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水の王子・「岬まで」5

第三章 師弟

どこまでも見わたせる広い平原と、それをおおう青く輝く空。あいまいにかすむものは何ひとつなく、遠くの地平も手もとの草も、すべてがはっきりとみがかれたようにまぶしく、それぞれのかたちと色を見せている。あちこちに玉のような露がしずくやしぶきとなってきらめき、つかの間のかすみやもやとなって漂うが、またたちまちにそれは晴れて、くっきりとあざやかに、すべてがどこまでも見とおせる。そよぐ草にもからみあう木々の枝にも、流れる雲にもふるえる花にも、ぼやけたものや、かすれたものはひとつもない。木々が作り出す濃淡の影も灰色から紫の変化を示しつつ、とろりとまじりけなく澄みわたる。
 あの充実と、精妙を、初めて感じ、目にしたときの驚きと幸福。自分の指と目が、そのすべてをとらえて、思うままに動かせるという確信と安らぎ。
 それは私のものとなり、二度と失うことはなかった。
     ※
 いつまでも暑い日が続くと思ったら、この数日一気に涼しくなった。父と母は早々に寝床に毛皮や厚いふとんを持ちこんだ。私もへやを宙に浮かぶ火の玉でぬくめた。「便利なものだな」と父は興味しんしんで見つめていたが、わけてやろうとしても「自分で使うのはちょっとな」と言って断った。母ももの珍しそうにながめていたが、ほしがる様子はなかった。
 父と母が息子がわり、あるいはそれ以上にかわいがっている若者タカヒコネは「おれのへやは日当たりがよくて寒くないからいい」と言って、火の気はもちろん、毛皮やふとんも断って夏用の薄いかけものだけで寝ていた。草原で盗賊として苛酷な暮らしをして来たせいか、彼は暑さにも寒さにも痛みにも異様に強い。そうは言っても、昔、父にうっかりかけられた呪いのせいで、身体の中にはいつよみがえるかわからない傷があったりするわけで、風邪でもひいたらやっかいだから、私は父母と相談して強引に毛皮と絹の厚いふとんを寝台にかけてやった。それが数日前のことである。彼は文句を言わなかったが、明らかにこんなのいらないという目をしていて、寝る前に見に行くと、大人しくふとんにくるまっていても、朝になると暑かったのか、けとばしてふとんを床に落として、何も着ないで寝ていたりした。そのくせやっぱり寒いのか、丸まって、ちぢこまっていたりする。
 口やかましく言いたくもないので、私は寝る前や夜明け前に時々のぞいて見ることにしていた。今朝もまだ暗い内に灯皿に火をともして戸を開けてのぞいて見ると、彼はいい気持ちそうに寝ていて、ふとんは落としてはいなかったが、しわくちゃに丸めて寝台のはしに押しやってあった。
 彼は戦士としても有能で、当然耳ざとくて熟睡していても何かが近づくと目をさます。だが同じ本能で、気にしなくてもいい相手だと何も感じないらしく、特にずっと傷の手当てをして来ている私には、近づかれようがさわられようが、いっさい気にせず眠っている。今朝も私が近づいて、ふとんを手足からひきはいで抜き取って広げてかけ直してくるみ、ついでに気になる傷の部分のある手足をあちこちさぐって熱やしこりの有無をたしかめても、まるで平気で寝息をたてつづけていた。
 そのかわり、彼によりそって寝ていた、金茶色の毛皮のオオカミとも犬ともつかないけものが目をさまして私を見上げた。漁師のサルタヒコが遠い港で手に入れて連れて来て、母が引き取って育てた動物で、イナヒという名ももらっている。何でも昔、故郷の海で遊んでいる時いなくなった母のおさななじみの男の子の名で、母には大切な思い出の名前らしく、その由来を私たちが忘れると、母はきげんが悪くなるのだ。このけものは、初めはそうでもなかったが、いつからかタカヒコネにすっかりなついて、彼のそばをはなれなくなった。夜もこうしていっしょに寝ている。見た目はそこそこ恐ろしそうだが、実はとろくて狩りも下手で、タカヒコネは自分ではそのことをけなしながら、実はけっこう苦にしているのは皆が知っている。
 イナヒは私にもなついているので、すぐまた大人しく目を閉じてタカヒコネにくっついた。多分、この毛皮のかたまりといっしょに寝ているから寒くないというのもあるのだろう。
 父と母が起きて来る気配はまだない。私は寝台の枕もとの椅子に腰かけ、灯皿を近くの台の上において、しばし、とりとめのないもの重いにふけった。
     ※
 ほのかな光の中に、イナヒの金色の毛の頭とタカヒコネの青白い顔が浮かびあがっている。
 草原で盗賊になる前は、彼はスサノオの都ネノクニの若い王だった。
 そのような出自のせいか、立っていても座っていても、こうやって寝こけていても、姿勢や顔だちがどことなく整っていて品がある。
 その一方で草原で人を殺しまくっていた間に身につけたのか、荒々しさと激しさもただよっていた。
 外見同様、中身もそうで、男っぽさと子どもっぽさが入りまじるその性格は村の男や女をひきつけ、私の父母をも魅了し、多分、私の兄の地味でさえないコトシロヌシや、まっとうで正統派の美男のタカマガハラの戦士ニニギよりも、はるかに人気があるだろう。
 彼自身が好きな相手がいるかどうかはわからない。少年のころから都では私の兄のタケミナカタと恋人もどきの友人だったようだし、この村ではタカマガハラから来た若者のアメノワカヒコと親友だった。しかし今では私の父母を深く愛してなついている他には、特に夢中になっている相手がいる様子はない。
 もし、あえて言うなら、それはこの私だろう。白髪がひとふさ残るだけのはげ頭と、しわだらけの顔、よぼよぼの手足、歯のぬけた口のしわがれ声の小さな老人、スクナビコと呼ばれるこの私を、彼はどうやら愛している。
 ニニギの妻のコノハナサクヤは誰もが認める有名な美女だ。しかし昔の私を知る村人は、私の方がもっと美人だったと言い張る。
 どこか、こわれやすいはかなさと、得体のしれなさを漂わせるコノハナサクヤに比べて、かつての私はもっと落ち着いてゆらがない豊かな美人だった。髪はまっ黒で、ほおはばら色、つややかな肌と輝くひとみを持っていた。彼女とどちらが美しいか、そこは好みの問題だろう。当時も今も、そんなことは私にはどうでもいい。二人の兄と父母に愛され、いずれは父の後を継いで村の指導者になるだろうと人々に尊敬されていたのと同様に。
 ただ、そのころの私をタカヒコネは知らない。見たこともない。私が父母のもとを離れて旅をして、この姿になって戻って来る前に、彼はこの村にやって来て、住みついたのだから。
 よぼよぼの老人の私に傷の手当てをされ、おたがいに悪口を言いあっている内に、何となく彼は私にひかれているのを感じていた。私はそれを面白がりつつ、あきれていたが、この老人の姿の中の若い美しい娘の私を何となく彼が見ぬいているのではないかという不安もあったのは否めない。しかし、時々、その一方で、彼が私にひかれるのは、他の原因もあるような気がしていた。彼がかつて草原で殺し、今その身体とさまざまな能力を私が引き継いでいる謎の老人スクナビコ。彼の知識や精神が今もなお私の中に生きつづけ、彼を愛し、愛されているのではないかということだ。(つづく)

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カツジ猫