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「水の王子」通信(175)

「水の王子  空へ」第十四回

【ワカヒコの決意】

「征服したっておっしゃいましたね?」コトシロヌシがふと思い出したように念を押した。「アメノワカヒコは、その町を」
 「そうです」タケミカヅチはうなずいた。「今はもう何事も起こらぬ、古風で幸せな楽しい町になっていると聞いています。化け物のことなど、住人たちもほとんど忘れているようで」
 「いったいどうやってワカヒコさまは、その怪物に勝ったのです?」タカヒコが恐れをこめた声で聞く。
 タケミカヅチはまたしばらく黙っていた。
 「もうこれ以上、生き残った者たちからの情報も集まらないと見極められたようなある日、あの方は他の戦いの合間をぬって、『灰色の町』に船を向けられた。ほんの数隻で近くの草原に停泊した後、警護の兵士を引き上げさせ、町の若い男もひとり残らずいっしょに連れ出し、船に乗せた。そして私におっしゃったのです。今夜いっしょに町にいてくれ、と」
 「―え?」
 「若い男は、あの方一人だけの町にです。あの方はおっしゃった。一応あとのことは船の指揮官たちに命令して来たが、もしも私に何かあったら、おまえが戻って彼らの指揮をとれ、と」
 「あなたはそれで?」
 「何も言えずにいると、いつもの涼しい顔でおっしゃいましたよ。いろいろ考えてはみたんだが、どうにもこれしか方法がない、と」
 「それにしたって―」
 「ええ、私も申しました。それにしても何もあなたご自身が、と。そうしたらあいかわらず、いつもの調子でおっしゃいました。他の誰にやらせるんだ、私にできることが他の者にできるわけがないじゃないか」
     ※
 「ああもう」ニニギが頭をかかえた。「あいついつでも本当にそう思っているんだよなあ!」
 「そうそう」タカヒコネも苦笑いをかみ殺していた。「だから誰にも絶対に怒らなかった。腹たつなあ」
 「おれにできることが君になぜできない、とか言うんですよね、これがバカな指揮官だったら」タカヒメが評した。
 「どなたのことか言うなよ」タカヒコがあわてて警告する。
 「それで、その夜も」コトシロヌシが尋ねた。「霧は出たのか?」
 タケミカヅチはうなずいた。
 「何のお役にも立たないことはわかっていましたが、それでも私は剣を抜いて、あの方のおそばに立っていました。人通りのない夜の街路にかすかな風が吹いていましたが、やがてそれもやみました。気がつくといつの間にか、薄い灰色とも銀色ともつかないもやが、敷石の間や路地の奥からにじみ出すようにわき出して、あたりに広がっておりました」
     ※
 明るい陽ざしとさわやかな風の中で、誰もが黙って耳をかたむけている。タケミカヅチは話しつづけた。
 「それは動いて、あちこちにいろんなかたちを作り出して行くようでした。私たちにいったん近づいて、包みこもうとしましたが、また遠のいて行きました。あたりは再び明るくなりかけましたが、ワカヒコさまはその灰色の霧が消えて行く方に歩んで行こうとされました。私は手をつかんでお止めしようとしましたが軽くふりはなされて、あの方は路地の奥に入って行かれた。そこはまだ濃い霧の中でした。よどんで、濁って、奇妙な香りに満ちていた。その中にたしかに人の影がありました。この目で見たのです。長い髪と、白い顔と、黒い衣の女の姿でした。今度こそおとめしようとした私の手をすり抜けて、ワカヒコさまはまっすぐに、その姿に歩みよられた。剣には手もかけておられない。ふれあって、ひきよせて、とけあうように二人は一つになりました」
     ※
 「そのとたん、あたりは明るくなりました。今まで見えなかった月が空に輝いて、あたりは昼のようにすみずみまで見わたせました。灰色の霧も女の姿ももう見えない。ワカヒコさまは、ただ一人、石の壁に片手をついて、立っておられました。私がかけよると、ふり向かれた。お顔にもお身体にもどこも変わったことはなく、一応ほっといたしました。帰ろうか、とあの方は静かにおっしゃって、私の腕をとって歩き出されました。そのとき、なぜか私の身体に寒気のようなものが走りましてな。何かが変わった気がいたしましたのです。どうしようもないほどに、とりかえしがつかないほどに」
 「それで?」
 「そのまま二人で船に戻りました。翌朝すぐにあの方は、若者たちを皆、町に帰されました。もう大丈夫だ、心配ないと笑っておられ、数人の連絡係を除いては、警護の者も残さなかった。私たちはそのままそこを出発して、いつもの仕事に戻りました」

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