集め、縫い綴る針手きき、声こそは薩摩なまり、それはそれはいたいけもの、『うらがような女(め)ら、歌れ顔にべる都人、夢にもみやしめすまい、縁あればこそ抱いて寝て、むぞうか者とも、おもしゃってたもりますと思えば、胸つぶしゅう、ほやほやしゃりめす。親もない身、大事のせなの友だち、康頼様は兄ン丈(あんじょう)、俊寛様は父(てて)様とおがみたい。娘よ、妹(いも)よ、どせろかくせろと、りんにょがってくれめせかし』と、ほろり泣きたるかわいさ、都のものの、『ござんす』より『りんにょぎゃってくれめせ』が、」
身にしみわたると語らるる。僧都聞き入り、感にたえ、
俊寛「さてさて、面白うて、あわれで、伊達で殊勝で、可愛い恋。まずその君に見参いたそう。」
カッコの外の文章は、音楽にのせて歌のように舞台の横から語られる言葉。話している人物の言葉を部分的に代弁するというか、強調するというか、心の声というか。役者のせりふとからまりあって、ぐっと効果を高めるのです。
千鳥のあやしげな九州弁がか何だかは、どうせ近松も適当に書いてるのですから、わからなくってもかまいません。とにかく、このような島の娘の素朴さが、成経には、気どった京都の女のことばより、胸にしみると言うのです。
現地妻の情けなさとか、男の勝手さ、女の哀れさという問題もそれはあります。でも、そういう問題にカリカリしがちな私でも、ここでは、それはおいときたくなる。何より平家物語では、この世の地獄と書かれた島の人々の生活と肉体と心を、一人の娘の姿を通して、ここまで描いた近松の健全さ、たくましさに、私は彼を生んだ、そしてこの劇に酔いしれた元禄時代のたくましさをも、感じないではいられない。