「水の王子」通信(176)
「水の王子 空へ」第十五回
【死闘】
「それからの日々は何ともつらいものでしてな」タケミカヅチは、うっそりと言った。「一見変わったところはなかったが、ワカヒコさまは明らかに普通ではなかった。あの女に支配され、それにあらがっておられたが、どうなっているのか、はた目には何ひとつわからなかった。ただ、どう見ても普通ではなかった」
タケミカヅチは太い吐息をついた。
「もともとが、たとえばいつも、しゃんとへさきに直立して指揮をとるようなお方ではなかった。わりといつも、ぐだぐだくにゃくにゃしておられて、眠いとか疲れたとかこぼしておられて、皆もそれに慣れて笑っていた。思えばそれがかえってよかったのですな。町でのあの夜以来、昼間の内はあの方はずっと、まともに立っていられる状態ではなかった。帆柱や荷物でようやく身体を支え、目もよく見えておられないようで、声もかすれて弱々しかった。それでも、身のこなしがなめらかで表情も明るく笑顔だったから、誰もいつものあの方と思っていた」
「だが、町の若い男たちのように、傷つけられはしなかったんだな?」
「昼間はあの怪物は鳴りをひそめておったようです。というよりワカヒコさまが力づくで抑えこんでおられたのかもしれません。しかし夜になって眠りに落ちると、朝までずっとそれはもう苦しんでおいででした。あまりにも心配で灯りを持ってよくおそばにつきそっていましたが、夢の中であの女がどんな残酷なことをしているのか見当もつきません。それが何とも恐ろしかった」
「彼はただ眠っているのか」
「顔をゆがめられ、指は空をかきむしられても、声はまったく上げられません。もともと変装して芝居をしているとき以外には、何があろうと悲鳴もうめき声も決して上げない方だった。しかし、その内、気がつきました。お声が上げられないのだと。唇を開いても口を開けても、声が声にならないのです。あえぎ声さえ、出ないのです」
「町で殺された男たちと同じだな」
「よくがまんできましたわね」コノハナサクヤが身ぶるいした。「見ているあなたも」
「何日めかの朝、ぼうっとした目で甲板に出て来られたので、大丈夫ですかとお聞きしたら、眠らないわけには行かないしなあ、身体がもたないからと、ゆううつそうにおっしゃいました。何かできることがございますかとお聞きすると、少し考えられてから、私がどんなに苦しんでいても絶対に起こしたり、さわったりするなと命じられました。あの者があなた様をどうにかしてしまいはせぬかと心配で、と申し上げると、あっちも私を追いつめているが、こっちもあちらを追いつめている、もう少しで正体がわかるし名もわかる、そこまで行ったらこっちのものだ、だから絶対じゃまをするなよ、と」
※
「あなたはそれで?」
「ご命令には従いますとお約束しました。そのかわり、こちらもお願いいたしました。昼の間の戦いや船の指揮を当面おまかせいただけますか、それとなくお姿を見せていて下さるだけでいいですからと。あの方はほほえんで、うなずかれ、とっくにそうしているじゃないかとおっしゃいました」
「それから?」
「何日、それが続きましたことか」タケミカヅチはきつく唇を結んだ。「あの方が何もできないのですから、いきおい村や町との平和交渉は少なくなり、戦闘が増えました。正直、タヂカラオがおりませんでしたら、あのころの戦いのどれかで我々は滅び、タカマガハラもなくなっていたかもしれません。彼はそれこそ怪物のように、あらゆる戦いで暴れ回りました。城壁をなぐりこわし、橋を粉々にし、ハリネズミのように矢を身体に受けたまま、馬や車ごと敵の軍団を海や川に放りこみました。そのころの彼の戦いぶりは、今でも歌や伝説になって残っています。子どもたちも歌っている」
「知ってるわ」タカヒメはうなずいた。「空までかすむ土煙、敵の部隊が宙に舞う…あの歌の文句は、あの時期のことだったのね」
「ワカヒコの状態を、彼は知っていたのか?」タカヒコネが聞く。
タケミカヅチはうなずいた。「彼だけには私は、すべてを話しておりました。町の夜に見たことも、毎晩のご様子も。彼は胸も頭もつぶれるほど心配しておりました。夜はよくワカヒコさまのへやの外の廊下に座りこんで、見えない敵から守ろうとするかのように目を閉じておりました。私も彼も、兵士です。難しいことは何もわからないし、知ろうともいたしません。私たちにできることは、ただ、あの方が夜な夜な続けておられるあの女との戦いに専念できるようにしてさしあげることしかないと、おたがいに承知しておりました」
タケミカヅチはほほえんだ。
「そうは言っても恥ずかしがりで口下手な男です。昼間でもワカヒコさまに近づいたりは決していたしませんでした。皆に疑われないように、目を向けることさえしなかった。ただ、戦いの合間に手に入った珍しい薬や滋養になりそうな食べ物を持って来ては私によこして、ワカヒコさまにさしあげてくれるよう頼みました。少なからずそれはお役にたったのではないかと思います。日を追うごとに、あの方はやつれて、やせて来られましたが、それでもタヂカラオの取ってきた珍しい果物や肉をおいしそうに召し上がって、顔色も少しよくなっておいででした」
※
「実際、あの時期の戦いはずっと私が命令を出しておったようなものですが、幸いタヂカラオのあまりのすさまじい戦いぶりに誰もが腰を抜かしてしまい、注目も注意も話題もそっちに集まってしまっておったものですから、ワカヒコさまのご様子が気になった者はおそらくいなかったものと思います」タケミカヅチは言った。
「あなたたちお二人だって、なみなみのお疲れではなかったでしょう」コトシロヌシが吐息をついた。「それでワカヒコの方は? その女との戦いの首尾はどうなって行ったのでしょう?」
「あれほどの状態の中でもワカヒコさまは、私どものことも気にしておいででした」タケミカヅチは言った。「タヂカラオの持って来た食べ物や薬も、これはおまえたちが食べるようにと残して下さったり、私が疲れたように見えると気にされて、一晩中つきそっているには及ばないから、二人とも寝床でたっぷり寝るようにと言い渡されました。それで私も、夜明けのひとときにお顔を見におうかがいするように途中からはいたしておりました。あの方が苦しまぎれにひきちぎってずたずたにした枕やかけぶとんを、人に見られないようにつくろったり縫い合わせたりしながら、こんな日がいつまで続くのだろうと、やりきれない気持ちになることもございましたが、あの方は夜の間中、たったお一人で、正体もわからない巨大な敵と戦っておいでなのだと思えば、そんな弱気なことを考えている場合ではないと、あらためて心がひきしまりましてな」
※
「変化はまったく突然に、前ぶれもなく訪れました」タケミカヅチは言った。「やっかいな戦いがどうなり勝利をおさめて一段落し、皆が安心して疲れ切って死んだように眠っていました。タヂカラオもくたくたになって、寝床で大いびきをかいていた。まだ夜中前でしたが、私は灯りを持ってワカヒコさまのおへやをのぞいてみました。後ろ手にそっと戸を閉め、寝床に近づいたとき、ワカヒコさまがかすれた低い声で、あえぎながらはっきりとおっしゃったのが聞こえたのです」
何かを察したのか、タカヒコがふと身じろぎして、それとなく皆を見回した。
「タケミカヅチ。この話、私たちが聞いてもいいものなのか?」
「いつもそうだが、何を今さら」タカヒコネが小声でつぶやく。
タケミカヅチはうなずいた。
「承知の上でお話ししております。この村の皆さんはもちろん、これからのタカマガハラをになう若い方々にも知っておいて頂きたいのです。私はただ、耳にしたこと、目にしたことをお伝えするだけで、それがどういう意味かわかりません。だからこそ、お伝えしておきたいのです。ありのままの、あの方の、おことばを」
また沈黙。コトシロヌシがうながした。
「ワカヒコは何と言ったのです?」
「…やめて下さい、イザナミ、と」
※
皆が思わず身じろぎし、数人が身体を引いた。
「それに続いて、私が聞いたことのない声がした。ワカヒコさまののどからもれているが、明らかに別人の、少ししわがれた、細い女の、明らかに驚いている声でした。口がきけるのか?と、その声は申しました」
「ワカヒコは何と?」
「それには答えず、やはりかすれた、息もたえだえの声でおっしゃいました。これは、あなたの、したいことではないはずだ、と」