中途半端のアドリブ6-俊寛いろいろ

人間、自分の境遇に不満を抱くのは悲劇である。それを何とかしようとして戦いを企てて失敗し、敗北するのはもっと悲劇である。そのために処罰されてひどいめにあうのはもっともっと悲劇である。でも、そうやって処罰された他の仲間が許されてもとに戻ったのに、自分だけが許されず、そのひどい状況の中で死んで行くしかなかったとしたら、これは何より悲劇である。

京都は法勝寺(ほっしょうじ)の執行(しゅぎょう)として、僧とはいえ妻帯もして一男一女に恵まれて、豊かに暮らしていた俊寛を襲ったのは、そういう運命であった。

前に「平家物語」のあらすじの覚え方として、「前半は3つの反乱」と暗記せよと言った。その一番目の反乱を「鹿ケ谷の変」という。
鹿ケ谷は今もある京都郊外の地名だ。ここに俊寛の別荘があり、平家に謀反を企てる人々は、この山荘で会合を行なった。
首謀者は藤原成親。名門の公家であるが、平家が全盛のこの時代、当然なれると思っていた大臣の地位を平家一門に占められた不満が、この反乱計画を思い立たせる。
山荘での会合には時の天皇家の実際の代表ともいうべき、後白河法皇も折々出席していたというから、謀反というのも変な話だが、それほど平家一門は当時の権力、体制のすべてを握って君臨していた。

細かいいきさつは省くが、この反乱は矢の一筋も飛ぶことのないまま、裏切り者の密告によって鎮圧された。そもそも参加者の大半が、いや一人を除いて全員が公家や僧侶で、戦い方など知りもしない。唯一頼りにしていた武士の多田蔵人行綱が、このていたらくを見て不安になり、裏切って清盛に内通したのだから世話はなかろう。
一味の人々は逮捕され、処刑され、流罪になった。この間のあれこれの中に、「清盛悪い人、重盛いい人」の図式は、あますところなくこれでもかとばかりに描かれ強調されるのだが、それはここでは触れずにおこう。
首謀者の成親は徹底的に見苦しく、うろたえて命乞いなどしたあげく流罪になった後、ひそかに崖から突き落とされて、とがった竹にささって死ぬ。平家物語には、このような残酷で救いのない場面は珍しく、ほんのいくつかしかない。これはそのひとつである。
さて、中心人物の一人だった俊寛は、この成親の息子の若い成経、彼よりは年上だが、俊寛よりは若い平判官康頼とともに、三人そろって流罪となる。行く先は鬼界が島と呼ばれる南方海上の孤島だった。

鬼界が島が今のどこなのかはよくわからない。硫黄島との説もある。現在、喜界が島という名の小島もあるが、これとは違うと言われている。ともあれ、それは、当時の都の人の感覚では、海の果て地の果てこの世の果てにあり、そこへ行くのは死んだも同然だった。何しろ、菅原道真が太宰府に流されたのを恐ろしい悲劇と感じ、彼がその地で死んだのを恨み怒って雷となってたたったにちがいないなどと考えるのが、平安時代の人々の感覚である。九州に住む人間としては「悪かったなあ、そんなに悲劇かよ」と言いたくなるがしかたがない、それが当時の感覚である。今なら多分、北極南極はおろか、宇宙船に積まれて火星にでも飛ばされる気分だったのであろう。
俊寛たち三人は、もちろん、鬼界が島で嘆き悲しみ、都を夢見て暮らしていた・・・と平家物語には書いてある。
ところが、やがて、清盛は天皇の嫁になっていた(つまり中宮になっておられた)娘の徳子の安産を祈願して、大規模な恩赦を行い、鬼界が島の罪人も許されて都へ戻る。
この時なぜか俊寛だけが許されなかった。当然、彼は悲嘆にくれ、漕ぎ出す船を追って海の中まで走りこみ、砂浜に倒れて悲しみにくれたという。のちに、ようやく島を訪ねて彼と会うことのできた弟子の少年、有王(ありおう)によると、俊寛はほどなくその島で死に、有王は遺骨を持って京都に帰った。
「このような人々の恨みが積もった平家の行く末は恐ろしい」と、平家物語はこの一連の話をしめくくっている。

そして、後世の人々は、この「三人の不幸な男の中でも、一人だけその不幸から救われないまま死ぬしかなかった男」について、それぞれの思いを寄せ、数限りない物語をつむぎ出すことになるのである。

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