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水の王子・「岬まで」18

 

           ※
 おれは、死んだフハノのことを考えている。
 ずっと、ずっと考えている。
 おれが覚えていなければ、思い出しつづけなければ、あれのことはもう誰もわからないまま、この世から消える。
 おれだって、そう長いことではない。
 明日の命はわからない。

フハノはいつも優しかった。
 人を傷つけず、無口だった。
 回りの言うことにいつも従い、つらい仕事も黙ってこなした。
 この町は栄えないでもいいよ、といつか言った。
 これ以上幸せにならなくてもいいよ、別のときにそうも言った。

あんまりこの町とおれたちが立派になってしまったら困るだろ、といつか言った。
 おれたちのしたことがすべて正しかったと皆が思うようになったら困るだろ。そう言った。
 おれたちが苦しめた人。おれたちがふみにじった人。
 そんな人たちが皆、まちがっていたことにされてしまったら困るだろ。

そんな人はいないだろう。私は言った。とりわけて、おまえには。
 そうかなあ。彼は言った。覚えていない。思い出したくもない。そのことに自分が耐えられるとは思わない。
 ただ、もしも私のかわりにそれを思い出してくれる人がいるとしたら、その人のじゃまはしたくない。
 フハノ。おまえはそう言った。

沼に住むヤガミヒメという女を殺して来い。
 フヌヅヌにそう言われたとき、そう意外でもなかった。
 この町を守るなら、フヌヅヌを守るなら、そうしなければなるまいと、いつからか思うようになっていた。
 私のとなりでフハノも黙って頭を下げた。
 いつものように、特に不満があるようでもなく。

長いようで短かった沼までの旅。
 星の光の下で私たち一行は何度か野宿した。
 秋の虫たちが、降るように鳴いていた。
 草と土の香りの中で。
 おれはフハノが立ち上がるのを見た気がする。
 私の上にかがみこむ黒い影になって。
 その手に抜き身の光る剣があった。
 あれは夢だったか。現実だったか。

フハノ。おまえは何度誰かを殺そうとしたのか。
 私を。他の兄弟を。
 そうすることでおまえは何を守ろうとしたのか。
 私を殺して、そしておまえは。
 ヤガミヒメを連れて、逃げようとしたのか。
 同じようにまちがったことをするなら、
 せめて自分のしたいことをしたい。
 一度おまえはそう言いはしなかったか。
 覚えていない。思い出せない。

結局、おまえは殺さなかった。
 私のことも。他の誰も。
 輝く森の木々の中の光。
 音もなく身体をしめらせて行く深い霧。
 あのとき、おまえはどこにいたろう?
 あのとき、おまえは何をしたろう?
 もしも、私の代わりに思い出してくれる人がいたら。

そして、おまえは殺された。
 何の抵抗もしないまま。
 おまえがふみにじった人たちが、
 おまえのことを思い出しやすいように、
 迷わせるものを残さないまま。
 何もない道を開いたまま。

遠く、太鼓の音がする。
 村では祭りがたけなわらしい。

     ※
 「あなたが思い出してくれないと」ヤシマは言った。「あなたが語ってくれないと。妻は私にそう言ったのです」
 「でも、あなたにはできなかった」ヒルコがそっとつけ加えた。「なぜなんです?」
 「その前に、どうしてそれがそんなに必要なことか私にはどうしてもわからなかったのです」ヤシマは沈んだ声で答えた。その太い、かたちのいい指は、しっかりと布の小切れを握りしめていた。「こんなものが織れるのですよ」と彼はささやいた。「これだけみごとにすばらしいものが。彼女のおさが動く下で、みるみる織りなされて行く巨大な壁掛け。そこにくり広げられるさまざまな場面がどれだけ生き生きとあざやかだったか、本当にお見せしたかった。廊下に、回廊に、新しいものがかけられるたびに、王宮全体がどよめいて、脈打って、息づき、昔がよみがえる。未来がどこかに生まれて、ただよう。フヌヅヌをはじめ王宮の全員が、ひたすら見とれて酔いました。一日ごとに、昨日とはちがう世界で目をさますようでした。だが」
 ヤシマは重く首をふった。
 「彼女一人が満足していなかった。ヤノハハキただ一人が。周囲の賞賛と陶酔の中で彼女だけがだんだん不機嫌になり、無口に、孤独に怒りっぽくなって行った。最初は私のせいかと思った。夫としての私がいたらないのかと。しかし彼女はちがうと行った。あなたが唯一の希望だ、だから織りつづけられるのだと、彼女は私にそう言った」
     ※
 「いったい何を奥さんは」ナキサワメは涙をぬぐった。「あんたにしてほしかったんだね?」
 「織り物が織れない、と言うんですよ」ヤシマは苦しそうに顔をゆがめた。「フヌヅヌや、他の人たちから聞いたこの町の古くから伝わる言い伝えをもとに、都のなりたちや、これまでの日々を描き出そうとしても、どこか型通りで勢いがなく、どこかがゆがんで、とどこおってしまう。どこかで見た作り物の寄せ集めになってしまって、それだから見ていても、ただ表面の絵柄や模様が見えるだけ。その背景も、昔も未来も浮かばない。何も聞こえず、香りもしない。そう言うのです。本当に、たったひとつのことばでもいい。極端な話が、嘘だっていい。何かを聞いたら、それがきっと引き金になり呼び水になって、物語は一気につむげると、妻はそう言うのです」
 「それを言えるのが、あなただって言うの?」ヒルコが聞いた。
 ヤシマはうなずいた。
 「さっきあなたは、私の町がつまらないっておっしゃいましたね。それと関係があるのかもしれませんな。つまらなくてもいいと、私はどこかでずっと思っていたのです。皆が普通に生きて行ければ、つまらなく見えるかどうかは気にしなかった。自分のことも、町のことも。毎日、同じように日が過ぎて、時が流れて、もうそれだけで」
 「でもそれはきっと絵巻物にはならないんだね」ハヤオが言った。
     ※
 「そんなことでもないんですよ」ヤシマは首をふった。「そんな絵巻物もいくつも作ったと妻は言っていました。それはそれで楽しかったし、退屈でも平凡でもそこが面白い、よい出来だったと。でも、この町と王宮はそれとちがう。フヌヅヌはじめ誰もかれもが、似たようなことしかしゃべらない。自分で感じたことや見たもののことを話せないし、覚えていない。いろいろくいちがったり、みにくいことや、おかしなことがあっても、それがひとつにつながらない。だから、描いてもつりあいが悪くなり、どうしてもうまく行かない。そう言うのです。王宮でも町でも、あらゆる人に彼女は話を聞いて歩いていたんですが、やがて気づいたようなのです。私にだけはまだちゃんと、いろんなことを聞いてなかったと。言われてみればそうでした。かくしていたのじゃありません。毎日、他愛もないことを話したり、おたがいに見つめ合ったり抱き合ったり、ささいなことで笑い合ったりするばかりで、それでもう幸せで満足で、たがいの仕事の話などはしたことがなかった。私の方では特に面白いこともなかったし、妻の方はいろいろ大変そうだったし」ヤシマは力なく笑った。「そもそも妻がまだいなくて一人だったときも、私は自分のことや町のことをそんなに考えたり思い出したりしたことはなかったんです」
 「まあそんなのは皆そうかもしれないけど」あやふやな口調でハヤオが言った。「だけどまあ、時にはさ」
 「そうですね」ヤシマは元気なく同意した。「今思うとですね」
     ※
 「とにかく妻にそう聞かれて」思い直したように彼は続けた。「私は何も言えなかったんですよ。フヌヅヌや他の皆が話したようなことさえも。それが本当のことかどうかも私にはよくわからなくって、私は…」突然ヤシマは布を持っていない方の手を顔にあてて苦しそうにうめいた。「私は、嘘がつけないのだと思います。自分にも、他人にも。だから、何も見つめられなかったし、考えられなかった」
 しばらく小屋の中はしんとして、誰も何も言わなかった。
 やがてハヤオがため息をついた。
 「そのこと、きっと奥さんには、はじめからわかっていたんだね。あなたに会ったときからもう」
 「だから、聞かなかったのかもしれないねえ」ナキサワメもうなずいた。
 「それであなたは?」ヒルコがうながす。
 「王宮を出ました」ヤシマは言った。「妻に聞かれたことに答えられないとわかっていたから。ずっと何かに目をつぶって、見ないようにして、私は生きて来たんです。王宮の中に育ち続ける大きな灰色のけもののような生き物が、廊下や広間いっぱいに黙って座っているのを気づかないようにして、歩いて、しゃべって、暮らしていた」
 「それでこれからどうするの?」
 ヤシマは首をふった。「わかりません」彼はくり返した。「私には、もう何もわかりません」(つづく)

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カツジ猫