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水の王子・「岬まで」17

第七章 絵巻物

女は磨き上げられて鏡のような木の床の上に足をやや開いてふみしめ、広間の中央に立っていた。
 一見、娘だ。だがよく見ると中年女だ。後ろに流して切りそろえた髪、ひじから先はあらわな、ひきしまった腕。上半身も下半身もつりあいがとれてたくましいのに、どこかかすかにゆがんでもいる。長いこと、同じ作業にいそしんで来た人のように。
 彫りの深い、しわも見える顔は美しいというよりも、とぎすまされて、見ているだけで人にいさぎよい快さを与える。
 広い室内は殺風景だ。床と同様、みがきたてられて光る壁も手すりも階段も木材で組み立てられて、飾りも置物もいっさいない。
 あふれるような色彩は、さっき女が侍女たちの手を借りて、機織り機械から下ろした巨大な織物のみ。天井から床まで壁一面をおおう横長な布の中に、さまざまな場面が織り出されて浮かび上がる。にぎやかな宴会、勇ましい戦闘、華やかな儀式、活気に満ちる狩猟、などなど。
 女の鋭いまなざしが、右に左に走る。やがて胸の奥深くから、細く鋭いため息が力をこめて吐き出される。
 「…面白くもない」彼女はつぶやく。「どこにでもある風景ばかり。これではただの模様にすぎない」
 彼女はのけぞり、天をあおぐ。低く熱い声がもれる。「ヤシマ」
     ※
 女は歩く。右に左に。「あなたの見た風景を見たいのだ」彼女はひとり言のように話しかける。「この町の成り立ちを。あなたたち兄弟の一人ひとりを」
 「もうそれはいいんじゃないかね」女の耳にしか聞こえない、おだやかな声が届く。困ったような、やわらかな笑顔も目に浮かぶ。「昔のことだ。何もかも、もうすんだこと」
 「だったら何で私を、この王宮に連れて来たのよ、フヌヅヌさまは?」
 女の目にしか見えないヤシマが、ゆっくりと広い部屋のなかを見回す。それに続く長い廊下も、高い楼閣も。銀色がかって光る白い壁、つややかな木製の柱。清潔でおごそかな、少し淋しく、暖かなへや。
 「もう少し、華やかに力強くしたいと思ったのかな、王宮の全体を」
 「オミヅヌさまの町のように?」
 ヤシマは笑って唇に指をあてる。「そのことは言いっこなしだよ。わが愛する妻」
 「よしてよね。あの町は大嫌い。ごてごてしていて下品で派手で、何から何まで目立ちたがりで」女はまっすぐ夫を見る。「ええそうよ。私をやとったのは正解よ。私の織り物は人々の住まいを変える。生き方も変える。住む人々の心も、町も変えるわ」
 「知っているよ、ヤノハハキ。あなたはそれで有名だった」
 「代々続く家柄だもの。父も、祖母も、布を織ったわ」
 「初めて城から使いに行って、何か織ってみせてくれと命じたら、あなたはあっという間に機に向かって私の姿を織り上げた」
 「あなたはわかりやすかった。正直で、まっすぐで、心の中まではっきり見えた」
 「目立たない男だと、ずっと言われて来たのにな」
 「フヌヅヌさまも満足した」
 「持ち帰ってお見せしたら、まじまじと私と見比べられて、皆がびっくりしたほどに声をあげて大笑いされた。なるほどな、おまえはこういう男だったか。声に出してそう言われた。結婚しろ、といきなり言われて、私も皆も驚いたが」
 「けれど、いやではなかったでしょう?」
 「相手がどう思いますかわかりませんと申し上げたよ。そうしたらフヌヅヌさまはまた笑われて」
 「おまえの衣装のふちかざりのひと房まで、これほどに心をこめて織り上げた女が、おまえをどう思っているかわからないだと?」
 「そうだった。そうおっしゃった」
 「その通りだった」
 女は目を閉じ、自分の両腕で自分の両肩を抱きしめる。いつまでも彫像のように、彼女はそのまま動かない。
     ※
 「森を抜けられなかったんだって?」ナキサワメが目をしばたたいた。
 「うん」ハヤオはかゆの入った木のわんに顔をつっこみながら、かたわらのヒルコに「食えよ」と言った。「何、遠慮してるんだ?」
 ずっと昔、一度、夜にしのびこんで来た以外は小屋に入ったことのないヒルコは、もの珍しそうに、わんを手にしたまま、あたりを見回していた。「こんな風になってたのか。前よりきれいになってるんだね」
 「ほら、そんなのはいいから、ちゃんと食べないと」ナキサワメがなべからかゆをつぎ足して、ヒルコは黙ってほほえんだ。
 「もう少し野菜も入れましょう」火をかきたてていたヤシマが言った。「オオヤマツミさんも、そろそろ起きなさるかもしれないし」
 「どうだかねえ」ナキサワメは大いびきの聞こえる寝台のほうをふり返りながら鼻をかんだ。「それで? 川の上の方まで行ったのかい? 滝があったろ? そうしたらもうすぐ、その先で、木もまばらになってきて、草原に出るはずだよ」
 「滝はあったよ。きれいだったさ。だけど、そっからますます森が深くなって、途切れる気配もなかったぜ。川もちっとも狭くも細くもなんないし」
 「おかしいねえ」
 「森が大きくなってきてるのかもしれない」ヒルコが言った。「ヤシマさんは、あっちから来たんじゃないよね? 川下の方からでしょう?」
 「はあ、そうですな。草原をあっちこっち動いてて、川にそって森に入って来ましたから」
 「それで、どうするんかね」ナキサワメが聞きたがった。「もういっぺん行ってみるなら、お弁当を多めに作ってあげるよ」
 「もういやだよ、川を逆上るのは」ハヤオは答えた。「滝もしっかり見ちゃったし、同じ景色をながめてもつまんないし。とりあえず、またナカツクニの村に帰ろかな。しばらく顔を見せてないしさ」
 「それでも、今夜は泊まってお行きな」ナキサワメがすすめた。「あの子ども用の寝台に二人いっしょに寝られるよ」
 ヒルコはうれしそうに、立ち上がってのぞきに行った。「いいのかな? 僕寝てみたかったんだよね」
 「枕とふとんを用意したげるよ」ナキサワメも立ち上がった。
 「ヤシマさんは、まだ床に寝るの?」ハヤオが気にした。
 「慣れとりますし」
 「いい暮らしをしてたんじゃないの?」
 「昔はですなあ」
 ヒルコとナキサワメが寝床のしたくをしているのを目の端に感じながら、ハヤオはヤシマに聞いてみた。「ねえ、ヤシマさんの奥さんって、どんな人なんだい?」
 「はあ、機織りが上手なんですよ」ヤシマはほほえんだ。「私のことなど放っておいて、織り物をするのに夢中です」
 「よっぽどうまいの?」
 するとヤシマは幸せそうに笑って、両手を服のひざで拭うと、胸のかくしから大切そうに小さな布を出して、手のひらにのせて広げてみせた。
     ※
 「えっ、これはすごいや」ハヤオはのぞきこんで思わず声をもらした。
 ていねいにしっかりと織られた藍色がかった布は、厚手なのにやわらかく、ふわりと端が垂れ下がる。薄く金色が入った横糸があちこちに織り込まれていて、布が淡い光を放つ。その中に穀物の穂とこぼれた粒が描き出されていた。
 ただの模様とはとても思えない。葉のうねり、実のかたちがくっきりと正確なだけではなかった。今にも風に動きそうな茎の傾き具合といい、ぷっくらとふくれあがった一粒ずつといい、見ているだけで手触りも味も伝わって来るようだ。その背景の藍色のなかにゆれる畑全体の作物の波、天上からふりそそぐ光、しとどに下りて来る夜露、広がる夜空、そして夕焼け、何もかもがひとりでに浮かび上がって来そうだった。
 時間も忘れて長いこと、ハヤオは見とれつづけていた。「何だい、これは?」と、おびえたような、かすれた声が耳もとでしたと思ったらナキサワメがハヤオの顔の横で目をしばたたき、ヒルコもうっとり布の中の世界に目を奪われて息をのんでいた。
 「これってもしかして」やがてヒルコは小声でつぶやき、恐れをこめた声でつぶやいた。「ヤノハハキの織り物?」身を引いて彼はヤシマをつくづくと見た。「あなたの奥さんって、ヤノハハキなの?」
 ヤシマは困ったように、だがやはり幸せそうにうなずいた。
 「あの人、フヌヅヌの王宮に入ったって聞いたけど」ヒルコは更に畳み掛けた。「あなたもあそこにいたの?」
 ヤシマは急にしょんぼりした。「はあ」
 「ひょっとして、フヌヅヌの兄弟?」
 「ですねえ」ヤシマはため息をつく。
 「じゃ王族の一人じゃないか。こんなとこで、こんなことしてていいの?」
 「おいおい、何の話だよ?」ハヤオがさえぎった。
 「あたしにだって何のことだか」ナキサワメが涙をぬぐう。
     ※ 
 「そっちこそ二人とも」ヒルコはあきれたように見返して来た。「フヌヅヌとオミヅヌの町のこと聞いたことないの?」
 「知らないよ。何だそれ?」
 「僕だってそんなに詳しいわけじゃないけど、名前ぐらいは知ってるよ」ヒルコは言った。「草原に昔からある古い町で、タカマガハラとのつきあいも長い。ヨモツクニとの戦いの上で大事なとりでの一つだった。フヌヅヌとその兄弟たちが治めてたんだけど、いつからか弟の一人のオミヅヌが、すぐ近くに別の町を作って兄弟で対立してる。ただし、どっちもタカマガハラとは結びつきが強い。むしろ、より近い存在になろうとして争ってると言われてる」
 「そんな町のこと、おまえこれまで話さなかったな」
 「あんまり好きじゃなかったし」ヒルコはヤシマをすまなそうに見た。「ごめん。何だか面白いっていうか、ひきつけられるっていうか、そういうとこがなかったんだよ」
 「兄弟が近くに町作って対立して、どっちもタカマガハラと仲がいいなんて、充分面白そうじゃないか」
 「そのはずだけど、何だかつまんないっていうか退屈っていうか、気になるところがないっていうか」
 「タカマガハラの連中もそんな町、あまり気にしてる風じゃなかったな。話を聞いたことがない」
 「忘れてるんじゃない? 眼中にないんだよ。都合よく利用してるだけで、ちっとも大事にしてる風がない。それもしょうがないけどね。粗末に扱いたくなる町なんだよきっと」
 「そうなのか?」ハヤオはヤシマに向かって聞いた。
 ヤシマはまたため息をついて、「そうなんでしょうな」と言った。
 「ヤノハハキが兄弟の誰かの奥さんになったって聞いたときは、もうちょっと何とかなるかと思ったんだけど」ヒルコは続けた。「あの人の織り物の腕ってすごいと有名だったし、僕は見たことなかったけどね。でも、それっきりになっちゃったから、彼女またどこかに行ったか死んだかしたかと思ってた」
     ※
 ヤシマは手の中の布を見つめていた。「オミヅヌとフヌヅヌは長男と次男でしたが、子どものころからあんまり気が合わなかったんですよ」彼はぼそぼそと口にした。「ですが、亡くなった父のことは尊敬してたし、立派にあとをつごうとも思ってました。それは私たち兄弟、皆同じで。父はとにかくタカマガハラに忠誠を誓っていたし、それは二人の兄も同じで。私たちも皆同じで」
 「なるほど聞いてて面白くないよね」ハヤオはうっかりつぶやいた。
 ヤシマは苦笑した。「オミヅヌとの争いというのも最初はつまらんことだったんですよ。フヌヅヌは万事が地味でひかえめで、目立たないのが好きだったのに、オミヅヌは派手でにぎやかなのが好みで、ああいうのはどうもなりませんでな。町が二つになったのは、私はいいことと思っとりました。どっちもそれぞれちがったかたちでタカマガハラを支えられるし、ヨモツクニとも戦えるし。二つの町は最初はそんなに対立してたわけでもなかった。フヌヅヌも大して怒っていなかった。『オミヅヌは何を考えてるかわからん』といつも言ってたし、だいたいが我々は協力すると言っていても、あまり話し合う兄弟じゃなかったのです。けんかもしたことがなかったし、以心伝心で気持ちは伝わると思ってましたからね」
 「すばらしいことじゃないかね」ナキサワメが感心した。
 「そうかなあ?」ハヤオが首をひねる。「そんなんで、よく町を治められたね」
 「だって、話し合うようなことも、そんなになかったもんですから」ヤシマは口ごもった。「父の代からもうずっと、やることはだいたい決まっていたんですよ。作物のとり入れをして、品物の取り引きをして、ヨモツクニが近くにあらわれないか見張って、あらわれたら追い払って、これと言って相談するようなことは何もなかった。儀式の手順や町のとりしまりも、しきたりも、前と同じことをしていれば何も困らなかった」
 「あたしたちの今の暮らしのようなもんさね」ナキサワメが鼻をすすってうなずく。
 「オミヅヌは退屈したんだろうね、そんな暮らしに」ハヤオが言った。
 「フヌヅヌはまだ上に立っている分、人々の前に出て表に立つことが多かったですが、オミヅヌにはそんな機会は少ないし、そこはつまらなかったかもしれません」ヤシマは言った。「たまに皆の前に立つときは、それはうれしそうにしていたし」
     ※
 「フヌヅヌもまあそれで、ちょっとまずいと思ったのか、王宮の模様替えをしようと思い立ったようで」ヤシマは続けた。「その気になったら、そういうこともちゃんとできる人で、だから、とりあえず、失敗してもすぐ取り外せばいいような大きな立派な壁掛けを、王宮のあちこちにかけることにしたんです」
 「ああ、なるほどね、いい考えだ」ハヤオが感心した。
 「それでヤノハハキを呼んだっていうのも、フヌヅヌの目に狂いはないね」ヒルコもうなずく。
 「彼女を呼びにやられたのは私で、そのとき、たがいに気に入って、すぐ結婚して、彼女はとてもはりきって仕事に励んでいたんですが」
 ヤシマの顔が曇った。「そこからが、どうも、うまく行かなくなったのです」(つづく)

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