「水の王子」通信(174)
「水の王子 空へ」第十三回
【灰色の町】
「なるほど、タカヒメさまのおっしゃった通りだ。ここは気分がいいですなあ」タケミカヅチは目を細めた。
彼らは今日もツクヨミの店の外におかれた、いくつもの食卓の一つでくつろいでいる。いつもの若者三人に加えて、タカヒコタカヒメの兄妹にホスセリを連れたコノハナサクヤもいて、大きめの食卓は少しきゅうくつなほどだった。
空はひときわすばらしく晴れ渡っている。浜辺で遊ぶ子どもたちのはしゃぐ声が、崖の下からひびいて来るし、あたりの草原では若者たちが三々五々、おしゃべりや花摘みを楽しんでいた。何人かがそれとなく、ちらちらこっちを見ているのは、タケミカヅチの話に興味があるのかもしれない。イナヒがその間をうろついて、ときどき食べ物のかけらをもらったりしている。ホスセリがよちよちと、その後を追っかけていた。それを見やりながらコノハナサクヤが華やいだ声で、「でも、さぞかしいろんな珍しい村や町を訪れられたのでしょう?」と尋ねた。「もっときれいな、たくさんの場所を」
「訪れたと言っても、交渉や戦争や、正体をかくしてさぐりに行くやらでしたから、なかなかゆっくりながめたり楽しんだりというわけには行かなんだですよ」タケミカヅチは答えた。
「また行ってごらんになりたい村や町などありまして?」コノハナサクヤは聞きたがった。「その反対に、二度と行きたくない村や町とかも?」
「ううむ。いろいろありますなあ、それは」タケミカヅチは考えこんだ。「しかし、その両方に、いっぺんに応えられそうな町ならひとつ、知っとりますよ」
※
「つまり、二度と行きたくないけど、ぜひまた行って見たくなる町ってこと?」タカヒメが卓に手をかけ身をのり出す。「すごいわ。それ聞きたいですね。私たちも知ってる場所?」
「ではありませんな。もうずっと昔のことですよ。ワカヒコさまが将軍になられて、まだそれほどもたっていないころでした」
今日は何となく大人しかったナカツクニの若者三人が、ふと耳をそばだてたようだ。コトシロヌシがゆっくり口を開いた。「彼が征服した町ですか?」
「まあ、そうなりますが、それがもう何ともですなあ」
自分で言い出しておきながら、タケミカヅチの声も顔色も何となく曇ってきたようだ。タカヒコネがからかった。
「思い出すのもいやだって顔ですよ」
「いやあ、実際そうですわ」タケミカヅチはしばらく口を閉じていた。「もう、あのころのことを知っている者は船にはほとんどおりませんが、覚えている者たちはいつも誰からともなく、そこを『灰色の町』と呼んでおりましたな」
※
「そのころはもう私どももワカヒコさまのやり方に慣れて来ていたし、あちらも船のことをよくのみこんでおられたし」タケミカヅチは語った。「総じて戦いにしろ和平にしろ、おたがいに要領もわかって信頼関係も深まり、皆が快く日々の仕事にはげんでおりました。もちろん、あのころはまだヨモツクニの力も強かったし、支配されている村や町も多く、私どもは同時にいくつもの村や町を相手に交渉や戦闘をしなければならぬ状態でした。とは言え、敵のやり口というものもおおよそわかっておりましたし、それほど悩ましい、手こずる相手というものもいなかった」
タケミカヅチの唇がふと、なつかしげにほころんだ。
「あのころ、タヂカラオという、やたら力持ちの大男がいましてな。船の一つもかつげるような大変な腕力で、私とはたいそう気があって仲好しでしたよ。ワカヒコさまのことも大好きで、しかし恥ずかしがりで直接のお話はなかなかできないらしく、もっぱら私のぐち話の相手になってくれとりました。だから、船の中では一番ワカヒコさまのことは、よく知っていたかもしれない。口の固い男でしたから、私も安心して、たいがいのことはぶっちゃけておりましたからな」
「その方のお気持ち、よくわかりますわ」コノハナサクヤが生き生きと笑った。「今はどちらに?」
「北の方の小さな町の長になって、楽しくやっておるようです。何かあったら呼んでくれと言っておりますが、今はいくさもあまりありませんからな。立ち寄ったときには、『灰色の町』やワカヒコさまの思い出話もよくしますよ」
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「いったい、どういう町だったのだ?」ニニギが聞いた。
「一見、静かな町でした。静かすぎましたかな。軍隊も見張りもおらず、城壁は無事に残っておりましたが、廃墟のようにも見えました。恐ろしい町だ、という噂がしばしば伝わってくるので、様子をうかがいに行ったのですが、医師たちの調査では疫病の気配もないし、船を近くの山かげにとめて、そこそこの人数でのりこんでみたのです」
「それで?」
「街路に入ると人影はなく、しかし建物は皆立派で、重々しく手がこんでいて、長い伝統や文化も感じさせる魅力的な町でした。人の姿はないのに窓辺には花の鉢があって、色とりどりの花が咲いています。門口には鈴や鐘の飾り物が下がって、風が吹くと澄んだ、きれいな音をたてる。我々は更に進んで、入り組んだ路地に散らばりました」
タケミカヅチは眉をひそめた。
「人影がないと思ったのもまちがいでした。黒い衣で身体をおおった、男とも女ともつかない人影が、水をくみに出て来たり、手押し車を押して通りを横切って行ったりするのに、ちらほら出会いました。誰も我々を見かけても気にはしません。黙って自分の仕事をしていた。何かがおかしいが、何がおかしいのかわからない。その内に気がついたのですが」
タケミカヅチはイナヒとじゃれあっているホスセリの方をちらと見て、はばかるように声を低めた。
「どこからか、血の匂いがしているのです。それも我々が慣れている生々しい錆びたような匂いとはちがう。どこか甘くて、かぐわしい奇妙な香りでした」
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「我々は家々のとびらをたたき、返事がない数軒に入ってみました。ひと口に申しますと、どの家でも残酷に人が殺されていた。広場のような場所に出ると、そこも死体の山でした。若い男が多かった。それも戦場では見慣れた風景ですが、殺され方がどれもこれも、口では言えないほど残酷で…しかもこれといって抵抗したあとが、どの死体にも全然ない。顔に苦痛のあとさえない。むしろ眠るような、うっとりした表情の者が多い。死体はどれもまだ腐ってもいなかった。生き残った人々もまた、それを悲しむ様子も恐れる色もなく、静かに料理や掃除をし、会話をかわしているのです」
「いったい、どういうことなんだ?」
「私たちはもちろん、人々をつかまえて、わけを聞きました。何があったのだ、誰がこんなことをしたのだと。でも皆、一様に、本当に途方にくれて、何があったのかわからない、と言うばかりなのです。もう何年も昔からずっとこうだ、と。突然何かがやって来て、若い男をはじめとした多くの人が殺される。広場や街路やそれぞれの家で。悲鳴や叫びやうめき声であたりが満たされ、それから静まり、あとは死体の山。やがて、鳥やけものの群れが来て、生きている者には目もくれず、死体だけをむさぼって骨も残さず去って行く。あとはまた、ふつうの毎日。次にその何ものかが訪れるまでは」
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「そんな恐ろしい場所から、誰も逃げ出さなかったのか?」タカヒコがあきれた。
「逃げ出した者も大勢いたようですよ」タケミカヅチは言った。「しかしその逆に新しく住み着く者もいた。暮らしやすい町でしたからな。作物もよく育つし、どっしりとした石造りの家の住み心地は悪くない。若い男はねらわれるが、さしあたり老人や子どもや女はめったに殺されない。人々はみな優しくて、あきらめきってはいたが、けんめいに快く生きようと努力していた。黒い衣をまとっている者が多かったのは、その内に気づいたのですが、九死に一生を得て死なずにすんだ者たちだったのです。えぐられた目や指のなくなった手や、皮のはがれた肩などが、ちらちらのぞいていましたから」
「若い男がおそわれると、それだけはっきりわかってるのなら、それこそおそわれそうな面々がまとまって、その化け物だか何だかを退治したらよさそうなものだが」
「しかし、どうやってその何かが訪れるか、どうやっておそわれるかもわからないのですからなあ」
「ついでに言うなら、いつ来るのかもね」
「理由も望みも、つかめないしな」
「その町の長は、どんな人だったんだ?」
「まだ若い娘でしたが、疲れ果てて、おびえきっていましたな。兄が三人いたのが、二人まで殺されたそうで。もう一人が死んだらここを出て行くけど、逆に安心して残ってしまいたくなるんじゃないかって、泣きそうな顔で言っていました」
「とりあえず君たちはそれでどうしたんだ?」
「とりあえず死体を集めて、町の広場で焼きました」タケミカヅチは言った。「もともと流れた血のあとも奇妙に薄くて、ちょっと洗うとすぐ消えて、あとかたもなく町はきれいになりました。化け物を防ぐために我々は女戦士を中心とした兵士たちを数十人、町の警護に残しました。医師も何人かその中にいました。できることはそれぐらいで、実際それきり化け物は、ぴたりと現れなくなりました」
※
タケミカヅチの重苦しげな表情から、若者たちは話に続きがあることを察して黙っていた。
「まあそのあとは、ご想像もおつきでしょうが」ようやくタケミカヅチは言った。
「あら、つくわけないわよ」タカヒメが文句を言った。「うまく行かなかったってことはわかるけど」
「結局私どもは三年か四年、その町にかかわったわけですよ」タケミカヅチは言った。「それもまったく同じことのくり返しで」
「つまり?」
「化け物は現れず、ずっと平和に時は流れて、町は人も増え、栄えるのです。それでもうよかろうと我々が警護をといたとたんに、ひどい時はその夜かその翌日に前とまったく同じことが起こる。原因も、正体もわからない何ものかの手によって、若い男たちがあらゆる残酷な方法で殺され、鳥とけものが死体を食いつくす。同じ恐怖と悲しみが町をおおい、あきらめの中で人々はいつもの暮らしを続ける。何ひとつ変わらない」
「もうそんな町、燃やしてなくしてしまえば?」タカヒコネがいらだった。「もちろん、人々のためには別の町を作ってやって」
「そう言う者もおりましたよ」タケミカヅチはうなずいた。「ただ、化け物を引き寄せているのが、あの場所や建物か、他の何なのか、よくわかりませんからな。それがどれだけ効果があるか」
「ワカヒコはどうしてたんだ?」
「たいがいのことには落ち着きはらっておられるし、あの時もそうでした。だから私以外の者には多分わからなかったでしょうが」タケミカヅチは言った。「しかし同じことが、たび重なるごとに、あの方がいらだって来られたのがわかりました。一番おきらいでしたからな―むだなことをくり返されるのが」
「そうだろうね」
「いろいろと、生き残った者たちとも話をされて、化け物の正体をつかもうとされていました」タケミカヅチは思い出そうとするように目を閉じた。「人によってさまざまにちがうこともありましたが、だいたいの話はこうでした。いつも、灰色の霧のようなものが、どこからともなくわき出して町全体を包んで行く。その中から何かが現れ、近づいてくる。気づいたときはもう動けない。相手が男か女か一人か大勢か、それもわからない。とにかく何の抵抗もできないまま、恐ろしい目にあわされ続ける。許しや助けを乞おうとしても、口が開けず声が出せない。苦痛と絶望の中で、でもどこか相手の大きな悲しみと愛情を感じる。それっきり、もう何もわからなくなる…一人ひとり言うことはさまざまですが、まとめるとこんなことに」
「それが『灰色の町』のゆえんなんだね?」
「まさに」