水の王子・「岬まで」19
第八章 襲撃
刃と刃ががっきとかみあい、暗い曇り空の下で赤い火花を散らした。ずるずるすべるあぜ道に足をふみしめて身体を引きながらタカヒコネは、荒々しくうなるイナヒの声を聞いた。相手は大した使い手でも強い力の持ち主でもないと、瞬時に彼は判断している。斜め前から向かってくる、もう一人の敵からも迫力や気合は伝わって来ない。勝てるとすでに判断していた。負ける要素が見つからなかった。ただ問題は、こちらの体力がどれだけもつか、それだけだ。
イナヒがあたりを飛び回っている。どうしていいかわからないまま、ひたすら怒りに燃えている。
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今日も朝から忙しかった。イナヒの餌にする小魚をスセリと二人で煮てやって、彼専用の器に盛り、野菜をきざんで数日前に畑に暴れこんで来たのを倒したイノシシの肉を切って焼いたのと付け合わせて皿にのせた。オオクニヌシが卵をかきまぜ、スセリがへやの掃除をして、スクナビコがあくびをしながら縁側で薬の仕分けをした袋を箱につめていた。食事のあとでスセリは湖に洗濯に行き、タカヒコネが武器の手入れをして、イナヒの毛をすいてやっていると、しっぽの半分ぐらいまでをふわふわにしたところでスクナビコがやって来て、薬草がなくなったので岬に行って取ってきてくれと言った。オオクニヌシもホオリとホデリに相談したいことがあるとかで、二人はつれだって家を出た。
タカマガハラからタカヒメたちが持ってきて植えた木々がすっかり育って、村のいたるところで紫や金色の花をつけはじめていた。畑の野菜はもうあらかたが取り入れられて、黒々としたうねが並ぶあちこちに、雑草や枯れ草の茂みがちらちら残っている。この秋は、とりいれの祭りを特にしなかった代わり、ウズメやサルタヒコが手押し車に毎日野菜や魚を積んで村を回ったり、それに負けじとツクヨミとイワナガヒメの夫婦も酒や料理を車にのせて、墓地で人々にふるまったりして、村は連日華やかでにぎやかだった。
ウズメたちの住む洞窟を過ぎ、岬の端の灯台がすぐ目の前になった時、タカヒコネが突然足をとめた。肩がこわばり、目が油断なく背後と周囲に注がれる。
がさごそと枯れ草が鳴って、ふさふさの茶色のしっぽが現れた。「イナヒだよ」とオオクニヌシが笑って言い、つられて笑いかけたタカヒコネが、かけよって来たイナヒの血ばしってただならぬ光をたたえた目を見て、再びさっと身がまえたとき、イナヒの後ろの草むらから、ぬっと二つの影が立ち上がった。青白く光る剣の刃が、すっぽりかぶった布の下から並ぶように突き出している。
「逃げろ、タカヒコネ」オオクニヌシが落ち着いて言った。「どうせねらいは君だ」
「何べん言ったらわかるんです」剣を抜きながらタカヒコネは舌打ちした。「おれに恨みを抱く者なんか、おれは残して来ちゃいませんから。こいつらの目当てはあんたです。とりあえず灯台に入っていて! あっという間に片づけますから」
ためらって動かないオオクニヌシにタカヒコネはほほえみかけた。「わかってますよ。殺さなきゃいいんでしょうが。こんな雑魚ども命はとらずにちゃんと防いでお見せします」
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オオクニヌシはタカヒコネの腕をつかんで引き寄せた。「いいか。よく聞け」かみつくように彼は言った。「絶対に死ぬな。傷ついてもならん。そうなりそうなら、いくらでも殺せ」
「あのねえ、父さん!」
タカヒコネがあきれたように何か言おうとしたのにはかまわず、オオクニヌシは落ち着いた足取りで灯台に向かい、その入り口に入って行った。
追いかけて、そのとびらを外からしっかり閉めて向き直ったとき、激しいイナヒのうなり声があたりの空気を震わせた。新しく数人の黒い影がうねの向こうから立ち上がったのを見て、「やれやれ」とタカヒコネは首をすくめた。「ちょっと時間がかかりそうだな」
最初の二人が間をつめて来ていた。ほとんど同時に両側から刃が空をないで来た。一人を力まかせにけとばし、もう一人の刃を刃で受ける。磨き抜かれた金属どうしがぶつかりあって、ぱっと火花が飛び散った。
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ホオリとホデリが階段をかけ下りてきた。入り口のとびらをしっかり閉めて、かんぬきを下ろしたオオクニヌシは「窓の外を見ろ」と命じた。「どうなってる?」
向かい合う二つの窓にそれぞれ走りよった二人は声をあげた。「外は兵士でいっぱいです!」
「壁をこっちに登って来てます!」
「窓を全部閉めて釘を打って閉ざせ」オオクニヌシは階段をかけ上がりながら、途中の小窓の一つから入りこもうとしていた影を力まかせに外につき落とした。「それから火をたけ! 最大の火を灯台に灯せ!」
「夜じゃないから見えませんよ!」
「沖からはな。曇っているから村からは見える。タカヒコネが見える窓は開けておけ。彼が逃げて来たら入り口を開けて入れてやれ!」
「そんな気配はありません。もう畑のずっと向こうの方に彼、行っちまってます。あ、イナヒもいる!」
「とにかく火をたけ、急ぐんだ!」
幸い今夜のための焚き木はすでにかなり積まれていた。三人がさらに焚き木や流木を加えて火を放ち、ごうっとすさまじい炎が最上階で燃え上がったとき、近くの窓でけたたましい声がわめきたてた。
「ごうごうぼうぼうごうぼうぼう!」
「ウガヤだな!」オオクニヌシは窓に飛んで行って、いっぱいに広がった極彩色のつばさに上半身をつっこんだ。「いいぞ、村じゅうに飛んで行って、『岬まで!』と叫びまくれ。みさきまでみさきまでみさきまで。わかったか?」
「きいっ」ウガヤは羽を鳴らして舞い上がった。「みさきまでみさきまでみさきまで、ぎゃあぎゃあぎゃあっ!」
風を切ってたちまちウガヤは村に向かって飛んで行く。それに応じるように松林の中で何かが小さくきらりと光った。
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さすがに息が上がって来た。一人ひとりは弱いのだが兵士の数は限りがない。倒しても倒しても、その数は増える一方だ。昔だったらこんな連中、一日切り倒し続けてもどうということはなかったのに、とタカヒコネは流れ落ちる額の汗をぬぐった。それに、どこやらこいつらの動きはおかしい。まるであやつられているように皆が同じ動きをする。手首をとばされ足をはねられても、ただくずおれて動かなくなるだけで、声も上げないし、ひるみもしない。
ま、それでこっちが助かってるってところもあるが。
むしろイナヒが疲れてきている。タカヒコネはそれも気になっている。敵の刃がかすめたのか返り血か、金色の毛皮もあちこち赤く血に染まっている。ただし一歩も引く様子はない。ううう、うううとうなりながらタカヒコネの前後左右をとびまわっては相手の足や手首や尻にかみついては、とびはなれている。
相手もいらだったか、ふり払おうとして、かぶっていた布がイナヒにからまった。イナヒがそれにかみついて、もがいてころげおちたはずみに布もはずれて地に落ちて、それまでまったく見えなかった相手の顔が初めてあらわになった。
タカヒコネは棒立ちになった。そのとたん相手の剣の切っ先がわき腹をかすめて血がほとばしったが、すかさずこちらの刃も柄も通れという勢いで相手の胸をつらぬいたから、どうと地上に倒れた上に、タカヒコネは飛びかかって、かがみこんだ。
見上げた顔は、すき通っていた。
閉ざされた目は三つ、歯をむき出した唇は二つ。鼻はない。
「…マガツミ?!」タカヒコネはつぶやいた。
※
三つの影が同時におおいかぶさって来たのを、刺されるのにもかまわずに、彼はそのかぶり布を同時につかんで引き下ろした。それがかえって刃から彼を防いで、彼は無傷で立ち上がる。とりまくようにいっせいに立った三つの影も、それぞれがさまざまなかたちの半ばすきとおったマガツミだ。
狂ったように刃をふるって彼はマガツミたちから逃れた。イナヒはもうどこへ行ったかわからない。夢中で見回すあたり一面は、びっしりとマガツミらしい兵士の影に埋め尽くされ、気づけば岬の両側の崖にも海の中から次々と、それらが同じ青白い刃をかざして、はい上がって来ているのだった。
どこかでウガヤの鳴き声がしている。声を限りに叫んでいる。「みさきまでみさきまでみさきまでみさきまで!」
夜に近い曇り空の下、いつの間にかまっ赤な光が灯台の上にごうごうと燃え上がり、血のような光がマガツミたちのうごめく大地の上を照らし出している。(つづく)